〓 内なる活断層のざわめき2〔No.9〕

不謹慎だが、なにやら泳いでいるようで可笑しい。
港湾部ではいたる所でこんな風景が・・・
(1995年1月30日 撮影/T・I)

 朝、連れ合いとこれからのこと話し合う。このまま二人で垂水に留まって頑張るか、それとも・・・私への負担を軽くするのか、悩んだ末、彼女は実家へ避難することを選んだ。
西明石駅まで歩いて、そこから電車で姫路へ出て新幹線で帰郷した。

 震災3日目のもろもろ、当時のメモだけを掲載しておきます。

【1995.1.19/震災3日目のメモ】

会社/生き埋め状態のKさんが一日半ぶりに救出されたとのこと。
まだ、安否が確認できない社員が10数名。電話がつながりやすい大阪のBが確認係に。
傾いたブロック塀が危険なので倒す。
社長はいたって元気がない。社員の不安、憶測・・・

避難所/昼から避難所を回る。
古い家屋で一人暮らしのCさんが心配だったが元気だった。
近所の人たちの手助けが大きい。
Dさん母娘は○○避難所で無時を確認。ぐったり疲れて眠りこけていたので会わずに帰る。
身重のMさんはまだ、不明。玄関に伝言を置いておく。
実家/大阪の山のメンバーから電話がつながりはじめた。

山の会、一人をのぞいて安否が確認できた。情報の収集と、バイクの調達を依頼する。
大阪の連中の反応はニブイ。しかたないことか。
不安定だが電話が方々から入り出した。
次兄が母の髪を水で拭いてやる。少しは落ち着いたか。
まだ興奮やストレスがたまっているようだ。
自室に半畳ほどのスペースを作って座るようにして就寝。

(続く)

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。
(*このコメントは震災の12年後である2007年当時の旧ブログのものです。現在(2021年2月)、誤字などを訂正しつつ、本ブログへデータ移行しています)

〓 内なる活断層のざわめき1〔No.8〕

心の何処かしらに亀裂が広がっている。
おそらく昔からあったものなんだけれど・・・
(1995年1月22日 撮影/J)


 変に横道に逸れないためにも、次のこのブログの展開をかいつまんで書いておきます。震災4日目に、ある心のざめきが起こります。
「昨日にもどりたくない・・・」
 そして5日目に、決心が固まり、6日目から出版への行動が始まりました。「本を出そう! 水も電気もパソコンもない此所から、このガレキの中からこの時を発信できる本を出版したい!」2月28日に出版された創刊号に次の一文をかかげました。

 「この野郎!やられぱなしでたまるか!」と言うのが主直な気持ち。
 マグニチュード7,2の地震のパワーをどんな形でお返ししてやろうか?
 これが大きな犠牲をともなった警告であるなら、堂々と受けて立とうじゃないか!
 とうてい物理的な力では自然には対抗しえないが、個々の体験で軋んだ内なる活断層のパワーを集めるなら、ちっとはお返しができるだろう!・・・・
 1.17を基点とした個々の体験を繋ぎ併せ、照らし会わせ、ほぐし合えば今までの社会に、そして、今までの私たちの生活に欠落していたもの、埋もれていたものが見通せるかもしれない。復旧とあわせ新たなる人間社会の復興のため、この冊子がその一翼を担うことができれば幸いです。
 不定期なると思いますが今年中に六号までを限定発行する予定です。それである種の役目は終わると思います。その後は全く未定です。創刊号はさまざまな制約もあって40ページと予定の頁数をクリアできませんでした。次号は80頁を目標とします。500円の頒価に異議があるかも知れませんが、次号以降の充実でご勘弁下さい。配本は自主ルートの開発です。第三種郵便は認可されません。郵送料軽減のためにも、二号以降の充実した紙面づくりのためにも、ぜひ多くの方々の年間購読と多部数買い取り販売を切にお願いいたします。

