没入の境地!自然薯掘り

時間を忘れ、ひたすら掘り進む

初めての天然山掘り・没入のごとし

 田んぼの収穫が終わって一段落つけば、次は芋掘りと相場が決まっていました。芋掘りはサツマイモが多いでしょうか。山芋が好きな人は年末年始用のグルメ食材をと山に入って、秋口から狙い定めていた自然生(自然薯)を掘ります。そして、手があいた時に秋冬野菜の種も蒔いておきます。
一般的な農家のライフスタイルなら、「刈ったぞ 掘ったぞ 蒔いたぞ」という具合なのですが、山頭火におきましては、次のような句になっています。

 刈るより掘るより播いてゐる

「貧農生活」という表題もついてあるところから、まあ、のんびり楽しくしたためた句という訳にはいないのでしょうか。句評にもこうあります。
「稲も刈りました。薩摩芋も掘りました。それをすぐさま口にする余裕はありません。汗をぬぐい水を飲み、直ちに次の作物の種まきにかからなくてはなりません」貧乏暇無しの言葉が切実に響く時代だったのでしょう。「貧しい農夫、農家を案じています」と・・・。

 友人のM君が、初めて天然の山掘りに挑戦いたしました。
何処を掘るかは、それぞれに技や方法があるようですが、ともかく葉が黄化し始めた頃は、遠目でも黄金の滝のように見えますので自然生の群生地は簡単に発見できます。その頃に葉形やツルの太さ、そして零余子(むかご)採りながら良く形状等をチェックしておきます。
葉形は細長いハート型が真芋に近く、横太りのアゴの張ったハート型(トランプのハートに近いもの)は、毒性のあるオニドコロの場合もある。その違いは「野老(ところ)と自然薯」の項目を参照下さい。能面写真の左の葉が自然生(自然薯)で右の葉っぱがオニドコロです。一番、確かな区別は、自然生の葉は対生でトコロは互生です。
 ツルの太さは、太いほど大きな芋が出来ている可能性が高いのは当然です。褐色でこじんまりキュッと艶のあるムカゴを付けているのは美味しそうです。長芋のような大きい艶のない灰色のむかごのツルには、それに相応した山芋が育っていると想像できます。

 山芋掘りは、実に面白いプロセスを体現させてくれます。男性の狩猟(収穫)本能をかき立てるのかも知れません。単に山芋を掘るのでなく、「折らずに穫りたい」というような作業美学も加わってしまうと、数倍の労力を費やして馬鹿でかい穴を何時間もかけて掘り続けます。
子供らと一緒の時は、子らはとっくに飽きて違う遊びをしている中、父さんは黙々と掘るというような事になる。この没入の境地に到るプロセスを見事に体現させてくれるのが山芋掘りです。
 自然薯やむかごをよく詠む高浜虚子に

 鵙高音 自然薯を掘る 音低く

 という句があります。実にそのプロセスをよく描いています。モズが、チチィー!と鳴いている場面を切り取った一瞬と、ズシッという土を削る音との対比からは、静かな山中の穴掘りの長い時間をも感じさせます。

■人物歳時記 関連ログ(2021年追記)
小説「吾輩は猫である」自然薯の値打ち(夏目漱石)
小説「坊ちゃん」の正体・・・(弘中又一)
零余子蔓 滝のごとくにかかりけり(高浜虚子)
貴族・宮廷食「芋粥」って?(芥川龍之介)

■読本・文人たちに見る〝遊歩〟(2021年追記)
解くすべもない戸惑いを背負う行乞流転の歩き(種田山頭火)
何時までも歩いていたいよう!(中原中也)
世界と通じ合うための一歩一歩(アルチュール・ランボオ
バックパッカー芭蕉・おくのほそ道にみる〝遊歩〟(松尾芭蕉)

夏目漱石「坊ちゃん」の正体…

▲湯野温泉郷に流れる夜市川のほとりに建てられた坊ちゃん先生の像

 早くも来週は12月(師走)。12月にふさわしい人物歳時記の題材を探しているとき不図、思いついたのが〝師走〟の走り回っている〝師〟とは誰・・・? 今月はひとつ〝師〟で真っ先に思い浮かぶ〝先生〟に因んだ話題をと思い、周南市の湯野温泉郷出身の「坊ちゃん先生」こと明治の教育者「弘中又一」を取り上げることにしました。

