●読本12:アルチュール・ランボオ 謎めいた砂漠の〝大遊歩〟とは

■イラストは、ヴェルレーヌが描く、若き日のランボー。左下はシャルルヴィルにあるランボオの墓、右上のシャルルヴィルの本屋のポスターと共に、旅ブログより(出典は最下段に)

中也とランボオ、そしてランボオとランボー

 あちこち各地を巡ったことで幕府の隠密じゃないかという説のある松尾芭蕉も〝歩き〟の点では気になる先人の一人です。山頭火も奥州・平泉まで足を延ばして〝奥の細道〟を後追い(トレース)しています。芭蕉は「月日は百代の過客にして」という書き出しで有名な奥の細道の序文のその後に「そヾろ神の物につきて心をくるはせ」という文言を残しています。〝そぞろ〟という言葉には〝遊〟の香りが匂ってきます。やはり、芭蕉を〝先人に見る遊歩〟の一番手に取り扱うのが順当なのか、それから放浪の俳人・種田山頭火、そして同郷つながりで〝散歩〟好きの中原中也、さらに、この中也に多大な影響を与えた詩人アルチュール・ランボオの〝大歩行〟をつなげれば、特に際立つ系譜や体系があるわけでは有りませんが、このそれぞれの〝歩き〟の違った切り口を通して、私たちにとっての〝遊歩〟を考えていく上でも大きな手掛かりとなるような気がします。(芭蕉が未稿の訳は次回に)

 中原中也は「ランボオ詩集」を翻訳したこともありますが、天才的な早熟であったこと、そして若くして病気で逝ってしまった(中也30歳、ランボオ37歳)そんなこととか、純真・繊細だが共に激情・粗暴であったとか、中也が恋人を友人の小林秀雄に奪われた奇妙な三角関係、ランボオは同性愛相手の詩人・ヴェルレーヌと喧嘩のあげく銃撃されるなというような痴話にも二人のシュールな生き様が重なったりします。
 特にランボオにおいては、詩人を放棄、後世に宝石のように輝くような作品を焼き捨て、貿易商〜探検家〜武器商人などへ転身して姿を消してしまう生き様は、どうも凡人には理解しがたいものがあります。門外漢の私には詩のことはよく分かりませんが、その人生を彩ったスケールのある歩行ぶりには、大いなる関心をいだきます。何とかこの天才詩人の〝遊歩〟がどんなものであったか、ぜひとも探ってみたいと思うところであります。
 ランボオといえば、詩人のそれよりスタローン主演の映画のジョン・ランボーを想起される人が多いかもしれません。ランボオとランボー、何か関係があるのでしょうか。詳しくは分かりませんが、原作者のマレルが主人公となる一人のベトナム帰還兵の名前を考えていた時に、たまたま奥さんがランボー・アップルを持ってきたから、というようなエピソードを語っているのですが、もしかしたら作者自体にもランボオへの思い入れがあったかもしれません。特に、未来に通じるはずの戦いで傷つき、失望した青年の姿が、パリコミューンという革命への熱狂と挫折という若き頃のランボオと少しは折りかさなったかも知れません。

■左:「太陽と月に背いて」でランボオを演じた美少年のレオナルド・ディカプリオ(1995年)、右:映画「ランボー」で孤独な帰還兵を熱演したシルヴェスター・スタローン(1982年)

 その映画ランボーも80年代前半のことです。若い人にはもう通じないかもしれません。映画のすぐ後に放映された1983年のサントリーローヤルのランボオ編というCMが、茶の間にもよく流れました。これにも〝ランボオ〟という名の印象に残っている方が案外多いのではないでしょうか。この電通が作成したぶっ飛んだCMはけっこう衝撃的でした。エキセントリックなビジュアル(砂漠・ピエロ・火吹き・魔術師・イグアナ)から、音楽、ナレーションなど斬新なコマーシャルとして記憶に焼き付いている方は多いと思います。子供の頃にこのCMを見て、なぜか「怖かった」と思い起こす人もいるようです。それ程に、異界の雰囲気がムンムンだったのでしょう。ランボウの詩の世界と通じるものがあるのかも、と今でも評価の高いCMです。YouTubeにも上がっていますので今一度思い出して拝見してください。リンクが外れていれば検索してください。そのCMのナレーションが次です。

 その男は 1人で立っていた
 10代で天才詩人
 10代であふれる才能を放棄
 20代は放浪
 そして砂漠の商人
 永遠の詩人 ランボオ
 あんな男 ちょっといない
 サントリーローヤル

 このバーションのナレーション、7行でズバリ、ランボオの足跡を言い表しています。次のバーションには・・・

 その詩人は 底知れぬ渇きを抱えて放浪をくり返した
 限りない無邪気さから生まれた詩(うた)
 世界中の詩人たちが青ざめたその頃
 彼は 砂漠の商人
 詩よりは美味い酒を などとおっしゃる
 永遠の詩人 ランボオ
 あんな男 ちょっといない
 サントリーローヤル

1983年のサントリーローヤルのCM・ランボオ編

なぜ? 何処に向かって、こんなにも歩いたのか?

 彼は、詩作を始めた15歳の頃から、20歳頃まで、家出をきっかけにパリ、ベルギー、英国、北欧と詩を作りながら放浪します。そして、詩と決別した20歳過ぎからは、ヨーロッパを捨てて、放浪の先をあたたかい南の方へと羅針盤を向けます。徒歩でアルプス山脈を越えイタリア、トルコそして、東南アジやアフリカ、アラビアと方々を動き回ります。移動手段には船や馬車、ラクダなども使ったでしょうが、時代的にも基本は〝歩行〟だったと考えていいでしょう。その膨大な移動距離は何だったのか? 何のために? どこへ向かおうとしていたのか? その〝歩き〟を紐解きたいと思うのですが、にわか勉強ではよく分からないが正直なところです。
 西行の足跡を追い、風雅を求めて辺境の地へ旅立った芭蕉の旅や、〝解くすべもない惑ひ〟を背負った山頭火の放浪、歩行のリズムに合わせて移ろう風景と我が感性を摺り合わすように徘徊した中也の散歩などは、それぞれに首肯できる〝歩き〟が見えて、私自身の〝遊歩〟にも通じるところを感じるのですが、ランボオという人物の生き方もそうですが、〝歩き〟そのものが一体何だったかがよく見えてきません。10代の後半、文学的資質を磨きながら詩を書き溜めながらの放浪には、詩人としての足跡がよくうかがえますが、その詩の殆どを焼き捨てて、突然に姿を消すように南の地へ旅立ったその後の生活者としての放浪の歩きには、〝底知れぬ渇き〟というような言葉だけでは、なかなか納得のいく足跡が見えて来ないのです。

 例えば野球で言うと50〜60本のホームランを中学卒ですぐガンガン打って、いや、フランス文学、世界の文学に衝撃的に影響を与えたという位ですから、70本以上かもしれません。そんな王・長嶋をこえるようなヒーローが20歳を過ぎて、たった4年間の現役生活を閉じて引退、パタッとどっかに消えてしまう。音楽界で例えればビートルズの最盛期、そのサウンドが旧来の音楽を揺さぶり、世界中の若者から熱狂的に迎えられていた時に、当の本人たちはバンドを解散して、中東あたりで武器商社を結成して一攫千金を狙っていた。という感じですか。まあ、なんとも不可解なことです。
 しかし、龍馬のような例もあります。新たな日本の進むべき道が見えて、新政府の中枢に誘われた坂本龍馬が、それをすっぱり断って「わしは海の向こうで商いじゃき」と世界に目を向けた貿易商へ転身する夢を語っています。暗殺事変がなかったならランボオのように世界中を動き回っていたかもしれません。もっと身近なものにでは、輝かしい実績を残したサッカーの中田英寿も引退後、直接的にはサッカーの現場に戻ってはいません。それを質した問いに「今、やりたいことが偶々サッカーではないから」と答えて、事業家としての充実感を語っています。次々と未来を見通すことができるランボオにおいても、詩の次に見えたのは〝商い〟だったのでしょう。ありとあらゆるものを荷馬車に積んだ隊商を引き連れ、砂漠を黙々と歩き続ける貿易商人としての姿、自ら詩の中で描いた砂漠のキャラバンを現実でも追っかけたのかもしれません。

 学生時代、私自身は残念ながら彼の詩に触れることがありませんでした。しかし、私の周囲には、この若々しい躍動する感性をそのまま自由奔放にぶち撒いた叛逆詩人に、ずぶりとハマっていた崇拝者が幾人か居ました。まあ、文学青年にとってはこのランボオ熱は、一種の麻疹のようなものだったのでしょうか。その内の一人の友人が、熱が高じて彼の足跡を追うべしと、フランスに渡り、シャルルヴィルから終焉の地となったマルセイユ、そして、イタリア、キプロス、さらに探検家・貿易商人として渡り歩いたアフリカのアレクサンドリア、カイロ、ハラール、アラビアのアデンなど、彼の踏みしめた地を後追いする旅に出ました。(その全部を走破できたのか記憶は定かじゃありませんが)その時、私は日本でサポート隊のお手伝いをしていたものの、何故そんなに必死になってランボオの足跡を追うのか、はっきりと共感することができていませんでした。
 今なら、後追いした友人も〝底知れぬ渇き〟を抱えていたんだろう思い計ることはできます。それがランボオの詩を通じて、ランボウの足跡そのものをトレースすることで〝渇き〟の正体を確かめようとしたのでしょう。私の場合は、それから遅れて10数年後に加藤文太郎のにおける〝山における渇望〟というような〝歩き〟に出会って、六甲山中でかの人の足跡を追うことになるのですが・・・

ボヘミアンたるランボオは自らの足で詩を描こうとしていたのか?

