〓 内なる活断層のざわめき4〔No.11〕

ものすごい勢いで原型復帰が始まった
しかし、ココロのガレキは増え続けていく
(編集部作成のビジュアルです)

 1月20日、崩壊した本社社屋の中から恐る恐る書類を運び出した。この社屋に代わって、かろうじて倒壊をまぬがれた隣の4階建て別館に社の機能を全て集めて再起を図ろうとしていたが、その別館に〝赤紙〟が貼られ、立入禁止になってしまった。先程まで元気にガレキを片付けはじめていた社長や社員たちは一様に肩を落とす。(4日目のメモを参照して下さい)

復興は線引きから始まった・・・

 震災後、倒れず残った建物が「果たして安全なのか、どうなのか」を峻別する専門的な判断が早急に必要になった。次の余震で倒れるかもしれない、地盤が崩れかけている、柱の亀裂がひどい、倒壊をまぬがれた人たちも多くは二次の災害を怖れて避難所へ移った。また、逆に崩壊の恐れがある建物にも関わらず、そこにこだわり続け退出しない人たちも多くいる。
どちらにしても「これは安全、これは危険」という専門的(公的)な線引きが必要になってくる。
 突然の、それこそ想定外の出来事でしたから、そういった認定のシステムがどれほど整備されていたか知りませんが、まず、専門家の数が圧倒的に不足している状態は確かでしょう。震災エリアの全家屋を調べるのにどれだけ時間がかかるか想像も出来ません。とりあえずは行政に対して凄い要請があったとも思います。行政も動きたくても動けないのが実情で(この辺りの話は、よく調べたものでないので感想に過ぎませんが)建築物の安否の判断を急ぐものは、私的に専門家を探し調査を依頼することになります。

 日時が過ぎるにつれ、公的、私的入り交じって調査が進み、赤紙=全壊、黄紙=半壊、青紙=安全というおおまかな線引きがなされていきました。最終的にそれが公的な保障の基礎となってしまいました。
当時、どんな基準があったのかわかりませんが、調査と言っても機器を駆使して、何日も費やしてやる余裕などありません。壁と柱をパパっと見て、「おそらく駄目でしょう」とか「なんとか補修で持つでしょう」と言う程度のものです。
でも、やはり専門家に「ダメ」と言われれば、もう気分は「駄目」です。
先が見通せない状態というのは、戦場や雪山遭難と一緒で、理屈ではありません。誰か勢いのある、覇気のある人の声で動くものです。叱咤、鼓舞する声が萎えてしまえば、個々の力は空しいものになります。

えもいえぬ開放感が訪れた・・・


 「再起不能」だろうという刻印を押された別館の3階に一人で上がっていった。
自分のチームがあったフロア。以前の姿が思い出せないほど散乱した風景だ。天板が畳一枚ほどある大きな、お気に入りの自分の木製デスクも片足が折れて、パソコンや周辺機器がずり落ちている。(昔のPCの)堅固なケーブルのお蔭で、ぶら下がって大破を免れているが、これらが生きているかどうか電気がない以上調べようがない。
疲れが、どっとあふれて柱に寄りかかるように座り込み、漫然とぼーっとした焦点の定まらないような視線でそれらを長い時間眺めていました。いや、ウトウトとしていたのかも知れません。
 われもわれもとワイワイ猛進していたバブルが弾けて、抜け出しようのない底なしの不況が襲い、その中で勝ち組・負け組を決める厳しい競争の足跡は、各々のデスクの上にも十分染み込んでいました。好きだったから続けられたもので、職場は戦場のように毎日毎日が目紛しく過酷なものでした。何のために働いているのか? 一日の大半をここで何のために費やしていたのだろうか?

 今は見る影もありません。そして、これからこの風景がどう変わっていくのかも分かりません。恐らくは、どんな形にしろ、誰かが片付け、立て直し、仕事を復活させ、何時の日にか、以前のようなサラリーマン戦士に立ち戻って、早朝から夜遅くまで、自分というものを忘れるように忙しく立ち回って、一瞬でも気を逸らしてしまうとたちまち第一線から落ちこぼれていくような緊張感に喘ぎながらも、会社というものに引き摺られて生きていく自分が、その風景の中に居るのかも知れない・・・。
 と思った瞬間、背筋あたりに何かざわめきが起こりました。その身震いの前兆のようなざわめきは、ゆっくりと全身に拡がり、そして、わっと発熱するように昂った。

