●読本7:遊歩のステージ(舞台)に立つ

摩耶山(702m)・掬星台での初日の出
 摩耶山(702m)・掬星台での初日の出

私たちの遊歩に観客はいるのか?

 大きな岩塊によじ登って、ピークを踏みしめたなら、360度の景色をじっくりと確かめながら達成感と高揚感をもって飽きることなくその風景を眺めることでしょう。誰だってそうでしょう。しかし、同時にそのえも言えない神々しい光景の向こうから、逆にピークに立っている私を見つめているモノを感じたことはありませんか?
 日常では見ることのできない雄大で厳かな風景を鑑賞しにやってきた観客であるはずの私は、同時にそれを実現したパフォーマーでもあります。一人っきりの私のパフォーマンスは、誰にも気を留められることがありません。観客の居ない一人芝居のようなものですが、「よくやってきたね」と労う大自然の時には厳しく、時にはやさしい眼差しをどうしても感じることがあります。向こうからも見つめられているのです。そうやって互いが向き合っている関係が、溶け合って一つになる至福の感覚がそこにはあります。まあこれが山登りの最大の目的といえるでしょう。
 つまり、私たちの山歩きシーンには、観客が必ず何処かにいるということです。それは樹々であったり、小鳥やけものであったり、風雨であったり、様々な自然の様相で私に眼差しを送って交歓してくれます。それは決して険しい山岳だけではありません。自然と触れ合えるところならどんな場所でもそうだと思います。ビルに囲まれた街中であっても、フト見上げたその先の青い空に白い雲が流れていれば、きっとそれに慈しむような眼差しを感じるでしょう。それが山上から眼下に広がる雲海と対話した経験のある方にとっては、一層心に響くものでしょう。下から見上げる雲の向こうにはピークに立ちすくんでいるもう一人の自分とも対面しているのです。
 人それぞれに、心を通じ合える裏山や、刺激や感動を分かち合える山岳との出会いがあるでしょう。そういった舞台(ステージ)で得た体感や感性を、日常に持ちかえって育むことによって、峰々とは程遠いステージにあっても自分の立ち位置を確かめることができて、自らの歩きの舞台を押し広げていくことができるものと信じています。

山頂から360度の眺望
 風景を見ている時には、私は観客とつながっている

 私の初期の歩きの舞台となった六甲山は、日本各地のどこにでもあるようなごく普通の背山です。(「遊歩の舞台としての六甲山とは」も参照ください)それも山脈とまで言えないような狭いエリアで1,000mを超えるピークもない山系(最高峰:931.3m)です。すぐ麓には神戸・大阪間の都市がぎっしりととり囲み、多くの住民を抱え込んでいます。国立公園のエリア内においても観光化が進み、自然もいたんでおり、かなり俗化された山域だといえます。ドライブウェイを始め、ケーブル、ロープウェイ数系統などによる山上へのアクセスも整備され、植物園、博物館、牧場、スキー場、ホテル、レストラン、ゴルフ場(日本最古)別荘群、郵便局、小学校などの行政施設も整った都市機能があるというか、もう都市そのものでもあります。
 エマージェンシーにおいても、危険生物や困難ルートも際立ったものはなく、山上の気象も年間を通して穏やかで、常識的な装備で注意して歩けば、さほど技術を要求されることもありません。迷った時は、山上方面へ向かえば必ずドライブウェイに出会うし、下山を選べば、どこかしらの市街地に数時間でたどり着くことができます。
 しかし、1,000mに届かない標高とはいっても、南山麓はほとんどが急斜面となっており、アプローチ地点が海抜20~50mといった地点から始まることを考えれば、内陸地の1500~2000m級と変わらない実標高差を登ることになります。(伯耆大山1,710m:実標高差930mなど)簡単に低山とは侮ってはいけないでしょう。逆に六甲山を歩き慣れた方は、2000m級の山岳においても体力的な問題はないと思います。

六甲山に深奥幽玄はあるか?

 この点では日本各地の都市近郊の山系は大なり小なり似たようなものかもしれません。さて、我が裏山もこのような紹介であれば、何も遊歩においてもさほど際立つ特色があるようには思わない舞台(ステージ)ですが、「遊歩」がより遊歩のステージとして鮮明に浮き上がる重要な条件、他の山域にはあまり類のない条件を考えてみましょう。
 それは、やはり山麓の周囲一帯に拡がる「巨大な都市圏」というものの存在が外せないようです。東西南北から圧倒的な市街地化の波を受け、緩やかな山麓のほとんどがゾンビに襲われれたように侵食され、建造が許されるギリギリの斜面まで市街化が進んでしまっています。山上周辺の観光化も前述の通りです。自然の保全という点では、ほとんど六甲山系は満身創痍といえます。六甲山には幽玄深奥というような(異空間的な)自然と残念ながら、ほとんど出会うことはありません。「六甲山で一体、在るべき自然がどれだけ残っているのか?」と訊かれることがあります。答えに窮しますが、未開のジャングルや未踏の深山のような状態を自然というなら、そういう自然は残念ながら、このエリアにはほとんど見当たらないでしょう。近代に至るまでに平安の源平合戦、戦国時代に繰り返された戦火で多くの樹木は伐採され、禿山となっていました。現在の植生の多くは明治以降の植林事業によるものだし、沢のほとんどが都市を守る名目で進んでいる堰堤100年計画で、谷は砂防ダムだらけ、都市化のあおりでクマ、猿、鹿などの野生の動物も去っていきました。この地でどれだけ自然のリアルと出会えるものでしょうか? 私たちのウィルダネスに果たしてなりうるのだろうかという疑問はぬぐえません。
 しかし、山麓に数百万という住人(ほとんどが都市生活者)を抱え、この自然と不自然がせめぎ合い、都市化の脅威と侵食をこれほど受けつつも、なおかつこの山系が 独自の自然の秩序を保ち得ているのは確かなことです。不思議なことですが、せめぎ合う近さに因る六甲山特有の厳然とした自然が在るのです。それは、時には父親のような凛々しい威風で、自然の何であるかを教えてくれますし、時には母親のような優しい慈愛を持って私たちの歩きを包んでくれます。そう感じるのは私だけでしょうか。
 それは高い山岳登山などで自然と立ち会っているときの感覚とは少し違うかもしれません。もっと身近な里と里山というような、現代ではすっかり失われしまったような距離感を感じます。
 ちょっとした山岳へ遠征といえば、はやり長いアプローチが必要で、その途中に都会の日常生活の緊張感から徐々に解きほどかれ、自然のフィールドへ向かう気持ちに対応していきます。そんなモラトリアムが与えられますが、六甲山では、そんな間がなく、登り口からいきなり自然空間へジャンプします。そういうワープ感覚が何といっても、この山系の醍醐味でしょうか。真冬なら、朝、スタバで熱々のコーヒーをすすって、昼までにはもう有馬の百間滝の氷壁を登っているってことも可能です。この山域は、自然の営みがコンパクトに納まっていて、日常の生活感からの落差を生む距離感も手伝って、私たちの感性に響きやすいところがあるようです。「トンネルを抜ければそこは北国であった」じゃないですが、一歩踏み入れば、そこそこの稜線歩きや沢歩きのコース、クライムコースなど、近しい自然に囲まれます。そして、一歩踏み出るだけで、もう都会のど真ん中という体験に見舞われます。一種のワンダーランドです。このワープ感覚が味わえることに、この六甲山のステージ(舞台)としての本領があるのでしょう。