 しかしながら、この〝底知れぬ渇き〟を抱えた放浪の〝歩き〟お正体はまだまだ不鮮明で納得できるものではありません。「彼は根っからのボヘミアンだ!」という人もいますが、定住地をもたないジプシー(ロマ)とも少し違う放浪者です。厳格なキリスト教の母や牧場での農作業を忌避していたのは確かのようですが、何かの問題の折々には故郷へ立ち戻ります。(フーテンの寅のように)
 ランボオには、家族や商いの取引先、現地の行政官などに送った膨大な書簡が残されています。アフリカ書簡と呼ばれるものです。死の彷徨ともいえる末期には、妹であるイザベルが記録を残しており、これらから彼の後半生を解き明かそうという研究があります。その第一に挙げられるのが、鈴村和成氏による「ランボー、砂漠を行くーアフリカ書簡の謎ー」という評論があります。この本の書評に、フランス文学と詩の世界を紹介している壺齋散人氏の一文を発見しました。この感想がとても分かりやすいのでまず紹介させていただきます。

詩人としてのランボーは、この世の中と折り合いをつけることができず、世の中から遁走しようとする意思を絶えず抱いていたが、詩を放棄した後も、ついに世の中と折り合いをつけることができなかった。彼の一生はだから、この世の中から己の身を遠ざけるかの如くに、たえず歩き回っていた生涯だった。そして歩くのにくたびれ果ててついに足を失った。足を失って歩くことができなくなったランボーは、この世の中から去るしか道はなかった。この書物はどうも、そんなことをいいたいようなのだ。」(壺齋散人)
 
 この感想では〝世の中から遁走するための歩き〟という分かりやすい様相が浮かび上がってきます。さらに、前述の評論をはじめ、数多の資料を駆使してランボオの〝歩き〟を徹底的に追いかけた「ランボーの右足」なる秀逸なサイト(管理人:紅玉)を見つけました。ここでは、ランボオの詩を詩ではなくパンクロックとして読み取りながらの、放浪の核心に迫り彼の〝歩き〟を解き明かすことを試みています。いくつか引用させてもらいます。少し長くなりますが、我慢して目を通してください。(本体を直接に読まれるのがベストです)
 この評論では、ランボオの辺境における〝歩き〟とは、彼が詩の世界で語ったもの、語ろうとしたものを、現実の貿易商人の足取りとして(再生するように)一歩一歩踏みしめて歩きだしたところから始まります。

●よく人生は道のりや歩みに喩えられるけれども、彼の生はまさに〝歩行〟にあった。そして、あまりにもよく歩きすぎたことで、人より速く人生を踏破してしまうことになる。現実の手応えは重く、心身ともにきわだって鋭敏だった彼は、〝世界と通じ合うための一歩一歩〟から、あまりにも多くの知を受け取りすぎたのだ。(ランボーの右足3より抜粋)
●今の彼はハラルの貿易商人で、個人としてのランボーは、いつもなにがしか自身が向かうところ、目的へと向かってゆく〝歩行そのものの不思議な奴隷〟だった。わがままだからではなく、飽きっぽいからでもなく、ただ「そうしなければならない」と決めてしまったことを、実行せずにいられなかったのだ。だから、文学を棄てたのも、そうしなければならなかったからだろう。(ランボーの右足4より抜粋)
●ランボーの基本的な行動志向をあらわす「ここ」と「あちら」の関係が、カイロ書簡にはよくあらわれている。「ここ」は定住地ではなく、「あちら」へ発つまでの通過点にすぎず、ゆえに「ここ」の場所はつねに変化しつづけていなければならない。「あちら」が「ここ」になってしまったら、もうそこにも文句だらけになってしまう。
(ランボーの右足13より)
●ランボーの「ここ」と「あちら」を結ぶ行為は、つねに身体と距離の移動である。〝歩行〟することそのものが、ランボーの志向性と生、そして「あちらには何かある」という幻想の統合をかたちづくっていた。そもそも、人のあらゆる行動も問いも、「私はここにいる」という位置決定からはじまるものだ。我が身を問う人間であることは、つねに今ある我を出でて変化してゆく存在であることだ。
 ランボーは、つねに「ここ」と「あちら」の道のりを眺めつつ、その距離に身体を運ぶことで統合してゆく。そういう生を、彼は生きた。我の身体ととりまく世界の光景を、〝歩く〟ことで結びつける生。動きのある全体であり、まぎれもなく独特である全体。「あちら」が「ここ」になった時点で、出てきた場所と歩いてきた道のりと、たどり着いたことそのものが、一つの生の時間と光景となって、まざまざと生きられる。同時にその体験は歩く道々で刻一刻と放棄されつづけるのだ、かつて詩を書き飛ばすと同時に棄て去りつづけてきたのと同じに。ランボーは身体を運んでゆくことで、主体が主体たるありかたを、不思議にもきわめて本質的な形で生きた。
そして「そちら」は「あなたがた」、つまり他人の場所である。彼はそこには行かない。(ランボーの右足18より)
●その表現形が詩であったこと、詩こそが彼の体質だったことによって、ランボーの詩は徹底して強靱である。その作者の行動形態は、あらゆることを経験するという志向による「ここ」から「あちら」への絶え間ない移動という形で、文学放棄以降も生涯生きられることになる。(ランボーの右足30より)

 
 自由奔放と見えた放浪、実は、なんとまあ、窮屈な〝歩き〟だったのでしょうか。(文太郎の〝歩き〟に近い?)己の感性とそれによって描かれた世界に対する義理堅さを感じえません。ただ単に、世の中と折り合いがつかずに遁走したという一言で済ましてしまうのは、あまりにも可哀相な気もします。そんなにも律儀に〝あちら〟と向き合わずに、「色即是空」「ここ即是あちら」「あちら即是ここ」というような、自然と一体になるように身を置く東洋的な精神風土であったなら、自らの〝歩き〟に縛られることもなく、こうも壮絶な放浪を背負うことなかったようにも思われます。
 1891年5月、骨肉腫により右足を失ったランボオは、シャルルヴィルへ連れ戻され、本人の強い希望で故郷から再び南のアデン(アラビア半島の南端)を目指すことになりますが、途中、キリスト教徒として死ぬこと、故郷に埋葬されることを拒みつつ、11月10日マルセイユにて、妹イザベルに看取られながら、詩人・探検家・貿易商という三重の人生を閉じることになります。享年37歳。(二つの遺言は共に叶いませんでした)

 不図、西行の「世の中を 夢と見る見るはかなくも なほ驚かぬわが心かな」なる歌が頭をよぎりました。

【使用画像】
■シャルルヴィルにあるランボオの墓とシャルルヴィルの本屋のポスターは旅ブログよりより拝借。
■レオナルド・ディカプリオはツイッターから拝借。シルヴェスター・スタローンは映画COMより拝借しました。

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読本11:中原中也の散歩生活にみる〝徘徊的遊歩〟

●読本11:中原中也の散歩生活にみる〝徘徊的遊歩〟

冬の長門峡・中原中也(長門峡入り口の詩碑)
 冬の長門峡・中原中也(長門峡入り口の詩碑)

