幕末の緊急バイパス・幻の道「徳川道」(六甲山)

徳川道起点標識(神戸市・阪神石屋川駅北側)前方に六甲山系を望む

 六甲山には、カタカナ名のポイントやコース名が多い。幕末、開港された兵庫の港に居留した外国人たちによって名付けられたものだが、そのうちカスケードバレイ(和名:杣谷)という名の沢筋がある。阪急六甲駅・西側の都賀川を遡行していく摩耶山と長峰山に挟まれた、カスケードという名の通りいくつかの小滝を登り、流れをまたぎながら杣谷峠へと至る谷コースだ。峠を越えるとすぐに可愛らしい新穂高(648m)やシェール槍(643m)をバックにした穂高湖に出会う。新穂高の北側を回りこむ沢を〝シェール道〟南側の沢筋を〝徳川道〟と呼んでいる。この度は、洋名にあふれた六甲山において、和名でそれも山径としては異端とも言える〝徳川〟と冠せられた由来を少し紹介してみたいと思います。

神戸事件・幕末維新の荒波が六甲山中に押し寄せる

 徳川道の正式名は「西国往還付替道」、つまり神戸の海岸に沿って整備されていた西国街道(山陽道)のバイパスです。幕末、兵庫の開港(12月)をひかえて、外国人と街道を往来する大名行列との接触を避けるために、(9月から)3ヶ月ほどの突貫工事で整備された徳川幕府が命じた迂回路です(現在の明石市大蔵谷から、阪神石屋川駅付近までの全長33km)東側半分は六甲の山中で、特にカスケードバレイは滝や堰堤の巻道が険しい岩場となっているところあって、「大名行列? マジ?」と言いたくなるようなルートです。この急な工事を2万両(2億円くらいか)で幕府から請け負って必死に完成させた庄屋・谷勘兵衛は、完成後に勃発した戊辰戦争で勝勢となった長州軍に、この工事費を略奪されてしまうという目にも合います。このあたりの詳しい事情と顛末は『山田村郷土史』を中心に調べておられるサイトにも紹介されていますので徳川道 ~幻の西国街道のバイパス~を参照ください。
 なんとか12月の兵庫の開港に間に合ったバイパスですが、その数日後には王政復古の号令が下って「このバイパスを使え!」という通達も各地に伝わらず、明けて翌1月11日、新政府から西宮の警備を命じられた備前藩(岡山藩)の軍勢が西から進軍してきましたが、付替道(バイパス)の存在を知ることもなく、海岸沿いの西国街道を直進して、現在の三宮神社のあたりで、この備前藩の先発隊の隊列を横切ろうとしたフランス水兵と衝突します。世にいう〝神戸事件〟の勃発です。英兵や米兵も合わさって撃ち合い(威嚇射撃?)が始まり混乱します。
 後方にいた本隊と退却した先発隊は、ようやくバイパスが開通していたことを知らされ、敗残兵のような体で六甲の山越えに向かいます。麓の小さな山田村に600人を超える兵士たちが宿を求める大騒ぎぶりも前述の郷土史に残されているようです。世はたちまち明治の時代となって、この時の行軍が〝西国往還付替道〟の唯一の使用例となり、さらに時代が下って、現代では〝徳川道〟という名でハイキングコースとしてその名残りを伝えることになります。
 神戸事件の方は、明治政府・新進気鋭の伊藤博文の奔走で大事に至らず収まりますが、その陰で詰腹を切らされた〝滝善三郎〟の悲劇が起こっています。神戸事件は、一般にはアーネスト・サトウなど外国公使の回顧録をもとに語られることが多いのですが、もう一方の当事者であった岡山藩の資料を含め、広範囲な情報を収集している神戸事件を考える」というサイトでいくつかの推論が検証されていますので興味のある方は訪れてください。

神戸事件発生地(三宮神社境内)  Photo by S. Douan
カスケードバレーの入り口・杣谷堰堤
徳川道

 徳川道と神戸事件の顛末は、何ともいえない皮肉な因縁ですが、劇的に世が揺らぎ変化した幕末ならではの出来事です。六甲山は本当に不思議というか、面白いというか、無数の引き出しのあるおもちゃ箱のようです。シュラインロードや山上磐座群では、平安の世の修験者の打ち鳴らす錫杖の響きや法螺貝の音、山中各所にある源平合戦や戦国時代古戦場では武者たちの苦闘の足音も感じることができます。この徳川道でも歩くたびに、ゲーベル銃かミニエー銃を担いで六甲の山中を行軍した兵士、それも幕末の風雲に飛び込んだ若い農民兵たちの息遣いを聞くようなこともあります。私が踏みしめている一歩一歩、百数十年前には確かに彼らもこの道を踏みしめていたのです。何とも言えない思いと想いが交差して奇妙な共有感をいだきます。
 単なる資料ではなく、そんな〝歩き〟の体感を表したく、徳川道にちなんだ短い小説を書いてブログにもあげたことがありました。ちょうど神戸を離れ、六甲山とお別れして山口の地に移住してきた直後のことです。夜逃げのような田舎暮らしで、ほぼ無計画状態で移住してきた頃の不安な自分の尻を叩くよう作品でもあり、当時の生活を思い出す感慨深いものです。このブログでも再掲させていただきます。読んでいただければ幸甚のきわまりです。
(右写真:上は穂高湖、下3連が徳川道と呼ばれる小径、出処は最下段に記載)

神戸事件の概要を紹介する銅版(瀧善三郎の切腹のシーン)  Photo by S. Douan

アキラの徳川道(ショートショート)

 「ようし!徳川道、歩いてみるか」
 突然思い立ったように、アキラはハイキングマップとお気に入りの椎茸おにぎり三っつをデーバックに放り込んで下宿を出た。郷里の岡山を出て、神戸の大学へ入って以来、すっかり山歩きにご無沙汰であった。身体の芯がなにかぴりっとしない。それが何に因っているのかアキラは薄々と感じていた。入学以来、同輩との遊興やアルバイトに追われ続けたこの一年間、羽を伸ばすのは良いとしても、目的感の薄れた俗な暮らしに飽きて、いささか気が滅入りはじめていたのだ。そんな鬱々とした気分を晴らすには身体を苛めるのが手っ取り早いと、通学用のバスも使わず、アプローチから全て徒歩で歩き通すことにした。 
 下宿のすぐ側にある阪神石屋川駅、JR六甲道駅そして阪急六甲駅と辿り、さらに北へ閑静な住宅街の急坂を登ると、眼の前に古い石積みの杣谷ダムが姿を現わした。堰堤の脇から広い河原に下り立つ。杣谷入り口は、砂場も多く渓流も澄んで、デーキャンプにもってこいの河原になっている。六甲山上へのいくつかのハイキングコースの起点にもなっており、この日も初夏の休日とあって多くのハイカーやファミリーで賑わっていた。
 アキラは額の汗をひと拭きしただけで、休憩も取らずに、人込みを避けて杣谷への沢筋のルートに分け入った。ことのほか鬱蒼と草木が茂る沢道で、両脇の尾根の傾斜も険しく見えた。たちまち深山に迷い込んだような気にさせた。先ほどまでの都会の相貌やら喧噪が嘘のように思えた。
 「う~ん六甲山。案外侮れんな」
 気合いを入れ直すため、シューズの紐をぎゅっと締め上げた。すぐに二基連なったビルのような高さの砂防ダムが現れた。その脇を巻いて登る岩場は、滝の登攀を思わすほどの急勾配だった。それが一息つくと、今度は肩幅ほどの岩棚を這うような所もあって、
 「おいおい本当に、これが徳川道かよ」
 大名行列がのんびりと行進する林道ような古道を想像していたアキラは、のっけからイメージを突き崩されてしまった。
 一時間余で、やっと杣谷峠へ登り詰めた。高校時代はワンダーフォーゲル部、歩きに歩いたその頃の自信は見事に吹っ飛んだ。この急な沢筋になまった足腰は音を上げてしまい、峠のすぐ先にある穂高湖でへたり込んでしまった。