新神戸駅前、駅橋の下に布引渓谷の入口がある
新神戸駅前(photo by TopTrip)駅橋の下に布引渓谷の入口がある

水の〝リアル〟と出会う

 新幹線・新神戸駅のホームのすぐ下に渓流への入り口があります。芦屋川の表銀座ルートと並んで人気ある摩耶山・再度山への玄関口です。この下流はすぐコンクリート護岸となって、港まで街の中心を流れ神戸港へとそそぐ二級水系です。この水がどこから流れ出てくるのだろうか? などと都会の住人たちはあまり考えもしないのですが・・・。この流れを辿ってみると様々な水との触れ合いを体験することができ、そのリアルさを体で感じることができます。
 コンクリート護岸を流れる川にはホタルも居ないし、ましてやその水を直接に飲もうとは思いませんが、すこし上流に遡ると、もう流れは渓流となって、30mを超える布引の滝の瀑布がミストになって私たちにふりそそぎます。そのすぐ先には日本最古の大型コンクリートダムがあって、市ケ原のキャンプ場へと続きます。そのあたりから流れの中に足を入れたくなります。そこを抜けると、ツエンティクロス(二十渉)といわれる水際にそった長い渓流を辿る間にたくさんの枝谷から流れ込んでくる水を見ます。この辺りでは、水は本来の水です。なんのためらいもなく頭から浴びたり、飲み干したりしています。本谷が狭まってくると、歴史古道の徳川道から流れが急になる桜谷に入ります。ちょうど上高地から梓川を遡って横尾から涸沢に回り込む感じのミニチュアコースでしょうか。距離は半分くらいで、景観の迫力には負けますが、水に触れ合ったり、流れのリズムなど身近な体感はこちらは負けません。
 少しづつ流れは細まって、登りもきつくなり、ゴールの近さを感じさせます。そこを更に源頭に向けて詰めていくと、摩耶山直下にたどり着きます。そこでチョロチョロと湧き出してくる水を目にして、そっと手のひらにとって口にすると、もう理屈抜きで水のリアルさをそのまま飲み干すことができます。

布引谷、ツエンティクロスの流れ
ツエンティクロス(二十渉)photo by 六甲遊歩会

 大阪湾へ流れ出した沢の水が、海上で温められ蒸気・大気となって雲を作り、六甲の峰々の上で雨になったり、露になって山地に戻ってきて、流れを集めてまた海へと帰っていきます。自然が永遠に繰り返している循環です。ここでは、そういうことが何気なく半日ほどの時間でコンパクトに体験できるのです。このように感じ得たリアリティが、また都会の生活でも反映してくるのです。
 ビル群の一室で、カルキ臭くなった水道水と出会う。しかし、その水の源流を知る者、沢を登り詰め岩の間からわずかに滴る水を一度でもノドに通したことがある者にとっては、水が何であるのか、自然の何であるか、また同時に不自然の何であるかを十分に知ることができのです。壁に囲まれた部屋にあっても、そこで飾られた一輪の花に豊かな自然を感じることができる人ならば、その部屋には自然が広がります。風であれ雨であれ然りです。そういった感性を培っているか、わが内にある自然が問題なのです。
 話は少し逸れましたが(「資料3:引き裂かれた六甲山」の項目にあるコリン・フレッチャーの言葉も味わってください)自然と不自然が圧倒的にせめぎあっている状態がこのエリアのいたる所にあります。そういうことを肌で感じることによって、逆に、都会における生活の中でリアリティの乖離を受け止めやすくしてくれます。そんな不思議なバランスを教えてくれることが六甲山という舞台の大きな特徴だと思います。 

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●読本6:ウォーキングは健全なる狂気である?(遊歩大全)

コリン・フレッチャー著 遊歩大全(左:1998年版 右:1978年初版)
コリン・フレッチャー著 遊歩大全(左:1998年版 右:1978年初版)

〝歩く〟ことの素晴らしい快さは、すでに「歩いている」方には、何も説明もなくても、充分に理解されると思いますが、未だ「歩くことを知らない」方には、ピンとこない、実感のつかめないものだと思います。「なぜ、そんなしんどい事を?」と仰る方が大半でしょう。そういう「歩き」を放棄している方に、遊歩の素晴らしさ、愉快さ、爽快さを説明するほど厄介なことはありません。しかし、そういう方にこそ「歩き」の心おどる素晴らしさを一番知って欲しいのです。そんな一心で仲間を募っていきました。

私たちの歩きを どう呼べばよいのだろう?

   しかし、どう言えば、どう説明すれば、最初のとっかかりなるのだろうか?「一緒に、山をあるきませんか?」で、十分良いように思うのだけれど、そんな文言で人の目がこちらへ向いてくれるだろうか? あれこれ思案の末に、やや奇をてらって〝近所登山パフォーマンス〟と銘打つことにしたが、今イチしっくりこなかったのが正直なところでした。
〝登山〟と言い切るとなにか大仰、とは言っても、〝ピクニック〟では軽すぎるし、〝ハイキング〟では何かもの足りていない。もちろん〝散歩〟とか〝そぞろ歩き〟では自然に立ち向かう勢い感が薄い。〝ワンゲル〟〝オリエンテーリング〟それっぽいようで何か違う。妥当なところでは、はやり〝トレッキング〟あたりでしょうか。トレッキングは特にピークだけが目標にするのではなく、高原や山のふもと、川沿いや里山を伝うような歩きを指します。しかしながら、マウンテンバイクや、オフロードバイクを使ったものも○×トレッキングと呼ぶらしいので、もう少し〝歩き〟に特化・純化した言葉が欲しい・・・。いろいろ考えあぐねたけどれも、帯に短しタスキに流しであった。私たちの〝歩き〟をそっくりそのままを包み込んでくれるような呼び名がなかなか見つからなかった。
 そんな時でした。前項のような経緯で出会ったのがコリン・フレッチャーの「遊歩大全」でした。まさに邂逅といえます。恐る恐る開いたページの冒頭に次の一文がありました。

テレビ、ヘロイン、株。ひたすらのめり込み、常習患者になりがちなこれらの楽しみに、ウォーキング、すなわち〝歩く〟という行為にもつながっているような気がする。だが、精神的な偏執に陥りかねないこれらの狂気の中で、〝歩く〟だけは少し異質だなと感じられるのは、その狂気が快いものであり、精神の健全さにつながっているからであろう」(C・フレッチャー著「遊歩大全」より)

ウォーキングは健全なる狂気である?