 前回は〝動けない心を動かすためには、体をうごかさなければならない。歩き続けるしかなかった〟という山頭火の放浪の〝遊歩〟を取り上げましたが、今回は地元・山口県にゆかりのある文人として、コアなファンも多い中原中也の〝歩き〟を覗いてみたいと思います。ちょうどこの10月22日が〝中也忌〟にあたります。それまでには投稿をと思いつつ、畑違いの〝詩歌〟の中に遊歩を見出すことに手こずって間に合いませんでした。ご容赦を。
 山頭火が小郡の「其中庵」を離れ最終ステージに選んだ松山にいたるまでの一年足らず、仮に身をよせていたのが、山口市の市街地にある湯田温泉近く龍泉寺となりの「風来居」でした。ここで俳友を通じて、縁を得て中也の生家であった「中原医院」に出入りするようになり、中也の弟や家族らと交流を温めています。その中原医院の跡地に現在の「中原中也記念館」が平成6年に建てられています。
 山口県へ移住後、山頭火の句碑めぐりなどはしたものの、中也記念館へ足を運んだのは、本年の1月、この地に移ってから実に16年も経ってのことでした。山頭火の記念館の方は、不思議なことに全国的な人気を誇る山頭火にしては遅く、平成29年になって、やっと生家近くの防府天満宮下に「山頭火ふるさと館」がオープンしたばかりです。私の個人的感想ですが、様々な不幸が重なった種田家、自身も身持ちが悪く、生活破綻者のような山頭火に対しては、地元では、身近者への反感のようなものがあったのでしょうか、何かしらウケが悪いような印象があります。「風来居」などは未だ記念碑はおろか、目印になる標柱もないようです。(各所に句碑はたくさんありますが)句友以外には厄介者でかしかないような山頭火が中也の実家に出入りするようになった一年前、昭和12年に中也は、鎌倉の病院において30歳で夭折しています。(結核性の脳膜炎といわれています)
 俳句もそうでしたが、詩歌にも全く造詣がうすく、中也の詩を語ろうにもその資格は全くありませんが、かろうじて次のフレーズだけが、感受性に振り回されて、ダダイズムにも酔っていた若き頃の私の胸の奥底に焼き付いています。

  汚れつちまつた悲しみに
  今日も小雪の降りかかる
  汚れつちまつた悲しみに
  今日も風さへ吹きすぎる


 詩集(山羊の歌)で読んだわけでもなく、この詩の全文を覚えているわけでもない〝汚れつちまつた悲しみに〟というフレーズが丸々、私が吐きだしたような言葉のように感じられ、そのまま心の奥深くに刺し込まれていたのでしょうか。この詩以外は、ほとんど中也との接点はありませんでしたが、一昨年の真夏遊歩が、中也の生き様の中にあった彼の〝遊歩〟に導いてくれましたので、しばし、その前段の話にお付き合いください。

長門峡
長門峡(山口県・阿武川)

「山高きが故に貴からず」中也との出会いの伏線?

 低山派ハイカーの決まり文句だけれど、ついつい嵩のない山を侮って酷い目に会うこともままあります。「せっかくの夏季休暇、九州まで足を伸ばすか・・・」とテント、シュラフを車に押し込んで、行き先未定のまま取り合えず出発する予定が、早朝のスコールのような雨に腰を折られて、遠出の意欲はくじかれ、どこか近場の低山、楽チンコースは無いものかとシフトを切り替えました。しかし、この安易な転向、低き山を侮ったことが失敗の元、火の山(268.2 m)のアタックもカンカン照りの太陽と、ベトっと湿気が肌にとりつくような暑さに見舞われて、案の定リタイヤすることになってしましました。(遊歩の達人への道はまだまだ)
 このフラストレーションを晴らすために、次の日、納涼をかねて訪れたのが阿武川上流にある長門峡。道の駅・長門峡側から渓谷に入りましたが、起点が川上となっており、ほぼ水平かと思うほどのなだらかな流れに沿って谷を下っていくコースです。下山路ではなく歩き始めから谷を下りはじめるのは、何か違和感がありました。(反対側の起点から入れば良いことですが・・・)コースは整備されていて、のんびり渓谷を楽しむには文句はありませんでしたが、如何せん昨日からの高温多湿、おまけに風もなく、身体中に湿気がへばりつき、企んだ納涼とは、ほど遠い蒸した谷歩きとなりました。折り返し復路、歩き始めには気を止めなかった渓谷の入口横の廃屋のトビラに、今にも朽ち落ちそうな看板に「洗心館は閉鎖・・」との文字が目に留まりました。そして、そのすぐ先の橋のたもとで中原中也の詩碑「冬の長門峡」と出会うことになりました。(冒頭の画像)

 長門峡に、水は流れてありにけり。
  寒い寒い日なりき。
 われは料亭にありぬ。
  酒酌みてありぬ。
 われのほか別に、
  客とてもなかりけり。
 水は、恰も魂あるものの如く、
  流れ流れてありにけり。
 やがても密柑の如き夕陽、
  欄干にこぼれたり。
 ああ! そのような時もありき、
  寒い寒い 日なりき。

 50年ほどの時間が逆流するかのように〝汚れつちまつた悲しみに〟のフレーズがクロスオーバー。まだ、陽も高く、季節も真夏でこの詩の情景とは違っていたものの、何やら悲しい寂然さを感じずにはおられませんでした。料亭で酒を飲みながら夕日を眺めていたのでしょうか。先ほどの廃屋がその料亭のようです。さっそく帰宅後にググってみると、やはり、中也はこの長門峡でよく遊んだようで、あの廃屋は中也が友人たちを誘って訪れていた「洗心館」という料亭でした。この詩を書いた前月に、2歳になる長男の文也を亡くしていることを知って〝水は、恰も魂あるものの如く、流れ流れてありにけり〟というところの寂然さに思い当たりました。
 この長門峡がキッカケとなって、その秋、中也記念館を訪れることになりました。奇しくもテーマ展示は「中也の散歩生活」という彼の身体性を主題に、〝歩き〟の中から生み出されていったポエムの数々、そして、中也が日常生活において、「歩く」といことをどのように思っていたのかがよくうかがえる展示がありました。

詩人・中原中也

散歩というよりは徘徊というべき〝歩き〟のボリューム

大正十二年より昭和八年十月迄、毎日々々歩き通す。読書は夜中、朝寝て正午頃起きて、それより夜の十二時頃迄歩くなり」(中原中也・詩的履歴書より)

 この記述を真に受けると、実家を離れて詩作を始めた十六歳から結婚するまでの十年程の間、毎日、1日の半分12時間は歩いていたことになる。これは〝散歩〟とか〝散策〟というような言葉では当てはまらないだろうとツッコミたくなる程の歩きっぷりです。アスリートなら〝訓練・修練〟であり、求道者なら〝修行〟そのものと言ってもよいレベルかと思います。まずは、この生活の中で占める圧倒的な〝歩行〟のボリュームに驚きました。それは、詩人が気分転換にぶらっと出歩くというような、ましては私の毎朝夕、半時間程の〝犬連れ散歩〟や低山ハイクとは比べようもないボリュームです。中也が強く影響を受けたといわれる天才詩人アルチュール・ランボオも〝歩行三昧〟もすごいものがあります。ヨーロッパや北アフリカを歩き回って〝放浪〟の詩人とも称されていますが、中也の場合は、京都や東京の巷をウロついている感があって、その歩きっぷりは〝放浪〟というよりは〝徘徊〟に近いものがあります。私個人では〝徘徊の詩人〟と認識を新たにするものでした。

 歩きといっても、酒場に通ったり、文人仲間の家を訪れ、情報交換をしたり、論戦したり、車や電車のインフラが乏しい頃で、そのために、あちこちを徒歩で歩き回っていたこともあったでしょう。実際〝歩く〟という言葉をそういう意味で使っていたようですが、京都や東京の街中で出くわす風景のそれぞれを点検するようにほっつき廻っている姿を、作品や書簡の中からも窺い知ることができます。

僕はねえ、やっぱり毎日お歩きです」(友人への手紙)
近頃の夜歩きは好い。月が出ていたりすると僕は何時まででも歩いていたい。実にゆっくり、何時までも歩いていたいよう!」(友人への手紙)

 兎にも角にも、中也は、己の命と鋭い感性を、数行の言葉に押し込めるために、張り付いた壁紙のような下宿部屋から抜け出して、日々、川沿いの土手や街中を歩き廻ったと思います。自分が移動した分、草木や月と出会い、建物や街灯が映り、違った風景が次々と現れ、歩行のリズムの中で五感が触発され、そぎ落とされた詩句が体感として沸き上げってきたのかもしれません。空気や風の微妙な違いにも、自分の命や存在を投影していったのかもしれません。そういう〝歩き〟は、私のような凡人が見ることもない異界を覗き込むための〝徘徊〟といえるような〝歩き〟だったと勝手に想像します。そしてそれは、〝本来の愚に帰ろう、そしてその愚を守ろうと〟遊化の道につき進んだ種田山頭火に通じているように思えます。「我が生活」という散文の中で、歌舞伎を観たくなって、本を売り見料と電車代をひねり出して明治座まで出かけるが、昼飯代が無い。観劇の途中、空腹に耐えかねて退散し、家まで歩いて帰る途中・・・