「今、私は解放されている」

「昨日へは 戻りたくない」「否、戻してはいけない」
 こんな大きな犠牲や試練の果てに、地震前の同じ自分、同じ会社、同じ社会が、以前のようにただ再現されるなんてあり得ないことだ。復興を叫ぶ前に、まず戻すべき自分とは、戻すべき会社とは、戻すべき社会とは何なのかをしっかり見つめておきたい。これは今しか出来ない。悲しみで前など見れないという方々も多いでしょうが、出来ればその方々も含めて、この先をこの暗闇の向こうを考えていきたい。

 この思いが芽生えたことから私たちの情報誌づくり・出版活動は始まることになるのです。そして、2月末に発行予定の創刊号、編集コンセプトは「ネバー・カンバック・イエスタデー」に決定。単に、昨日あった世界に立ち戻ることを拒み、新たな世界への旅立ちの旗を掲げました。

 裏表紙に、編集メンバーのそれぞれの思いを込めて短いコメントを載せた。

■正しいリ・セットボタンの押しかた

基本的にはもう一度、やり直すためのボタンがリ・セットボタンであるが、
今回のリセットは、もとにもどらない。
今までの神戸は消えたが嘆くことはない。
これからは、もっとすばらしい神戸が待っている。
今の神戸は他の人には、ひどい有り様に見えるに違いないが、
中にいる私達は、なにか温かいものも感じたはずだ。
このまま、やみくもに復興に走りだしたら、
いままでの神戸では感じられなかった大事な何かが、
無くなってしまうのは目にみえている。
それを無くさないようにして復興するのが僕らの仕事だと思う。

お父さん、お母さん、胸を張って子供に言えますか。
「やるだけのことはやった。」と・・・。

今、やらなくちゃ。
いま、戻したい社会をしっかり見つめないと・・・。
次の地震じゃ遅すぎる・・・。

(続く)

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。
(*このコメントは震災の12年後である2007年当時の旧ブログのものです。現在(2021年2月)、誤字などを訂正しつつ、本ブログへデータ移行しています)

内なる活断層のざわめき3〔No.10〕

仕事がしたくても仕事ができない
おもわずこんな張り紙にも目がいってしまう
(編集部撮影)

こんなブログにも「いかにも共感した」というような顔をして、災害用のグッズの宣伝TB(トラックバック)を付けていく無神経な奴がいる。気分は良くないが、このご時世少しは大目にみてあげよう。
しかし震災時、復旧が進んできた頃、ボランティアの顔して近づいてきた人が、ある時期から「火事場でひともうけ」とビジネスを始めた。挙げ句にあれこれ見返りを要求してくる。こういう類いの連中には本当、心を挫かされた。この時期で一番辛いことのひとつであった。

商売で乗り込んできているなら最初から堂々とビジネスをすれば筋は通るのだ。現に「いくらでやりまっせ!」「こんだけで売りまっせ!」などと色々な交渉ごとは一杯あったのだ。それはたくましい性根と言っていいだろうが、ボランティアの皮をかぶった卑しい性根はどれだけ人を傷つけたか、いま思い起こしても憤然としてしまう。本日は何やら筆が進まない。

【1995.1.20/震災4日目メモのメモ】

会社/社長がいたって元気。陣頭指揮をとっている。
崩壊した本社社屋から書類を回収する。
背中をかがめて潜り込む。思わず足がすくむ。おかしなものですぐに慣れた。
でないと神戸では何も出来ない。
専門家が、別館ビルは崩壊の危険性が高いと「赤紙」
このビルでの再起にかけていた社長は肩を落とす。
社員に動揺が走る。だれがどう取りまとめるのか。
刻々と状況が変化する。その度に振り回される。

避難所/Dさん母娘は風呂へいったそうだ。近くの風呂屋が再開したらしい。
銭湯の周囲に百人を超える人が並んでいる。一体何時間待つのか。

実家/姉から両親の避難の要請がうるさい。
車も動けず、足腰の弱い二人をどうやって避難させるのか。
つながる限りに電話をかけ続けた。お蔭でほぼ近しい知人は大過ないことが分かった。
妙に、興奮している。頭の中が昂っている。
(これはメモではないが/今日の昼頃、会社で感じた興奮がさらに高まってきたと思う)
「どこかが焦げ臭い」と母が言い出す。マンションの周囲を幾度も回る。
興奮がおさまらず朝まで眠れなかった。
母も眠れなかったようだ。