 闇雲に歩く他に手立てが無い、禁断症状がやってくると不安で拠り所をなくしてしまう。そんな「ウォーキング中毒」の真っ只中でウロウロしていた頃でしたから、これはズドンと胸の奥に突き刺さりました。そうだ!〝これは健全なる狂気〟なんだろう! いままでの人生の中で、様々な言葉に動かされたり、踊らされたりしてきましたが、この言葉が、何か一番に腑に落ちたような気がしました。大げさに言ってこの言葉に出会うために35年を生き延びてきたのかも知れないと思った程で、そして、この言葉で、これからの35年をも生き延びることができるかとも思いました。そして、この衝撃とともに、大きな安堵も連れもってやってきました。出口のない深い谷で一筋の踏み跡を見つけたような、ホッと救われる思いでした。
 この一年近くの突然の中毒症状かと思える〝狂ったような歩き〟が〝遊〟であったこと、そして、それが精神の健全につながっていることを、数行の一文の中にこれぞとばかりに押し込めて、私に知らしめてくれたこと、そして遠く離れた著者の〝狂気〟とも共感できることになったこの一文に、私は心から感謝しました。健全とは自らの内にあるリアルにつながっていくものであり、いわば社会性そのものでもあります。つまり反社でない狂気、皆と共生していける狂気なのです。このことは〝一人で歩く〟ことと〝皆んなで歩く〟という相克をよく言い表しています。そして更に、それをヒョイと乗り越えさせてくれる可能性を含蓄したものでもあります。

アラインゲンガー(単独行者)であることは、みんな歩きの十分条件で、〝みんな歩き〟は、〝ひとり歩き〟であるための必要条件なのです。

 厳しい言いようですが〝ひとり歩き〟が出来ない者は、豊かな〝みんな歩き〟ができない。〝みんな歩き〟が出来ない者は、満たされた〝ひとり歩き〟ができない。ということでしょうか?
このようなことを踏まえた上で、私たちの一歩一歩を〝遊歩〟と名付け活動を開始しました。月二回の近所登山パフォーマンス(イベント名として残った)、うち元日越年キャンプ遊歩、春秋遠足、高山遠征、就学として六甲全山縦走と〝健全たる狂気〟の発露〟をすべく、怒涛の一年を突き進むように歩きました。

コリン・フレッチャーと遊歩大全

(The New Complete Warker 芦沢一洋訳)
コリン・フレッチャー著「遊歩大全」表紙より
コリン・フレッチャー著「遊歩大全」表紙より

 この後も度々「遊歩大全」は登場してくると思いますので、この本と著者であるコリン・フレッチャーに少し触れておきます。
原著の初版は1968年、5年後の改定版が芦沢一洋訳で日本語版として、1978年に出版されてました。〝ハイキング・バックパッキングの歓びとテクニック〟という副題のもと、バックパッカーための道具とその使い方を、ぎっしりと網羅した600頁を大きく超える技術書です。このバックパッカーのためのハウツウ本が、七〇年代の米国、ベトナム戦争で疲れ果てていた青年たちに、強烈に支持され、一つの生き方・スタイルを提示することになりました。広大な自然へ立ち向い、また深奥な自然に寄りそいながら自分を見つめるバックパッカー達にとって、心地良く、快い〝ひとり歩き〟の世界を押し広げることになります。必読のバイブルとも言われた名著です。
 私おいても、強烈な出会いの勢いから〝歩きのバイブル〟というような言い回しをしますが、一気に隅から隅まで丹念に読み込んだ訳ではありませんでした。まあ、ウォーキング技術の百科事典という感じで、歩行ペースは?、水の補給は? 緊急対応は?など気になったところを辞書引きするように読みました。当然ながら、六甲山と北米のウィルダスネスのスケールや環境的な違い、グッズの時代差などがあって、そのまま適応できないところもありますが、自然を前にした個人の心構え、身の処し方の基本はなんら変わることはありません。自分を囲んでいる環境と自分自身をいかに見定められのかということです。体力勝負というより、一種の頭脳ゲームでもあります。小さな工夫やアイディアで自分の〝歩き〟を創っていく楽しみ、快さを120%を教えてくれました。
 特記すべきは、コリン・フレッチャーと私の距離感を大きく縮めてくれた訳者の存在でしょうか。深化したアウトドアスタイルを追求していた芦沢一洋氏の力量が、訳本の壁を感じさせない名訳が裏で支えになっており、日本の裏山であってもウィルダネスウォークを味わえることを違和感なく伝えてくれたように感じます。何をおいても、〝コンプリート・ウォーク〟を〝遊歩〟と訳されたことは、実に素晴らしい英断だったでしょう。東洋的な〝あそび〟の風趣も相まって、フレッチャーの瞑想的ウォークとも響きあう。私たちの一癖二癖ある〝歩き〟も十二分にすっぽりと包んでくれ、そして更なる可能性とポテンシャルを十二分に感じさせてくれるものでした。

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伯耆大山の連峰、北麓より望む。photo by 四万十川洞安
伯耆大山の連峰、北麓より望む。photo by 四万十川洞安