歩き出すと案外に平気だつた。初夏の夜空の中に、電気広告の様々なのが、消えたり点つたりする下を、足を投げ出すやうな心持に、歩いてゆくことは、まるで亡命者のやうな私の心を慰める

と銀座の風景を語りながら、自分の性格や生き方など心境も語りはじめます。そして、生活者としての不便さ(不甲斐なさ)も嘆きながらも、夢見る自分を次のように語っているところに私の目がいって、あの愚の道を歩んだ山頭火を思い起こしたところです。

然し人生には、どんな荒んだ社会にもなお小唄があるやうに、詩人といふものは在るものなのである。その詩人なるものに、多分は生れついてゐる、否、それ以外ではツブシも利かないのが、私といふものだつたのである

主な略歴
1933年(昭和8年)
『ランボオ詩集(学校時代の詩)』を三笠書房より刊行。上野孝子と結婚。
1934年(昭和9年)
長男文也(ふみや)が誕生。『山羊の歌』を刊行。
1935年(昭和10年)
5月 『歴程』が創刊され同人となる。「青い瞳」を『四季』に発表。
1936年(昭和11年)
文也死去。精神が不安定になる。次男愛雅が誕生。
1937年(昭和12年)
『ランボオ詩集』(野田書店)を刊行。『在りし日の歌』原稿を小林秀雄に託す。
10月22日、結核性脳膜炎を発症し死去。墓所は山口市吉敷。
1938年(昭和13年)
愛雅死去。創元社より『在りし日の歌』を刊行。
1994年(平成6年)
山口市湯田温泉の生家跡地に中原中也記念館が開館。
1996年(平成8年)
山口市等が新たに中原中也賞を創設。


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遊歩のススメ・第1話(なぜ歩くのか?)はこちらから

※歩かない人のための歩きレクチャー読本

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〝遊歩〟ハイキンググッズ10選・トイレ編

※その2、出したものは全て持ち帰る?

●読本10:遍歴、放浪の俳人・山頭火に見る〝遊歩〟

風の中声はりあげて南無観世音
 長沼隆代作の和紙人形(山頭火ふるさと館

解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た

 種田山頭火との出会いは、いつ頃だったのかよく覚えていない。俳句といえば、芭蕉や蕪村、一茶ぐらいですか、それも有名な数句が思い浮かぶ程度で、ましてや自由律詩などというものには、ほとんど触れたことがありませんでした。しかし、いつか、何処かで〝山頭火〟という名がうっすらと気にはかかっていたのでしょう(テレビの金八先生か?)うすい文庫本一冊を買いおきしていたようで、本棚に紛れていたその本を手にして開いたのが、「孤高の人(新田次郎)」「遊歩大全(コリン・フレッチャー)」と並んで、私の〝歩き〟に大きく波紋を与えるに絶妙なタイミングとなりました。
 直接的に六甲山という舞台へ私を誘ってくれた加藤文太郎、その六甲山彷徨の〝歩き〟に、精一杯に自分を解放、寛がせることの楽しさを教えてくれたコリン・フレッチャーとの出会いの間に、現れたのが山頭火でした。文太郎の足跡を追っかけるように歩き出したは良いが、いざ、歩き出した後は自分でもコントロールの効かない、赤子の泣きながらの道迷いのような〝なぜ歩くのか?〟〝歩かされているのか?〟と自問自答しながら、さまようように歩いていた頃です。偶々だったのか、何かに導かれたのか、手に取った文庫本をめくってみると、目に入ってきたのが・・・
[大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た]という一文に釘付けになりました。「分け入っても分け入っても青い山」この有名な句の前書きです。

 母の自殺、酒造場の経営・破綻、夜逃げ、離散、被災、作句に情熱をそそぎつつも、家族を捨て自儘な酩酊の生活に堕ちてのあげくに、42歳の時に熊本・報恩禅寺で得度する。ここから仏道に導かれて、穏やかに作句の余生をと思いきや、翌年、この味取観音堂の堂守を捨てて、本格的な行乞放浪の旅が始まるのでした。この旅立ちにあたって書かれていた〝解くすべもない惑ひ〟とは何なのか? 放浪の末に世を捨て、出家した彼がなおも抱えつづけていた〝惑い〟を軽々に推しはかるつもりはありませんが、慣用的な〝煩悩〟という言葉だけで説納得しきれない何かを感じます。心があることにしがみついて動こうにも動けない。こびりついている感じですか、動けない心を動かすためには、体をうごかさなければならない。歩き続けるしかなかった。そんな感じでしょうか。彼の行乞流転の旅をそういう風に勝手に受けとってみると、当時の私の〝戸惑いの歩き〟とピッタリと折りかさなって、強烈なシンパシーをおぼえました。
 人は、いつも自分自身の絵を描いていて、その「描かれた私」と向き合いながら生きています。そして、或る日、その私というものがブレたり、かすんで正体不明になってしまうことがある。彼の人においても、お堂で悠然と禅をむすんでいるだけでは己を掴まえきれなかったのかもしれません。とにもかくにも己を探すべく山頭火は歩き始めたのでしょう。彼にとっては確かな成算があって歩き出したのではなく、背負った惑いを解くために、つまり、我執にからまれ動きのとれない心を動かすために、とにかくは「歩きだす」しかなかったのでしょう。重苦しい〝独り歩き〟が始まりました。

  鴉啼いてわたしも一人
  捨てきれない荷物の重さまへうしろ
  どうしようもないわたしが歩いている
  風の中おのれを責めつつ歩く

 
 松岡正剛が千夜千冊「山頭火句集」の中で・・・

 修行僧としては当然の行脚だが、どうも山頭火のそれは一途な行脚とちがっていた。味取観音堂でじっとしていられない。寂しくて寂しくて、それで旅に出る。そうすると寂しいことが動いていく。その動きが見える。いや、見えるときがある。寂しさというものが山や道のどこかで、ふうっと動く。それを句に仕立て、また行乞をする。
 山頭火はそこで「途上、がくねんとして我にかえる」ということを知った。そうであれば、それが最善だとおもうようになっていった。山頭火はそこを「空に飛ぶ」とも言っていた。「空」は色即是空の「空」で、「飛ぶ」はおそらくは「遊化」であろう。


と評しています。

 長沼隆代作の和紙人形(山頭火ふるさと館)

遊化 (ゆけ) は遊行教化という仏語。心にまかせて自由自在に振る舞うこと、遊戯 (ゆげ) に通じる。

 「遊化三昧」とは、楽しい事、苦しい事、嬉しい事、悲しい事、迷う、悩む、出来上がる、壊れる、成功した、失敗した・・・ 世の中に起こる全ての出来事を遊んでしまいましょう、という意味でポジティブ教化に使われます。〝遊〟の字が垣間見えたあたりで少し〝遊歩〟にも近づいてきたでしょうか。
 俳句は、言葉というより映像です。私にとって山頭火の自由律句は、体感のビジュアル化そのものです。彼の想いや意味とは違っていたとしても、私が感じていることを私の一歩に上手くのっかってくれます。本当は行く先をちゃんと指し示してくれる一本道が歩きやすいのですが、敢えて山あり谷あり、曲がりくねったルートファインディングをついつい選んで不安な一人歩きに四苦八苦することが往々にしてあります。そんな時にポッと目の前に長い一本道が現れて先を見通すことができると・・・
  まつすぐな道でさみしい 
 などと、本当はホッとしているのだが、強がってそういう句を当てはめる。ホタル調査で夜通し歩いて、沢で飛び石に足をかけようとしたとき・・・
  うしろから月のかげする水をわたる
 少し肌寒いが、木漏れ陽の草むらで横になって休憩する・・・
  石を枕に秋の空ゆく
 尾根を伝っていると突然しぐれて、雨に打たれた・・・
  あの雲がおとした雨にぬれてゐる
 浮石や枯葉に足をすくわれて転倒したとき・・・
  すべつてころんで山がひつそり
 などなど、私の〝歩き〟一歩一歩の肌触りを見事にビジュアルにしてくれます。