 昼ごはんの椎茸にぎりを頬張りながら、
 「そう言やあ、このおにぎりだ。こいつのお陰で、俺さまはへとへとじゃあ」
 思わずぷっと吹き出してしまった。祖母の作る椎茸一杯のおにぎりが子供の頃からの好物だった。祖母の味に近いコンビニにぎりが販売されてからは、これが夕餉の定番となっていた。昨夜のことである、馴染みのコンビニでは手に入らず、もう一つ先のコンビニへ行こうと、ふらりと下宿を出た。国道2号線を石屋川まで辿りそれから南へ折れたところに小さな公園があった。そこで古ぼけた一枚の案内板と出会った。何気なく足を止め目を通してみた。
 『ここは幻の道として知られる徳川道の起点である・・・』
 「なに、幻の道?」
 まず、この文言がアキラの気をそそった。続いて、
 『徳川道は江戸時代末期(慶応三年)に幕府が兵庫港を開港するにあたって開港場付近の外国人と西国街道を往来する諸大名や武士との衝突を避けるために作られた迂回路である』
 「なに、なに? 海岸沿いの西国街道を、六甲山系をぶち抜いて山沿いに付け替えた?それも34キロメートル」
 慶応三年と言えば、維新回天の加速がピークを迎えた年。幕末小説に凝って目下、乱読の日々が続いているアキラにとって、騒立つ幕末の匂いがぷんぷんするこの案内板は、アキラの好奇心に火を付けてしまった。早速下宿に戻り、いつか友人に借り受けていたままのハイキングマップを引っぱり出して、徳川道なるもののルートを探した。確かに山中に数キロばかりだが、その名を冠した道があった。
 しばらく地図を睨んでいる内に、なにやら体の芯がもぞもぞとしてきた。
 「う~ん、歩いてみようか」
 単なる思いつきではあったが、そうとも言えない何かしら既往感のようなものをうっすら感じた。何かに誘われているような気もした。この時、この誘いがある人物との出会いの端緒となるとは、アキラは露にも思わなかった
 
 弁当を食べ終え穂高湖を後にした。
 ここから布引谷に流れ込む渓流沿いの小径をハイカーたちは「徳川道」と呼んでいるらしく、地図にも明記されいる。この辺りは当時の面影を十分に偲ぶことができた。足下にせせらぎを聞き、杉の木立の間を陽がさす。そのまま時代劇のロケにも使えそうだと思った。
 「ここなら、行列が通ってもおかしくはないな」
 アキラはあれこれ想像してみた。
 「幕末であったなら、こんな感じかな」
 次々にイメージは膨らみ、あっと言う間に百数十年の時を飛び超えていった。
 「ザッ、ザッ、ザッ、」
 鼓動のような足音を立てながら、ミニエー銃を胸に抱え、隊士らが二列縦隊で小走りに街道を次から次へと通り過ぎていく。なんと砲兵までがやってくる。大砲の車列が横を駆け抜ける時、轍の泥が、
 「バアーッ!」
 とアキラのシューズに跳ねた。
 「うっ!」
 と、我に返った。湿地に足をとられて転けそうになった。靴は泥で汚れていたが、もちもん周囲は誰も居なかった。たわいな空想のつもりだったが、幻影のような妙に生々しい人気を感じた。
 
 翌日、大学の図書室で「徳川道」のいくつかの文献を調べてみた。ほとんどの資料は神戸事件との絡みで紹介されていた。 
 「神戸事件?」
 どこかでうっすらと聞きかじったような気がしたが、この事件の詳細については全く知らなかった。
 さらに資料を漁った。
 『幕府では、諸外国の要請に圧され、1868年1月1日に兵庫開港を決定する。これに対応する居留地や税関等の設定にかかったが、もっとも恐れたのは外国人との衝突であった。生麦事件の二の舞いを避けるために、幕府は市街地を貫通する西国街道を廃止し、遠く背後の山地を迂回する「西国往還付替道」の工事を緊急に決定し、着工の命をだした。これが七月末。ルートの確定が九月。わずか三ヶ月という驚異的な突貫工事であった。工事費は二万両。幕府も決死の覚悟であった。』
 これだけの事なら徳川道は単なる古道として歴史に埋もれたかも知れない。しかし、この道の完成を知らされず、または知らずに旧西国街道を東進した備前藩の一行が外国居留兵と衝突した神戸事件、これこそ幕府の一番危惧したトラブルであった。しかもその備前藩の敗走に使われたのが、唯一の使用例だと皮肉混じりに紹介する資料もあった。お陰でこの道は、幕末という歴史の光彩をことのほか際立たせることとなった。
 「ふ~ん、備前藩か・・・」
 備前はアキラの郷里であった。
 アキラの脳裏にまた新たな空想が膨らんできた。
 「もしや、先祖さまにこの徳川道を通った者がいる?」
 しかし、本家筋は古い農家と聞いている。維新の動乱に活動した人物がいるような話も聞いたことがない。
 「いやいや、この頃は奇兵隊を初め諸隊と呼ばれる農民兵が活躍した時代だ。わからんぞ~」
 沸々と湧き上がってくるものを感じた。
 「昨日、徳川道で出くわした藩兵たちの行進は幻影じゃない。あの中に確かにそいつがいたんじゃあ」
 余りにも唐突な発想も、アキラの中では何一つ違和感はなかった。
 
 盆の帰郷を早めた。七月の内に実家に戻り、家に入るや否や、父母や兄弟たちに、矢継ぎ早に聞きただした。質問というより詰問のような勢いに家中は唖然とした。ついでに本棚から古い書き物を片っ端から引っ張りだした。
 「おえんな~」
 母の悲鳴の横で、
 「ルーツじゃあ。ルーツ発掘!」
 ろくな説明もないまま、
 「じいちゃんちへ行かんとおえん」
 と、捨て台詞を残して、本家の備前に向かった。それっきり三日も戻ってこない。九十近い祖父に、またあれやこれや質問の嵐を浴びせて、
 「家系図か古文書はないか」
 と、土蔵まで荒らす。役場で戸籍謄本を取り寄せ、最後には寺まで押しかけて過去帳を拝見させてもらう。
 真新しかった大学ノートはあっという間に脈絡の定かでないメモで埋め尽くされた。その一つ一つを丹念に繋ぎ合わせ、練り合わせ、そして、漸く一人の人物に浮かび上がってきた。
 「そういやあ、じいさんがが言うとったかな~」
 祖父がぽつりと洩らした。
 「じいさんって、おれの曾々祖父か?」
 「ああ、明治になるかならん頃に、鉄砲傷で死んだ甥がいたと」
 この祖父の言質が本線になった。書き集めたメモを繋ぎ合わせた末に、明治元年に鉄砲傷で死んだ曾々祖父の甥なる人物に辿り着いた。
 「彰次郎か・・・」
 奇しくも我が名と同字が含まれている。もちろんのこと、面影も人柄も知る由もない。何故、農家の次男坊である彰次郎が、戊辰の戦乱へ躍り出て、あっけなく二十二歳という若さで死んでいったのだろうか。彼の死は何か隠ぺいされた節があるようにも思えた。あの動乱の時代、憂国の想いに自ら進んで身を捧げたのだろうか。それとも、無理矢理に時代の濁流に引きずり込まれたのだろうか。彰次郎の足跡をあれこれ想像すればするほど、奇妙な親近感が湧いてきた。
 「よし!アキラ、出発じゃあ!」
 と、すぐ傍で叫び出しそうな、兄貴のような活き活きとした彰次郎像が浮かんでくる。今までの自分に欠けていた躍動感を投影させてようとしたのかも知れない。
 
 アキラは神戸に戻り、早速、事件の碑と備前藩の大砲が置かれている三宮神社に詣った。神社すら都会のビル群に埋もれて、つい見過ごしてしまいそうな佇まいだった。そのわずかな一角を除いて、何一つとして135年前の変事を偲ばせるものはない。南側の旧居留地一帯は大手デパートをはじめ、海岸通りまで巨大なショッピングモールと化している。
 お社の拝殿を静かに深くそして長い時間をかけて拝した。これ程真摯な思いで瞑目したことはなかった。彰次郎の死を昨日のことのように弔った。同時にアキラは『徳川道』の全ルート34キロメートルの走破を決心した。決行日は、
 「はやり1月の11日だな」
 それまでに彰次郎のレポートを書き上げるつもりであった。そして並行して徳川道なる幻の道のルートも綿密に調べた。六甲山以西のルートは、市街化のためほとんどは街路を辿ることになる。迷走しないためにもいくつかの箇所の下見にも出かけた。そのために今までのバイトを断り、友人らとの遊興からも遠ざかっていた。よそよそしいアキラに友人たちは、
 「なんか 隠しとるだろう」
 「いいや、ちょっと勉学に目覚めただけじゃ」
 気の好い彼らを疎遠にするつもりはなかった。ただ、ちょっと先の見通せない自分の学業生活を見つめ直すためには、彼らのペースにはまる訳にはいかなかった。誰にもこの走破決行を知らせなかった。大学入学以来の一年間には見出せなかった己の意志、むくむくと動きだした意欲を誰にも削がれたくない一心からであった。
 
 年が明け、決行日が訪れた。未明、西の起点である明石と神戸の市境・大蔵谷に立った。肌を刺す寒風が思いっきり気を奮い立たせる。アキラがかき集めたルーツ探索の資料からは、はっきりと彰次郎という青年の生き様と、彼の歩いた足跡が浮かび上がっていた。それを確かめるべき一歩を踏み出した瞬間に、めくるめく時が逆流したように彰次郎の一歩と折り重なった。
 「いざ出発じゃあ〜」
 