 自然生山芋の生産地の一つでもあり、古くから湯治で名の知れた温泉郷「湯野」、癒しの湯と健康食材の自然生山芋がよくマッチして現在特産・地域ブランド化が進んでいます。この集落の傍を流れる夜市川のほとりに、温泉街とは少し拍子(トーン)の異なった「釣りをする坊ちゃんの像(上の写真)」なるものがあります。この像が、湯野出身で「教育は王道なり」の言葉をのこし、近年、教育者としての生涯に評価を高めている「弘中又一」の少年時代の姿だそうで、彼を顕彰するために作られたモニュメントの一つです。やや山手の高台には、彼がのびのびと少年時代を過ごした生家と、没後、故郷での供養のために設けられた墓所があり、その近くに記念公園も作られています。

 弘中又一は、同志社を卒業後、明治二十八年愛媛県の松山尋常中学校に教師として赴任しました。その日の夜に同じく同年に赴任した夏目金之助(漱石)の訪問を受け、その後の長い交流がはじまったといわれます。
 当時の生徒からは、童顔からの印象なのでしょうか、「ボンチ先生」(ボンチとは松山地方でぼっちゃんという意味)と呼ばれていたそうです。互いに一年で松山中学校を去りますが、当時の学生達の数え歌に残るような個性的な名物先生ぶりだったようです。

 「一つや!一つ弘中シッポクさん」
 「七つとや!七つ夏目の鬼瓦」


 シッポクを四杯も平らげ、それを教室で生徒からからかわれた騒動を皮肉られたものらしい。その他「赤シャツ」や「鈴ちゃん」など小説「坊ちゃん」に登場するモデル達もこの数え唄の中で歌われています。

 よく「坊ちゃんのモデルは誰であるか、夏目自身なのか?」と取り沙汰されますが、今では弘中又一説が一般的です。
 弘中自身も後年の手記に「主人公の坊ちゃんにしても、夏目自身のこともあり、僕のこともある。夏目と僕とは、毎日の出来事やら失策を互いに話しあって笑い興じることが多かったので、自然に二つが一緒になって一つの坊ちゃんが作り上げられているように思う。ただ、渡辺君(山嵐のモデルといわれる)は夏目とあまり交際がなかったので、山嵐相手の坊ちゃんは、僕である」と記している。

 松山中学から西条中学、そして徳島の富岡中学へ。小説家の羽里昌氏の「その後の坊ちゃん」によると、時の総理大臣・山県有朋の養子であった徳島県知事・山県伊三郎の激励のエピソードも紹介されています。
徳島でもよく生徒に慕われ、一目置かれる存在のようだった。当時の生徒の回想を綴った「小説『坊っちゃん』の其後」と題した記事の中で当時の名物先生ぶりがよく紹介されています。(次回に続く)
※主な経歴などは、月間「まるごと周南」2009年2月号から抜粋させていただきました。

 12月7日は『大雪』、22日は「日南の限りを行て、日の短きの至りなれば也」の『冬至』、冬の気配が現れてくる頃です。旧暦の『師走』の「師」は俗説の「恩師」でなく本来的には「御師」(神社の参拝を世話する人)のことのようです。


■人物歳時記 関連ログ(2021年追記)
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傑出した〝ご長寿百歳遊歩〟(葛飾北斎

人物歳時記・高浜虚子(零余子蔓 滝の如くにかかりけり)

▲黄葉が始まった山中の自然生は、黄金の滝のように目に映ります。丸い子実が零余子(むかご)

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 現在、NHKで製作中のスペシャル大河ドラマ「坂の上の雲」(原作:司馬遼太郎)は、近代日本の勃興期に陸海軍へ身を転じた秋山兄弟と、近代文学に大きな影響を与えた正岡子規の旧制松山中学出身の三人の人物を縦糸に、その他に登場する多くの青春群像を横糸に描いたものですが、子規に係わって夏目漱石尾崎紅葉、そして弟子の俳人高浜虚子河東碧梧桐などの文人らも多く登場します。「柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺」という句で有名な正岡子規ですが、「ほろほろと ぬかご(むかご)こぼるる 垣根かな」という自然生にまつわる句を一つ残しています。(むかごはジネンジョの子実・10月の季語)
 この子規に兄事し俳句を学び、後に俳誌「ホトトギス」で俳壇を確立した高浜虚子においては、冒頭の句をはじめ、ジネンジョにまつわる句がいくつか残されています。きっと少年期から、山芋掘りに興じて、ジネンジョ(自然薯・自然生)や零余子(むかご)に親しむ体験があったのでしょう。