   水音といつしよに里へ下りて来た
  山から山がのぞいて梅雨晴れ
  人生即遍路
  このみちをたどるほかない草のふかくも 
  道がなくなり落葉しようとしてゐる

 厳しい漂泊の旅を一段落させようと、50歳の時、小郡(現山口市)にて其中庵をむすんで、自足の生活へ入り「孤高自ら持して、寂然として独死する」と願い庵居生活を始めます。が、独坐も長くつづかず、寂しさのゆえか、動かぬ心を動かすためなのか、また旅に出ることとなり、旅先で病を得てその旅にも頓挫してしまいます。気が塞いだのでしょうか、庵居にてカルモチン(睡眠薬)による自殺未遂。
 ついにはこの庵居を捨てて、死に場所を求めるような流浪の旅に出ていきます。やはり、山頭火を生き生きさせるのは、やはり旅なのでしょう。自分らしい句を追い求め、コロリと逝くことを願いながら面目躍如たる〝歩き〟の中に身を置きます。57歳の時、近代俳句のメッカといわれていた四国・松山を訪れ、その地で最後の庵をむすび、終活というべき一代句集「草木塔」を出版します。「若うして死をいそぎたまへる╱母上の霊前に╱本書を供へまつる」との扉書きには、山頭火が喪失したウィルダネスを偲んでいるような印象をいだきます。

  歩かない日はさみしい
 飲まない日はさみしい
 作らない日はさみしい
 ひとりでゐることはさみしいけれど、
 ひとりであるき、ひとりで飲み、ひとりで作ってゐることはさみしくない。

 本来の愚に帰ろう、そしてその愚を守ろうと、遊化三昧の果てに山頭火は、昭和15年(58歳)松山の一草庵にてコロリ往生を遂げました。辞世の句とされるのが・・・

 もりもり盛りあがる雲へあゆむ

うまれた家はあとかたもないほうたる(生家跡の碑に置かれた酒)
うまれた家はあとかたもないほうたる(生家跡の碑に置かれた酒・分け入っても分け入っても青い山)

〝遊歩〟とは〝私自身に向かう旅立ち〟なのだろうと、ぼんやり意識できるようになるまで、私自身、なぜ六甲の山々に魅了されているのか、放浪に近いような歩きを続けているのか、しばらくの間は不明なものでした。そういう時に出会った山頭火の流浪の〝歩き〟は〝独り歩き〟の何たるかを良しにつけ悪しきにつけ教えてくれるものでした。

 分け入っても分け入っても青い山(草木塔より)

 青い山とは自然そのもの本質であり、この世の根源そのものです。そうだと了解したところでも、また次々と青い山は目の前に現れてきます。そんな言い尽くされたような摂理を山頭火は句にしたかった訳ではないでしょう。ただ、その青い山が見えていることの肉感のようなものを句(ことば)に替えてビジュアル化したに過ぎません。青い山が見えている、見ることができることが生きていることの証のようなものだったのではないでしょうか。
 この句は、やはり私の〝遊歩〟においても全てを言い尽くしているような気がします。特別な説明も不要です。文字通りそのまんまです。これを体感として味わえることは素晴らしいことだと思います。幸せなことだとも言えます。六甲山を分け入るようにさ迷う歩く中で〝青い山〟を見ることが出来たことは、終生の喜びで心底感謝するところです。そして、そんな遊歩の明け暮れの中で、うっすらと私は〝青い山〟の頂きから峰々に長く長く伸びた、自らの影を追い掛けていることに気がつきはじめました。「失われた私の影との出会い」これは、もちろん神秘的な現象ではありませんし、ことさら詩的に飾って言っている訳でもありません。六甲山というステージで〝青い山〟を見出したことは、「見失っていた私と再会」に大いに役立ちました。まだまだ、これから旅は続く訳ですが、右往左往はもうありません。〝遊化〟の一歩を一歩を刻んでいくばかりです。



※種田山頭火の略歴・足跡は「山頭火アルバム」(春陽堂:発行、村上護:責任編集)を参照させていただきました。
※写真の長沼隆代氏作の和紙人形は「山頭火ふるさと館」にて展示中のものです。機会がございましたらお立ち寄りの上、ぜひ実物をご覧ください。漂泊の俳人が見事に和紙の中によみがえっておりました。

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長沼隆代作の和紙人形(山頭火ふるさと館)「雨ふるふるさとははだしであるく」
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スマホとGPS機器
GPSが歩きを変質させていくのか?

 地図(マップ)を取り上げるのは、「遊歩ハイキング必携グッズ10選」の中で、と思っていましたが、やはりこのテーマは、単なる技術話しでは終わらないようですので、読本として取り上げてみたいと思います。

迷い歩きとルートファインディング・読図

 インスタやツイッターで#登山#山歩きの流し読みをしてみると、まあ何と!写真もそうですが、スマートでクールな遊歩ファッション、グッズで身を包んだ山男・山ガールが次から次へ出てきますね。初心者の集まりで街中ファッションのジーンズやスタジャンで山歩きしていた初期の遊歩会などの時代と比べると隔世の感があります。同様に、GPS時代に突入した現代では、地図読みに関しても大きく様変わりしています。
 活動が始まった頃は、当然ながらGPSやスマホなどはありませんでしたから、地図とコンパスによる何百年もの続いてきた伝統的なアナログ方式による〝読図〟地図読みを会得することになりました。こればかりは、ラフなファッションのようにおざなりにはできません。〝一人で歩けないものは、皆とも歩けない〟というセオリーが出来つつあった頃で、山中にて一人なったとしても行動できるようにと、皆さんには真剣に取り組むようお願いしました。実はこの〝地図を読む〟というスキルには、遊歩を支える基本的な技術であると同時に、人としての〝歩き〟の姿勢を決定する大切なものが反映されることにもなります。
 もともと地図遊びが好きだった私は、この〝ルートファインディング〟にのめり込みました。「アレレ、どこを歩いていいるのだろう?」「こんな所に着いてしまった」などという〝迷い歩き〟が好きでした。その迷いの不思議感と、それを解き明かしていくプロセスが、何ともいえないミステリー感覚にあふれてて興奮するところです。会でも、ルートファインディングそのものを楽しむという企画をよく催しました。目的地を決める。それが頂き(ピーク)なら、そこに通じるいくつかの尾根や沢があります。その中から自分たちのルートを決めて辿っていきます。ピークに突き上げる本谷ルートの沢筋を使う場合ならば、途中いくつもの支谷に遭遇します。そこで読図力が試されることになりますし、迷って枝谷にもぐり込んだ時のルート回復もその力が活きてきます。そうやって読図ができるようになって、さまよい歩きにも慣れると白地図でも、自由にルートファインディングを楽しむことができます。

 当初は初心者ばかりでしたので、地図に一般的なルートが赤い線で描かれたルート地図(昭文社・山と高原地図 No.51)を使うことにしました。六甲山エアリアマップは、赤松滋さん(当時)が調査執筆されていました。後にご縁をいただいて、遊歩に関するさまざまな助言をいただいたり、一緒に歩く機会などもいただきました。氏の著書からも、多くの含蓄あるお言葉を拝借することになります。その一つに、
迷うことを潔しとし、道を見ず、地形を見てそこから道を案ずることを試みている」続けて、
この道は谷へ通じていく、尾根へ上って行きそうだと、先に思いを巡らせて足もとの道を選ぶようになった。単に道標を目安に右へ左へと分岐を選ぶのではなく、遠くまで視野を広げ、地形を意識していれば、たとえ道をはずれてかけても気がつくのが早い。また、どこで何故はずれたかが分かる」 
〝迷い歩き〟から始まった私には、この的を得た一文に大納得。さっそく「迷うことを潔しとす」が座右の銘になりました。この文脈をよく頭に留めいただいて、〝読図・ルートファインディング〟の話を先に進めましょう。

山頂近い山並み風景

アナログ地図とGPSアプリ

 読図の基本は〝目的地と自分現在地を知る〟というとてもシンプルなものです。しかし、これが案外と難しい。アナログなら、地図とコンパスで、方位角を探りながら、また、等高線の微妙なつまり具合やカーブを、3次元の頭の中でイメージに再生・再現させながら、周囲の地形と照らし合わせて自分の現在地と目的地を探っていきます。特にガスなどで視界を失うと情報量は激減します。これらの経験を幾度も積みかさねて、地形を読み取る感覚を養っていくしかありません。根気のいる作業でもあります。渡り鳥や野生のケモノが持っているような方向感覚を本能的に目覚めさせていくような作業なのかもしれません。私たち人間にもそういう本来的な力に迫っていくような体験をすることも、遊歩ではとても貴重なものになります。
 しかし、GPS・スマホ時代になると一変します。ポンッとタップすると「予定ルートから何メートル○方向に外れています」と一瞬に教えてくれます。最近のスマホは耐寒性にもさほど問題がないようです。アプリの性能は米軍レベル並みの機能性をもっているようです。以下は、GPS推奨派のサイトから引用させていただいたコメントです。