 自ら内なる復興への挑戦が始まりました。本当の試練はここから始まっていきました。

【1995.1.18/震災2日目のメモ】

 ほとんど昨日と同じ動きをとることになった。背中にはどこかで給水できる処があればと、キャンプ用のポリタンをはじめ万一何処でも生活できる道具、といってもすべて山の道具だが、それらを押し込んだ10kgばかりのリュックを担いでママチャリまたがり、神戸の東西を行き来することになった。
 東西に伸びている神戸にはJRの駅が西から、朝霧~舞子~垂水~塩屋~須磨~鷹取~新長田~兵庫~神戸~元町~三宮~灘~六甲道~住吉~本山の15駅ある。(甲南山手駅はまだなかった)
 この内の10駅を往復するので、震災の概略はこの目で確かめることが出来た。あと東灘以東の様子がよく分からない、うわさや報道では東灘区が壊滅的だとかを耳にする。もうママチャリでは限界である。早くバイクを手に入れたいのだが大阪へもまだ電話が通じない。
 今日も、行き帰りに数カ所、避難所に寄ったがめぼしい情報が得られなかった。長田から須磨にかけての火災はまだ鎮火していない。

(続く)

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。
(*このコメントは震災の12年後である2007年当時の旧ブログのものです。現在(2021年2月)、誤字などを訂正しつつ、本ブログへデータ移行しています)

〓 1,17 混沌がはじまった5〔No.7〕

皮肉ではなく、このオブジェは立派に作品だ。
そして、私というものを端的に表しているように感じる。
(1995年1月 撮影/K・U)

 ここでお詫びを申し上げなくてはいけません。コメントを頂いて気が付きました。少し回想にのめり込み過ぎて、ついつい何やら物語を煽ってしまったようです。恥ずかしい限りです。悲惨さや過酷さを書き綴る気は毛頭ありません。それらを教訓にこうしよう、ああしようというメッセージを伝えるつもりでもありません。もう少し、我慢してこれを読み進めてもらえればこのブログで描きたいものの正体が分かって頂けると思います。
 今、手元に当時のごく簡略に走り書きしたメモが残っています。しかし、1.17の終日の記憶はメモに頼らなくてもはっきりと記憶に張り付いています。2日以降はダメです。メモを見ないと思い出せません。そのメモも翌2月6日、地震から21日目で途切れています。ここで途切れたと言うことは、何らかの部分で私の震災は21日間で終わったとも言えます。

 あまり見る気にはなりませんが、この時期になると「取り残された復興… 生活や暮らし向きが取り戻せない… 心の痛手から未だ立ち直れない…」この手の話から、「この経験をこれからの防災社会にどう活かすのか?」という類いものまで、まるで歳時記のように特集番組が組まれます。
 あれだけの災害でしたから、多くの方々が言い尽くせない辛い試練を背負い、それを乗り切られた方、振り切った人、未だ引き摺って乗り越えることが出来ない方と、今日に到る無数の軌跡があったろうと思います。その個別に言及するつもりはありません。ただ、絵面を先に決めて、それに似合う事実を探すマスコミには、とうてい取り上げることが出来なかった事象、被災地と呼ばれたエリアに闇のまま消えていこうとしているものは一体何だったのか?
この回想は、その再確認のために始まったものだと思います。願わくば、そこに辿り着くことができるよう今しばらく頑張ってみたいものです。

【1995.1.17/震災当日5】

 か細い自転車の灯を頼りに、今度は西へ西へとペダルを漕ぎはじめました。灯を失った街ほど無気味なものはありません。途中、二か所ほど避難所の小学校へ立ち寄りましたが、知人たちのめぼしい情報はありませんでした。
 夜10時頃に長田の辺りに戻ってきました。火の勢いは収まることなく、ますます西へ延焼が広がっていました。ごうごうと夜空を焦していました。不思議なものです。あの横倒しなったビルを見たときもそうですが、目の前の情景に現実感が伴いません。逃げまどう人たちや、走り回る消火隊員たちが居たならば、確かにここが被災現場そのものだと感じられたのでしょうが、この時は、スクリーンが映し出す幻想的な風景の中をさ迷っていたような気がします。
 その無人の火災現場で方向を失いかけました。気が付けば左からも右からも炎に追われてる。川に救われました。そこで火炎が途切れた隙に、必死にペダルを踏んで北へ。大きく迂回したあと西へ進みました。

 長田から須磨の大火災は翌日も燃え続けていました。燃えさかる情景は、災禍の渦中であることを忘れさせるように美しい映像イメージように一日中続きました。そして、感じても感じ尽くせない重い現実が出現して、私たちを打ちのめすのは、鎮火した焼け跡の酷い情景を目にしてからになります。
 垂水へたどり着いたのは午前1時、数知れない試練、底知れない混乱と混沌でこのエリアを覆い尽くした1.17は、もう昨日のこととなっていました。

