秋山明浄にして粧ふが如し(むかご編)

▲山芋の蔓にぶら下がる子実・零余子(むかご)

 ■
 ■
 ■
  秋山明浄にして粧ふが如し

 俳句での季語は「むかご」が中秋九月、「山芋」は晩秋十月となっていますが、実際のところは「むかご」は十月、「山芋」では十一月以降が収穫の最盛期となります。今回はこの「零余子(むかご・ぬかご)」についての四方山話を。

 山中だけでなく緑地や公園等などと案外と身近なところでも目にしている「むかご」ですが、風にあおられり、採ろうとするとポロリと落ちて藪や草むらにあっという間にきえてしまうとところから「幻の山菜」とも呼ばれています。本年は、秋が深まってから立て続けに台風が上陸しそうだというので、あたふたと収穫を急いだ農家さんも居たのではないでしょうか。
元々、収穫に手間取るところから作物というより、むかご飯など農家の賄い用に使うのがほとんどで、直売所にチラッと顔を出すことがあっても、一般の市場には出回ることがありませんでした。
 
 最近、料理研究家の枝元なほみさんが「チームむかご」を結成されて、この「むかご」を一般流通食材として、世に送り出そうと農家の方々を巻き込んだプロジェクトを発足。「むかご市場」などのユニークな活動を始められ、最近はやや認知度がアップしてきたようです。この零余子ですが古くから身近な山の幸として親しまれていたようで、多くの俳人・歌人に謳われています。江戸期を代表する俳諧たちの句にも夫々に登場しています。

 きくの露落て拾へばぬかごかな 芭蕉
 うれしさの箕にあまりたるむかご哉 蕪村
 汁鍋にゆさぶり落すぬか子哉 一茶

 明治に入って創作性を追求した正岡子規をはじめ、個人の生き生きした感性を謳歌する近代俳句が隆盛をきわめますが、その子規から門下生、大正・昭和にわたる数多くの俳人や物書き達の句にも表情豊かに「むかご」は登場しています。

 ほろほろとぬかごこぼるる垣根哉 子規
 黄葉して隠れ現る零余子哉 虚子
 野分あとの腹あたためむぬかご汁 石鼎
 零餘子もぐ笠紐ながき風情かな 蛇笏
 瓢箪に先きだち落つる零餘子かな 蛇笏
 笊のそこにすこしたまれる零余子かな 風生
 八千草のあさきにひろふ零余子かな 青畝

 中でも女流俳人の句には女性ならではのきめ細かい情感が感じられます。

 ぬかご拾ふ子よ父の事知る知らず かな女
 拾ひたむ庵の零余子や昨日今日 淡路女
 みがかれて櫃の古さよむかご飯 久女


 また、小説家の句にも顔を出しています。やはり彼の時代には、生活の身近な処に「零余子」が居てごく自然なモノとして親しまれていたようです。

 手一合零余子貰ふや秋の風 龍之介
 雨傘のこぼるる垣のむかごかな 犀星

 ■
 ■
 ■

■人物歳時記 関連ログ(2021年追記)
小説「坊ちゃん」の正体・・・(弘中又一)
零余子蔓 滝のごとくにかかりけり(高浜虚子)
小説「吾輩は猫である」自然薯の値打ち(夏目漱石

■新ブログ・文人たちに見る〝遊歩〟(2021年追記)
解くすべもない戸惑いを背負う行乞流転の歩き(種田山頭火)
何時までも歩いていたいよう!(中原中也)
世界と通じ合うための一歩一歩(アルチュール・ランボオ
バックパッカー芭蕉・おくのほそ道にみる〝遊歩〟(松尾芭蕉)