・歴史ロマン漂う観音岳(周南市湯野)

湯野・観音岳山頂から望む湯野温泉郷
湯野・観音岳山頂(408m)から望む湯野温泉郷

惹き寄せられた不思議なえにし

 幾度か初日の出を拝みにいっている自宅近くの観音岳との出会いのえにしを・・・。
 2002年いよいよ神戸から移住することが決まって、仕事や住居を探す段になって、周南市(当時は新南陽市)を訪れた。その時に、ついでとばかりに登った山がこの山だった。周南市は、南に港湾や工業施設、北には東西に連なる山々に挟まれた東西に伸びた町です。地形的にも雰囲気的にも神戸によく似た町でした。市街地から背山を見わたすと、気をそそられるピークがいくつも望めます。山口県の山を50座ほど紹介しているガイドブックからまず最初に一つ選んだのが、この観音岳でした。
 市の西端に夜市川の流れがあって、その谷筋をぐるっと北へ回り込んだ所に里山風情にかこまれた湯野温泉郷があります。その北側にかまえているのが観音岳でした。ここに登れば温泉郷が一望でき、周囲の山並みの眺めも素晴らしいものです。山口県百名山・標高408m、低い山にしてはいささか大仰な〝観音〟という名ですが、ガイド本にもある謂れのとおり観音様を外しては語れない山のようでした。その時は、とくに名前に惹かれた訳でもなかったのだけれど、これからお世話になる移住地に於いて、まずは、この山から登ってみたいと思ったのは何かしら縁があったとしか言えません。
 考えれば、神戸でも市の西側から六甲山系を北側へ回り込んでいく神戸電鉄の先は有馬温泉があって、いくつもの登山ルートの起点となっています。ちょうど地形的にも似ているのも関心が向いた理由かもしれない。ひと登りした後の温泉は、醍醐味以外の何ものでもない。移住後しばらくしてこの湯野温泉の近くへ再転居したこともあって、この山へはよく登ることになって、温泉にもよくお世話になった。その内に〝湯野観音岳ハイキングコース協賛会〟の仲間にも混じって、年に数回の清掃登山にも参加させてもらうことにもなっていた。はじめて参加した折は、草木の繁茂が忙しい夏場であったこともあり、クリーンハイキング気分も吹っ飛ぶ大変なものだった。草刈機、チェーンソーを動員して、草刈り、枝払い、丸太の階段補修、雨水による浸食を防ぐための排水溝掘り、工兵隊の汗だくの山中進軍のようでした。

左:山頂 右:清掃・保全作業ハイク
左:秋の歩け歩け大会時の山頂風景   右:清掃・保全作業ハイク

 神戸の六甲山での山歩きは、ゴミの持ち帰りは原則。ゴミがあれば拾っておく、その程度はやっていたが、それ自体を目的したクリーンハイキングには参加したことはなかった。歩きの方ばかりにとらわれてハイキングコース自体の保全や清掃に対しての意識が希薄だったのでしょう。今更ながらに反省するところです。六甲山系の多くは、瀬戸内海国立公園のエリアに含まれており、山歩きのコースそのものが地域資源となっており、国・県・市など行政の手でほぼ管理されていることもあって、一般ハイカーによる保全活動がそれほど目につかなかったのでしょう。
 しかし、地方の平凡な低山では、行政の手がなかなかに届きません。オラが裏山という地元地域の方々の普段からのお世話が頼りです。それがなければ、とうてい山道は保全されることはなく、あっという間に雑草・雑木の中に消えてしまいます。移住後の山歩きでは、いつもそんな地域の活動を意識しつつ、感謝の念をもってお山を歩かせていただいています。まあ、高い山であれ低い山であれ、どこの山を歩こうと感謝は本来のあるべき姿なのですが・・・感謝のついでと言ってはなんですが、今回は、この山にまつわる黄金仏の歴史ロマンを紹介したいと思います。

金造菩薩形坐像(楞厳寺(りょうごんじ)所蔵)
 金造菩薩形坐像 楞厳寺(りょうごんじ)所蔵

観音様は一体どこから来たのだろう?