(続く)

*十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。
 あと6時間ほどで、12度目の1.17となります。ひたすらに合掌の心で迎えたいと思います。

(*このコメントは震災の12年後である2007年当時の旧ブログのものです。現在(2021年2月)、誤字などを訂正しつつ、本ブログへデータ移行しています)

〓 1,17 混沌がはじまった4〔No.6〕

何かの間違いだろうと、
可笑しく感じるぐらい現実感がない。
(1995年1月30日 撮影/T・Y)

【1995.1.17/震災当日4】

 午後3時過ぎ、垂水を出発してもう5時間以上ペダルをこぎ続けている。
 交差点で立ち止まる。ここを曲がれば自宅である10階建ての賃貸マンションが見えるはず。果たして無事な姿で建っているのか、確かめるのが恐くて一瞬目を伏せてしまったが、意を決して顔を上げると、いつもと変わらぬ風景でした。平成3年の新築だったので、まさか倒れることはないだろうと思ってはいましたが、近寄って目をやると外壁のあちこちに亀裂が走っていた。
 6階までかけ登って、ドアを開ける。その時の情景は今でもありありと覚えています。でも、その時に互いに掛け合った言葉が思い出せません。無音の映画のようだった記憶です。おそらく、安堵の後の照れがすこしあって、「どうやった?」程度の平凡な会話だったように思います。
 親父は倒れたタンスで頭を負傷していたが、お袋は無事だった。自宅には、家が傾いた長兄一家4名と同じく家が傷んだ次兄らと集まっていました。狭い2DKで、物が散乱し、余震に備え食器棚やダンスを途中で割って平積みしているので、ほとんど8人分の足場がない。

 お袋がおびえて小さくなっている。意外であった。こんなことには概して強い人だと思っていた。戦時中には兄と姉を抱えて、空襲から逃げ回った経験がある。「なあ、爆弾よりは 大したことないやろ?」背中をさすってやると、「空襲はこんな急にこん、サイレンが知らせるやろ」と、言われれば確かに、地震は全く前触れなくやってきた。でも、私にしたらやはりはるかに焼夷弾の方が恐い。死者の数こそ違え、神戸の大空襲はこの震災と同じような被害をもたらしている。神戸製鋼があったこの周辺も焼け野が原になるほどダメージを受けた。それに比べたら幸いにも、目立ったダメージがないように思える。

 「もう大丈夫やから」と何度、言って聞かせても「恐い 恐い」と脅えている。歳のせいもあるのだろう。幼い子供を守ろう発奮していた頃の若かりし母と比べても詮がない。
ベランダから見える南の方の黒煙がおさまらない。ここまで延焼することは無いだろうと思うが自分も気掛かりなって調べに走る。
 ついでに近所のあちこちに声をかける。幸いに大きな被害にあった方はいなかった。戻ってあれこれ手当にかかる。水や食料の手当に苛立った各々の家族の「こうしよう。ああしよう」と主張がぶつかる。何とか夜を迎える準備ができたようだ。私はその夜に向けて仏壇の細いろうそくをコップに溶かして大きな明かり取りをこしらえた。しかし、不思議なことにこのマンションと数件の建物だけに電気が一時的に復旧した。 
 一通りの出来る限りの手当を終えて、彼女の待つ垂水へ出発することにした。自宅を少し離れると、窓からこぼれる灯も、街灯も一つなく真っ暗であった。山でもこんな暗闇は経験ない。閉ざされた闇のように感じた。

 午後9時前、自転車のか細いランプを頼りに、再びあの惨状を横断していかなければいけない。寒さや疲労よりも、底なしの暗いトンネルに嫌が応にも吸い込まれていくような説明し難い恐怖感で身体が震え出した。

(続く) 

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。
(*このコメントは震災の12年後である2007年当時の旧ブログのものです。現在(2021年2月)、誤字などを訂正しつつ、本ブログへデータ移行しています)

〓 1,17 混沌がはじまった3〔No.5〕

バツ印のような亀裂を多く見かける。
それ自体が「立入禁止」の文字のようだ。
(1995年1月 撮影/Jこと私)