■GPSなんか使うから読図が身に付かないのだ
 という反GPS派の意見に対して、
それは逆だと、GPS推奨派はこう答えています。
「読図できない人が紙の地図なんか見たって自分の位置は分からないでしょう。地形を読むのも慣れていないと難しい。GPSは『地形と地図に慣れるまでの先生』になってくれ、読図の先生がいないと出来なかったことが人間以上の精度で可能になる」 

■GPSなんかに頼ったら登山がつまらなくなる。という指摘には、
 紙の地図を読んで地形を味わいながら歩くのは、それはそれで楽しいものです。でも山の楽しみは一つだけではありません。読図は普通、手段であり目的ではありません。読図が目的の登山があってもいいでしょうが、そうでない登山もあります。読図が趣味の人が道迷い遭難なんてなかなか起こさないのでしょうが、万一があります。万一のために保険としてGPSやスマホを持ち、正しい使い方を覚えるのはリスクヘッジとしては必要なことだと考えています。道に迷って遭難した時に『GPSを持たずに山に入るなんて非常識です!』と言われる時代が必ず来ます。と、スマホにGPSアプリを詰めて山へ行くのがマナーになると断言されています。

 私からはこのご意見を、一つの提言として受け止めておきましょうとしか言えません。しかし、何かしっくりしない。違和感を感じるのも確かです。この提言に賛同した人の「紙情報と有視界に拘っているのは、日本の山屋ぐらいでは無いかと思います」というコメントもあった。この人の言によれば、私もやはり、日本のアナログ派の山屋の部類に入ってしまうのかなと思ったりします。
 道迷いが死に直結しやすい高山や冬山には縁のうすい低山派の私においては、ほぼほぼGPSアプリ使うことはないのですし、道迷いが一つの楽しみ、味わいになっている六甲山エリアでは、全く無用のものです。(最近は地図も持っていかない)もちろん迷うのが嫌!という方も多いでしょうし、GPSアプリをどのように有効利用するのかは、各人の対応に任せれば良いと思いますが、『GPSを持たずに山に入るなんて非常識です!』と面と向って言われれば、とても困惑してしまいます。

木に巻かれた赤テープ
匿名的な存在のような赤いテープ

救われる?惑わされる? 赤テープは道しるべ?

 もう一つルートファインディングに関していえば、山道の木々に巻きつけられた〝赤テープ〟に言及しなければいけないでしょう。
 背を超えるヤブの中で、大海原の漂流者のごとく方向を失ったものにとって、パッと目に入った赤テープは、救世主の導くともしびのように映るだろうし、いく先々にこれ見よがしにベタベタ貼り付けられたテープは、でしゃばり者の余計なお節介モノのように映る。
 六甲山を歩き始めた頃、この赤テープに惑わされて、こっぴどい目にあったことが度々あります。テープを追っていくと、とんでもないところに連れていかれたのです。通常のルートではない、どこかのサークルが自分たちのイベント用のルートに設置して、そのまま外さずに放置していたのかもしれませんが、それならせめてテープに使用目的を書き込んでおけよと、妙に腹立たしくなりましたが、同時に「なぜ、自分で判断しなかったのか」と、それを追っかけていた自分の不甲斐なさに対しても呆れてしまう。
 この〝赤テープ表示〟コース上にある道標とちがって、意味も目的も不明なものが多く、煩わしく感じ始めて、ついにはこれは〝単なるゴミ〟ではないのか?と、不要なテープを剥がしていくようになった。しかし、それはそれで、独断でしょうと会内でも異論がでて、それならばと、阪神間の六甲山をフィールドにしていると思われる各山岳会、大学サークル、官公庁、団体・個人の岳人などへアンケート調査をお願いして、その意見をいただくことになりました。この〝赤テープ問題〟の詳細はここでは割愛させてください。(この調査の集計・結果報告はPDF化できれば、掲載させていただきます)
 先の赤松滋氏にも「テーピング」と題した一文を報告書にいただきましたが、これも次回の報告書にて紹介させてください。報告書のまとめにある次の一文にて、全体的な論調をご推察くださいませ。
「現在、六甲山におけるルート表示は煩雑で、見苦しい状態であり、本来の意味も失われているものが多い。部分的に必要なテープを除いて、現存している一時的意味合いのテープ表示は、撤去すべきだろう」

赤テープなるもの、実は六甲山以上に、僕たち社会のまわりにもベタべタ貼られている

 同じく報告書にある私の投稿に・・・、
「山での出来事を山で、都会での生活はそこで済ましてしまうと言うのでは、何故、人は山と都会を行き来するのかという問いに答えることができなくなる。(中略)ベタベタと貼られたそのお節介な赤テープのおかげで、行く道を惑わされることもある。しかし、考えてみると赤テープなるもの、実は六甲山以上に、僕たちの社会のまわりにもベタべタ貼られていることに気付くだろう。幼少期は何の疑念もなく、親たちが付けてくれた赤テープを頼りにヨタヨタと辿っていき、反抗期ともなると、それらを無視して逆の方向へと進んだしたりする。思春期に入ると、周囲の煩雑たる赤テープの氾濫に頭を悩ませることになる。「大学?」「就職?」「ああしろ」「こうだろう」あまりのプレッシャーで社会への適応に自信を失うこともある。しかし、ややもすると自分を見失いがちになる時に、「こう考えたら? そう生きたら?」と生活や人生の指針となるべき赤テープとも出会うことも大いにあるのだ。
 このように僕たちの人生にとっても赤テープ(情報)の選択が大事でもあるのだが、テープの正体をよく掴まないまま、それを追っかけて進む悪癖が身についてしまうと、それを順に辿って、自分がどこに居て、どこを歩いているのかが不明のまま、次の赤テープだけを探すような生き方・歩き方に陥ってしまうこともあるだろう。

 ここでもう一度、赤松滋氏の「迷うことを潔しとす」という文脈を思い出しながら、GPSアプリの話に戻ります。氏の一文を、

「迷うことを潔しとし、与えられた指針を見ず、広く社会を見てそこから進路を考えよう。この生き方はこうなるだろう。このやり方はあのようになるだろうと、先に思いを巡らせて足もとから進路を選ぶようになった。目の前の規範だけを目安に右か左かと選択するのではなく、遠くまで視野を広げ、社会や人間関係を意識していれば、たとえ進む道をはずれてかけても気がつくのが早い。また、どこで何故はずれたかが分かるはずだ」というように読み直すことができます。

 スマホをタップしたら、地図の上にすでに予定のルートが既に表示されており、自分の人形がそのコースに乗っている。線上ならOK。外れていればコースに戻れば良いだけです。まさに簡単!わが現在地がバーチャルに表示されます。しかしながら、この赤テープを追っかけているような作業の中で、何かしら大切なものが欠けているような気がするのは私だけでしょうか?
 GPSはリスク回避には最適なグッズです。山の歩き方、楽しみ方も様々ですが、同時にリスクに対する考え方も多様だと思います。安全が第一だとは思いません。安全第一を求める人は山に入らないことが一番です。私は、読図によって自身の一歩が深化していくものと信じています。その自分を支えている一歩一歩を確かめるために山を歩きます。道とは〝身〟〝地〟だと聞いたことがあります。己と大地のコンタクトの場所です。踏み出した一歩に自分を感じて、わが居場所を確かめます。その連続が〝遊歩〟だと銘じています。その大切な一歩と現在地を、GPSに委ねてしまうのはもったいない限りです。個人的には、二次的装備に留めておきたいと思います。(スマホは持っていないけど)

 ちなみにバックパッカーのコリン・フレッチャー師、遊歩大全〝ルートファイディング〟の項目で、「ルートファイディングをするために、地図なしで出かけたり、概略図だけしか持たずに行くことがある」と記している。地図は、あればとても便利だ。というスタンスのようだ。さすが〝遊歩の達人〟ただしコンパスは必携にしている。

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キンドル出版におきまして、
山端ぼう:著つたなき遊歩・ブラインドウォーカー」が出版されました。定価¥500

遊歩大全をバイブルとして六甲山を巡り歩いた老いた遊歩人とブラインドサイト(盲視)という不思議な能力をもつ全盲の青年とが、巻き起こすミステリアスな物語です。 続きは・・・
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〝遊歩〟ハイキンググッズ10選・トイレ編