 この年(昭和60年)、極端な円高不況にみまわれましたが、これを底に世はバブル景気という浮かれた時代へ向かうことになりました。神戸では5月、バース・掛布・岡田の三連発から、秋の日本一の覇権まで、タイガースの悲願達成にむけて上に下にへの大騒ぎで、実に腰が浮いたままの一年であった。多少はその風にあおられ「よし! 我々も仲間を集めて、身体を動かしながら、気持ちの開放や表現を楽しめもう!」と芝居とか舞踊とかだけにこだわらずに、身体を使うものなら何でもありのパフォーマンスグループを作ろうと、友人三人で「曙塾」なるサークルを立ち上げ、ミソもクソも取り混ぜたような仲間(塾生)募集を始めることになりました。
 下の写真がその時の募集チラシです。ヨガ・太極拳・ダンスなどの身体表現の活動募集に混じって、社会時事を勉強する井戸端シンポジウムの参加者や、歴史・心理学の勉強会、そして、登山部を設けて、近所登山パフォーマンスと称したハイキングの参加者も募りました。阪神タイガースの二十一年ぶりの優勝ということもあって、その社会的ハイテンションに乗じたイベント、第一回井戸端シンポジウムが〝阪神タイガース優勝と私〟と題して決行された。「永遠の2位としての美学を築いてきた阪神が、思わぬ優勝によってその存在意義が問われる! 来シーズンからどう生きていくのか?」を真剣に朝まで話し合おうというものだったが、結果は居酒屋でのドンチャン騒ぎに終始してしまった。その他、思いつつままに雑多なイベントを行ったが、一番に反響が大きく、参加者が集めたのが、なんと!近所登山パフォーマンスと名付けた山歩きイベントであった。
 まだ、一般的なアウトドアレジャーといえば海水浴か山歩きしかなかった昭和30年代から40年代に比べ、この頃には、海ではサーフィンやウインドウサーフィン、山ではクライミングや各種のトレッキング、映画ランボーの影響で山奥でサバイバルを楽しむソロキャンプなど、レジャーもスポーツもかなり多様化していた折、多少色褪せかけていたハイキングや山歩きというアクティビティを、もうちょっと違う感触で、新感覚で取り組めるようにしょうとターゲットを若い世代に絞った。
 そうは言ってもやはり、近所登山・裏山ハイクなんて、中年のオジさんオバさんのお遊びなんだろうかと、気を揉んでいたところ、曙塾登山部によく反応してくれのは、嬉しいことに若い世代だった。まあ、要は単なるハイキングなのだけれど、それを態とらしく、当時、日常語になりつつあったパフォーマンスなる横文字を拝借したが受けたのか、存外、初心者が気軽に山歩きを楽しめるハイキングサークルが少なかったのか、あれよあれよと言う間に二十人を超える参加者が集ってきた。
 その曙塾の会報一号に「場と人を求めて」という理屈っぽく気負った設立趣旨がある。少し恥ずかしいのですが、当時の〝歩き〟の転換点を思い起こすためにも紹介させていただきます。

曙塾ぶんぶん第一号会報 昭和60年10月発行
曙塾ぶんぶん第一号会報 昭和60年10月発行

曙塾、そして遊歩会の誕生

〝若いうちに必死に勉学に打ち込んだ訳でもない。歳を喰ってからも、ひたすら一つのものを追い続けている訳でもない。重い腰をあげてようとしても、なかなかそんな決意を持続し実行するに至らない。色々と問題は考えられるけれど、最大のネックは〝場〟がないところにあると思い、その場づくりとなるようにと安易に思いついた。これがこの〈曙塾〉である。
 本来〝場〟とは、何かを生み出そうとするところに生じるもので、〝場〟さえあれば、そこから何かが生まれるだろうと考えるのは調子の良いサロン的発想だということは承知している。できればそうならない為に、建前だけは高遠に、修学の場としての〈塾〉、新しい価値観を模索する場としての〈曙〉を願って命名しました。
 けれども実際には、何から手をつけるにしても、指導的立場のスペシャリストも居ないし、手持ちのスキルや知識・経験も不足している。たとえ仲間が集まったとしても右往左往するばかりで、今すぐに共同作業を通して、何かを生み出していくのは困難かもしれません。でもとりあえずは、集まろうとする人々がその各々の思いで、まず歩いてみる、のぼってみる、演じてみる、唄ってみる、踊ってみる、演じてみる、つまり自分の身体を動かしてみるところから始め、そういう一人称の作業でもって集団の中で互いに触発させながら実行(パフォーマンス)することを最初のアクションとし、少しづつ積み上げることで場が〝場〟として有効に機能していくだろうという予感があります。ぜひ一緒に何かをはじめましょう


 パフォーマンスアートとは、今でこそ誰もが平易に使う言葉ですが、当時としてはまだ、ハプニングなどと並んで前衛アートの思潮としての意味合いが強く残るちょっとした流行り言葉でした。最終的に出来上がった作品そのものに芸術的な価値があるのではなく、その作品に至るまでの行為〈実行〉こそがアートなのだという意味で、私はあえて必要以上にこの言葉を使っていました。つまり、観客が居るのかどうかの以前に、都会においては生活に埋没しがちな〝歩き〟という行為を通して、六甲山という舞台で、自然の前で素直に自分を表してみよう、まず自分を晒しだすようなアートな山歩きをしてみようと訴えました。
 参加者はそんな小難しい理屈にどれほどこだわってくれたのかは別として、素直に〝面白そう〜〟と反応して、顔をだし集まってくれたと思います。大学生や社会人一~二年生の若者が集まってきました。想定していたように、ガチな山登り派は居らず、ほとんどは全くの初心者か、緩いアウトドア派でした。ちょっとしたテーマ(歴史・社会・自然)を決めて、ワイワイとそのお題について語らいながら、ボチボチと山を歩くというような〝パフォーマンス〟でしたが、中には〝自然の中で心を躍らせ、身体を踊らせよう〟というメッセージを真に受けて、当時の若者の必需品だった大きなラジカセを抱えてくる者や、サバイバルナイフを腰に差した和製ランボーもやってきました。

 にわかに大所帯になって、〈曙塾〉では収まりきらず、こうなったら、六甲山ハイキングに特化した新規の別サークルとして独立、活動の充実を図ることにしました。ちょうどその頃でした。メンバーの一人から、東京・神田の古本屋街で見つけたという、上下巻1セットの本が、東京から送られてきました。コリン・フレッチャーの「遊歩大全」でした。この本との出会い、フレッチャーとの遭遇によって、私の〝歩き〟と私たちの〝歩き〟をピッタリと表してくれる〝遊歩〟という素晴らしい名を冠することができ、飛躍へと向かうことになりました。
 そして、昭和61年、「六甲遊歩会」が誕生。加藤文太郎の後追いから始まった手綱のきかない荒馬のような〝不明な歩き〟にさまよっていた我が足先は、〝遊歩という内なるウィルダネス〟へと向かうことになりました。

曙塾会報15号1987年12月号
曙塾会報15号1987年12月号

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●読本4:戸惑う〝歩き〟の正体なんだった?

