〓 阪神大震災/前夜その2〔No.2〕

先が見通せないないことは辛い。しっかりと自分の足下を見るしか術がない。
今は、そんな時間が与えられたと思えば、うっすら先が見えてくるかも知れない。
(1995年1月 撮影/Y・Y)

 この回想を、この期に始めた理由については昨日のログで説明した通りです。
悠々たる気分や環境の中で「人生って何だろう」とゆったり思索に耽る時は、誰にだってあるでしょう。
「親子のつながりって何だろう?」「会社って私にとってなんだろう?」「愛って何だろう?」「友達って?」「プライドって?」「お金って?」「食物って?」「社会って?」「国って?」「あれって?」「?」・・・

 1・17以降、あらゆる「?」が剥き出しのまま、様々な場面でこれでもかと噴出してきました。生きていく上に必要な事柄、大切なテーマ、平穏な日々の中では、先送りできる問題、ことさら掘り下げなくても何とか通り過ごせる課題が、大地の一揺れを契機に私の中を次々と駆け巡りました。大事な人を失ったり、傷付いたり、かけがいの無いものを失ったり、また、そういう直接の被害が無かったとしても、多くの人は様々な「?」と日々、向き合わざるを得ない事態に陥りました。
 もしも、そういう事態と無縁の方が、あの現場に居られたとしたらその方は「阪神大震災」の外側に居た方だと言った方がよいでしょう。逆に、阪神地区と遠く離れた方々であっても、震災を契機にそういう「テーマ」を深く掘り下げられた方々は、震災の内側に居た方と言っても間違いではありません。
 地震によって、倒壊した家屋や、施設から目もくらむような膨大なガレキが出現しました。しかし、復興という原型復帰の大波の中で、そのガレキは確実に処理され減っていきました。外側の人々は、そういう視線で復興の尺度を測っていきました。しかし実は、平穏な社会では、やり過ごしてしまっていた自らの生き様を問う「?」を、あらゆる角度から突き付けられた人達の中では、今まで味わったことのないスピードで心の裡にガレキが積み重なっていきました。

 この期まで、確信のあった価値観が揺らぎ、また崩れたり、何ともなかった信頼感や絆に亀裂が入ったり、苦悩や葛藤の傍に投げ出された「心のガレキ」は捨て去るどころかどんどんと積み上げられ一方でした。このガレキの解体・撤去は時間がかかります。作業も複雑でその方法も多様なはずです。人ぞれぞれに乗り越えていくしかありません。孤独と言えば孤独な作業です。とは言っても、本来これらは「人の触れ合い・関わりの中」で見つめ直していくべき問題で、そうでなく内に潜っていくと、とても厄介で困難な作業となります。
「復興」とは社会的インフラだけにあるのではないと考えはじめたのは、不思議なもので地震の直後から直感として芽生えていました。

【1995.1.16/震災前夜2】

 二日間の雪中行軍は思ったより身に応えていました。急きょ有り合わせで作ってくれた連れ合いの夜食と熱い風呂で、身体は溶けるように芯が抜けていきました。布団の中で、山から下りてきた時の独特の昂奮感、夕食をすっぽかした老父母に申し訳ない気持ち、明日の出社をどうするものかの思案、あれやこれやが頭の中で交錯したかと思うとくるくると回転して、ふわぁ~と沈んで泥のような眠りに落ちていきました。それが1月16日の夜12時少し前。

 いつもの場所で、いつもの生活の中で迎えた試練、私のようにちょっと違った場所で与えられた試練、このエリアに暮らす何十万、何百万の人たちに様々の試練を背負わせた兵庫県南部地震が起きる6時間前でした。

(続く)

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。
(*このコメントは震災の12年後である2007年当時の旧ブログのものです。現在(2021年2月)、誤字などを訂正しつつ、本ブログへデータ移行しています)