 零余子蔓 滝の如くに 懸りけり 
 黄葉して 隠れ現る 零余子蔓 
 零余子蔓 流るる如く かかりをり
 鵙(モズ)高音 自然薯を掘る 音低く

生涯、二十万句

 明治二十一年、伊予尋常中学に入学。一歳年上の河東碧梧桐と同級になり、彼を介して正岡子規に兄事し俳句を教わり、子規より虚子の号を受け、明治二十六年、碧梧桐と共に京都の第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)に進学。この当時の虚子と碧梧桐は非常に仲が良く、寝食を共にしその下宿を「虚桐庵」と名付けるほどでした。共に仙台の第二高等学校を経て上京、東京都の根岸にあった子規庵に転がり込みます。
 明治三〇年、柳原極堂が松山で創刊した俳誌「ほとゝぎす」に参加。翌年、虚子がこれを引き継いで東京に移転し俳句だけでなく、和歌、散文などを加えて俳句文芸誌として再出発させました。
 子規の没後、五七五調に囚われない新傾向俳句(山頭火はこちらの系譜)を唱えた碧梧桐に対して、虚子は大正二年の俳壇復帰の理由として、俳句は伝統的な五七五調で詠まれるべきであると唱え、季語を重んじ平明で余韻があるべきだとし、客観写生を旨とすることを主張し、「守旧派」として碧梧桐と激しく対立しましたが、碧梧桐の死にあたっては、嘗ての親友であり激論を交わしたライバルの死を悼む句も詠んでいます。俳壇に復帰したのち虚子つまり「ホトトギス」は大きく勢力を伸ばし、大正、昭和期(特に戦前)は、俳壇に君臨する存在になりました。
 昭和三十四年四月八日、八十五歳で長寿を全うされ、その生涯に二十万句を超える俳句を残しました。
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野老(ところ)と自然薯

左はヤマノイモ(自然生・自然薯)右がオニドコロの蔓葉と

 農業新聞の連載コーナー「やまけんの舌好調」にトコロ(野老)を食べた話が書いてあった。自然薯に似たトコロは苦くて食えない。イノシシも嫌がる山芋と言われ、一般的には「有毒なので食べるべからず」と記された資料が多い。中にはこの芋の根を細かく砕いて川に流し、魚を麻痺させて捕えるという漁法もあるとか。
 果たして、有毒といわれるトコロ(野老)にレシピなるものなどがあるかどうか気になって調べてみた。

 〝エビ〟を海老と書くのことに何の躊躇はないが、野老と書いて〝トコロ〟と読むのは非常に奇異で困惑する。エビもトコロも長いヒゲがあって、それを老人に見立てた、との故らしい。海老に比べ野老は馴染みが少ない。漢字変換にも顔を出さない。
 地方によって、古来からヒゲ根を正月の床に飾って長寿を願う風習があって「野老飾る」は季語にもなっているとのことだ。現代では専門語のような扱いで一般的に使われなくなったのは、海老は美味くてどんどん食べ、野老は不味くて食卓から遠く離れていったからだろう。

 この有毒とも言われるトコロですが、(まあ実際は強力な苦み、アクでお腹をこわすという程度のものだろうと想像しますが)この不味い(正確には苦い)トコロを食べる地方がある。前述のやまけんさんが食したのは岩手県で、東北地方にはトコロをじっくり灰汁で煮て水にさらし調理したものを愛食する方が多いらしい。苦みを楽しむ、味わう、やまけんさんも「美味しくない美味しさ」がとても大切だと言っておられます。
 この「美味しくない美味しさ」の重要性が何なのかは次回(食育編)にて触れるとして、「野老ばなし」あと二つだけ。

 此山のかなしさ告よ野老掘  芭蕉
(「真蹟懐紙」には「山寺の悲しさ告げよ野老掘り」とある)

 俳句の才がないので上手に味わうことができませんが、芭蕉が句に使うぐらいですから「トコロ掘り」はごく日常的な風景だったのでしょう。

 在原業平が野老(ところ)が多く生えているのを見て「この地は野老(ところ)の沢か?」と言った事が由来で「所沢」という地名が残ったという話はわかりやすい。(所沢市情報サイトより

 ★写真の左はヤマノイモ(自然生・自然薯)の写真です。
 簡単な見分け方→自然薯は葉が対生で、トコロ(野老)の類は互生です。
分類学上、日本には18種のヤマノイモ属の植物があってトコロと名がつく種もいくつかありますが、オニドコロ(学名;tokoro)がヤマノイモ種(学名:japonica 通称:自然生・自然薯)に葉の形が一番似ています。気をつけて観察して下さい。

■人物歳時記 関連ログ(2021年追記)
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卯月ノ壱/縄文・古代ハンバーグ?