由布岳・東峰より湯布院へくだるやまなみハイウェイを望む
由布岳・東峰より湯布院へくだるやまなみハイウェイを望む

 厳冬の日本アルプスで打ち立てた数々の実績から、暗い時代に踏み込みつつあった昭和初期、〝不死身の加藤〟〝単独行の加藤〟と称されヒーローのように登場して、あっという間に槍ヶ岳・北鎌尾根に散った文太郎の足跡を後追いした人たちは数え切れない。その足跡の延長線上からは、植村直己をはじめ、多くの登山家・冒険家が輩出されたといってよいでしょう。その線上のさらに端の端、枝葉の枝葉に私の〝歩き〟もあったのでしょうか? 残念ながら歩き出し時はもう30代も半ば、口惜しさも少しはありましたが、私における文太郎の後追いは六甲全山縦走後、彼の人のようにアルプスや冬山には向かわず、この狭い六甲山域から出ることはありませんでした。
 たゆまない努力・工夫・研鑽を黙々とつみ重ねて、単独できびしい自然に果敢に挑んでいった文太郎のもつ、その天性の逞しい生命力、冒険心、気概にはとうてい及ばないことは初めから承知のことでしたが、しかし、一個の青年として、山へ登ることの意味を真摯に自分の中で突き詰めようとした在り方は、大きく共感するところがありました。そして、その在り方は、高山や冬山でもなく、この平易な六甲山系にあっても、追求していくことは可能だろうと強く思い込むようになっていました。

パフォーマンスアート としての〝歩き〟

 私における六甲山での歩き出しのひょんなキッカケとは、ちょっとした体力テストでした。学生時代から手を染めていた演劇活動、その練習のプロセスで出会ったダンス(少し前衛的な)が高じて、二十歳代は踊りの舞台に熱を上げていました。三十路に入ってリタイア後、35歳の時に突然、舞台に誘われたところで、そんな体力が残っているのかな?」と思い、本当に何気なく六甲山を登ってみようと思い立ったのです。登山の経験が無かった私には、それはちょっとした挑戦でした。そして、アゴを出し、喘ぎつつも六甲最高峰の初登頂を成し得たのが、一つの契機になりました。(その頃に文太郎とも出会った)
 自然を追っかけて、またそれが阻まれたとしても、その都度に何かが体の内に響き渡って、その体感を自分の足に伝えながら山地を踏みしめていく。そして、さらなる刺激を求めるように、また足を踏み出していく。これはこれで十分自己表現になっていないだろうか。表現とまで言えなくても、何かを〝表出〟していることは間違いないないだろう。自然をたどる〝歩き〟の中にそういう己を乗せていくというようなパフォーマンス性を強く感じました。そういう〝表現としての歩き〟というようなことをぼんやりイメージしていた頃に、文太郎の〝ひとり歩き〟も被ってきたのです。
 舞台公演において、〝この下は奈落〟その板を踏みしめながら、我れを表出するという得もいえない心緒がありましたが、この舞台の上でのバーチャルな〝歩き〟ではなく、六甲山というステージでのリアリティに満ちた〝歩き〟にも、大いに心が躍りました。観客はいなくても、こんな形で自分を表していくことができるではないか。そう思ってはみたものの、だから、どういう風に歩いて、どう自分の歩きを見定め、自分で納得すれば良いのか、しばらくはさまようような歩きに明け暮れていました。これで良いのだろうかと混乱して、戸惑うこともありましたが、〝表現としての歩き〟に少しづつ手応えをおぼえきたことによって、文太郎への深追いにブレーキがかかったのは確かでした。冬山やアルプスに向うことなく、裏山である六甲山にとどまり、そこをステージにしようと思った大きな要因になったのです。
自己の表出〟とは〝自己の探求〟と表裏一体です。いわば、この頃から第二の自分探しが始まったのだと思います。「なぜ、歩くのか?」は「私とは何者なのだ?」とイコールになっていきます。ちょっと抽象的になってきました。実情はもっとシンプルな話です。その頃の実際の〝歩き〟に戻ってみましょう。

山から見るご来光には無限の力を、ただただ感じる。
山から見るご来光には無限の力を、ただただ感じる。

共に歩く、群れて歩く

なぜ、歩くのか? その答えを求めて歩く」とは言ってみても、山行の前日までは、地図を前にここをこのルートで歩いて、ここで食事して、何時頃には下山路にとりつこう等と、計画の確認やシミュレーションで頭はいっぱいです。当日も、不安な思いと、それに倍する未知との出会いの期待感の高まりの中で〝歩き〟は始まります。〝歩くことの意味は?〟なんてことは寸分にも考えてはいません。自然を前にしたときの身を引き締める緊張感、なんとも言えない高揚感を、初めてみる風景に塗りこめるように一歩一歩を踏み出していきます。私にとってのささやかな冒険への挑戦が始まっていくのです。
 名のない小さな枝尾根や支谷に一人立ち入って、行き先も退路も見失うという憂き目にも合います。藪漕ぎの果てにイノシシの寝ぐらに突入してしまったり、ホタルを追っかけて沢に落ち足を痛めて帰れなくなり、その場で夜を明かしたり、岩の氷に滑って滝壺に落ちあわてて、有馬温泉へ逃げ帰ったり、この少年のいたずら遊びのような探検ごっこは、目の前の状況をどう判断するのか、エマージェンシーにどう対応するか、このまま目標をクリアしていけるのか、というようなことで頭の中は、常に一杯なのです。しかし、その緊張感の合間、手のひらで掬い上げる渓流の水の美味さ、フト樹林の間から垣間見る風景の美しさ、頂から見渡す果てしない山並みの幽玄さ、幾重にも盛り上がってくる青緑の深さ、沢から吹き上げてくる風の清清しさ、それら都会の日常ではとうてい得られることのない、正にリアルな体感が、自分の身体の奥底へ向かって、涙がでるような喜びをつれて染み込んでくるのです。
〝私は、この為に歩いているのだろう〟〝それ以外に、どんな答えがあるものか〟心地よい疲労感、充足感に酔いながら帰り道をくだり、バスや電車に乗りつつ、今日の〝歩き〟をリプレイしながら胸の奥で歩き直すのです。ほてった高ぶりが少しずつクールダウンされてくると、少しづつ心持ちが変わってきます。自宅で風呂に入って布団に潜り込む頃には、快く満ち足りた達成感の裏から、はやり〝なぜ、私は歩くのか?〟という思いがまたまた顔を出してくるのでした。この相克するような思いの行き来は、いく度も繰り返されます。それは、前に引用した新田次郎の〝深いかなしみ〟という情感よりは、もっと未分化なもので、要は訳が分からないという〝戸惑い〟に近いものだったのでしょう。
 ともかく私は、内から押し上げてくる〝歩き〟の渇求に戸惑いながらウロウロしていたのでしょう。その〝歩き〟の中で私は表出されたり、自分を再発見したり、それに嫌悪もしたりしながらさ迷っていたに違いありません。

