戸惑いの風景4〔No.22〕

時間が止まったままの風景。市の都市計画、住民たちの
気持ち、折合わない事情をそのまま象徴している風景。
(JR新長田南駅前/4月2日撮影/J)

 戸惑いの風景がひろがっていく。地震による第一次的な疲弊はピークに差し掛かっている。平穏さを取り戻すと反比例して身も心も重い疲労に耐えかね悲鳴を上げそうになる。この巨大な復興の嵐の中で生きていくのには、かつて発揮したことのないような大きな「優しさ」が必要なのだろう。何をやっていく上でも、思いや気持ちの中に精一杯漲らせることの大切さを痛感する。許すことが難しいように、無為に優しくあるのもそう簡単ではない。
(引き続き昨日の続き/第二号のレポート)

●被災地・被災者というレッテルを貼ったあなた達に問う。

 母はガレキを怖がって外を歩けない。
 部屋の中に一人でいると不安で涙が出る。
 もう不安がることはないから、のんびりと親父と避難先で静養していたらと勧めても気持ちはこわばったままだ。
 明治生まれの父は以前にも増して無口になって動かない。兄二人も家を失い、誰が、どこで両親たちと暮らすのか、兄弟たちとの相談は口論のようになって堂々巡りとなる。親たちをタライ回しにするつもりはないが、それを聞いていた母が「もう止めて!」と突然に泣き出す。こんなに激しく泣く母を見たのは初めてだった。
 家族全員の生命があっただけでこれ以上の幸せはないはずだ、という説得はもう通じない。人生のあらゆる不安を胸の内に押しとどめていた堰を失ってしまっている。これは地震と関係ないことだ。ただ地震がそれを加速させたにすぎない。

 「体験者一人ひとりが、しっかり足元を見つめるしかない」という願いも言葉も虚しくなる。ただただ泣きじゃくる母をひしっと抱きしめるしかなかった。思えば私から母を抱きしめることは初めての経験であった。
 この母親の有様からは、空襲の中や戦後の焼け跡の中を、幼子4人を抱えて奮闘した母の姿を想像することができない。
 「こんどの地震の方がずっと怖い。あの頃の若さも元気もないから…」
 返す言葉もない。年寄りや弱者に被いかぶさる精神的圧迫を少しでも軽くするには、より一層の思いやりと優しさを以ってするしかないのだろう。言葉は美しいが、これも容易なことではない。これからこの悪環境の中で、いや環境がどうのこうのではなくて、精一杯、私たちがどれだけ優しくなれるのかだけが厳しく問われるのだろう。

 一時だが地震は、この社会の秩序を壊した。その混乱の中で体験者の多くは「生・死」をはじめとして細々した生活の端くれにおいても、さまざま根源的なものと出会うことができた。大きな犠牲をはらうことになったが、このおかげで今までの私たちの生活にあった嘘と誠、社会のもつ虚と実を垣間見ることができた。このことは凄い出来事だと思う。
 創刊号でのマスコミ、各機関へのお願いは当然ながら無視された。「被災」という言い回しからは、いつまで経っても人的、物的損傷しか語れない。あえて言うなら、この出来事は人の生き方と社会の在り方を顧みる「受難」だと言った方がふさわしい。

「被災地」「被災者」などと言うレッテルしか貼ることしかできなかったあなた達、いままでの社会の枠を越えて動くことができなかったあなた達に問いたい。あなた達は一体、私たちの「何」を見ることができたのですか? 

 創刊号一万部のうちさばけたのは4千部足らず(売れた数ではない撒いた数)残り6千部は目の前にある。押し入れに収まる嵩ではない。どうしようと思案する。優しく考えようとしてもつい苛立ってしまう。第二号は4千部に減らしました。

(完・戻る)

 ちょっと口では説明しがたい重い疲れで、ずいぶんと消耗してしまったのか、震災を回想する気力を失い、この記事を上げて4ヶ月ほどブログから離れる羽目になりました。肉体的にも腱鞘炎とドライアイがひどくなり、ドクターストップがかかりました。(まあ、これは職業病でしょうが)
 その後は、〝地域デザイン〟を念頭に、ポツポツと「地域・就農情報」や「裏山情報」を中心に、本来の遊歩ブログへと立ち返っていくこととなりました。

〓 戸惑いの風景3〔No.21〕

チキンジョージはどうなったか?と編集部によく問い合わせがきた。
写真はガレキの中で再開したライブの様子。
(4月6日/撮影者は不明)

