周南デザイン その2〝イメージとスペース〟

周南デザイン02
イメージとスペース

【前回の続き】
  そうなんだけれど、上手く言葉にできないのだけれど、
  親父へは直接、口に出して言えないけれど、
  ほんとうに親父のことは誇りに思っている。
  だって親父なんだもの・・・

 周南という「まち」の誇りを語らう時も、こんな感じなのかも知れません。
残念ながら、この地で暮らして浅い私には、この「まち」の根っこのところがよく見えません。そして、やっかいなのは冒頭に示したように、地元の人が、気取りや衒いがあるのか「上手く言葉にできない」「素直にリスペクト出来ない」ところです。そうではないと言うのでしたら、いつの間にかに、あっという間に、衰退し輝きを失った「徳山」に未だに戸惑いを持ち続けているとしか思えません。

 徳山には何があったのか? 何が残されているのか?
 徳山は何かを失ったのか? そうならば それは何なのか?

 徳山市の栄光を引き継ぎ、同時に負の遺産も背負った周南市、この町の未来を託すキーワードを探し求めるなら、やはり心の底にあった「誇り」をひも解くのが一番なのかと思います。
前回、「根底にある、あった街への誇り(プライド)をやっぱり大切にすることから、切り込んでいかないとブランド(誇れる将来)が立ち行かないと痛感します。このプライドとブランドがどう繋がっていくのかは、次回に提案したい方法がある」と記しましたが、近代日本の産業の隆盛をこの地でも支えてきた、この町の資質をピックアップすることで簡単に答えが出てくるように思われます。

 これから研究会でもキーワード探し取組まれる予定とうかがっています。この「どんなイメージ(理念)でスペース(地域)を括るのか?」やりがいのある楽しい作業です。周南に縁ある方、これからの10年、20年を見通す、見晴らすこの楽しい作業に参加されませんか? スペースをイメージすることは、未来をデザインする事ですから、私たちの個人でも人生や生活の第一歩となる楽しい仕事です。

理念的でありたい
 ブランドにもピンからキリまでありましょうが、良いブランドには確りした理念に裏打ちされたものがあります。多くはシンプルで明確、私たちを楽しく心地よい所へ導いてくれるものです。天才ジョブズではないですが、デザインを行う上で理念というものがどれほど大きな決定権を持つのか、技術や経営を先に置いた(優先した)者には生み出すことのできないモノがそこにはあります。

スペースを関係で括る
 徳山市と言っても飛び地であった西部(湯野・夜市・戸田)や鹿野・熊毛・新南陽という隣接地であった地域を全て包含したイメージを建てるのは至難です。まずは、徳山というイメージを建てて、そのイメージとの各地域との関わりを掘り下げれば、概ねのイメージが繋がってくると思われます。

気付かないものがある
 周南市PR映画の監督を務めれている菅原さんはよく「この地は明るく輝いている」と周南の地を表現されます。この度の映画でもこのメッセージが強く刻まれていますが、「明るく輝いている」この実感というか、この正体は何なのか地元の人にはなかなか分からないだろう思う。歴史も含めて徳山の誇りを掘り下げる作業を丹念に行えば、多分、同じ所へ辿るものと思われます・・・

 私も移住後、(コンビナート以外で)強くこの地を感じさされたのは、とある公園で娘を遊ばせていた時です。やはり子供連れの若いパパが、子供に話しかけている会話(内容ではなく語り口)を何気なく耳にした時です。どう書き表せばよいのか難しいのですが、徳山弁と言ったら良いのか、この山口弁独特の、しなやかで癒しのトーンに満ちたイントネーションに思わず惹き込まれてしました。(確か菅原監督も同じようなことを仰っていたようです)聞き始めはアナウンサーのような心地よい話し振りなのでてっきり標準語なのかと思っていたら、独特の柔らかい節回しがあって方言もけっこう含んでいる。考えれば身近な人や知り合いたちも皆、こんな話し方をしているではありませんか。
お年寄りでは駄目です。方言がキツくて義父とも嫁の通訳がないと通じません。女の人も少し違います。「・・・じゃけ」という語尾が(関西系の私には)大いに違和感があって、女性の場合はやさしい癒しのトーンが最後で折れてしまいます。