 朝廷よりの勅命を受け、備前藩は家老日置帯刀率いる総勢六百余人の部隊を西宮の警備に差し向けた。西国街道を東進、1月11日昼過ぎ、神戸村の三宮神社前に差しかかった。彰次郎は耕戦隊と称される農民兵で構成された第三砲隊に居た。
 「さてさて、これより先どこまで進むものやら」
 出陣の命を受けて以来、昂る気持ちは今も鎮まってはいない。西宮の次は京へ上るやもしれない。もしやして討幕の戦は江戸まで続くかもしれない。それは彰次郎が、進んで選んだ道であった。幼い頃から目をかけて、その才覚を可愛がってくれた遠縁の下士の影響が大きかった。農家の出であったにも関わらず一端の尊王攘夷を志す青年へと育っていた。耕戦隊の前身、農兵隊が結成された時もまっ先に志願した。不惜身命の思いで激動の時代を突き進むことに何の衒いもなかった。

 街道を挟んで北側に神社、南側は拓かれたばかりの諸外国の居留地がある。社の森を過ぎようかという辺りで、先を行く第二砲隊との狭間が開いた。その時、神社側から数人の居留地警備の数名の外国兵が隊列を横切ろうとした。
 「止まれ!止まれ!」
 怒号のような隊士の制止を声に、一旦足を止めたかに見えたが、そのまま押し切って隊列の間を通り抜けた。押し止めようと第三砲隊の令士・瀧善三郎は槍をかかげた隊士と共に外国兵の前に立ちふさがった。その時、反射的に外国兵は瀧にピストルを向けた。
 「鉄砲である!」
 瀧は注意を促すために叫んだつもりであったが、隊列を乱された隊士達は、交戦命令と思い隊士らが銃を構え、槍をかかげた。それを見てひるんだ外国兵が居留地へと逃げ込もうと、空に向け数回、威嚇の発砲をしながら駆け出した。
 「空~!」
 瀧の号令が彰次郎の耳に飛び込んできた。鉄砲隊は射撃の体勢に構えた。続いて、
 「空~!打て~!」
 威嚇射撃の号令を聞いた。彰次郎は夢中で引き金の指に力を込めた。上空への発砲であったが身体は震えた。先方からも数発の銃声が返ってきた。一帯は混乱した。双方が睨むあう一時の間に、この混乱を聞きつけた居留地の諸外国の兵士らが、海岸添いにぞくぞくと集結し始めた。
 家老日置は、交戦の意志など毛頭なかった。一旦、須磨の浦辺りまで退いて様子をうかがった。
 「当方に落度なし」
 全く偶発的な些事と捨て置いて、一刻も早く勅命である西宮への東進を慮った。幸い双方に死傷者が出なかったが、事態は急激に悪化、神戸村は居留地兵によって占拠され行く手を塞がれていた。やむをえなく日置隊は神戸を迂回する東進の道を探した。彰次郎は発砲の直後、何やら当ったか擦ったかで、二の腕を痛めていた。出発までの休息の間にそれを思い出し、傷の手当てをした。
 「かすり傷じゃあ、大丈夫じゃあ」
 出血も止まっていたし、興奮状態が続いているのだろう、痛みもさほどではなかった。
   
 「西国往還付替道あり」
 との報を受けた家老日置は、
 「ええい 早々の出立じゃあ」
 と、東進の道が開かれた安堵感よりも、この付替道を知らされなかった仕打ちにほぞを噛んだ。勤王派と佐幕派の綱引きで一転二転三転と勢力地図は推移していた。しかし大政奉還という期におよんでは、幕府には付替道の完成を各藩に広報する余裕などあったとは考えられない。ましてや勅命で討幕の軍となるやもしれない備前藩に、その情報が錯綜し滞ったもの当然かもしれない。無理もない話であった。
  急遽、明石までもどり、新道なる付替道を抜け神戸を迂回するルートをとった。しかしこのまま強行軍を続けると、険しい六甲の山中で夜を迎えることになる。小部村(現神戸市北区)での宿営となった。
 「何ごとか、戦が始まるのか」
 村人の不安と恐怖は一通りではなかった。夜半、彰次郎の腕が丸太のように腫れ上がり激しい痛みに襲われた。傷は鉄砲玉によるものであった。玉のかけらを取り出し当てを施すと少しは痛みがやわらいだ。
 翌日、険しい六甲の山中を抜け、夜半やっとの思いで西宮に辿り着いた。西宮到着後の七日目あたりから、彰次郎の腕に異変が起きた。いや腕だけでなく指や足までもが、他人のように感じられる。口や舌も思うように動かない。日々容態は悪化して、駐屯地近くの療養場に運び込まれた。
 その頃、隊では東征の先鋒に、この耕戦隊が選ばれるとの風評が盛んであった。
 「俺も、連れてってくれや」
 と、もつれた声で見舞いに訪れた同輩たちに懇願した。誰もがその口惜しさが分かるだけに無視した。
 たまらず一人の隊士が
 「国で養生せいや、それから追っかけても遅うない」
 と声をかけた。

 国元は神戸での事変の処理で右往左往であった。神戸はまだ諸外国に占領されたままで、新政府も諸外国の多大な請求にどう対処するか苦慮していた。事態は急速に動いた。新政府は開国和親のため一方的に落ち度のない備前藩へ責任を押しつけた結果となった。翌2月初め、実行責任者として令士・瀧善三郎の処断の沙汰が下り、同月七日神戸永福寺で各国公使立会いの下、瀧の処刑が執行された。古式に則った潔い割腹であった。
 彰次郎はその報を耕戦隊の仲間から密やかに告げられた。自分を弟のように育んでくれた恩人の死を聞いて激しく泣いた。その頃、頬も痙攣も激しく、泣き顔は苦悶の容貌に歪んだ。
 草莽の士とも言える彼はその三日後に他界した。死因は定かではないが、舌のもつれ、顔がゆがむとの事から破傷風だと思われる。享年二十二歳。混沌の幕末、維新後の新日本を見ることもなく散っていった数多くの若者の一人であった。 杣谷を下り、谷道が終わろうとする頃、陽は落ちて、周囲はすっかり闇となっていた。谷が開け、杣谷ダムの河原に下り立ったアキラの眼前には、神戸の夜景が綺羅びやかに拡がっていた。その都会の光彩に身を埋めるように、重い足をひずりながら黙々と街路を歩いた。やがて、今日の自分へと誘ってくれたあの徳川道起点の案内板にたどり着いた。その前でしばし立ち尽くした。重い足とは反して、胸の裡は清々しく軽快であった。彼の中にあった安穏たる日々の憂鬱ははるか遠く消え去っていた。
(完)

【参考文献】 
「徳川道 西国往還付替道」(徳川道調査委員会編集 神戸市市民局発行) 
 神戸事件に関する一考察 「その性格と歴史的意義」(文責:前田結城)
 
【使用画像】
■徳川道起点と杣谷堰堤のヨコ長の画像は、Googleストリートビューから拝借。
■穂高のタテ長画像は、ウィクペディアより拝借。
■3連の徳川道の画像は、いそしずのライナーノートより拝借しました。
■ラストの写真は現在能福寺の境内にある31歳で切腹した滝善三郎の墓碑です。
能福寺と兵庫大仏[神戸観光壁紙写真集]より拝借しました。


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〝遊歩〟ハイキンググッズ10選・トイレ編

※その2、出したものは全て持ち帰る?