縄文人の知恵??

 ハンバーグがならんだ食卓の前では、子供たちが「ハンバーグ(ぐ~と親指をたてる)パンにはさんでハンバーガー(が~!とライオンのまね)」芸人ギャグでふざけています・・・
 今では、世界中で愛されて食文化のグローバリゼーションの一つの指標ともなったハンバーガーですが、マクドナルド兄弟が始めた第二次大戦中の頃は、低所得者向けのステーキの代用品(もどき料理)として生まれた低級で不健康な食物と言われていました。
 ハンバーグ自体も、ドイツのハンブルグで流行ったからだ!とか、タタール人の生肉料理が原型だ!とか、大航海時代の帆船の中で生み出された調理方法だ!などなど起源が云々されていますが、まあ、一種のレトルト的な「もどき料理」だったかも知れません。ミートローフ、ミートボール、メンチカツへの自在の変身もOK!この軽快さも魅力の一つです。

 初期のハンバーガーに類似した保存食が、実は古代日本・縄文時代に作られていた!?という面白い話があります。考古遺跡から出土するものの中に「縄文クッキー」と呼ばれるハンバーグ状の炭化物が発見されることがあります。クッキーというよりハンバーグに近しいものような気がします。お肉は多分、イノシシまたはシカ?トリ? つなぎには当然ながら山芋が想像できます。実際にはどのような材料を使ったのか現在ではまだ特定されていません。という訳で今回ご紹介の「ヘルシーハンバーグ」は、もしかしたら古の”縄文クッキー”に限りなく近いものかもしれませんゾ。

雛まつり三題

おひな粥イメージ

その1「小町とろろ」

 花の色は移りにけりないたづらに 我が身世にふるながめせし間に 小野小町

「世界三大美女」(ここに小町が入っているのは日本だけ?)の一人とも言われ、絶世の美女の代名詞となった小野小町は、平安前期の女流歌人・六歌仙の一人としてもよく知られています。この時代あたりから平安貴族の子女の間で「雛あそび」が流行ったといいますから、小町も無邪気に「雛あそび」に興じていたかも知れません。
当時はまだ、ヒシ餅などはまだ無かったでしょう。白酒は濁り酒だったのでしょうか。この遊びの中で馳走されたお菓子や飲み物がどんなものだったのかとても興味をそそられます。

小野小町が「山芋入り麦おかゆ」なるものを食べていたという記録があるそうです。後に「小町がゆ」「美人がゆ」と呼ばれたとか、呼ばれなかったとか。芥川龍之介の「芋粥」の出展となっている「今昔物語」など舞台は平安前期、この時代の宮廷グルメ・無上の佳味といわれたのが「芋粥」だったそうだ。これは自然薯を甘葛の樹液で煮込んだもの。この上品な甘味は貴族たちに大層愛されたと言いますから、こんな御馳走も「雛あそび」の折に、小町が味わっていたとしても不思議はないところです。

後に「雛あそび」は、「桃の節句」と結びついて庶民の行事として盛んになります。
霊力のある桃の木にちなんだ「桃の節句」は婦女子の災厄を祓い、健康を願うものですから、美人食の「小町がゆ」はこの行事にピッタリの食べ物です。麦の成分・栄養素と自然薯の若返り酵素・ミネラル成分が相乗して、血液の安定、お腹の掃除、ダイエットなどに効果があるヘルシーフードですからこれ以上の行事のお膳はありませんね。

ながし雛イメージ

その2「ひとがた流し」

紙などで作った人形(ひとがた)で体を撫でて穢れを祓い、それを川に流し無病厄災を願う風習があるそうだ。テレビドラマ化され話題となった「ひとがた流し」(北村 薫著)は古くから日本各地で伝わっているこの風習から採られた題名とのこと。

風習や儀式ではなくても何気なく遊びや占い気分で、自分を託したものを川へ流してみるという体験は誰にでもあるのではないだろうか。
例えば、橋の上から木の葉一枚を川に落としてみる。流れに任せてゆらゆらと水面に漂う木の葉、時には、流れの渦に巻き込まれハッとしたり、岩陰の淀みにつかまって苛っとしたり、夢中に追っているうちに、ついつい木の葉に自己を投影してしまう。軽い心地のはずが、わが人生の追憶に浸ったり、また暗示を受けているようであったり、最後には沁みた気分になってしまっている。