大分県・由布岳 マタエ
大分県・由布岳 マタエ

 これを文太郎のように、一人きりで突き詰めるように進んでいたら、おそらく私は、出口を見つけ出すまで、相当な時間がかかったかもしれません。でも、従来の寂しがり屋という私の性分が、一人で歩くところに、みんなで歩くことを無理やり引き入れようとしました。実はこのことで、あっさりとこの〝戸惑いの歩き〟を出口へと導かせることになりました。「そうだ、誰かと一緒に歩けばいいんだろう。仲間と共に〝歩き〟を探せばいいのだ」と、アラインゲンガーから舵を切ることができたのが、大きな分岐点となりました。
 小説(新田次郎)の単独行者・文太郎においては、この〝皆と共に歩く〟パーティーを組むことで、悲劇的な結末(遭難)を招いたように描いています。しかし、残念ながら結果はそうであれ、実像の文太郎においては、決してそうではなかっただろうと推測します。(別の要因があったのだろう)彼もまた、みんなと歩くことへの切望もあっただろうし、長命でありえたら、そういう歩きをおそらく実践していただろうと想像します。私を始めごく普通のどこにでもいる〝歩き〟を愛する遊歩人と何らかわらない存在です。ただ、彼の人の疾走するような脚力が、ある方向の〝歩きの世界〟に押し上げていったことが、私たち凡人と違って伝説の存在へと導びかれてしまった所以でしょうか。
 ズバ抜けた脚力も体力もなかった私は、群れの世界の方へ歩みを進めました。元々が芝居やダンスでサークル活動してことも相まって、群れ集うのは得意です。早速のこと「曙塾(しょじく)」なるサークルを結成、芝居や踊りの活動と別に登山部として、多くの仲間とこの〝六甲山遊び〟へ踏み出すこととなりました。

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●読本3:孤高の人・加藤文太郎を追いかけて

 昭和60年、ひょんなキッカケから六甲山に取り憑かれて(憑いて)おぼつかない足取りで、慣れない私の山歩きが始まりました。それは35歳の時でした。最初の一年足らずは、それに関する経験なり知識、装備グッズも乏しいままの、今思えば、場違いで、滑稽な〝歩き〟だったと自分でも失笑しながら思い出しています。いきなり高級レストランに作業着で入ってしまったような気不味さとでもいうのでしょうか。そう自分でも感じながらも、本人はセオリーや見栄えは二の次で、とにかく勇む足に引きずられながら、私は山へ山へと向かっていたようです。
 まずは有り合わせのモノ、手元にあるモノからはじめようと、リュックも小学校か中学校で使っていたモノを引っ張り出してみた。旧陸軍の兵隊さんが担いでいたようなラクダ色のキャンバス生地のリュックサックでした。靴も帽子もとりあえず今あるモノを使った。雨の日は、ゴムガッパと長靴という出で立ちでハイキングに出かけた。さすがに半時間も歩けば、外から濡れるよりも、内側からの蒸れの方が大変だと気づく有様だった。まあ、それなりの道具から趣味に入っていく人は、ビシッと揃えてから満を期して行動するのでしょうが、私の場合は、とにかく〝歩け〟と追い立てられるようなスタートでしたから、グッズの方はあとでボチボチと必要に応じて取り揃えていくことになりました。しかしながら、やはり靴だけは無頓着ではおれないと、山歩き用のシューズを探して、キャラバンシューズを買うことになりました。

キャラバンスタンダード
キャラバンスタンダード

登山靴ならキャラバン!

「山へ行くならキャラバンでしょう」という時代がありました。日本山岳会のマナスル登頂(S.31年)の成功から、大衆登山ブームに火がついて、植村直己らのエベレスト初登頂(S.45年)の頃には、私ら団塊の世代をはじめとする多くのアウトドア派が、野山に足を踏み入れるようになっていました。この山派の多くが、キャラバンシューズを履いていました。私の長兄や姉もこの靴を履いて、夏山登山やハイキングをしていた記憶があって、「山=キャラバン」のイメージがしっかりと焼き付いていました。マナスル登頂のベースキャンプまでのアプローチ用シューズ(軽登山靴)として、キャラバン社の創設者(佐藤久一朗)によって開発されたこのシューズですが、戦後、まだまだ娯楽の少なかった時代のレジャーシーンを華々しく彩った象徴的なアイテムといえます。
 それまでには登山靴って無かった? 日本人は一体何をはいて山登りをしていたのか?と、ふと考えさせるほどの一択品だったように記憶しています。「地下足袋の加藤」で知られる伝説的な登山家・加藤文太郎は言わずもがな、無積雪では地下足袋を使っていました。幕末の英人外交官アーネスト・サトーも登山好きで、革製釘靴で六甲山を登ったといういう記録があります。明治〜大正期では、外国人が使った鋲打ちの革靴は、重いとかオーダーメイドで高価なこともあり、日本人の多くは慣れ親しんだ草履を登山でも使っていたようですが、すぐに履き潰れることもあって、長い縦走などでは何十足もの草鞋(わらじ)が必要だったようです。俳人の河東碧梧桐ら文人たちによる日本アルプス縦走(針ノ木峠〜槍が岳)では150足もの草鞋を人夫に担がせたという紀行文も残っています。やはり、キャラバンの登場まで、専門登山家以外の一般ハイカーなどにとっては、山専用の靴はやや縁遠いものだったかもしれません。
 私がキャラバンを初めて手に入れたのが、キャラバン誕生から、時代が30年ほど下った頃で、すでにこの辺りなると、国内外のいくつかのブランド品が、目的や多様なニーズに合わせたシューズが出始めていました。現在に至っては、アルパイン、マウンテニアリング、バックパッキング、トレッキング、ライトトレッキング、ハイキング用と百花繚乱、さらには通勤用トレッキングシューズなるものも平然と並んでいる。モノへのこだわりの薄い私は、通勤用であろうと、散歩用であろうと試履でピッタリくればそれでOK。おかげで靴箱は山用シューズで溢れてれていましたが思い入れの深いシューズは、はやりキャラバンスタンダードでしょうか。