〝遊歩〟ハイキンググッズ10選・トイレ編

トイレのルールとマナー
愉快な話ではないが、上品ぶってあいまいにすることでもない

 日帰りのウォーキング(ワンディ・ハイク)では、装備、テクニック両面とも、それほどの難問は登場してこない。必要と思ったものは全部ポケットに詰めこめばいいのだし、腰か肩に小さなポーチをつければ、その中にいろいろ詰められるから、いっそう便利になる。必要と思いながらも残していかなければならないものが出てきても、心配はいらない。なんといっても、その日のうちに家に帰りつけられるのだから。(コリン・フレッチャー著、遊歩大全より)

 山歩きでのオススメ品を紹介していますが、元々〝装備をはじめ、歩き方とは、もともと主観的なものだ〟というスタンスで話が始まっていますので、結局は「自分で必要だと思うものを持って行こう」というところがベースとなります。「その1、ライト編」にフレッチャーの言葉を借りて、ワンディ・ハイクの装備品(スマホを含めて)全般のことを書いておきましたので、途中ページから入られた方は、そちらから目を通していただけましたら仕合わせます。

その2、今回のオススメのトイレグッズは・・・

 ハイキング、山登りにおいて、トイレの話は決して楽しいものではありませんが、これに対してはよく準備をして、現場でも適切に対応しなければ、楽しいはずのウォーキングに少なからず水をさしてしまうことになります。周囲に素晴らしい風景が広がり、ずっぷりとその世界に身を浸しておきたいそんな時に、次のトイレポイントのことばかり気にして歩くのはオススメできません。勿体無い限りです。また、前の日から水分補給を控えるとか、喉が渇いても我慢するとかいうのは論外です。熱中症や高山病に関わってくることですから、適切に水分は摂って歩きたいものです。コーヒー好きなら、山上でいただく一杯は、味もさりながら達成感を飲み干すような、下界では味わえない〝至福の一杯〟です。こんな贅沢をトイレごときで我慢するのも悲しいことです。
 特にこの問題、ご婦人たちにはわずらわしい話のようです。「ようです」と言ってしまうように、私ら(男)には、そこに気を配らなければと思いつつも、切実さに欠けて、うまくサポートできなかったことも多々あるようです。(女性リーダーなどがよく対策しているとは思いますが)コースリーダーは最低限、事前にトイレポイントをよく調べて、ポイントまでの時間をよく説明しておくこととが大切です。
 男の私が具体的にこうしようとか言っても説得力はないでしょう。最近、急増している山ガールたちに、そのあたりの事情をうかがうのが最適だと思います。このキーワードでググれば、いろんな対処法が紹介されていますので、それをその人なりに、予定のコース状態に合わせて活用してください。その中で、目に留まった対処法をいくつかここでも紹介しておきます。

〈ハイドレーションシステム〉
 バックパック内の水筒からチューブを使っての水分補給法です。専用品もあり、それに対応したバックパックもありますが、手作りでも簡単に作れそうです。いちいちバックパックから取り出すことが不要で、行動性が高くなります。水分補給のポイントは、体に吸収される分を効果よく摂取することです。一気にペットボトル半分程を飲み干したところで、その水分の多くは尿の方に回ってしまいます。喉が渇く前に、口内を潤すほどの水分をじわっと、舐めるように頻繁に摂っていれば、吸収率は良いし、必要以上に水分補給を我慢することないでしょう。こいつは掃除が面倒なことと、ボトルを持って「残りこれだけか」という目視が出来ませんので、水の残量が把握しにくくなるので、そこは要注意です。

お花摘み〉
 喉が渇いた状態が続くのは避けましょう。普通に水分を摂って歩くに越したことはありません。大概は汗となって放出されますので、下界にいる時よりは尿意も少なくなります。それでもトイレチャンスはいくつか必要でしょうが、その時に施設がなかったり、使えなかったりする場合も少なからずあるでしょう。そういう時は〝お花摘み〟に行くしかありません。まあ、あまり気にせず、さら〜と済ませるようになるのも、遊歩スキルというところです。が、なかなか、そういう風に馴染めない人も多いでしょう。
 レジャーシートや傘(ツェルトでも)で隠せば、急な人目があっても大丈夫とかの提案もよく聞く。まあ一般的なやり方なのでしょうが、今一つスマートさに欠けるような気もします。ここは一番ポンチョがオススメでしょう。簡便で自然な感じがよいし、さりげなく羽織れば、それが周囲への暗黙の合図にもなります。携帯トイレや処理袋がセットになった防災用のポンチョもありますが、今頃では雨具のポンチョもファッション性の高いものが出回っていますので、気に入ったものを一つザックのサイドポケットに入れておきましょう。もちろんのこと雨具としても便利です。
 お花摘みでの注意点は、安全の確保です。トイレに気を取られて集中できず、その時に起きる事故や怪我も少なからず起こっています。中には携帯電話も含めて一切の荷物を仲間に預けて、藪の奥に入っていってしまい戻れなくなったという話もあります。その他、蛇やムシにも要注意です。山慣れてないメンバーであれば、経験者が花摘み場をチェックしてあげるのも必要なことです。
 しかし、隠れるところのない稜線や草原で、しかも大きい方が催してきた。などということもあるかもしれない。お腹の調子によってはあっても不思議じゃありませんが、この時は男性でも切羽詰まるでしょう。そこまでのことを心配される方には、ポンチョとセットで、やはり携帯トイレを用意しておきましょう。一つ200〜300円のもので十分でしょう。日常生活でも役に立つことがあるモノです。

★アウトドアカルチャー『A kimama』にイラストレーターの鈴木みきさんの〝用足し風景〟が紹介されいます。

 食べる・飲む・出すの最初の2つは楽しくプランニングしますが、出す方は、ついつい消極的で、その場限りの対処で終わってしまいがちです。自然のエリアに踏み込んでいるので、自然とうまく融和して、自然に処していきたいものです。個々の工夫はその人にお任せするにしても、マナーとかエチケットは共有すべき大切な課題です。これは、山に限らずその人の生き方・ライフスタイルに関わるものだと言ってもよいでしょう。

自分の出したものは全て持ち帰る

ネコ式トイレ法

 自然と多すぎる訪問者が生み出している環境問題にも、様々な論議があると思います。私自身は、無責任と思われるでしょうが、特にそういう議論に積極的に組みするつもりはありません。個人的な基本ルールは「全て持ち帰る」「現状保全」という2点です。「尿も便も持って帰っていたか?」
という問いに答える前に、ここでも師匠のフレッチャーに登場してもらいましょう。

トイレの問題は決して愉快な話ではないが、キャンパーたるものはだれでも、あまり上品ぶってあいまいにしておくことなく、他のキャンパーのためにもオープンな気持ちで考えることが必要だと思う。(遊歩大全 596頁)

と述べて、トイレの対処法を数ページ割いてあれこれ説明しています。彼の個人的セオリーは〝ネコ式トイレ法〟(cat sanitation)です。ネコのやるような方法をていねいに実践するのです。まあ、穴を掘って埋めるということなのですが、少なくとも10〜15cm、好ましいのは15〜20cmと、その穴の深さまで細かく指定しています。(場所も水系から最低は15m、理想は150mは離れたところで)使った紙はモノの上で燃やして、ハエの侵入を防ぎ、すぐに土を被せる。穴は深すぎるとダメだとも書いています。昆虫やバクテリア、菌類などが活発に働けない深い不毛地質まで掘ってしまったら意味がないとのことです。つまりこれは、有効な分解サイクルを確保するための方法なのです。分解しにくい土質であったり、多人数の場合は、石灰や消毒剤も持っていくべきだとも言っています。
 私の家も、上下水道共にないところに建てたものですから、井戸水と庭に埋め込んだ浄化槽によって下水を処理しています。その仕組みを自然のフィールドでもやりましょうということです。
 過剰が問題を引きおこす点を踏まえて、何が過剰でどこまでが過剰でないのか、判断のいるところですが、その線引きをするにはやはり、自然をよく見つめて、自然の仕組みをよく勉強しておかなければいけないということでしょうか。自然フィールドには野生の動物がくらしており、彼らも排泄をしていますが、バランスを崩すものではありません。いっときに同じ場所に過剰に集まってくると、その場所に環境の負荷がかかって、保全が崩れてくるのです。北米の広大なナショナルフォレストの中で、幾人かのキャンパーが入ったところで、そうそうバランスが崩れるものとは思いませんが、自然への細心の思いやりは必要不可欠です。

 私も毎朝夕、犬の散歩で土手道や田舎のあぜ道を使わせてもらいます。最近のペットブームでワンちゃんたちもずいぶんと増えてきました。土手道の草むらで一匹がマーキングすると、次から次にくるワンちゃんも同じ場所にマーキングしていきます。さすがにそんな風になると、草といえども悲鳴をあげて枯れてくる場合があります。尿の塩分や窒素で、木や芝も枯れることがあります。
 自然のバランスは案外とナイーブなものです。ワンちゃんには申し訳ないのですが、マーキングの後には水をかけなければなりません。少し話がズレたようですが、私がよく歩いている日本のしっけた腐葉土たっぷりの山路では、それほど厳密なネコ式トイレ方はいらないでしょう。しかも、ほとんどハイカーとも出会わないような過疎のところですから、〝出たもの〟を持って帰るという信条が、なかなか実践できておりません。しかしながら、人が集中して、環境に大きな負荷がかかっている山岳・高原では〝出たものは全て持ち帰る〟ことがセオリーとなっていくようです。既にそういう方向に向かっているエリアもありましょうし、実践されている方も多くいます。今では簡便で清潔な簡易トイレもよく普及しています。生ゴミを持ち帰るようになったように〝わが便り〟を持ちかえることなども当然のマナーになるのもそう時間はかからないでしょう。