 話しは逸れてしまいそうですが、実はここに大きなヒントがありますので次のチャンスで・・・・

【関連ログ】
 周南デザイン最終稿「新たなる道標
 周南デザイン4〝周南アイデンティティを生み出す「道の駅」を創ろう!
 周南デザイン3〝シビック プライド in 周南?
 周南デザイン2〝イメージとスペース
 周南デザイン1〝プライドとブランド

周南デザイン その1〝プライドとブランド〟

周南デザイン01
プライドとブランド

 YDC山口県デザインセンターの「地域ブランド研究会」に初めて顔を出しました。前期から引き続きで今期の研究会は、明年まで5回が予定されており、足掛け2年越しの取組みとなっています。前期で開催されました他地域モデルケースの勉強・研修を踏まえて、いよいよ「周南とは?」という核心の課題に突入するようです。
 この研究会での具体的なやりとりは、継続中のスキームでもあり、詳細な内容には言及できませんのであしからず。(※気になる方はご参加を、以下は、当ブログ上での”個人的な意見”です)
 まずもって、どういう地域のブランドなのか?単純に地理的な定義づけが必要です。私が8年前にこの地へ移り住んだ時は、まだ周南市は誕生しておらず、その年に徳山市・新南陽市・熊毛町・鹿野町などが合併して現在の「周南市」と呼ばれるようになった訳ですが、それぞれの地域の特色・個性・風土は様々、もちろん産物も多様にわたっており、この10年も満たない行政市域を共通のキーワードで括って、地域ブランドを煮詰めることは、いささか難題のように思われます。
 しかし、このブランドを考えていく上でも〝連携〟というワードが強力な鍵(キー)となります。地域の結びつき・関係のありかたをよくよく突き止めれば、その「繋がり方に周南らしさを見出す」ことは、それ程難しいことではないでしょう。それぞれの地域の様々な(文化・歴史・産業)資源の見極めと、地域同士の連携の姿を整理して、まずはその辺りの掘り起こし作業を始めればよいと思います。「共生」や「交流」そのものの在り方そのものを名付け、ブランド化すればよいのです。
 但し、「海と山のあるまち」「都市と田舎の‥‥」という日本の沿岸部のどこでも通用するこの手の凡庸なフレーズに寄っかかれるほど、たやすいものでもありません。一掘りも二掘りも掘り下げた〝連携〟のあり方、〝共生〟の姿、これからの将来を托すことのできる〝持続可能〟なイメージを彷彿させるようなものでないとブランドとして結実できません。

 まずは、地域間の関係を見る前に核になる旧徳山市の地域性、地域資源を見てみましょう。
 本来、時系列的に見て、そもそも「お国自慢」=「地域ブランド」というのがごく自然な発想と思われます。ここから浮き上がってくるブランドイメージを膨らませていけばよいのですが。これが陳腐きわまりないものであろうが、なかろうが、掘り下げておくことはとても大切な手順だと思います。イノベーションは後の問題です。
 そう考えて、周南の核ともいえる徳山という町の「お国自慢」なるものをピックアップしていけば良いのですが、よそ者である私にはそのところがよく見えません。徳山には一体どんなお国自慢があるのか、あったのか? こればっかしは「プライド」とも言えるものですから、地元の人間の口からはっきり語られなければ意味がないように思います。個人的な印象では「周南市のここが良い・好き」というような話しぶりよりは「周南市にはとりたてて何もない」というようなことを聞くことの方がなぜか圧倒的に多く、ふるさとへの恋慕の声があまり聞かれない。おそらく昔にはあったのでしょうが。

