ふるさとは遠きにありて思ふもの?

室生犀星の愛したふるさとの犀川(フォトショで加工)

 先だって福田総理が食料自給率のアップに真剣に取り組むとの重大決意を発表いたしましたが、何やらサミット向けの宣伝臭い感もなきにしもあらずで、今ひとつピンとしない。というより、遠い将来の大切な事を見定めないまま、その場限りの施策でお茶を濁してきた日本の”農政”の負の部分を引きずるような気がします。もっと人の生き方までを突き詰めた理念ある農政を提唱しなければいけないのですが・・・。
東大教授の神野直彦氏の「ふるさと存続運動」の記事(日本農業新聞/論点)に共感しました。紹介したいと思います。

 「ふるさとは遠きにありて思ふもの」(室生犀星)この詩の一節が日本の近代化を象徴しているともいう。「ふるさと納税」にしても、仕送りはするが「ふるさと」を見捨てて、遠くで懐かしもうとしているものだ。と切り捨てている。
 今、あくまでも「ふるさとは近くにありて愛するもの」「近くにありて守るもの」という発想から着実に展開している北欧の「ふるさと存続運動」、特にノーマライゼーション(高齢者・障害者と健常者が助け合って暮らせる社会作り)や、クオリティ・オブ ライフ(人間的尊厳を保つ生活)が、掛け声もなくと静かに広がるスウェーデンでの「ふるさと存続運動」の本質的な理念を紹介しています。核心部分は原文にて・・・

 『運動を支える背後理念は地域が人間の生存に必要な資源を、いつも提供してくれているという信念である。それは人間の生存という営みが、生きている自然に働きかける農業を基本としていることをも前提にしている。つまり地域には人間の生存に必要な”生命の蓄積”としての自然資源が十分にあることを意味している。
農業は、地域の自然が語る言葉を理解する文化的行為である。文化(culture)とは大地を耕す(cultivate)ことである。農業では、地域の自然全体を体系的に理解しなければならない。
農業を通じて人間は自然を全体として学び、全体として世界がいかに機能しているかを考えようとする。そのため地域の自然とのかかわりが、人間の感性や人間の思考の在り方を形成する。』

 ちょっと抽象的で分かり辛いかも知れませんが、これを子育てにおいて説明したところは、我が身に置き換えやすいので目を通して下さい。

 『それだからこそ「ふるさと存続運動」を展開する北欧では、子どもたちが「人生のための教育」を学ぶことができる。とことろが、「ふるさと」を見捨てている日本では、子どもたちが森に足を踏み入れ、生命の誕生に感動することもなく、生きる川を目にすることもなく育っていく。もちろん、大地に種を蒔くこともない。
 自然が自然に異変が起きていることを語ってきても、日本の子どもたちはそれを理解することができない。地域の自然とのかかわりを通して、自分の生きている世界を全体として理解し、生きていく上で遭遇する問題を解決していく人間的能力は身に付かない。
「ふるさと」を存続することは、子どもたちを育てていくことでもある。北欧が子どもたちの教育に成功し、知識社会を築いているのは「ふるさと」を存続し、子どもたちが自然との会話が出来るからである』


 遠きにありて思ふ「ふるさと」そのものを持ち得なかった都市遊民の自分にとっては、お腹をえぐられるような痛みを覚えます。自らの「ふるさと」再生を含め、今生活を始めたこの地域の自然をもっと体験・体感でき得るよう頑張らなくてはとあらためて感じる次第です。