〝遊歩〟にオススメな厳選ハイキング・グッズ10選

キャンプファイヤーの灯り
キャンプファイヤーの安らぎの灯り

〈ライト編〉

 日帰りハイキングに何を持っていくのか?
 と、ググってみるとその装備品があれこれズラ〜と出てくる。ウェア、シャツ(長袖)、雨具、パンツ、防寒着.着替え、帽子、靴下、手袋、ザック、行動用具、ヘッドライト、登山シューズ、水筒、行動食、時計、地形図・資料コピー、ビニール袋、コンパス、ティッシュ、トイレットペーパー、タオル、計画書、非常用品(薬品)、スマホ・携帯、ホイッスル等など、慎重な方はまだ、あれこれと携帯品を紹介してくれます。そして、その一つ一つをとっても、機能性の違いや価格・グレードの違いなどがあり、いく先のコース状態や天候に合わせて考えだすと、これは大仕事になってきます。しかしまあ、この準備がワクワクして一番の楽しみだと言われる方も多い。確かに明日、歩いている自分を思い浮かべながら、これを着ようとか、これを持って行こうとかいう、前日の高揚感はたまらないものがあります。

 ウォーキングの大きな枠づけ(プランニング)をするために〝設計図〟と称して、コリン・フレッチャーは、バックパッキング(BP)用具(市場状況から価格まで)、その重さの目安、歩ける距離、体調管理など家を背負って〟と題して「遊歩大全」に事細かく書き記しています。たいがいは1週間にわたるロングトレイルでの装備だし、特に用具に関しては時代の違いもあって、その細かな内容をそのまま紹介したとしても、現在の日本での裏山ハイクに必要なもののヒントになるかどうかわから無い。しかし、含蓄のあるコンセプトは大いに学べるところです。機能性が究極まで追及されたモノが多様にあふれている現代においてこそ、この古典的な本から学ぶことが多くあります。
 フレッチャー自身が、〝装備をはじめ、歩き方とは、もともと主観的なものだ〟と断言しています。道具にしても自分の目で選択して、決定し、工夫したり使い込んでいくことに価値があると言っています。自分らしく歩くことを目指した人ですから、他人が作ったようなチェックノートには関心も興味もなかったようです。書き出しにはこうあります。

 日帰りのウォーキング(ワンディ・ハイク)では、装備、テクニック両面とも、それほどの難問は登場してこない。必要と思ったものは全部ポケットに詰めこめばいいのだし、腰か肩に小さなポーチをつければ、その中にいろいろ詰められるから、いっそう便利になる。必要と思いながらも残していかなければならないものが出てきても、心配はいらない。なんといっても、その日のうちに家に帰りつけられるのだから。
 ところが一晩といえども外で夜を過ごすとなると、快適に眠るためには何らかの〝家を背負って〟行かなければならなくなる

何kgを担ぐのか?

 今なら私でも(師匠のように)そうしています。散歩用の靴で、必要なものはポケットかポーチに詰め込んで、裏山をのぼることも多い。たまに夏場などにペットボトル2本で済むだろうという安易な思惑が外れ、途中で水分切れするようなミスがあるけど、たいがいはそんな感じで大きく困ることはない。しかし、歩き始めた頃は、たとえワンディ・ハイクであっても、何がどれだけ必要なのかがよく分からない。神経質になって、ガイド本を買って調べ、これもあれもと、それこそ〝家を背負う〟ような装備で日帰りハイクに出かけていた。その体験の積み重ねの中で、何が必要で、何が不必要なのかが分かってきます。
 そして、一泊・二泊の山行になってくると、不必要なものは勿論ですが、必要なものでもとことん〝重さ〟を削るようになります。とにかく背中の家を軽くてコンパクトなものにしなくては、〝歩き〟の自由度が落ちてしまうのです。フレッチャーも〝重さ〟にはずいぶんと神経質です。
 BP道具を仕入れる時に商品重量が明記されていない商品があると困るので、彼は手秤をもっていくのです。テントやシュラフなどの商品は重量表示をしているでしょうが、シャツやショーツには重さまで表示されていません。2社のショーツの重さを比べようと秤を出した時の店員のうろたえぶりも書いています。(そこまでやるのかい!)まあ、確かにg単位で削っていかないと、半kg・1kgと軽くしていけません。ついでに、フレッチャーはどれほどの重さの家を背負っていたのかといいますと、おおよそ体重の3分の1が楽しく歩ける重さの目安だといっています。グランドキャニオンなどの1週間ほどのロングトレイルで、出発時で30kg強(終盤には半分以下に減ってきます)とのこと(本人体重は88kg)。確かに食料や水分が減ってくるのをアテにして、私らも体力配分(ガマン)していましたね。それにしてもやはり出発時が最悪だとフレッチャーも嘆いています。
 「初版時の1968年に、すでにBP用具の開発は混乱と興奮の状態だった」とも書かれているように、米国ではBP用具(日本では登山用具・アウトドア道具というのでしょう)の爆発的な商品開発が始まって、次から次へと新商品が生まれておりました。それ故に、製品の良し悪しを本に書いても意味がないと当時の著者も言っていますし、現代においては尚更です。日進月歩で軽くて機能性の高いものがドンドンと生まれてきます。いちいち、こんなモノが良いですよと紹介していても、とうてい追っつくものではありません。人それぞれに合ったものを、自分の好みで選んでハイキングに持っていただく他ありません。
 と言いつつも本題です・・・。そうは言ってもこれだけは!というヤツをオススメしましょう。

ハイキング用ミニライト類
 LEDによって革命的に進化したライト系のグッズ

オススメ その1.ライト

 日帰りハイクですが、ハンドルリーのヘッドランプが機能的ですが、ペン型でもアクセサリータイプでも、ライト系は何か一つは持っていきたいです。ワンディ・ハイクでの不測の事態はいくつか想定できますが、そのうち怪我・事故はさておいて、案外と日没などのサスペンデッドな状態までイメージする人は多くありません。たいがいプラン通り歩いていけば、夕方には麓に下っているでしょう。夏場なら、それからまだ2〜3時間は明るいはずです。滅多なことで暗くなって動けなくなるということはないでしょう。
 しかし、実際のところ山中で明かりを失うということになれば、これは全く辛い状態なのです。一人きりであれば尚更、精神的にもタイトです。人は行く先が見えないことほど不安なものはありません。都会の夜道と違って山渓での夜は月が出ていないと漆黒です。(月があっても樹林の底まで届かない)日帰りハイクではそういう事態になったことはありませんが、一度、キャンプの合流に遅れ、ショートカットしようとヤブの急斜面を黄昏時に登ったことがあります。思ったほど時間が稼げず斜面の上部あたりでは、完全な闇に覆われておりました。その時、突然ヘッドランプが消えて明かりを失ったことがありました。その時は、もう泣きそうな気分になりました。すぐ脇にある崖に転落するのじゃないか、イノシシの巣に突入するのじゃないか、さすがに手探りで進むのは諦めました。予備のペン型ライトを探し出して、何とか尾根道までを辿ることができました。か細い光源でしたが何とも勇気をいただけるありがたいものでした。山中泊に慣れてくると、光源も電気系の光源が最低3つ、ロウソクのミニキャンドル、ガスのランタンとしっかり確保ができるようになりました。
 フレッチャーの頃から考えると、数多くの用具が軽量化・機能化で夢のような進化を遂げています。冬山をあまり知らない私には、極寒期のウェアやシュラフの猛烈な進化の歴史をうまく語れませんが、低山派として、ここ数十年に革命的な進化で恩恵を強く感じるモノと言えば、LEDがもたらしたライト系のグッズだと断言できます。とにかく明るく、耐久性があり、コンパクトで電池の持ちが良い。電池の数・バッテリー持続時間などに気を使うこともなくなり、ほとんど負荷のかからない装備となりました。
 ということで日帰りハイキングでも不測の暗闇に襲われることがあるかもしれせん。その時の不安を取りのぞいてくれる灯り・ライトを必携品にオススメいたします。日常生活で、もち歩いていても役に立つことが折々ありますので、その延長線上でよいと思いますので是非一つは持っておきましょう。