【1995.1.17/震災当日3】

 会社がある長田区はもう間近なのだが、見上げる東の空一面はもうもうと黒煙で覆われている。これ以上の東へ進むのは無理と思い、板宿の方面へ北上する。この辺りにも気掛かりな人たちが幾人かいる。特に板宿で暮らす後輩Tが心配だ。独り住まいの彼のマンションは古い、かなり古い建物だったはずだ。その建物が見えてきたが、遠目にも異様で何やら歪んでいるように見える「ああ~っ」と胸が締め付けられる。立ち入り禁止のロープが一本張られているだけで、中の状態はよく分からない。建物に入ろうとしたら「止めろ!」と押しとどめられた。その男性に、三階に住むTの安否を尋ねると「分からない。とにかくここにはもう誰の居ない」「死傷者もわからない。この地区の避難先で調べてくれ」といくつかの学校を教えてくれた。おそらく、無事なら会社へ顔を出している可能性が高いだろうと、避難所探しは後回しにして会社へ急いだ。

 正午過ぎ、会社にたどり着いた。周辺は騒然としていた。
隣接の小学校のすぐ南から、東風に煽られ西へ延焼が広がっていく。ここでも消防車を見かけても消化をしている気配がない。ホースが空しく伸びているだけだ。肝心の水が出ないのだ。
東にある市民病院は悲惨な状態だ。5階部分が完全にへしゃげている。多数の死傷者がでているもようで、患者の避難と救急で混乱状態になっている。
 会社では、2か月前に竣工したばかりの新工場3階の壁に大きな穴が開いていた。何トンもある工作機が倒れたらしい。4階建ての別館はかろうじて建っているが、幾本かの柱がちょうちん破裂して、鉄鋼がむき出しており、立ち入るのもはばかる状態だった。そして木造の本社社屋は、見事に倒壊していた。そのガレキの前で佇む社長に声を掛けようとしたが言葉が出なかった。社長の方から、「全滅やな」とぽつり。その声は妙に明るい吹っ切れたような響きがあった。
 幾人かの社員が駆け付けていた。Tは居なかった。「Kさんが生き埋めになっているらしい」「Aさんの家が倒れてお母さんが・・・」など、辛い情報が次から次へ入ってくる。
 上空で多数のヘリが舞っている。朝見た映像があそこから撮影されているのだろうか。そのヘリの爆音は無性に苛立つ。「なんとかしたれや! 水まいたれや!」と空へ誰かが叫んだ。しばらくして、ひょこっとTが顔を出した。何もいわずに手を握りしめ、肩を叩いた。取りあえず、これにメモを残していこうと社屋入口に安否確認ノート設置した。

 気掛かりなことは、一杯あったが、早く家に帰らなくては、社を離れて再び東へとペダルをこぎだした。これでもか!これでもか!という惨状が次から次へと目の前に現れる。戦場のような風景を否応なく見せつけられながら、兵庫~神戸~元町、やっと三宮駅へと辿り着いた。此所も酷かった。ここに到るまでに、数件の知人宅に寄ったがだれの安否も確認できなかった。連れ合いの勤め先の洋菓子屋へも立ち寄ったが全く人影がなかった。オフィス街は無気味なほど人影が少ない。
 その先の角を曲がると目の前に、十数階建ての大きなビルが横倒しになっている。もう完全に特撮映画に出てくるビジュアルだ。唖然とするが不思議に現実感がなかった。

(続く) 

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。
(*このコメントは震災の12年後である2007年当時の旧ブログのものです。現在(2021年2月)、誤字などを訂正しつつ、本ブログへデータ移行しています)

〓 1,17 混沌がはじまった2〔No.4〕

窓の向こうの公園にはテント村がある。その向こうには避難所がある。
そして、その向こうには焼け跡が広がっている。
(1995年1月 撮影/Jこと私)

【1995.1.17/震災当日.2】


 未明5時46分、振動の中に飛び交う凄まじい騒音で目が覚めました。
 中国の旧正月に打ち鳴らす爆竹の破裂音によく似た「パパパパーン、バシバシバシ」という凄まじい騒音が、今でも耳に焼き付いています。連れ合いに布団をかぶせ、覆いかぶさり、そのまま長い時間を耐えていました。意識もまだ覚醒していなので何が起こっているのかが分からない。たとえ覚醒していても何も出来なったでしょうが。