(続く)

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。
(*このコメントは震災の12年後である2007年当時の旧ブログのものです。現在(2021年2月)、誤字などを訂正しつつ、本ブログへデータ移行しています)

〓 内なる活断層のざわめき2〔No.9〕

不謹慎だが、なにやら泳いでいるようで可笑しい。
港湾部ではいたる所でこんな風景が・・・
(1995年1月30日 撮影/T・I)

 朝、連れ合いとこれからのこと話し合う。このまま二人で垂水に留まって頑張るか、それとも・・・私への負担を軽くするのか、悩んだ末、彼女は実家へ避難することを選んだ。
西明石駅まで歩いて、そこから電車で姫路へ出て新幹線で帰郷した。

 震災3日目のもろもろ、当時のメモだけを掲載しておきます。

【1995.1.19/震災3日目のメモ】

会社/生き埋め状態のKさんが一日半ぶりに救出されたとのこと。
まだ、安否が確認できない社員が10数名。電話がつながりやすい大阪のBが確認係に。
傾いたブロック塀が危険なので倒す。
社長はいたって元気がない。社員の不安、憶測・・・

避難所/昼から避難所を回る。
古い家屋で一人暮らしのCさんが心配だったが元気だった。
近所の人たちの手助けが大きい。
Dさん母娘は○○避難所で無時を確認。ぐったり疲れて眠りこけていたので会わずに帰る。
身重のMさんはまだ、不明。玄関に伝言を置いておく。
実家/大阪の山のメンバーから電話がつながりはじめた。

山の会、一人をのぞいて安否が確認できた。情報の収集と、バイクの調達を依頼する。
大阪の連中の反応はニブイ。しかたないことか。
不安定だが電話が方々から入り出した。
次兄が母の髪を水で拭いてやる。少しは落ち着いたか。
まだ興奮やストレスがたまっているようだ。
自室に半畳ほどのスペースを作って座るようにして就寝。

(続く)

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。
(*このコメントは震災の12年後である2007年当時の旧ブログのものです。現在(2021年2月)、誤字などを訂正しつつ、本ブログへデータ移行しています)

〓 内なる活断層のざわめき1〔No.8〕

心の何処かしらに亀裂が広がっている。
おそらく昔からあったものなんだけれど・・・
(1995年1月22日 撮影/J)


 変に横道に逸れないためにも、次のこのブログの展開をかいつまんで書いておきます。震災4日目に、ある心のざめきが起こります。
「昨日にもどりたくない・・・」
 そして5日目に、決心が固まり、6日目から出版への行動が始まりました。「本を出そう! 水も電気もパソコンもない此所から、このガレキの中からこの時を発信できる本を出版したい!」2月28日に出版された創刊号に次の一文をかかげました。

 「この野郎!やられぱなしでたまるか!」と言うのが主直な気持ち。
 マグニチュード7,2の地震のパワーをどんな形でお返ししてやろうか?
 これが大きな犠牲をともなった警告であるなら、堂々と受けて立とうじゃないか!
 とうてい物理的な力では自然には対抗しえないが、個々の体験で軋んだ内なる活断層のパワーを集めるなら、ちっとはお返しができるだろう!・・・・
 1.17を基点とした個々の体験を繋ぎ併せ、照らし会わせ、ほぐし合えば今までの社会に、そして、今までの私たちの生活に欠落していたもの、埋もれていたものが見通せるかもしれない。復旧とあわせ新たなる人間社会の復興のため、この冊子がその一翼を担うことができれば幸いです。
 不定期なると思いますが今年中に六号までを限定発行する予定です。それである種の役目は終わると思います。その後は全く未定です。創刊号はさまざまな制約もあって40ページと予定の頁数をクリアできませんでした。次号は80頁を目標とします。500円の頒価に異議があるかも知れませんが、次号以降の充実でご勘弁下さい。配本は自主ルートの開発です。第三種郵便は認可されません。郵送料軽減のためにも、二号以降の充実した紙面づくりのためにも、ぜひ多くの方々の年間購読と多部数買い取り販売を切にお願いいたします。