暗闇の山道をライトで照らす

「スマホにもライトが付いているだろう」

 (後述の)地図・ナビあたりでこのスマホの存在、圧倒的な機能性をもったグッズとしてこれは度々に登場してくるでしょう。時計や高度の計測器としても、写真やルートの記録、天候・気象情報を得るにもとても有効です。その他にも、目の前の山並みにかざすだけで、その画像に山名や標高が現れるアプリや夜には星座名も表示してくれるものもある。ヤブ蚊を撃退する周波数をだすアプリもあるし、こいつ一台でかなりのものが代用できるようです。フレッチャーは、同じ詩歌でも、家で読むのと違って、ウィルダネスの夜空の下で読むのを楽しみにしていた。そんな詩集や小説、資料本や植物・昆虫図鑑も持っていくならば、〝歩き〟の味わいももっと深めてくれる、いわゆる〝精神用品〟と彼が呼んでいたものですが、やはりその重さに挫けて多くは割愛せざるを得ません。しかし、スマホがあれば何百・何千冊分の情報を詰め込んで持っていくことも苦もなく可能です。重量に換算すれは一体何kg、何十kgを代替してくれるのでしょう。当時ではまったく夢のような話なのです。
 現代であればコリン・フレッチャーは、この千人力の小さな機器をどういう風に見て、どう扱うのでしょうか?気になるところです。便利すぎるスマホ(文明)は家に置いていくと言っていたかもしれません。が、おそらく彼のことです、バリバリと使い倒して、わがモノとしていたことは間違いないでしょう。が、「もし君にそんな体力があるなら・・・」「もし君に地形を読む想像力があるなら・・・」「君にそんな感性があるなば・・・」などと、必ずダメ出し条件を加えながら、その使い方を懇切に説明してくれるのでしょう。
 ウィルダネスでは、まず野生の力が試されます。自分の体力を推し量る、地形を読む、天候を読むなどなど、生き物がもつ本来の力と経験を土台にして、行動が決まっていきます。そういった基礎的な積み重ねがないまま、デバイスの機能性を頼りに、自然のフィールドに立ち入ることは、逆にそれに振り回される危険性もあるでしょう。フレッチャーも最後に「もし、これがバッテリー切れになったり、紛失・壊れた時のことを想像しなさい」と言って、無条件にはオススメはしてくれないでしょう。あくまで二次的な必携品・予備グッズとして考えたいものです。
 スマホがあれば歩けるが、なければ歩けない。そんな人に「遊歩のススメ」を読んでほしいと願っています。

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・歴史ロマン漂う観音岳(周南市湯野)

湯野・観音岳山頂から望む湯野温泉郷
湯野・観音岳山頂(408m)から望む湯野温泉郷

惹き寄せられた不思議なえにし

 幾度か初日の出を拝みにいっている自宅近くの観音岳との出会いのえにしを・・・。
 2002年いよいよ神戸から移住することが決まって、仕事や住居を探す段になって、周南市(当時は新南陽市)を訪れた。その時に、ついでとばかりに登った山がこの山だった。周南市は、南に港湾や工業施設、北には東西に連なる山々に挟まれた東西に伸びた町です。地形的にも雰囲気的にも神戸によく似た町でした。市街地から背山を見わたすと、気をそそられるピークがいくつも望めます。山口県の山を50座ほど紹介しているガイドブックからまず最初に一つ選んだのが、この観音岳でした。
 市の西端に夜市川の流れがあって、その谷筋をぐるっと北へ回り込んだ所に里山風情にかこまれた湯野温泉郷があります。その北側にかまえているのが観音岳でした。ここに登れば温泉郷が一望でき、周囲の山並みの眺めも素晴らしいものです。山口県百名山・標高408m、低い山にしてはいささか大仰な〝観音〟という名ですが、ガイド本にもある謂れのとおり観音様を外しては語れない山のようでした。その時は、とくに名前に惹かれた訳でもなかったのだけれど、これからお世話になる移住地に於いて、まずは、この山から登ってみたいと思ったのは何かしら縁があったとしか言えません。
 考えれば、神戸でも市の西側から六甲山系を北側へ回り込んでいく神戸電鉄の先は有馬温泉があって、いくつもの登山ルートの起点となっています。ちょうど地形的にも似ているのも関心が向いた理由かもしれない。ひと登りした後の温泉は、醍醐味以外の何ものでもない。移住後しばらくしてこの湯野温泉の近くへ再転居したこともあって、この山へはよく登ることになって、温泉にもよくお世話になった。その内に〝湯野観音岳ハイキングコース協賛会〟の仲間にも混じって、年に数回の清掃登山にも参加させてもらうことにもなっていた。はじめて参加した折は、草木の繁茂が忙しい夏場であったこともあり、クリーンハイキング気分も吹っ飛ぶ大変なものだった。草刈機、チェーンソーを動員して、草刈り、枝払い、丸太の階段補修、雨水による浸食を防ぐための排水溝掘り、工兵隊の汗だくの山中進軍のようでした。

左:山頂 右:清掃・保全作業ハイク
左:秋の歩け歩け大会時の山頂風景   右:清掃・保全作業ハイク

 神戸の六甲山での山歩きは、ゴミの持ち帰りは原則。ゴミがあれば拾っておく、その程度はやっていたが、それ自体を目的したクリーンハイキングには参加したことはなかった。歩きの方ばかりにとらわれてハイキングコース自体の保全や清掃に対しての意識が希薄だったのでしょう。今更ながらに反省するところです。六甲山系の多くは、瀬戸内海国立公園のエリアに含まれており、山歩きのコースそのものが地域資源となっており、国・県・市など行政の手でほぼ管理されていることもあって、一般ハイカーによる保全活動がそれほど目につかなかったのでしょう。
 しかし、地方の平凡な低山では、行政の手がなかなかに届きません。オラが裏山という地元地域の方々の普段からのお世話が頼りです。それがなければ、とうてい山道は保全されることはなく、あっという間に雑草・雑木の中に消えてしまいます。移住後の山歩きでは、いつもそんな地域の活動を意識しつつ、感謝の念をもってお山を歩かせていただいています。まあ、高い山であれ低い山であれ、どこの山を歩こうと感謝は本来のあるべき姿なのですが・・・感謝のついでと言ってはなんですが、今回は、この山にまつわる黄金仏の歴史ロマンを紹介したいと思います。

金造菩薩形坐像(楞厳寺(りょうごんじ)所蔵)
 金造菩薩形坐像 楞厳寺(りょうごんじ)所蔵

観音様は一体どこから来たのだろう?

 その前に、大峯山系の山上ヶ岳(1719.2m)の山頂近くに本堂がある大峯山寺での出来事を、そこから話はつながっています。昭和59年、解体修理工事に伴う周辺発掘調査で出土した遺物の中に、鍍金ではなく高純金製の金で作られた平安期の仏像2体が発見されました。一体は「金造阿弥陀如来座像」もう一体は阿弥陀如来の脇侍である「勢至菩薩座像」でした。当時、この稀有ともいえる黄金仏の出土は「山岳宗教史上最大の発見」と社会ニュースにも取り上げられ話題になりました。
 仏像安置形式では、阿弥陀如来を中尊とする場合は、中尊寺や三千院の阿弥陀三尊像のように、その左右に「勢至菩薩」と「観音菩薩」を配置してワンセットとする。ここで、もう一体の脇侍「観音菩薩坐像」はどこにあるのか? というところに衆目が集まったのでしたが、ナント!それが、奈良県・大峰山から何百キロもかけ離れた山口県は周南市、この温泉郷・湯野にある禅寺「楞厳寺」に安置されている黄金仏がこの観音様だろうということになって大騒ぎとなりました。(異説もある)
 ペリー来航の翌年(嘉永7年)好松という村の若者がウサギ狩りに登った裏山(当時、日尾山のちに観音岳と改称)の山頂近くの土中で、キラリと光る(実際光ったかどうかわからないが)小さな仏像らしきものを発見しました。麓の楞厳寺の和尚に預けて寺に安置していたものです。高さ4cm強、重さ35g、平安中期〜後期の高純度金製の金造菩薩坐像ということが判って、これで、日本に3体しかない黄金仏が「阿弥陀三尊」という形で勢揃いしたことになりましたが、何故、大峰山にあってしかるべき黄金仏が、畿内から遠く離れた片田舎の裏山「観音岳」の山頂に埋もれていたのだろうか? という新たなる謎が立ちおこり、こころ躍るような歴史ミステリーに関心が集り、諸説をにぎわすこととなりました。