 農山村における「3つの空洞化」の連鎖の根底にある「誇りの空洞化」がとり沙汰されていますが、中山間地に限らず産業の低成長期に入って、市街地・都市部にも「誇りの空洞化」を抱え始めている地域が増えています。徳山市域でもこのような現象が見てとれるかも知れません。
 神戸から初めて「徳山」を訪れたときの印象は、新幹線の窓から眺めた周南コンビナート夜景の圧倒的な存在感に尽きます。それから15年ほど経ちましたが「周南らしさ」という点で、それを超えるモノにはこの街では、まだ出会えてはいません。産業ツーリズムの見地からは、あのプラントの夜景は価値ある資源であることに間違いありません。最近ようやくこの夜景のハンティング・クルーズ等が開催されるようになりました。(夜景評論家・丸々もとお氏のお世話になっているようです)

 国道2号線という流通幹線をもち、港湾を構え、一大コンビナートを土台にした徳山は、工業都市として高度成長期の波風に乗って華を咲かせ、県内屈指ともいえる近代都市が形成されてきました。この発展の道を辿ったのも、旧日本海軍の第三燃料廠の開設が契機なのでしょう。海軍がこの港湾に目をつけていなければ、山と海に囲まれた静かな「徳山藩」の城下町としての趣をもっと色濃く残した街になっていたと思われます。
 地方都市としての「徳山」は、モノや情報があふれ、利便で住みやすい町として、住民等には支持され(誇りを持たれ)、周辺の農山村地域の雇用も支え、街としても「徳山には何でもある」と羨望され、キラキラ輝く都市であった筈です。それがいつの時代からか色褪せて、この「まち」へ寄せていた想いや自負を見失っている。(行政や大企業にもその責任があるが)
 さあ、動物園だ! まどさんだ! エバンゲリオンだ! ホタルだ! 映画だ! と周南ブランド・イノベーションは大歓迎ですが、市民たちの根底にある(あった)街への誇り(プライド)をやっぱり大切にすることから、切り込んでいかないと「ブランド」(誇れる将来)が立ち行かないと痛感します。このプライドとブランドがどう繋がっていくのかは、次回に提案したい方法がありますのでその時に。

  エネルギッシュな親父は、朝から晩まで必死に働いて、家を支え守ってきた。
  よくある話しだが、そういう親父は家族達と ちゃんとコミュニケーションが
  とれていない。
  この親父も今では往年のワパーも失せて、家族の顔色を伺うようになった。
  妻や子供たちは、てんで違う方を向いている。
  「今更と」思うのだが、通じ合う言葉が中々見当たらない。 でも・・・、
  
  そうなんだけれど、上手く言葉にできないのだけれど、
  親父へのリスペクトは心底に漲っている。
  親父のことは誇りに思っている。


【関連ログ】
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 周南デザイン2〝イメージとスペース
 周南デザイン1〝プライドとブランド

周南デザイン その1.プライドとブランド

周南デザイン・その1

 YDC山口県デザインセンターの「地域ブランド研究会」に初めて顔を出しました。前期から引き続きで今期の研究会は、明年まで5回が予定されており、足掛け2年越しの取組みとなっています。前期で開催されました他地域モデルケースの勉強・研修を踏まえて、いよいよ「周南とは?」という核心の課題に突入するようです。
 この研究会での具体的なやりとりは、継続中のスキームでもあり、内容には言及できませんのであしからず。(※気になる方はご参加を、以下は、当ブログ上での”個人的な意見”です)

