〓 戸惑いの風景2〔No.20〕

若い編集スタッフが書き上げた「Kobe Man」
(第二号より)

 地震から2カ月ほど過ぎ神戸にも春がやってきた。春霞といえば態はいいが、実際は街中いたる所でひっきりなしに行っている解体の塵とホコリだ。善くも悪くも神戸は巨大な力が躍動し始めている。
 そして、これ又、いたるところで「戸惑いの風景」が広がり始めている。私の心象にひろがる戸惑う風景からは一本の狼煙が立ち上げっていた。(以下/第二号の編集レポートから抜

【本当の闘いは今からはじまる!】

 つぶれるかも、と思った会社が何とか息を吹き返している。仮設だったが社屋も建った。給料もいただいている。仕事は馬鹿みたいに忙しい。JRも動いた。目の前にはテント村があると言ってもすっかり見慣れて違和感はない。ライフラインはほぼ回復した。
 私個人の周辺はこんな風だ。なにかと不便はあるが、さし迫っての問題ではない。ときおり訪ねる避難所もあの頃の緊迫感は薄れ、避難というより、そこで生活しているという感じで落ちついているようにうかがえる。言ってもきりがないから口に出さないのか家を失った知人たちからも、やりきれない話があまり聞かなくなった。困った人は大勢いるのだが、何故か目立たない。
 私自身の生活と言えば、薬、ライト、非常食を詰めたデーバックをもう背負ってはいない。運動靴も革靴に、フリースの防寒具がワイシャツに代わって、遅刻を気にして小走りで駅へと走ったり、サリンのことが気になってつい新聞を買ってしまう。「昨日には戻らない!」と叫んでいた私が懐かしく思えたりする。「何だ立派に戻っているじゃないか」

 これは揶揄して言っているのではない。私自身の正直な感想だ。しかし、生活の表層が平穏に戻りつつあると言っても、すんなりとそんな日々のくつろいだ時の流れに身を委ねきれない。そうできればどんなに楽だろう。でも何かが後ろ髪をつかみ引き戻そうとしている。これらは比較的ダメージの軽かった人のもつ、今の感覚に近いだろうと勝手に想像する。
 その中で「昨日には戻らない」とはっきり意識している人たちを別にして、ほとんどはこのまま元に戻ってよいものか」とおぼろげな引っかかりやこだわりを感じているように思われる。
 一つにはそんな選択すら許されない大きなダメージを受けている人たちへの配慮があるだろう。私たちだけが戻ってよいのだろうか、という後ろめたさ。どんどん拡がっていく格差は、ダメージの大小に関係なくあの時に持ちえた体験の共有感に大きな亀裂を生じさせている。
 もう一つは、戻り着く先の社会の不確かさ。言いかえれば、それは1.17までの自身の生活に対しての不確かさなのか。それに対してのおぼろげな疑念をゆっくり解きほぐすヒマもなく、再び、強烈に社会の波に巻き込まれていくことの恐れだろうか。
  (中略)
「闇雲に戻っていくだけなら、この地震は単なる空白に過ぎないではないか」という創刊号で訴えた私の体験もどんどんと風化が進み、再生のための復興という願いそのものにも「空白」がうまれつつある。
 しかし、私においては、私自身の空白との戦いが、本当の闘いだと肝に銘じている。「R誌」編集部の会社からの独立は充分に可能であった。それまでの生活を清算するにはその方が都合が良かった。しかし、現状は会社に残留する方向に進んでいる。この間いろんな苦悩が編集スタッフに被いかぶさった。辞表と封の切っていない給料袋をずっと懐にしながら、編集作業を模索し続けた。それは、水や電気や電話のなかった頃の編集より辛いものがある。しかし、そんなしがらみをスパっとふっ切る気にはなれなかった。それを断ち切れば楽なことには違いないが、それは1.17を単なるトピックとすることに他ならない。私の人生を踏まえた通過点ではなくてはいけない。しがらみを曳きずって行くことの大切さを若いスタッフもバックアップしてくれた。
 「変えて行きましょうよ、この会社を。ここで辞めたら僕は単なる被災者になります」
 結局、私たちは二足のわらじという一番しんどい選択をしてしまった。ここ三ヶ月間全くオフがない。ここ何週間はほどんど眠る時間がない。外部の人からは滑稽な選択と見えるかもしれない。でも、この二足のわらじが見事に一足の履物になるまで私たちの闘いの一つは終わらない。
 この地には、大小様々な闘いが渦巻いている。私たちの闘いはちっぽけだが、これを積み上げていくよりしかたがない。巨大な復興の求心力に丸ごと飲み込まれないために・・・。

(続く)

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。