左:楞厳寺本堂 右:五合目あたりの延命水
左:楞厳寺本堂  右:五合目あたりの延命水

 かつて神戸の六甲山で、役小角や空海の足跡を追って、古跡や山岳修行者の修験道ルートを探し歩きまわっていた事がありますが、この湯野温泉の近隣にも山岳宗教・密教的風景の匂いがプンプンとしている山々が数多くあります。防府の右田ケ岳の岩峰や徳地の白石山など、山岳修行のメッカであったことを思わせる奇岩・巨岩が点在しており、白石観音も祀られている。畿内の山岳地帯にも劣らないの密教的な風景が実はこの地域にも多くあったと思われます。そんな峰々を天狗もどきの修験者が飛び回っていたとしても不思議はありません。黄金仏が山岳修行者の斗そう行に携帯されるものならば(大きさから考えてそうだろう)、奈良の大峰山とこの周南の観音岳が結びついて何ら不思議な事ではありません。
 一説には「重源上人」との関係を上げられていますが、この話しも大変興味深いものです。源平の戦いで焼失した東大寺の再建という難事業を託された重源上人は、自ら巨木を求めて周防国の杣に入り、佐波川上流の山奥から道を切開き、川に堰を設けるなどして巨木の多くを奈良まで運び出したといいます。(その難事業を偲ぶことのできる施設・重源の里が平成10年にオープンしています)この国家プロジェクトといえる大事業を行う上で、上人はじめ、多くの仏教関係者が、探査・ロケハンをかねて周防国の山々を訪ね歩いていたことは、想像に難くないことです。
 観音岳の頂きからは、九州方面も望め、頂上付近には磐座の多く、平安期には修験道の舞台であったことをうかがわせます。この山に登ったとしても、何ら不思議はありません。一千年も前、ここを訪れた人物、それも黄金仏を携行する程ですから、名のある僧か修験者なのでしょう。その者が何を目的に観音岳に登り、何故に黄金仏の一体を山頂に残していったのでしょう? 彼の人の身に何かが起こったのでしょうか。事故なのか、事件なのか? ああ、これ以上はタイムマシンがないと・・・。真実は、この小さな観音様のみぞ知る、という事でお許しを。

四国88ケ所分霊場めぐり
       四国88ケ所分霊場めぐり

・デジャヴの遊歩・かさなる私(布引の滝〜市ケ原)

布引渓谷からツエンティクロス
布引渓谷からツエンティクロス

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 久しぶりに六甲山を歩きました。
 六甲山系には、北側には神戸電鉄が、南麓に近いところには阪急電車、山陽電車などが通じていますが、その駅のほとんどに背山への登山口が通じています。芦屋川駅からは、表銀座コースといわれるロックガーデンや魚屋道(ととやみち)を辿って最高峰から有馬という人気コースが有名。六甲駅駅からは摩耶山周辺の尾根道や谷道へと足をのばすことができます。長田や須磨の方からの登り口も、それこそ山の数に合わせたほどあるでしょう。もう一つ人気ルートを束ねる登山口が、新幹線・新神戸駅の直下にあります。ホームを降りてコンコースを出るとすぐに、布引の滝で有名な渓谷の入口があって、ここからいきなり沢歩きや尾根歩きコースが楽しめます。
 那智の滝、華厳の滝と比べると少し知名度が低いですが、布引の滝は〝三大神滝〟の一つに選ばれています。この滝に打たれ、六甲の峰々を斗藪(修行)の舞台とした修験者・役小角(えんのおづね)が開いという滝勝寺(現・徳光院)が滝のすぐ東にあります。
 この滝を左に見ながら、渓谷を詰めてくと、谷が少し開けて中世のヨーロッパ風の要塞を思わすような石積みのダムが目の前に現れます。日本最古の大型コンクリートダムで、明治から大正期には、世界中の船乗りたちが垂涎したというKOBEウォーターを湛えています。さらにダムを登ってダム湖のふちを辿っていくと、市ケ原に到着します。ここには朝から早朝登山の愛好家が集ういくつかの茶店があって、朝食をとったり輪投げに興じたりしています。再度山からの沢も合流しており河原も広がり、シーズンは飯盒炊さんやキャンプで賑わいます。この辺りまで滝から1時間足らず数キロの山径は、子供の頃から親しんだなじみの深い沢道です。
 六甲遊歩会で遊歩を始めてからも、このルートを起点に摩耶山や再度山、森林植物園へとよく足を伸ばしました。そのルートを辿っていく時に、たびたび不思議な既視感に見舞われることが多々ありました。デジャブっていうやつでしょうか。今までの遊歩体験の中にも節目節目・折々に現れてくる現象です。現象としては、まま日常的にも良くあるような軽い錯覚のようなものなのですが、六甲遊歩においては重要なキーワードとなる現象です。大仰な言い方をすれば、この既視感に私の六甲遊歩の原点のひとつがあるといって過言ではありません。

かつての私と これからの私

 子供の頃から歩き続けきたルートといっても、夏休みや春休みに近所の遊び友達や家族と今でいうデイキャンプを楽しんだ程度で、早朝登山のように毎日のように歩いていたという訳ではないのですが、この布引道は目をつぶっていても歩けるような感覚があります。自分の身体のリズムや感覚と周囲の情景が、何の違和感もなく一体化したお気に入りのルートなのです。
段差にある岩や河原の飛び石の、その形や表情もひとつひとつを記憶しているような感覚があります。ぐっと次の一歩を出してその足が着く直前に、そいつの表情をもう見知っていて「おおっ、お前か」ってな感じで、その岩を踏みしめるのです。枝を払ってカーブを切るときも、曲がった先の目に入ってくる風景は、予想通りの見知った景色で、今まで見ていたような感覚がダブります。汗をぬぐおうと頭を上げた時に目に入ってくる稜線や、ドーンと立ち構えている堰堤も、何度も繰り返すフォトフレームの画像のように自分が写した映像のように目の前に現れてきます。
 これはまるで、私が歩いているドキュメント映画を、自分で見ながら歩いているようで、何とも言えない臨場感で不思議な感覚に包まれます。それはデジャブというより、過去に刷り込まれた体験がフラッシュバックしているに過ぎないのだろうと思われるかも知れません。いや、そう考えるのが自然なのでしょうが、やはり、この既視感は過去の体験から来るモノだけではないのです。どうしても未来の自分を、自らの歩きを見ているようなトリッピーな感覚がつきまとわっているのです。
オカルトっぽい現象ではありませんが、そういう世界に私を誘い込んでくれる何か、時の流れという波紋を、ざわめかす何モノかがどこかに居るような気がします。「こいつは一体何者なのか?」その正体を求めて六甲中をさまようように歩き探し始めたのが、六甲遊歩・自分探しの旅そのものだったのです。今の自分というものが、それだけで在るではなく、かつての私と、これからの私が微妙に重なり合って〝命風〟をはらませながら歩みを進めているのではないでしょうか。そんな私の遊歩の出発点に導いてくれたこの布引道は、数ある多くの山野ルートの中でもなかなか巡り会えない不思議な縁のある小径だったです。
 私に限らず、誰もが必ずやこのような経験が何処かにあるのではないでしょうか。それは慌ただしい日常についつい埋没しがちですが・・・。もしそんなデジャヴな感覚におそわれた時には、ふーと一息ついて、過去から眺めている自分、遠い未来から振り返っている私とで、静かに語らうのも良いでしょうね。

市ケ原からツエンティクロスの河原

この連休、古い山仲間3人と久しぶりにテントなどを詰めたリュックを担いで、市が原まで歩きました。例のごとくデジャブ感覚も体験しました。これから先も重い荷物を背負って生きていく未来の自分の姿を垣間見た訳です。まだまだ捨てたものではありません。アゴを出しつつも、生きる力をたっぷりと彼らから注入してもらいました。
 夕闇が訪れる頃に、もう一人の後輩も遅れて到着。この面子でのキャンプは十数年ぶりになるのでしょうか?遊歩会の創立時には、大学生や、就職直後の五月病気味の彼らでしたが、今ではもうすっかり社会の中堅オジさんに・・・。こんなオジさんばかりの違和感ただようキャンプの酒盛りが始まりました。
 娯楽も少なく、レジャーといえば、海水浴か山登りの子供時代、この河原には、テントが立ちならび、子供づれのファミリーや学生、カップルの歓声で賑わっていた。そんな輝くような情景が半世紀ほど経って、今では見る影も無くすっかり寂れて、ただの山草がおおい繁る河原となっていました。でも、大都市のすぐ裏に、古い仲間と旧交をあたためることのできるこんな場があるのは感謝です。これこそ六甲山の慈愛でなくしてなんでしょうか。疲れのせいか、歳のせいかほとんど話しの内容は覚えておりませんが、気持ちよく心の洗濯が出来たことは間違いありません。お家族と大阪で合流のため未明、後輩たちを残して早立ちしました。

千の手をもつ菩薩

 翌日は一転して京都。
 幕末の志士がゴロゴロしていたような安宿にお世話になって、学生下宿時代以来の清水寺などの寺巡り。三十三間堂にも寄ってみましたが、心底から驚嘆いたしました。初めて訪れた三十三間堂でしたがいくどもいくどもデジャヴ感におそわれました。千体もの千手観音を目にして、これほどの慈悲・慈愛を形におきとどめさせようとした人々の願いも、いっそ現世では叶わないものかと・・・。この度の震災の情景が強烈によぎりました・・・

★この記事は2011年05月の投稿に追記、再編集したものです。

かつての眠っている六甲遊歩の記録ならびに資料類を、これを機にこのブログへ引っ越しさせております。資料的には古くて価値も消耗しているものと思いますが、関心のある方は、カテゴリー「資料:遊歩アーカイブの方も訪れて下さい。
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・崩落の山岳(伯耆大山〜足立美術館)