流れる水そのものの清冽さと「ひとがた」は、抗うことを許されなかった女性たちの押し込められた思いが託された歴史を感じさせられる。この風習は平安時代になって「雛あそび」と結びつき、雛人形という「ひとがた」に替わって、穢れや災いを負って捨てられたり、燃やされたり、流されたりする風習へと変化していく

前回、語呂合わせで「お雛粥(がゆ)」と紹介したが、気になって調べてみると、文字通り「お雛粥(おひなげえ)」という行事が埼玉県の無形民俗文化財として、小鹿野町に現存していた。4月3日、河原沢の川原で、子供達が粥を炊いて食べながら祝う雛祭りだそうだ。こうした「ひとがた流し」から受け継がれた古い風習が今でも各地に残っている。

もちがせ流しびな行事(鳥取県用瀬町)
~祈祷神事の斎場の隣で古い雛人形に感謝やお祓い、お清めの「お焚きあげ」神事を行う。~~
播州・龍野の〔ひな流し〕
~紙粘土の顔に折り紙で作った衣装の雛人形を、稲ワラで編んだ直径20センチほど の「桟俵(さんだわら)」の上にを乗せ、椿や菜の花を添えて河に流します。 準備に半年かかるそうです。~

祖谷渓イメージ

その3「平家落人伝説」

 流し雛ふたつ並んで果知らず 〔成田千空〕

前回の「ひとがた流し」から各地のひな流しの話題をレシピのつまみとしましたが、肝心の地元である山口周辺での流し雛行事を書き忘れていました。
県内各地でもこの風習が残っており、木野川(小瀬川)ひな流しは平安時代中期に盛んになったといれています。戦時中、一時中断されていましたが戦後に復活。初春の風物詩として現在まで伝統が受け継がれているとの事です。
そして、春告げの歳時として著名な下関・赤間神宮の「平家雛流し」も忘れてはなりません。

これは、壇ノ浦で平家の諸将とともに崩御された安徳幼帝の鎮魂の神事が「ひな流し」と結びついたものです。この時節の関門の潮は穏やかで波の秀(穂)をくぐるように折り紙でつくられた紙雛が漂っていきます。不思議な事に毎年必ず関門橋の方(東)へと流れていくそうです。その辺りが幼帝や女官等が入水した場所だと言い伝えられています。

歳時記レシピからどんどん離れて恐縮ですが、安徳天皇といえば、四国の秘境・祖谷渓を訪れたとき、とある地元資料館で「実は幼帝はこの地で亡くなられて栗枝渡八幡神社に祀られている」という平家落人伝説を聞かされたのを思い起しました。
平家落人伝説は日本各地にあって、特に珍しくもない伝聞なのですが、日本のチベットと呼ばれ誰をも寄せつけない要害そのもののようなこの祖谷渓の絶景を目の当たりにしてこのお話をうかがうと、「さもありなん」と思わず首肯、「ここ以外に逃げ落ちる地などないだろうな」と感じ入ってしまいました。

(健全な意味で)現代社会からの逃避は可能だろうか?と当時、真剣に脱都会・脱会社を模索していた自分でもありましたが、ここなら「できる 出来る、ここは立派な〝逃げ場〟になるだろう」と思わせた処です。
なぜ何故、マチュピチュのようなこの辺境の地に、彼の人々はひそやかに息を潜め続けてきたのしょうか。空中都市マチュピチュならば尾根を跨いだその開けた神々しい眺望にロマンチックなイメージをかき立てられるのでしょうが、深く暗く閉ざされた祖谷にあっては、峻険な断崖に虐げられるように住み続けてきた人々が抱え続けてきたものは、只々、逃避への強烈な意思と、開かれた社会への深いルサンチマン(憤怒)であったろうと想像するしかありません。

ついでに話はどんどん飛びます。やはりこの秘境に魅せられたアメリカの若きバックパッカーが、この地に住み着いて(逃げおちて)、地の住民たちと共に朽ちかけた藁葺きの古民家の修復を始めた。後に「美しき日本の残像」を著した東洋文化研究者のアレックス・カーである。(昨年MBSの「情熱大陸」でも登場)
現在も日本各地で幅広い活動を続け、彼が興した祖谷渓の古民家は現在「篪庵(ちいおり)トラスト」の拠点として、深奥な日本文化の体感を求める外国人たちのベースとなっている。

美人とろろの思いつき「お雛がゆ」から話に翼がついてしまいお粗末三題、誠に恐れ入ります。

→自然薯のお話「山芋四方山話」