長い稜線が続く
長い稜線が果てしなく続く

●六甲全山縦走

 話を元に戻して、キャラバンは履いたものの、麦わら帽やゴムガッパで、六甲山を歩いていた私の最大の目標は、この山系の西の端から東端までの尾根を歩き続ける〝全山縦走〟でした。ここに気が向いたのは、この年の初めに何気なく読んだ新田次郎作の「孤高の人」がキッカケとなりました。この小説の主人公が先にふれた地下足袋の青年・文太郎です。兵庫県北部・浜坂町から技術者になるべく神戸にやってきた彼が、地図遊びをはじめ、山歩きというものに目覚めて、一人で歩き出しのが、まず、裏山であった高取山(長田区)でした。そして、その足先が六甲の峰々へと広がって、とり憑かれたように山々や道々をかけ歩くようになりました。
 この山系の縦走路(50数km)、西の塩谷から東の宝塚までは、一日で歩き通すことも大変な距離ですが、それをさりげなく完走したのち、そのまま市街地を徒歩で自宅まで(計100km超)帰っていったという伝説を残しています。その歩きの速さの凄さもそうですが、私が惹かれたところはその〝歩き〟の独自性です。普及品の少ない大正時代にウエアや靴、装備品、携行食などを様々な工夫で機能性を追求していったその手作り感にあふれる歩く様が何とも心地よく私に共振しました。初めての北アルプスで、作業着、地下足袋、古ズボンにゲートルの文太郎は、洋風アルピニスト風の関東学生登山者に笑われるシーンがあります。アルピニズムの萌芽期の大正時代、日本にも勢いよく西洋の技術や装備を導入されていましたが、そういった流行や風潮にも振り回されることなく、自分の体感と経験を土台にして、山に立ち向かっていきました。その自己流を貫いた独創的な〝一人歩き〟に私はたまらなく惹かれました。文太郎は、山という自然に立ち向かうと同時に、彼の深く裡に向かって〝歩き〟を生み出そうとしているように思われました。私も当初は、訳も何も分からない状態で歩きだしましたが、この〝歩き〟が自分への内に向かっていくものだろうという予感がありました。そういう意味でも、自分の足で文太郎の足跡を〝トレースしたい〟と無性に希求するようになりました。

●なぜ山へ登るのか?

人はなぜ歩くのか?llustration by 四万十川洞安
    llustration by 四万十川洞安

 当時の学生登山会や社会人登山会でも、天狗と称された彼の〝速さ〟には付いていける者はいなかっただろうと言い伝えられています。ましてや、中年にさしかかった俄かハイカーの私の脚力では、到底のところ届くはずもなかったし、冬山への扉を叩くまでも至りませんでした。しかし、六甲山における彼の足跡とその気配を追っかけることで、一から自分の歩きを作り出していくという単独行者の気概は、十分に学ぶことはできました。
 小さな沢筋を辿って、そこそこの滝に出くわす、「さて、岩に取り付いてそのまま登るか」または「サイドを巻いて滝上にでるか」いっそ「尾根に逃げるか」文太郎だったらどうしたのだろう。ここでどんな行動食を取ったのだろうか。冬のノーテントキャンプでも、雪洞で眠る文太郎をイメージしたりした。全山縦走にも文太郎のような周到な計算を立てた。まずは、下見を兼ねて全縦走路を三つに分けて歩いてみた。その都度に、レモンや蜂蜜を入れた水の工夫や炊き込みの握り飯、野菜サンドなどの行動食も工夫したり、雨具や装備、ウェアなども選分していきました。
 30数年もこの六甲の山麓で暮らしておきながら、子供の頃から見上げていたほとんどのピーク名を言えなかったことが情け無かった。小説に登場してきた須磨アルプス? 鍋蓋山? 石の宝殿? 水無山? 塩尾寺? 六甲の山々は、母のような慈愛の眼差しを、麓の住人たちにそそいできたはずだろうに・・・。私は申し訳ない、気恥ずかしい思いをいっぱい抱えながら、その峰々をつたない歩きで探し求め、ひとつひとつの頂に後追いの足跡を重ねていきました。
 そして、半年後に何とか全山縦走を完走する(所用時間16時間40分)ことになり、文太郎の足跡トレースは一段落することになりました。しかしながら、一人悶々と「なぜこんな風に〝歩き〟に魅入られているのだろうか?」という自らの内に向かう思いだけは、ますます膨らんでいくばかりでした。小説の文太郎においても、いく度も「なぜ、山へ登るのか?」と自問は繰り返されます。

 なんのために山に登るのかという疑問のために、山に登り、その疑問のほんの一部が分かりかけたような気がして山をおりて来ては、そこには空虚以外のなにものもないのに気がついて、また、山に行く・・・この深いかなしみが、お前には分からないだろう〈新田二郎・孤高の人より引用〉

 私においての〝歩き〟も全く同様でした。「なぜ歩くのか? その答えを求めるためには、ただ歩く他に術はなかった」〈遊歩人日誌より〉

神戸市・須磨アルプスに残る旧全山縦走路(文太郎道)
     神戸市・須磨アルプスに残る旧全山縦走路(文太郎道)

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●読本2:幸せは〝歩き〟の距離に比例する?

愛用のソロキャンプ用のグッズ

〝歩き〟の二つの顔

「成功は、移動距離と比例する」という惹句と出会うことがあります。〝幸せ〟の部分を、成長・発想・運気とかいう言葉にも置き換えても使われます。どれも、尤もだと納得してしまいます。その人が持っていた意欲とか努力とかを単純に〝移動距離〟という言葉で置き換えたものでなく、実際に自分の身体を体感をもって移動させることの重要性を示していると思います。
 現代のビジネスシーンにこの言葉を当てはめてみましょう。インターネットや通信機器を使えば、仕事場や部屋に閉じこもったまま、情報を収集・操作・発信ができますし、人との交流や交信に困ることはありません。そういう風に移動距離が限りなくゼロに近い方法で、成功したり、成果を得ている人も数多く居られるでしょう。こういうスマートでクールな仕事のやり方ができるのに、わざわざ自分の身体を〝移動〟させることにどんな意味や価値があるのでしょうか? わざわざ汗をかいてまで、あちこちへと前時代的なスタイルであちこち動き回るアクティビティの必要性は何なのでしょう?
 そこには多くの体験者が語っているように、部屋でパソコンやスマホ相手にじっとして動かずにする仕事では、得られない何か重要で貴重な要素がたくさんあります。 飛行機や新幹線で(バスや電車でもいいですが)飛び回って、移動距離が増えれば、その分リアルな情報や、現在進行中のあるがままの環境とも数多く触れ合うことができるでしょうし、生々しい刺激や活き活きとした交流も増え、様々なチャンスやモチベーションが芽生えます。また、風景が変わっていくことで体感そのものもリフレッシュされて、感性を開放したり、発想を転換したりする自由さも得ることができるでしょう。と言っている点です。つまり、動き回ることによって、自分がやろうとすることと、外の世界をすり合せていくことで、今という時代と、それに触れ合っている〝生の自分〟を体感できるところに、イノベーションが生まれ、それが成功への強いモチベーションとなっていくのでしょうか。ひとり自分のお尻にムチ打つのではなく、世界の変化、社会の動き、人々の流れなどを巻き込んで、その勢いで突き進んでいくという力強さでしょうか。