 どの地域のブランドなのか?まずもって、単純に地理的な定義づけが必要です。私が8年前にこの地へ移り住んだ時は、まだ周南市は誕生しておらず、その年に徳山市・新南陽市・熊毛町・鹿野町などが合併して現在の「周南市」と呼ばれるようになった訳ですが、それぞれの地域の特色・個性・風土は様々、もちろん産物も多様にわたっており、この10年も満たない行政市域を共通のキーワードで括って、地域ブランドを煮詰めることは、難問・難題のように思われます。
 しかし、この点においても〝連携〟というワードが強力な鍵(キー)となります。地域の結びつき・関係のありかたをよくよく突き止めれば、その「繋がり方に周南らしさを見出す」ことは、それ程難しいことではないでしょう。それぞれの地域の様々な(文化・歴史・産業)資源の見極めと、地域同士の連携の姿を整理して、まずはその辺りの掘り起こし作業を始めればよいと思います。「共生」や「交流」そのものの在り方そのものを名付け、ブランド化すればよいのです。
 但し、「海と山のあるまち」「都市と田舎の‥‥」という日本の沿岸部のどこでも通用するこの手の凡庸なフレーズに寄っかかれるほど、たやすいものでもありません。一掘りも二掘りも掘り下げた〝連携〟のあり方、〝共生〟の姿、これからの将来を托すことのできる〝持続可能〟なイメージを彷彿させるようなものでないとブランドとして結実できません。

 まずは、地域間の関係を見る前に核になる旧徳山市の地域性、地域資源を見てみましょう。
 本来、時系列的に見て、そもそも「お国自慢」=「地域ブランド」というのがごく自然な発想と思われます。ここから浮き上がってくるブランドイメージを膨らませていけばよいのですが。これが陳腐きわまりないものであろうが、なかろうが、掘り下げておくことはとても大切な手順だと思います。イノベーションは後の問題です。
 そう考えて、周南の核でもある徳山の「お国自慢」なるものをピックアップしていけば良いのですが、よそ者である私にはそのところがよく見えません。徳山には一体どんなお国自慢があるのか、あったのか? こればっかしは「プライド」とも言えるものですから、地元の人間の口からはっきり語られなければ意味がないように思います。個人的な印象では「周南市のここが良い・好き」というような話しぶりよりは「周南市にはとりたてて何もない」というようなことを聞くことの方がなぜか圧倒的に多く、ふるさとへの恋慕の声があまり聞かれない。おそらく昔にはあったのでしょうが。

 農山村における「3つの空洞化」の連鎖の根底にある「誇りの空洞化」がとり沙汰されていますが、中山間地に限らず産業の低成長期に入って、市街地・都市部にも「誇りの空洞化」を抱え始めている地域が増えています。徳山市域でもこのような現象が見てとれるかも知れません。
 神戸から初めて「徳山」を訪れたときの印象は、新幹線の窓から眺めた周南コンビナート夜景の圧倒的な存在感に尽きます。それから15年ほど経ちましたが「周南らしさ」という点で、それを超えるモノにはこの街では、まだ出会えてはいません。
産業ツーリズムの見地からは、あのプラントの夜景は凄い資源であることに間違いありません。最近ようやくこの夜景のハンティング・クルーズ等が開催されています。(夜景評論家・丸々もとお氏のお世話になっているようです)

 国道2号線という流通幹線をもち、港湾と構え、一大コンビナートを土台にした徳山は、工業都市として高度成長期の波風に乗って華を咲かせ、県内屈指の都市が形成されてきました。この発展の道を辿ったのも、旧日本海軍の第三燃料廠の開設が契機なのでしょう。海軍がこの港湾に目をつけていなければ、山と海に囲まれた静かな「徳山藩」の城下町としての趣をもっと色濃く残した街になっていたと思われます。

 プチ都会としての「徳山」は、モノや情報があふれ、利便で住みやすい町として、住民等には支持され(誇りを持たれ)、周辺の農山地域の雇用も支え、街としても「徳山には何でもある」と羨望され、キラキラ輝く都市であった筈です。それがいつの時代からか色褪せて、この「まち」へ寄せていた想いや自負を見失っている。(行政や大企業にもその責任があるが)
さあ、動物園だ! まどさんだ! エバンゲリオンだ! ホタルだ! 映画だ! と周南ブランド・イノベーションは大歓迎ですが、根底にある、あった街への誇り(プライド)をやっぱり大切にすることから、切り込んでいかないと「ブランド」(誇れる将来)が立ち行かないと痛感します。このプライドとブランドがどう繋がっていくのかは、次回に提案したい方法がありますのでその時に。