 その前に、大峯山系の山上ヶ岳(1719.2m)の山頂近くに本堂がある大峯山寺での出来事を、そこから話はつながっています。昭和59年、解体修理工事に伴う周辺発掘調査で出土した遺物の中に、鍍金ではなく高純金製の金で作られた平安期の仏像2体が発見されました。一体は「金造阿弥陀如来座像」もう一体は阿弥陀如来の脇侍である「勢至菩薩座像」でした。当時、この稀有ともいえる黄金仏の出土は「山岳宗教史上最大の発見」と社会ニュースにも取り上げられ話題になりました。
 仏像安置形式では、阿弥陀如来を中尊とする場合は、中尊寺や三千院の阿弥陀三尊像のように、その左右に「勢至菩薩」と「観音菩薩」を配置してワンセットとする。ここで、もう一体の脇侍「観音菩薩坐像」はどこにあるのか? というところに衆目が集まったのでしたが、ナント!それが、奈良県・大峰山から何百キロもかけ離れた山口県は周南市、この温泉郷・湯野にある禅寺「楞厳寺」に安置されている黄金仏がこの観音様だろうということになって大騒ぎとなりました。(異説もある)
 ペリー来航の翌年(嘉永7年)好松という村の若者がウサギ狩りに登った裏山(当時、日尾山のちに観音岳と改称)の山頂近くの土中で、キラリと光る(実際光ったかどうかわからないが)小さな仏像らしきものを発見しました。麓の楞厳寺の和尚に預けて寺に安置していたものです。高さ4cm強、重さ35g、平安中期〜後期の高純度金製の金造菩薩坐像ということが判って、これで、日本に3体しかない黄金仏が「阿弥陀三尊」という形で勢揃いしたことになりましたが、何故、大峰山にあってしかるべき黄金仏が、畿内から遠く離れた片田舎の裏山「観音岳」の山頂に埋もれていたのだろうか? という新たなる謎が立ちおこり、こころ躍るような歴史ミステリーに関心が集り、諸説をにぎわすこととなりました。

左:楞厳寺本堂 右:五合目あたりの延命水
左:楞厳寺本堂  右:五合目あたりの延命水

 かつて神戸の六甲山で、役小角や空海の足跡を追って、古跡や山岳修行者の修験道ルートを探し歩きまわっていた事がありますが、この湯野温泉の近隣にも山岳宗教・密教的風景の匂いがプンプンとしている山々が数多くあります。防府の右田ケ岳の岩峰や徳地の白石山など、山岳修行のメッカであったことを思わせる奇岩・巨岩が点在しており、白石観音も祀られている。畿内の山岳地帯にも劣らないの密教的な風景が実はこの地域にも多くあったと思われます。そんな峰々を天狗もどきの修験者が飛び回っていたとしても不思議はありません。黄金仏が山岳修行者の斗そう行に携帯されるものならば(大きさから考えてそうだろう)、奈良の大峰山とこの周南の観音岳が結びついて何ら不思議な事ではありません。
 一説には「重源上人」との関係を上げられていますが、この話しも大変興味深いものです。源平の戦いで焼失した東大寺の再建という難事業を託された重源上人は、自ら巨木を求めて周防国の杣に入り、佐波川上流の山奥から道を切開き、川に堰を設けるなどして巨木の多くを奈良まで運び出したといいます。(その難事業を偲ぶことのできる施設・重源の里が平成10年にオープンしています)この国家プロジェクトといえる大事業を行う上で、上人はじめ、多くの仏教関係者が、探査・ロケハンをかねて周防国の山々を訪ね歩いていたことは、想像に難くないことです。
 観音岳の頂きからは、九州方面も望め、頂上付近には磐座の多く、平安期には修験道の舞台であったことをうかがわせます。この山に登ったとしても、何ら不思議はありません。一千年も前、ここを訪れた人物、それも黄金仏を携行する程ですから、名のある僧か修験者なのでしょう。その者が何を目的に観音岳に登り、何故に黄金仏の一体を山頂に残していったのでしょう? 彼の人の身に何かが起こったのでしょうか。事故なのか、事件なのか? ああ、これ以上はタイムマシンがないと・・・。真実は、この小さな観音様のみぞ知る、という事でお許しを。