 逆に「リスクは、移動距離と比例する」とも言えます。当然ながら部屋でじっとしているより、外に出て、車や飛行機に乗って動き回れば、事故や事件、環境への不適合など多くのリスクが待ち構えています。最悪の場合は、幸せや成功とは真逆な結果もあり得ます。移動距離は不幸とも比例しているのです。しかし、「じっと家に居れば、事故に遭わずに済んだのに」と言ったり、「あれだけ動き回ったったから、今の成功があるのだ」とか言うのも、共に結果を見てからの台詞です。
 その前に考えておきたいことは〝結果〟そのものではなく〝移動〟そのものにあります。この読本では〝歩きという移動〟がテーマになっていますので、ビジネスシーンと違って、成功とか成果に直接に至るものではありませんが、個人の〝生き方や幸せ〟ライフスタイルに、深く関わっていることは間違いありません。今まで、さんざ頭を悩ませ、考えさせられた〝生き方や幸せ〟に比べて、とんと見向きもされなかった〝歩き〟ですが、この〝歩き〟が本来的に持っている魅惑的な力は、人生を彩るものとして大きな要素となります。

幸せは、歩きの距離に比例するのか?

illustration by 四万十川洞安

 ちょっと禅問答のようで、理路整然とうまく説明ができないですが、ここから皆さん騙されたと思ってまずは〝歩いて〟みましょう。
 まずは、閉じこもっていた家から、一歩を踏み出してみましょう。玄関の扉を開けて表に出ると、部屋では感じなかった空気の流れと出会います。冷ややかさに肌が反応して、凛と身体が構えることもありますし、爽やかな温かさで気が和らぐこともあります。または、花粉ぽい風や臭い排気ガスで気を削がれるかもしれません。そこでちょっと空を見上げて見ましょう。もう朝日が高いところまで登っていて、ジリジリと陽光が降り注いでいれば日傘を、重い雲が下がっていたなら雨傘を手にして出発です。ぶらりとあてどもなく散歩をはじめても良いですし、お買い物や図書館など、目的地を設定してそこへ向かってもかまいません。仕事のある方は、いつものように職場への出発でも良いでしょう。私もサラリーマン勤めが長かったので、それを例にして平日の一日の足跡を追いかけてみましょう。
 大抵は、バスや電車の時間に追われてバタバタと停留所や駅まで歩いて行きます。車内では押し合い圧し合いの有様をじっと見つめるか、車窓から流れる風景をぼんやりと眺めているかです。窓際なのか、人ゴミの真ん中なのか、車内のポジションででそれは決定してしまいます。下車した後は職場まで、またまた早足で歩いていくのですが、勤務現場に近づいてくると、少しずつ緊張感が高まってきて、自然に気合が入ってきます。さながら、戦場に向かう兵士の歩みのように戦闘モードに突入するのです。この気持ちの作り方は特に意識したものでなく、日々の繰り返しの中でルーチン化されたものです。職場ではデスクワークでしたが、それであっても、雑事を処理するために職場内をウロウロ歩き回ります。何れにしても、昼食に出かけたり、喫煙場所を探すために動く以外は、勤務上・作業上の必要なアクティビティです。
 仕事が終わり、やっとさ解放された帰路は、朝とは逆に気持ちをクールダウンしながら駅に向かいます。緊張もほぐれて足取りは極めて自由です。ちょっと屋台で一杯という気分の時は〝歩き〟にはちょっとした充足を感じたりします。道草した後、電車・バスを乗り継いで、もう少しの家路をほろ酔い気分で歩いて帰ります。同道してくれる夜空の大きな月を見上げると、あれこれ思い出が湧き上がって感傷的なったり、犬に吠えら慌てたり、近づく我が家の灯りが気になったりしながら玄関にたどり着きます。
 職務内容は様々でしょうが、多くの勤労者の一日は、こんなものでしょう。仕事場に向かって歩く、作業のために歩く、帰宅のために歩く、ごくごく日常的な歩きに支えられた一日です。その中の一歩に、自分と外界を結んで、何かしら自分らしいものを体感できた一歩があったかも知れませんが、それを意識して丁寧に取り出して見ることができません。幸せにつながっていくような〝歩き〟はついつい日常の中に埋もれてしまいがちです。

山口市佐波川流域
 私自身を踏みしめるような一歩がどこかにある・・・

 では、仕事ではない休日に歩いてみましょう。平日には出来ない趣味や習い事、旅行、ショッピング、ライブや映画というような楽しみに向かいます。内容は百人百様ですが、平日とは違う世界に身を置いて、違う時間の流れの中で過ごそうというリラクゼーションには違いがありません。しかし、日頃とは違う世界に向かおうという移動であっても、その歩きは、やはり手段としての歩きになりがちです。多少はウキウキ、ワクワクしたりするものの、平日の勤労者としてのセカセカ、イライラした歩きと同様で、目的としての歩き、自身の裡に響いてくるような歩きにはなりません。歩きそのものを楽しもうという無目的でシンプルな〝歩き〟をイメージしてください。
 まず〝散歩〟が一番手に浮かんできます。〝散歩〟にも、気分転換、屋内とは違う空気を吸いたいとか、区切りのルーチン、健康増進の運動のためとか、ワンちゃんのお世話だとか、いろんな内容のものがありますが、それらにもまだ生活感が匂います。それよりもっと目的感の希薄な歩き、何の目的もなく、ブラブラとさまようように歩く〝そぞろ歩き〟があります。あてのない、これといった目的のない、漫然した〝歩き〟です。といえば良くイメージが伝わるでしょう。 「あれ、私いま歩いていたんだ・・・」「何処へ行こうとしてたのかしら」何かに誘われるようにふらふらと歩き出していたというような歩きを、誰しもが一度は経験している筈です。このような一歩には、日常的な生活の足である〝歩き〟とは違う、自分の中にあるもう一つの魅惑的な世界に踏み込んでいくキッカケとなる〝歩き〟の別の顔、〝幸せ〟に繋がっていく〝歩き〟の顔があるのです。
 では、そんな顔の一つ一つを私の体験を通じて覗いていきたいと思います。

田んぼに大雪が積もった(2017年)
この道しかない春の雪ふる 山頭火 (田んぼに大雪が積もった2017年)

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