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●読本8:一人歩くときほど孤独より遠い

真田ケ岳620.7m (山口県)
真田ケ岳620.7m (山口県)

ひとりいる時こそ、もっとも孤独からへだたった世界である。 (エドワード・ギボン)

 この名言も、フレッチャー師の「遊歩大全」より拝借いたしました。
上巻・付録2にある「瞑想的ウォーカーのための名言集」に収録されていたギボンの言葉です。東西の哲学者・文学者・詩人・科学者・政治家・偉人、広範囲にわたる先人たちの言葉から〝ウォーキング〟の根っこに連なっていくような金言・妙言を集めたものですが、どの言葉にも、心に響くような共感があったり、深く納得するものあって「なるほど」と膝をうったりします。この撰集からでも、フレッチャーの〝深化した歩き〟〝解放された歩き〟をたっぷりと感じることができます。
一人いるときほど孤独より遠い」この言葉には、誰しもが思い当たることがある筈です。独り自分だけの時間の中でひたっている時のあの充足感です。一人でコーヒーを飲んでいる、音楽を聴いている、景色を眺めている。何かに心を預けたまま己が解放されている状態でしょうか。それはうら寂しい孤立感とは、ほど遠いものです。逆に、大勢の人に囲まれていても、にぎやかにコミュニケーションをとっているような時でも、フト自分が見えなくなって、時には激しい孤独感に襲われることがあります。
 ギボンは独り歩いているときに感じたのか、それとも書斎で物思いにふけっているときに、このような一人の世界を味わっていたものか不明ですが、コリン・フレッチャーにとっては、広大なウィルダネスの砂漠地帯を粛々と歩いている時に、または、漆黒の闇の中で、チラチラと揺れるキャンプの火を独り見つめている時に、ヒシヒシと感じていた至福の境地であったことは間違いのないことでしょう。
 孤独感とか孤立感は、自立を意識しはじめた思春期において、何かと心を騒めかせ、悩ませるものです。私の場合もそうですが、大勢の人に囲まれて中で感じる孤独感にどう対処していこうかと思い迷うことがありました。いわゆる社会的孤独というやつです。今の時代では「私はどうあれば良いのだろう」とあがきながらSNSの大海をさまよっている人も多いと聞きます。これを上手く乗り越えていけるかどうかで、その人の将来に大きい影響もたらすことになります。次のような(心理学的)対比からみていきましょう。(※青年期における孤独感の構造 落合良行 著を参照)    

1、孤独をどう見るのか(自己の存在の仕方)

ひとりでいることを紛らわしたい孤独とは人間の真の姿だ
ひとりだと思うと不安で怖いひとりということに優越感を感じる
孤独とは悪魔だ孤独とは人間の真の姿だ

2、共感についての感じ方 

他人は私を理解してくれない私を理解する人は何人かいる。
私の悩みを分かる人はいない悩みを分かってくれる人はどこかにいる。
イラスト by 四万十川洞安

 左は、マイナス思考の人、右はプラス思考の人だと考えれば、よく対比が見えます。要は、孤独に苛まれたくない、逆に、孤独愛にも溺れたくないと、考えるなら〝プラス思考〟で生きていけば良いのですが、これがなかなかに難しい。スイッチを切り替えるように簡単にいくものではありません。
 独りでいるときの快い孤独感、頭ではそういうのもアリだな、と思っても若いうちは、それがどんなものかが掴みにくいものです。「私はひとりきりだ〜」体の奥底から湧き上がってくる、その充足感というものをしっかと受け止める、というのは、禅坊主のような一種の悟りの感覚に近いものだから、若い人から〝その感じ、よ〜く分かります〟といわれても、「ホント〜?」と何かしっくりとは納得ができないところがあります。そう言うと年寄りの不遜と思われてしまうかもしれませんが・・・

孤独とは人間の真の姿だ

 言葉を絞ってみると、ひとつは「孤独とは人間の真の姿だ」というところでしょう。決して孤独は悪魔ではなく、それを踏まえて生きていくことが、社会性にもつながっていきます。人は争いや不幸があったり、病気や挫折、トラブルにあったりしながら、少しづつ〝孤独=真の姿〟をかい間みながら歳を経ていきます。中には、若いうちから本能的に〝孤独=真の姿〟を嗅ぎとっているような人もいるでしょう。
もう一つは〝独り〟だということを自分のどこで受け止めているのだろうかという点にあります。小理屈や座学という観念ではなく、身体、目や耳、手足や皮膚など自身の身体で体感できていなかったのか、体幹の芯までとどくような経験に欠けていたのかもしれません。観念的というか感傷的な甘ちゃんのまま、そういうチャンスや体験を齢30半ばまで持ち得なかって、それからの反撥が、突然の山狂いにつながったのでしょう。〝山を歩く〟という身体性を通すことで、しっかりと孤独と向き合うこと中年になってから、せっせとやり直したものと思います。 

防長百名山・大高神山 647.2m(山口県)からの日の出

 生きるということは所詮、自然との格闘です。それを抜きに他人や社会との格闘はありえません。土・水・風・雨・木々・花・草・石・岩・星・虫たちと交感し、自然とトコトンやりあって、それを自分の体でしっかり受け止めていくことが欠けていた、もしくは充分でなかったのでしょう。〝真の姿である孤独〟を求めて、いい大人が、あてどもなく山中をさまよい、ひとり谷奥で蛇やイノシシに怯えながらキャンプし、冬の山上でテントなしで夜をあかしたり、水も食べ物も持たずに樹林にこもったりしながら、子供の時のような体験を通して自然なるものと格闘していた訳です。〝自然に向う〟ことで多くの生きる知恵や元気を授かりました。自然と対決しているのではなく、自然に包まれていることも学びました。そういうところでも六甲山は父であり母だったのだろうと感謝している次第です。
 男の冒険譚? おとこのロマン? 〝孤独〟のおはなしは女性陣からは、「ただのお遊びでしょ」と、冷たくスルーされるのがオチですが、もともと女性の方が本質的に、孤独な存在だと思われます。そうでないとあの深い母性と共生・共感能力は持ちえないのだと、甘ちゃんの私としては、確信しつつ、冒頭の言葉を男性陣にむけて贈りたいと思います。

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摩耶山(702m)・掬星台での初日の出
 摩耶山(702m)・掬星台での初日の出

私たちの遊歩に観客はいるのか?

 大きな岩塊によじ登って、ピークを踏みしめたなら、360度の景色をじっくりと確かめながら達成感と高揚感をもって飽きることなくその風景を眺めることでしょう。誰だってそうでしょう。しかし、同時にそのえも言えない神々しい光景の向こうから、逆にピークに立っている私を見つめているモノを感じたことはありませんか?
 日常では見ることのできない雄大で厳かな風景を鑑賞しにやってきた観客であるはずの私は、同時にそれを実現したパフォーマーでもあります。一人っきりの私のパフォーマンスは、誰にも気を留められることがありません。観客の居ない一人芝居のようなものですが、「よくやってきたね」と労う大自然の時には厳しく、時にはやさしい眼差しをどうしても感じることがあります。向こうからも見つめられているのです。そうやって互いが向き合っている関係が、溶け合って一つになる至福の感覚がそこにはあります。まあこれが山登りの最大の目的といえるでしょう。
 つまり、私たちの山歩きシーンには、観客が必ず何処かにいるということです。それは樹々であったり、小鳥やけものであったり、風雨であったり、様々な自然の様相で私に眼差しを送って交歓してくれます。それは決して険しい山岳だけではありません。自然と触れ合えるところならどんな場所でもそうだと思います。ビルに囲まれた街中であっても、フト見上げたその先の青い空に白い雲が流れていれば、きっとそれに慈しむような眼差しを感じるでしょう。それが山上から眼下に広がる雲海と対話した経験のある方にとっては、一層心に響くものでしょう。下から見上げる雲の向こうにはピークに立ちすくんでいるもう一人の自分とも対面しているのです。
 人それぞれに、心を通じ合える裏山や、刺激や感動を分かち合える山岳との出会いがあるでしょう。そういった舞台(ステージ)で得た体感や感性を、日常に持ちかえって育むことによって、峰々とは程遠いステージにあっても自分の立ち位置を確かめることができて、自らの歩きの舞台を押し広げていくことができるものと信じています。