 自ら内なる復興への挑戦が始まりました。本当の試練はここから始まっていきました。

【1995.1.18/震災2日目のメモ】

 ほとんど昨日と同じ動きをとることになった。背中にはどこかで給水できる処があればと、キャンプ用のポリタンをはじめ万一何処でも生活できる道具、といってもすべて山の道具だが、それらを押し込んだ10kgばかりのリュックを担いでママチャリまたがり、神戸の東西を行き来することになった。
 東西に伸びている神戸にはJRの駅が西から、朝霧~舞子~垂水~塩屋~須磨~鷹取~新長田~兵庫~神戸~元町~三宮~灘~六甲道~住吉~本山の15駅ある。(甲南山手駅はまだなかった)
 この内の10駅を往復するので、震災の概略はこの目で確かめることが出来た。あと東灘以東の様子がよく分からない、うわさや報道では東灘区が壊滅的だとかを耳にする。もうママチャリでは限界である。早くバイクを手に入れたいのだが大阪へもまだ電話が通じない。
 今日も、行き帰りに数カ所、避難所に寄ったがめぼしい情報が得られなかった。長田から須磨にかけての火災はまだ鎮火していない。

(続く)

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。
(*このコメントは震災の12年後である2007年当時の旧ブログのものです。現在(2021年2月)、誤字などを訂正しつつ、本ブログへデータ移行しています)

〓 1,17 混沌がはじまった5〔No.7〕

皮肉ではなく、このオブジェは立派に作品だ。
そして、私というものを端的に表しているように感じる。
(1995年1月 撮影/K・U)

 ここでお詫びを申し上げなくてはいけません。コメントを頂いて気が付きました。少し回想にのめり込み過ぎて、ついつい何やら物語を煽ってしまったようです。恥ずかしい限りです。悲惨さや過酷さを書き綴る気は毛頭ありません。それらを教訓にこうしよう、ああしようというメッセージを伝えるつもりでもありません。もう少し、我慢してこれを読み進めてもらえればこのブログで描きたいものの正体が分かって頂けると思います。
 今、手元に当時のごく簡略に走り書きしたメモが残っています。しかし、1.17の終日の記憶はメモに頼らなくてもはっきりと記憶に張り付いています。2日以降はダメです。メモを見ないと思い出せません。そのメモも翌2月6日、地震から21日目で途切れています。ここで途切れたと言うことは、何らかの部分で私の震災は21日間で終わったとも言えます。

 あまり見る気にはなりませんが、この時期になると「取り残された復興… 生活や暮らし向きが取り戻せない… 心の痛手から未だ立ち直れない…」この手の話から、「この経験をこれからの防災社会にどう活かすのか?」という類いものまで、まるで歳時記のように特集番組が組まれます。
 あれだけの災害でしたから、多くの方々が言い尽くせない辛い試練を背負い、それを乗り切られた方、振り切った人、未だ引き摺って乗り越えることが出来ない方と、今日に到る無数の軌跡があったろうと思います。その個別に言及するつもりはありません。ただ、絵面を先に決めて、それに似合う事実を探すマスコミには、とうてい取り上げることが出来なかった事象、被災地と呼ばれたエリアに闇のまま消えていこうとしているものは一体何だったのか?
この回想は、その再確認のために始まったものだと思います。願わくば、そこに辿り着くことができるよう今しばらく頑張ってみたいものです。

【1995.1.17/震災当日5】

 か細い自転車の灯を頼りに、今度は西へ西へとペダルを漕ぎはじめました。灯を失った街ほど無気味なものはありません。途中、二か所ほど避難所の小学校へ立ち寄りましたが、知人たちのめぼしい情報はありませんでした。
 夜10時頃に長田の辺りに戻ってきました。火の勢いは収まることなく、ますます西へ延焼が広がっていました。ごうごうと夜空を焦していました。不思議なものです。あの横倒しなったビルを見たときもそうですが、目の前の情景に現実感が伴いません。逃げまどう人たちや、走り回る消火隊員たちが居たならば、確かにここが被災現場そのものだと感じられたのでしょうが、この時は、スクリーンが映し出す幻想的な風景の中をさ迷っていたような気がします。
 その無人の火災現場で方向を失いかけました。気が付けば左からも右からも炎に追われてる。川に救われました。そこで火炎が途切れた隙に、必死にペダルを踏んで北へ。大きく迂回したあと西へ進みました。