 上:北からの大山連峰、右下:西から眺めた大山(弥山 1.729m)

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 恒例・春の連休遊歩、三瓶山〜出雲大社(h29年)、宇佐神宮〜湯布岳(h30年)と続き、令和元年は伯耆大山〜大神山神社(プラス足立美術館)と相成りました。麓にある「森の国」にて単身キャンプ(カーサイドテントで、平日とあって小生一人っきり)早朝、登山口にてY夫妻と合流。
 ヘッド右中の写真※1が西の米子方面から眺めた大山(これが私のイメージでもありました)別名・伯耆富士と呼ばれているのもうなずける端正な姿ですが、ちょっと北側に回り込んで元谷の方から見上げたのがメイン写真。ナイヤガラの瀑布を連想するような幾重もの砂走り(石走り?)が荒々しい風景です。これを早朝、スキー場のリフト越しに見上げた時には、「ええ?嘘、こんな山だったの?」美形の仮面の裏はこんなものかと新たにテンションをリセットし直しました。

伯耆大山

 昔は事細かに地形やルートを調べてから、山に取り付くようにしていましたが、近年は大雑把にルートを確認するか、登り口の案内看板の地図を見る程度で登ってしまうことが多い。一人の時は特にそうだ。映画を見るときに絶対レビューや評論を見ないのと同じで、余計な予備知識で心ゆさぶる眺望との出会いのインパクトや新鮮さが薄れるのが嫌なので、なるべく白紙で入り込むようにしている。逆にこういう情報を知っていたのなら、それをもっと意識しながら歩いた方が良かったのかな?というマイナス面もあるものの、まずは行き当たりばったりにいろんなものと遭遇しながら歩くというのがスタイルになりつつある。(面倒くさいこともあるけれど)
 今回は、久しぶりに同道者がいて現地集合ということもあって、登山口までのドライブルートはG地図のストリートビューで幾度もPCでトレースした。最近は、山道までグーグルのカメラが入っていて、たいがいの山ならバーチャルで登山道を辿れるようになっている。富士山頂のお鉢巡りなども360度のフルビューで楽々と絶景を味わえるが、調査ならいら知らず、そんなものを見てからリアルで後追いしても新鮮な喜びや楽しみが半減するだけでつまらない。
 ということで「大山(伯耆富士)」という山も一般的な印象と知識だけで挑むことにした。まあ〝標高1700mで、最高峰への縦走路は危険で事故も多い。冬季も雪が厳しい。崩落が進んでいるので登山者は石を運び上げる〟この程度が事前の予備知識だった。それと、一昨年に歩いた石見と出雲の国境にある「男三瓶山」で知った神話・国引き神話。八束水臣津野命が島根半島を海の彼方より大きな綱で引き寄せ三瓶山を西の杭として、東の杭を大山(大神山)として結びつけたというお話。そんな事などを下敷きに謎多き神々の出雲国の眺めを頂上から俯瞰できればという趣向の大山詣であった。

山上の木道、大山(弥山)山頂 1709m
山上の木道、大山(弥山)山頂 1709m

 西側の夏山コースは、ほとんどピーク(現在は弥山1709mが頂上)に向けての直登ルート、3km少しの行程で1000mほどの標高を稼がなくてはいけない。3m歩いて1m登るので斜度はきつい。登り口から崩落を少しでも防ぐために丸太の階段が敷設されている。一般的な山では斜度が緩んでいるあたりで自然のままの山道になるところが何箇所かあるのだが、ここでは結局、8合目あたりまでこの丸太階段が続いた。6合目の避難小屋あたりからは、植生も低木となり日陰がなくなった。夏場は辛いだろう。(この日も5月と思えない気温だったが)
 8合目からは、丸太階段が延々と山頂へ続く木道に変わった。木立の上を空中回廊のように地面を踏みしめることなく、浮き上がったように歩く、この足元のおぼつかない遊歩感覚は初めての体験だ。考えれば、登り始めから山頂まで、幅員2mほどのルートには、沢へ下るような脇道やお花を摘みに行くようなめぼしい踏み跡もなかった。その2mからはみ出すことが許されない不自由きわまりない山道だったと気づく。弥山の山頂碑から剣ガ峰(本来のピーク)への縦走路の稜線も立入禁止(2014年より)になっている。裏山や六甲山では、自由気ままにいろんな踏み跡を追ったり、ショートカットしたりすることもよくある。山歩きとは目的のルートを追っかけることと、そんな恣意的な判断でルートを選んでいく絡みが醍醐味なのだが、ここでは丸太階段と木道以外を歩くことは許されない。決められたルートを強いられる。だからと言ってこの山の魅力が減じるものではないが、この山体の地肌を直接に踏みしめられないのは寂しい。
 地殻の隆起や噴火で生まれた高い山が、風化によって崩落していくのは自然の摂理なのだが、山上の緑化をめざした「一木一石運動」が始まった昭和60年以前の山頂の写真をググってみると出てきた。これを見て納得、大勢の登山客に踏み荒らされたまったくの禿山状態で驚いた。現在の緑あふれる風景とは雲泥の差だ。これは自然の摂理というより人災に近い。
 裸地化して風化が激しい山頂環境をどう保全するのか、入山規制や入山禁止が手っ取り早いが、この山では崩れた石を登る者がまた持ち上げ、木を植えていくというシンプルで原理的な方法をとった訳です。時間と根気のいる活動です。お陰で山上一帯にキャラボクの群生する現在があるので「山体を直接に踏みしめられないのは寂しい」というのは的外れな所感で、ここではその活動に感謝すべきことです。
 それでも崩落は進行していて、山頂碑が東斜面へ崩れるものと予想され、現在、碑の移転も計画されて、縦走路以外にも立入禁止区域が広がっていくことも考えられます。

麓の大神山神社奥宮
大神山神社奥宮

大神山神社奥宮

大神山と大神山神社奥宮

 元谷を下ってすぐに下山路が開け、突然のように大神山神社奥宮が現れた。
 権現造りで日本最大級とも言われる社殿は、想像外の立派さで圧倒された。まあ、これほどの迫力がないと、背景の御神体である大山(大神山)と釣り合わないのだろう。しかしながら、出雲大社ばかりに気に取られて、この宮を見過ごしていたのは不覚だった。やはり事前にもっとリサーチしておくべきだったか。
 大国主大神が押し込められた出雲神社も仏教の大黒天と習合し、広く出雲信仰として民間に浸透していきましたが、ここ大己貴神を御神体とした大山でも、修験道や仏教の影響を受けて権現さんや地蔵菩薩に変容していき、大山おかげ参りとして民間の習俗となっています。もひとり神事は山頂近くの池より採られた神水で五穀豊穣を祈るものです。
 山に暮らす古代人にとって、生きていくために不可欠な水、火をおこす木、そして生命をつなぐ食べ物としての木の実、果樹や山菜、獲物などこういった自然の恵みを生み出す「山」は生命の源泉そのものなのでしょう。国造りに邁進した大己貴神(大国主大神)はその象徴として崇められました。「山」とは日本人にとって、切っても切れないものです。国土の殆どを占める山岳風土、山々こそ古くから日本人の生活を支え、私たちの精神を培ってきたと言えます。稲作が伝来したのちは、平地を求めて山を下り、里の水田で稲を作るようになったものの、山への畏敬と崇拝は衰えるどころか、山そのものを神と崇め、自らの根源を投影してきたのでしょう。まあ、そういう理屈以前に、現代人の私たちであってもこの雄大で荘厳な山容を前にしたら、はやり神々しさを感じざるを得ません。
 大山寺〜白鳳の里・ゆめの湯で露天風呂をいただいた後、米子駅へ同道者を見送ってから単身ひたすら9号線を山口へ(帰宅まで7時間半かかった)。

足立美術館

 登山の前日「庭は一幅の絵画」昨今、人気急上昇の足立美術館を訪れた。ここは、とりわけ外国人からの注視度が高いとのこと。
 一般客の入れない日の出から開館までの時間は、庭師たちのみが目撃できる息を飲むほどの幻の瞬間があるとのこと。それを記録したNHKドキュメンタリーが来館の動機。遥か彼方の山なみの自然をキープするために、ここから見える山々すべて買い取ったという壮大な日本庭園、一日ではなかなか味わいきれない。紅葉期と積雪時に再訪してみたい。日本画(大観)と陶器(魯山人)の作品も多くて、館内巡りも大変だった。ここでも決められた順路があったが、大山登山と違って、時折スルーしたり、ショートカットしながら好みのものを中心に鑑賞した。

安来市・足立美術館
安来市・足立美術館

※1-冠雪した伯耆大山の写真は「ブログ・山猿の思うこと」より拝借しました。

※この記事は2019年06月01日に投稿したものを再収録しました。