四国88ケ所分霊場めぐり
       四国88ケ所分霊場めぐり

●読本5:あるく・のぼる・あそぶ・まう・おどる・うたう・えんじる

伯耆大山の連峰、北麓より望む。photo by 四万十川洞安
伯耆大山の連峰、北麓より望む。photo by 四万十川洞安

 この年(昭和60年)、極端な円高不況にみまわれましたが、これを底に世はバブル景気という浮かれた時代へ向かうことになりました。神戸では5月、バース・掛布・岡田の三連発から、秋の日本一の覇権まで、タイガースの悲願達成にむけて上に下にへの大騒ぎで、実に腰が浮いたままの一年であった。多少はその風にあおられ「よし! 我々も仲間を集めて、身体を動かしながら、気持ちの開放や表現を楽しめもう!」と芝居とか舞踊とかだけにこだわらずに、身体を使うものなら何でもありのパフォーマンスグループを作ろうと、友人三人で「曙塾」なるサークルを立ち上げ、ミソもクソも取り混ぜたような仲間(塾生)募集を始めることになりました。
 下の写真がその時の募集チラシです。ヨガ・太極拳・ダンスなどの身体表現の活動募集に混じって、社会時事を勉強する井戸端シンポジウムの参加者や、歴史・心理学の勉強会、そして、登山部を設けて、近所登山パフォーマンスと称したハイキングの参加者も募りました。阪神タイガースの二十一年ぶりの優勝ということもあって、その社会的ハイテンションに乗じたイベント、第一回井戸端シンポジウムが〝阪神タイガース優勝と私〟と題して決行された。「永遠の2位としての美学を築いてきた阪神が、思わぬ優勝によってその存在意義が問われる! 来シーズンからどう生きていくのか?」を真剣に朝まで話し合おうというものだったが、結果は居酒屋でのドンチャン騒ぎに終始してしまった。その他、思いつつままに雑多なイベントを行ったが、一番に反響が大きく、参加者が集めたのが、なんと!近所登山パフォーマンスと名付けた山歩きイベントであった。
 まだ、一般的なアウトドアレジャーといえば海水浴か山歩きしかなかった昭和30年代から40年代に比べ、この頃には、海ではサーフィンやウインドウサーフィン、山ではクライミングや各種のトレッキング、映画ランボーの影響で山奥でサバイバルを楽しむソロキャンプなど、レジャーもスポーツもかなり多様化していた折、多少色褪せかけていたハイキングや山歩きというアクティビティを、もうちょっと違う感触で、新感覚で取り組めるようにしょうとターゲットを若い世代に絞った。
 そうは言ってもやはり、近所登山・裏山ハイクなんて、中年のオジさんオバさんのお遊びなんだろうかと、気を揉んでいたところ、曙塾登山部によく反応してくれのは、嬉しいことに若い世代だった。まあ、要は単なるハイキングなのだけれど、それを態とらしく、当時、日常語になりつつあったパフォーマンスなる横文字を拝借したが受けたのか、存外、初心者が気軽に山歩きを楽しめるハイキングサークルが少なかったのか、あれよあれよと言う間に二十人を超える参加者が集ってきた。
 その曙塾の会報一号に「場と人を求めて」という理屈っぽく気負った設立趣旨がある。少し恥ずかしいのですが、当時の〝歩き〟の転換点を思い起こすためにも紹介させていただきます。