 勤務時間内に編集部を訪れる人が増え出している。電話やFAXも入ってくる。就労時間外に編集をするというケジメがあっても、二足のわらじはどう見ても公私混同であることに違いない。快く黙認してくれる同僚だけではない、当然ながら批難も受ける。辞表は提出したが受け取ってもらえないで懐で眠っている。「R誌」の方は既に300人近い年間購読者からその購読料を先に頂いている。
 地震以降の中期展望が定まったのか社長から、両者の思惑を成立させてくれる妙案が出た。というより命令に近いものだったが、有難かった。社長にとっても英断であったのだろう。
私たち編集スタッフ一同で一営業所を立ち上げることになった。これからの情報社会を見据えた先見の明にあふれた事業に私たちも協力することとなった。暗黙の了解で編集部もそこに居候する事になった。状況は大きく一歩進んだかと思われた。
(引き続き以下/第二号の編集レポートから抜粋)

●まだセンテンスが成立しえない。

 地震以来、何が嬉しいことだと言っても、この暖かさに勝るものはない。春の訪れに心を動かすことはこれまでにも幾度かあった。でも、今はそんな季節感ではない単にこの物理的な暖かさ…、温度としての温かさに身体の芯から救われる思いをしている。
 市外に足を伸ばし、何度かいただいた風呂、いくら湯を沸かしても、どれほど長時間浸かっていようが、身体の芯まで温まることはなかった。その固まった芯がやっと最近この穏やかな気候の中で緩んできている。

 この二ヶ月余をどうレポートすればよいのか、特にこの一ヶ月ばかりのことをどう報告すればよいのか正直戸惑っている。
 時折、創刊号を読み直すが、よくぞこんなものをこの時期に作れたものだと、自分自身でも呆毛にとられる。地震直後の異常なテンションが産み落としたものとしか言いようがない。事実多くの人が多少の好意を含めて「冗談だろう?」と言ってくれた。また相応の批判もいただいた。けれど、辛いのは「一体、何を、どう、誰にアピールしたいのか分からない本だ」としごく冷静に評されること。そうゆうご意見をいただく方々の外野席での立姿が、私たちからいかに遠いものか。
 その批評も多くは「みんなに読んでもらい、この小誌がいくらかは売れるように」との好意を含んだ上でのアドバイスであることは承知している。「せっかく作ったんだから、もっとコンセプトをしっかり打ち出そう!」これらの忠告が雑誌つくりには欠かせないことだとは重々承知している。
 しかし「何」とは何なのか「どう」とはどうなのか「誰」とはダレなのか。そんなことが地震直後に明確に了解できていたならば、決してこの小誌は産まれてはいなかったことだけは断言できる。
 「食料」を「車に満載」して「職員」が「運ぶ」
 「消防隊」が「水」を「放水」して「消す」
こんなセンテンスすらも成り立たない時に、あの直後の「思い」や「叫び」を「誰」に「どう」「アピール」する為の編集を冷静に組み立てようなんてことができただろうか。決して言い訳しようとするつもりではない。「思い」や「叫び」をただ無念と涙で包んで飲み込むざるを得なかった人々がいた中で、幸いにして「R誌」というささやかな場を与えられたに過ぎない。
 「地震ジャーナル」という刺激的な発信方法をとってしまったが、実質は単に個人の「思い」をただ吐露する場でしかない。そういうやり方でないと、少なくともこの一年は持ち堪えないだろう。私たちのキャパはとても小さいこともあるし、「誰」とか「どう」とかを見定められる状況ではないのだ。そういう意味で私たちの足元はまだ揺れ続いている。  

●内的ガレキをどうするのか?

 物的な回復が進むにつれ「心のケア」が方々で叫ばれている。
 物的なダメージはさまざまであったけれど、精神的なダメージ「内的なガレキ」とでも言えるか、これは物的なものとは比べようもないほど多様で複雑きわまりない。ますますこれから増加し続けるだろう。
 地震ショックとに加え、それ以降に派生した多くの問題の中で増していく精神的苦痛、圧迫、混乱、それらに「誰」が「どう」明かりをさし示していくのか私にはなかなか見えてこない。
 今、それを見つめる上で大事なことは、それらのほとんどが地震以前からの問題であったり、私たちの生活にもともと内在していた課題であるということだ。以前なら、それらを先延ばしにしたり、見過ごしたりできていたものが、この生活の激変で、一挙に噴き出しているのだ。これらは言うならば、地震とはさほど関係ないことなのだ。

 「年老いた親」それを突然失った人たちの「思い」を代弁することは私にはできないし、しかし、幸いにも失わずにすんだ私たちにも「これから親たちとどう暮らしていくのか?」と目の前に突き付けられている。生き残った者たちの贅沢な問題だ。(この項続く)

 片方では闘いの狼煙を上げながら、一方ではもう昔を振り返って弱音とも愚痴ともつかないことを書いている。これも戸惑いの風景そのものだが・・・。 

(続く)

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。