 長田から須磨の大火災は翌日も燃え続けていました。燃えさかる情景は、災禍の渦中であることを忘れさせるように美しい映像イメージように一日中続きました。そして、感じても感じ尽くせない重い現実が出現して、私たちを打ちのめすのは、鎮火した焼け跡の酷い情景を目にしてからになります。
 垂水へたどり着いたのは午前1時、数知れない試練、底知れない混乱と混沌でこのエリアを覆い尽くした1.17は、もう昨日のこととなっていました。

(続く)

*十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。
 あと6時間ほどで、12度目の1.17となります。ひたすらに合掌の心で迎えたいと思います。

(*このコメントは震災の12年後である2007年当時の旧ブログのものです。現在(2021年2月)、誤字などを訂正しつつ、本ブログへデータ移行しています)

〓 1,17 混沌がはじまった4〔No.6〕

何かの間違いだろうと、
可笑しく感じるぐらい現実感がない。
(1995年1月30日 撮影/T・Y)

【1995.1.17/震災当日4】

 午後3時過ぎ、垂水を出発してもう5時間以上ペダルをこぎ続けている。
 交差点で立ち止まる。ここを曲がれば自宅である10階建ての賃貸マンションが見えるはず。果たして無事な姿で建っているのか、確かめるのが恐くて一瞬目を伏せてしまったが、意を決して顔を上げると、いつもと変わらぬ風景でした。平成3年の新築だったので、まさか倒れることはないだろうと思ってはいましたが、近寄って目をやると外壁のあちこちに亀裂が走っていた。
 6階までかけ登って、ドアを開ける。その時の情景は今でもありありと覚えています。でも、その時に互いに掛け合った言葉が思い出せません。無音の映画のようだった記憶です。おそらく、安堵の後の照れがすこしあって、「どうやった?」程度の平凡な会話だったように思います。
 親父は倒れたタンスで頭を負傷していたが、お袋は無事だった。自宅には、家が傾いた長兄一家4名と同じく家が傷んだ次兄らと集まっていました。狭い2DKで、物が散乱し、余震に備え食器棚やダンスを途中で割って平積みしているので、ほとんど8人分の足場がない。

 お袋がおびえて小さくなっている。意外であった。こんなことには概して強い人だと思っていた。戦時中には兄と姉を抱えて、空襲から逃げ回った経験がある。「なあ、爆弾よりは 大したことないやろ?」背中をさすってやると、「空襲はこんな急にこん、サイレンが知らせるやろ」と、言われれば確かに、地震は全く前触れなくやってきた。でも、私にしたらやはりはるかに焼夷弾の方が恐い。死者の数こそ違え、神戸の大空襲はこの震災と同じような被害をもたらしている。神戸製鋼があったこの周辺も焼け野が原になるほどダメージを受けた。それに比べたら幸いにも、目立ったダメージがないように思える。

 「もう大丈夫やから」と何度、言って聞かせても「恐い 恐い」と脅えている。歳のせいもあるのだろう。幼い子供を守ろう発奮していた頃の若かりし母と比べても詮がない。
ベランダから見える南の方の黒煙がおさまらない。ここまで延焼することは無いだろうと思うが自分も気掛かりなって調べに走る。
 ついでに近所のあちこちに声をかける。幸いに大きな被害にあった方はいなかった。戻ってあれこれ手当にかかる。水や食料の手当に苛立った各々の家族の「こうしよう。ああしよう」と主張がぶつかる。何とか夜を迎える準備ができたようだ。私はその夜に向けて仏壇の細いろうそくをコップに溶かして大きな明かり取りをこしらえた。しかし、不思議なことにこのマンションと数件の建物だけに電気が一時的に復旧した。 
 一通りの出来る限りの手当を終えて、彼女の待つ垂水へ出発することにした。自宅を少し離れると、窓からこぼれる灯も、街灯も一つなく真っ暗であった。山でもこんな暗闇は経験ない。閉ざされた闇のように感じた。

 午後9時前、自転車のか細いランプを頼りに、再びあの惨状を横断していかなければいけない。寒さや疲労よりも、底なしの暗いトンネルに嫌が応にも吸い込まれていくような説明し難い恐怖感で身体が震え出した。

(続く) 

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。
(*このコメントは震災の12年後である2007年当時の旧ブログのものです。現在(2021年2月)、誤字などを訂正しつつ、本ブログへデータ移行しています)