曙塾ぶんぶん第一号会報 昭和60年10月発行
曙塾ぶんぶん第一号会報 昭和60年10月発行

曙塾、そして遊歩会の誕生

〝若いうちに必死に勉学に打ち込んだ訳でもない。歳を喰ってからも、ひたすら一つのものを追い続けている訳でもない。重い腰をあげてようとしても、なかなかそんな決意を持続し実行するに至らない。色々と問題は考えられるけれど、最大のネックは〝場〟がないところにあると思い、その場づくりとなるようにと安易に思いついた。これがこの〈曙塾〉である。
 本来〝場〟とは、何かを生み出そうとするところに生じるもので、〝場〟さえあれば、そこから何かが生まれるだろうと考えるのは調子の良いサロン的発想だということは承知している。できればそうならない為に、建前だけは高遠に、修学の場としての〈塾〉、新しい価値観を模索する場としての〈曙〉を願って命名しました。
 けれども実際には、何から手をつけるにしても、指導的立場のスペシャリストも居ないし、手持ちのスキルや知識・経験も不足している。たとえ仲間が集まったとしても右往左往するばかりで、今すぐに共同作業を通して、何かを生み出していくのは困難かもしれません。でもとりあえずは、集まろうとする人々がその各々の思いで、まず歩いてみる、のぼってみる、演じてみる、唄ってみる、踊ってみる、演じてみる、つまり自分の身体を動かしてみるところから始め、そういう一人称の作業でもって集団の中で互いに触発させながら実行(パフォーマンス)することを最初のアクションとし、少しづつ積み上げることで場が〝場〟として有効に機能していくだろうという予感があります。ぜひ一緒に何かをはじめましょう


 パフォーマンスアートとは、今でこそ誰もが平易に使う言葉ですが、当時としてはまだ、ハプニングなどと並んで前衛アートの思潮としての意味合いが強く残るちょっとした流行り言葉でした。最終的に出来上がった作品そのものに芸術的な価値があるのではなく、その作品に至るまでの行為〈実行〉こそがアートなのだという意味で、私はあえて必要以上にこの言葉を使っていました。つまり、観客が居るのかどうかの以前に、都会においては生活に埋没しがちな〝歩き〟という行為を通して、六甲山という舞台で、自然の前で素直に自分を表してみよう、まず自分を晒しだすようなアートな山歩きをしてみようと訴えました。
 参加者はそんな小難しい理屈にどれほどこだわってくれたのかは別として、素直に〝面白そう〜〟と反応して、顔をだし集まってくれたと思います。大学生や社会人一~二年生の若者が集まってきました。想定していたように、ガチな山登り派は居らず、ほとんどは全くの初心者か、緩いアウトドア派でした。ちょっとしたテーマ(歴史・社会・自然)を決めて、ワイワイとそのお題について語らいながら、ボチボチと山を歩くというような〝パフォーマンス〟でしたが、中には〝自然の中で心を躍らせ、身体を踊らせよう〟というメッセージを真に受けて、当時の若者の必需品だった大きなラジカセを抱えてくる者や、サバイバルナイフを腰に差した和製ランボーもやってきました。

 にわかに大所帯になって、〈曙塾〉では収まりきらず、こうなったら、六甲山ハイキングに特化した新規の別サークルとして独立、活動の充実を図ることにしました。ちょうどその頃でした。メンバーの一人から、東京・神田の古本屋街で見つけたという、上下巻1セットの本が、東京から送られてきました。コリン・フレッチャーの「遊歩大全」でした。この本との出会い、フレッチャーとの遭遇によって、私の〝歩き〟と私たちの〝歩き〟をピッタリと表してくれる〝遊歩〟という素晴らしい名を冠することができ、飛躍へと向かうことになりました。
 そして、昭和61年、「六甲遊歩会」が誕生。加藤文太郎の後追いから始まった手綱のきかない荒馬のような〝不明な歩き〟にさまよっていた我が足先は、〝遊歩という内なるウィルダネス〟へと向かうことになりました。

曙塾会報15号1987年12月号
曙塾会報15号1987年12月号

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