 ややあって、その爆竹のような破裂音が、部屋の小物や食器が飛びはねている音ではなく、壁やガラス自体が激しく軋んでいる音だと気付きました。「頼む倒れるな、割れるな」と願った瞬間、すーっと嘘のように静まり返りました。
 地震だと覚った瞬間、「こんな所で、これだけ揺れたのだから、恐らく震源地の東海地方か東京は壊滅的だろうな…」と本気でそういう風に了解していました。
 そーと表をうかがった。真っ暗で静かだった。今のところ火事やガス漏れはなさそうだ。ここから、幾日間も前日の山行に使っていた遊歩アイテムが活躍してくれるのですが、携帯ラジオだけは同行のN君のもので、手元にはない。ヘッドランプを頼りに、散乱した部屋中を片付けた。水は出るが電気はダメだった。(実は水も屋上のタンク分しか無かったのだが)電話も一切つながらない。
 少し東の空が白んで、もう一度周囲をうかがってみる。隣の人がラジオを手に「震源地は、そこの北淡らしいですよ」と南の方へ視線を投げた。被害は各所で出ているらしいのだが詳細は分からない。駅なら詳しい情報がつかめるかもしれないと、垂水駅へ立ち寄ったが、ここでも「よく分からない。電車の復旧も何時になるのか分からない」とのこと。
 しっかり夜が明けてきて、あらためて辺りを見渡してみる。家こそ倒れてはいませんが、和風の家屋の周囲は瓦が落ちて大量に散乱しているし、古い土塀などは倒れている。遠くでは緊急車のサイレンが聞こえはじめ、人の動きが慌ただしくなってきた。

 建設中の明石大橋ごしに見る海峡と震源地の淡路島は静かだった。この辺りが震源地に一番近いのだから、此所より遠い神戸の中・東部は少なくとも此所よりは被害は軽微だろうと良い方に願った。ただ、神戸中心街がある東方面の空が異様にどんよりしている。その無気味さは何やら今までに体験したことのない不安感をかき立てるものでした。
 部屋に戻って、二人で途方にくれるが、如何ともし難い。落ち着こうと山の道具で朝食をこしらえ、非常食のスープをすする。明石の友人宅へ電話が偶然につながる。先方でもまだ事情がつかめていないようだ。それっきりまた電話がつながらなくなった。せめて父母宅だけでもとダイヤルするが時間が経つばかり。
 8時過ぎ、部屋に灯がついた。思ったより素早い復旧で「地震の被害もさほどでもないか?」と淡い期待が頭をよぎったが、つけたテレビの画像に唖然とした。背筋が凍った。(確かにこのビジュアルは強烈であった)
「ん? 高速道路がこけている・・・」
 その情景を目にした一瞬に、そこで何が起こっているのか事態の異常さが了解できました。
「早く、実家へ帰らなくては!」
ようやく見つけたバイク屋で、「すぐ乗れるバイクはない! 自転車もみんな売れた。いや1台ある」
 その1台残っていたのママチャリを買って、冬山装備のスタイルで神戸の中心部へ向かうことにした。食べ物、水の手配、連絡用メモの取り決め(メモが絶対確かだ)、最悪の場合は明石まで歩いて友人宅へ等など、もろもろを彼女と打ち合わせて、必ず今日は、戻るからと留守居を頼んだ。周囲に頼れる人も居なくてずいぶん心細かっただろう。
 午前10時前出発、国道2号線を東へ向かう。
 ゆっくりながら車は走っている。須磨駅の手前辺りから地割れ、街樹の倒木が目立ち、異様な景色が広がってくる。ついにその場に踏み込んだというキリキリする緊張感で息苦しくなってくる。出会う人、すれ違う人の全てがそんな緊張感を抱えた表情。そのことが一番、ことの重大さを物語っていました。
 駅をこえて東正面に大きな火災、消火の手当をしている人影が居ない。もちろんヤジ馬も無い。ただ燃えているだけだ。よくある火災の情景とは全く違う、異様そのものだった。火災を避け、JR線路沿いの東進をやめて鷹取駅の南へ回る、駅前は電柱が倒れて、クモの巣を払ったように電線が方々に垂れている。自転車でも進み辛い。
 会社がある長田はもう間近、見上げる東の空一面はもうもうと黒煙で覆われている。

(続く) 

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。
(*このコメントは震災の12年後である2007年当時の旧ブログのものです。現在(2021年2月)、誤字などを訂正しつつ、本ブログへデータ移行しています)