〓 1,17 混沌がはじまった〔No.3〕

無理して侵入しようかと躊躇した。 
此所からの風景がとても遠くに見えた。
(1995年1月 撮影/T・I)


 震災のあった2年前には、北海道西南沖地震・奥尻町の大災害があった。更にその2年前には島原で普賢岳の大噴火による大きな被害がありました。(海外でも多くの災害があった)どちらにしても私は、その災害・被害の「外側の人間」であった。何やら心を痛めることはあったとしても、テレビの前に鎮座して、その出来事を追うに必死で、その事象の推移に添ってしか、その現場の人たちの心を推し量ることしか出来ませんでした。 当然ながら、大半のマスメディアも、事件の延長のようなスタンスでしか報道しない。そういう報道のフィルターを通して、うちら側がよく見える筈がない。だから現場へ行かなければならないという単純なものでもないけれど…。
 阪神・淡路の震災を体験して、私はやっと「内側の人」となった訳ですが、その「内側」の何と凄まじいものか。悲惨さは当然として、その対極にある歓喜や解放までを含めて、この「被災地」とよばれたエリア内部の混沌さと共有感は、まず体験してみないと理解できないものでしょう。
 テレビの映像や新聞の報道がこの内側の有り様をほとんど伝えていないというより、伝える力が無かったという方が正しいのでしょう。今の社会ならインターネットの力が、無力なマスコミ報道を凌駕していたとも思います。大災害を目の当たりにしてジャーナリストの本来的な性根を持ち直した方も多々おられたと思いますが、悲惨さを伝えるためには悲惨なビジュアルが必要だ、という盲信のようなマスコミの無神経な報道は、現在も改まっていないと思います。
 マスコミとはますます離反していきました。しかし、ワラをも掴む思いで、一人くらいは分かってくれる人間はいないものか?心の底では希求していたのも確かな気持ちでした。

 火事場の糞力でしょうか。震災直後から、この混沌を誰かに伝えるべく必死に奔走しました。自分の中にこんなエネルギーがあるものなのか不思議なほどに動き回りました。スピリチュアルというものに関心があっても、自分には大した霊体験がありません。でも人生の節目には目に見えない力、不思議な波動が自分を奮い起こすことがあります。私が山を歩きはじめた時もそうでした。訳も何もなく、急に狂ったように六甲の山々を歩きはじめたのは自分の意思だけではないように思います。震災よりの一年あまりの奔走を支えた行動力も、今思い返しても、自分のものとは全く思えません。やはり、何かしらの力が私の背を押していたと言う他ありません。その間、それまでの人生で知り合った人の幾倍もの方々と出会うことになりました。
 冒頭の二つの被災地の方々とは、震災の年の夏にコンタクトがとれ、復興にいたる貴重な体験を教授いただきました。互いに内側の人としてまみえたのは感慨深いものでした。直接、支援に行けないことを気づかわれ、その意を感じて「いや~私もあの雲仙の火砕流をせんべいをかじりながら見ていました」などと言ってしまった。
しばらくは「内側」「外側」という言葉にこだわっていくつもりですが、内側=体験者と言う意味では決してありません。事実、炎にまかれてオロオロしていた自分が、部屋に帰ってテレビの前で「これ、すごいじゃん」という気分で見ている。テレビや新聞の前ではいとも簡単に「外側の人」になってしまう。内側の自分を外側から見るというパラドックスというか騙し絵というか、そんな二重性にとても気持ちが苛立ち、嫌気がさして、しばしはマスメディアの報道を封印することにしました。

 その瞬間「ど~んと」地下から突き上げられるような衝撃で身体が浮いたという話は多く聞きました。それから長い横揺れが続くのだが、私の場合、未明の5時46分、振動の中に飛び交う凄まじい騒音で目が覚めました。
 中国の旧正月に鳴り響く、無数の花火の破裂音によく似た「パパパパーン、バシバシバシ」という止むことのない騒音が、今でも耳に焼き付いています。連れ合いに布団をかぶせ、覆いかぶさり、そのまま長い時間を耐えていた。意識もまだ覚醒していなので何が起こっているのかが分からない。たとえ覚醒していても何も出来なったでしょうが・・・

【1995.1.17/震災当日】

 二日間の雪中行軍は思ったより身に応えていました。急きょ有り合わせで作ってくれた連れ合いの夜食と熱い風呂で、身体は溶けるように芯が抜けていきました。
布団の中で、山から下りてきた時の独特の昂奮感、夕食をすっぽかした老父母に申し訳ない気持ち、明日の出社をどうするものかの思案、あれやこれやが頭の中で交錯したかと思うとくるくると回転して、ふわぁ~と沈んで泥のような眠りに落ちていきました。それが1月16日の夜12時少し前。

 いつもの場所で、いつもの生活の中で迎えた試練、私のようにちょっと違った場所で与えられた試練、このエリアに暮らす何十万、何百万の人たちに様々の試練を背負わせた兵庫県南部地震が起きる6時間前でした。

(続く)

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。
(*このコメントは震災の12年後である2007年当時の旧ブログのものです。現在(2021年2月)、誤字などを訂正しつつ、本ブログへデータ移行しています)