山頂から360度の眺望
 風景を見ている時には、私は観客とつながっている

 私の初期の歩きの舞台となった六甲山は、日本各地のどこにでもあるようなごく普通の背山です。(「遊歩の舞台としての六甲山とは」も参照ください)それも山脈とまで言えないような狭いエリアで1,000mを超えるピークもない山系(最高峰:931.3m)です。すぐ麓には神戸・大阪間の都市がぎっしりととり囲み、多くの住民を抱え込んでいます。国立公園のエリア内においても観光化が進み、自然もいたんでおり、かなり俗化された山域だといえます。ドライブウェイを始め、ケーブル、ロープウェイ数系統などによる山上へのアクセスも整備され、植物園、博物館、牧場、スキー場、ホテル、レストラン、ゴルフ場(日本最古)別荘群、郵便局、小学校などの行政施設も整った都市機能があるというか、もう都市そのものでもあります。
 エマージェンシーにおいても、危険生物や困難ルートも際立ったものはなく、山上の気象も年間を通して穏やかで、常識的な装備で注意して歩けば、さほど技術を要求されることもありません。迷った時は、山上方面へ向かえば必ずドライブウェイに出会うし、下山を選べば、どこかしらの市街地に数時間でたどり着くことができます。
 しかし、1,000mに届かない標高とはいっても、南山麓はほとんどが急斜面となっており、アプローチ地点が海抜20~50mといった地点から始まることを考えれば、内陸地の1500~2000m級と変わらない実標高差を登ることになります。(伯耆大山1,710m:実標高差930mなど)簡単に低山とは侮ってはいけないでしょう。逆に六甲山を歩き慣れた方は、2000m級の山岳においても体力的な問題はないと思います。

六甲山に深奥幽玄はあるか?

 この点では日本各地の都市近郊の山系は大なり小なり似たようなものかもしれません。さて、我が裏山もこのような紹介であれば、何も遊歩においてもさほど際立つ特色があるようには思わない舞台(ステージ)ですが、「遊歩」がより遊歩のステージとして鮮明に浮き上がる重要な条件、他の山域にはあまり類のない条件を考えてみましょう。
 それは、やはり山麓の周囲一帯に拡がる「巨大な都市圏」というものの存在が外せないようです。東西南北から圧倒的な市街地化の波を受け、緩やかな山麓のほとんどがゾンビに襲われれたように侵食され、建造が許されるギリギリの斜面まで市街化が進んでしまっています。山上周辺の観光化も前述の通りです。自然の保全という点では、ほとんど六甲山系は満身創痍といえます。六甲山には幽玄深奥というような(異空間的な)自然と残念ながら、ほとんど出会うことはありません。「六甲山で一体、在るべき自然がどれだけ残っているのか?」と訊かれることがあります。答えに窮しますが、未開のジャングルや未踏の深山のような状態を自然というなら、そういう自然は残念ながら、このエリアにはほとんど見当たらないでしょう。近代に至るまでに平安の源平合戦、戦国時代に繰り返された戦火で多くの樹木は伐採され、禿山となっていました。現在の植生の多くは明治以降の植林事業によるものだし、沢のほとんどが都市を守る名目で進んでいる堰堤100年計画で、谷は砂防ダムだらけ、都市化のあおりでクマ、猿、鹿などの野生の動物も去っていきました。この地でどれだけ自然のリアルと出会えるものでしょうか? 私たちのウィルダネスに果たしてなりうるのだろうかという疑問はぬぐえません。
 しかし、山麓に数百万という住人(ほとんどが都市生活者)を抱え、この自然と不自然がせめぎ合い、都市化の脅威と侵食をこれほど受けつつも、なおかつこの山系が 独自の自然の秩序を保ち得ているのは確かなことです。不思議なことですが、せめぎ合う近さに因る六甲山特有の厳然とした自然が在るのです。それは、時には父親のような凛々しい威風で、自然の何であるかを教えてくれますし、時には母親のような優しい慈愛を持って私たちの歩きを包んでくれます。そう感じるのは私だけでしょうか。
 それは高い山岳登山などで自然と立ち会っているときの感覚とは少し違うかもしれません。もっと身近な里と里山というような、現代ではすっかり失われしまったような距離感を感じます。
 ちょっとした山岳へ遠征といえば、はやり長いアプローチが必要で、その途中に都会の日常生活の緊張感から徐々に解きほどかれ、自然のフィールドへ向かう気持ちに対応していきます。そんなモラトリアムが与えられますが、六甲山では、そんな間がなく、登り口からいきなり自然空間へジャンプします。そういうワープ感覚が何といっても、この山系の醍醐味でしょうか。真冬なら、朝、スタバで熱々のコーヒーをすすって、昼までにはもう有馬の百間滝の氷壁を登っているってことも可能です。この山域は、自然の営みがコンパクトに納まっていて、日常の生活感からの落差を生む距離感も手伝って、私たちの感性に響きやすいところがあるようです。「トンネルを抜ければそこは北国であった」じゃないですが、一歩踏み入れば、そこそこの稜線歩きや沢歩きのコース、クライムコースなど、近しい自然に囲まれます。そして、一歩踏み出るだけで、もう都会のど真ん中という体験に見舞われます。一種のワンダーランドです。このワープ感覚が味わえることに、この六甲山のステージ(舞台)としての本領があるのでしょう。

新神戸駅前、駅橋の下に布引渓谷の入口がある
新神戸駅前(photo by TopTrip)駅橋の下に布引渓谷の入口がある

水の〝リアル〟と出会う

 新幹線・新神戸駅のホームのすぐ下に渓流への入り口があります。芦屋川の表銀座ルートと並んで人気ある摩耶山・再度山への玄関口です。この下流はすぐコンクリート護岸となって、港まで街の中心を流れ神戸港へとそそぐ二級水系です。この水がどこから流れ出てくるのだろうか? などと都会の住人たちはあまり考えもしないのですが・・・。この流れを辿ってみると様々な水との触れ合いを体験することができ、そのリアルさを体で感じることができます。
 コンクリート護岸を流れる川にはホタルも居ないし、ましてやその水を直接に飲もうとは思いませんが、すこし上流に遡ると、もう流れは渓流となって、30mを超える布引の滝の瀑布がミストになって私たちにふりそそぎます。そのすぐ先には日本最古の大型コンクリートダムがあって、市ケ原のキャンプ場へと続きます。そのあたりから流れの中に足を入れたくなります。そこを抜けると、ツエンティクロス(二十渉)といわれる水際にそった長い渓流を辿る間にたくさんの枝谷から流れ込んでくる水を見ます。この辺りでは、水は本来の水です。なんのためらいもなく頭から浴びたり、飲み干したりしています。本谷が狭まってくると、歴史古道の徳川道から流れが急になる桜谷に入ります。ちょうど上高地から梓川を遡って横尾から涸沢に回り込む感じのミニチュアコースでしょうか。距離は半分くらいで、景観の迫力には負けますが、水に触れ合ったり、流れのリズムなど身近な体感はこちらは負けません。
 少しづつ流れは細まって、登りもきつくなり、ゴールの近さを感じさせます。そこを更に源頭に向けて詰めていくと、摩耶山直下にたどり着きます。そこでチョロチョロと湧き出してくる水を目にして、そっと手のひらにとって口にすると、もう理屈抜きで水のリアルさをそのまま飲み干すことができます。

布引谷、ツエンティクロスの流れ
ツエンティクロス(二十渉)photo by 六甲遊歩会

 大阪湾へ流れ出した沢の水が、海上で温められ蒸気・大気となって雲を作り、六甲の峰々の上で雨になったり、露になって山地に戻ってきて、流れを集めてまた海へと帰っていきます。自然が永遠に繰り返している循環です。ここでは、そういうことが何気なく半日ほどの時間でコンパクトに体験できるのです。このように感じ得たリアリティが、また都会の生活でも反映してくるのです。
 ビル群の一室で、カルキ臭くなった水道水と出会う。しかし、その水の源流を知る者、沢を登り詰め岩の間からわずかに滴る水を一度でもノドに通したことがある者にとっては、水が何であるのか、自然の何であるか、また同時に不自然の何であるかを十分に知ることができのです。壁に囲まれた部屋にあっても、そこで飾られた一輪の花に豊かな自然を感じることができる人ならば、その部屋には自然が広がります。風であれ雨であれ然りです。そういった感性を培っているか、わが内にある自然が問題なのです。
 話は少し逸れましたが(「資料3:引き裂かれた六甲山」の項目にあるコリン・フレッチャーの言葉も味わってください)自然と不自然が圧倒的にせめぎあっている状態がこのエリアのいたる所にあります。そういうことを肌で感じることによって、逆に、都会における生活の中でリアリティの乖離を受け止めやすくしてくれます。そんな不思議なバランスを教えてくれることが六甲山という舞台の大きな特徴だと思います。 

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