 エネルギッシュな親父は、朝から晩まで必死に働いて、家を支え守ってきた。
 よくある話しだが、そういう親父は家族達と ちゃんとコミュニケーションがとれていない。
 この親父も今では往年のワーも失せて、家族の顔色を伺うようになった。
 妻や子供たちは、てんで違う方を向いている。
 「今更と」思うのだが、通じ合う言葉が中々見当たらない。 でも・・・、
  
 そうなんだけれど、上手く言葉にできないのだけれど、
 親父へのリスペクトは心底に漲っているのは確かだ。
 親父のことは誇りに思っている。

ふるさと回帰?ふるさと創造?〝農村六起〟

 「ダッシュ村」や「田舎へ泊まろう」的TV番組が貢献したからでしょうか、田舎や農業がダサイ、クライとイメージされた時代は、もうずっと昔の話しで、今やオシャレで心地よく明るいイメージにあふれている!(と言われてみても?当事者・現場にはあまり実感はないのですが・・・)
 確かに世間一般のトレンドは「農」的なものに傾斜していますし、企業の農への進出はすごい勢いで、「食」の話題も地方を中心に弾んでいますし、実際、都市部からのUJIターン「ふるさと回帰」も急速に進んでいるようです。

 ・国交省の「地域づくりインターン
 ・農水省の「田舎で働き隊!
 ・総務省は「集落支援員」「地域おこし協力隊

 地方を何とかしようとお国もいろいろ手配りをしてきましたが・・・遂には
雇用は頭打ちだから、「ふるさと回帰」でビジネスチャンスが増えるので、アンタ等自身で起業しなさい!というのが「農村六起」なるもの。農山村での6次産業起業人材育成事業を内閣府で振興していて、「地域マネジメント法人」を育成しようとしている。
この「農村六起」では・・・

 ・インターンシップ(実地無料研修)では10万円の活動費がもらえる。
  (年収200万以下の人)
 ・ビジコン(事業モデルコンテスト)で認定されると起業経費200万円の補助がもらえる。

 内閣府によりますと、2030年に都市住民約1千万人の地方定住 または二地域居住が見込めると推計があり、こうしたふるさと回帰の普及に伴う「ふるさと回帰産業 とも呼ぶべき巨大な新たな市場・産業が形成されていくだろうと予測し、手近な所では2012 年に、約8兆円の市場規模となるだろうと言われています。
続いて、次のようにも予測しています。

 『ふるさと回帰希望者を各地に誘導するプロモーター事業(行政、旅行業、メディア・広告業、NPOなど)、定住・ 二地域居住用の住まいや農地などを提供する事業 (不動産業、農業団体、建設業、住宅改修業など)、 働く場や田舎暮らしを充実させるアクティビティを提供する事業(職業紹介、起業支援、農林漁業、観光施設業、趣味関連など)、生活サービスや運輸サー ビス業(小売・飲食業、各種生活支援サービス業、鉄道・バス・航空、レンタカー、引っ越し業など)等、 様々な業種・業態の事業機会が発生する。また、これらさまざまな業種・業態を結合させてトータルな「ふるさと回帰産業」として組み立てるインテグレーター業(統治企業)も現れるだろう。』

 この市場を担うべき地域に精通した「地域マネジメント法人」が成熟しておらず、これら人材や企業を育てるのが「農村六起」だと言う事らしい。「農民一揆」と語呂合わせもあって、何だか凄いイノベーションを感じさせますが、果たして目論み通りにいくでしょうか?
結局は、既存のソフト事業の業界に、大半お金が吸い込まれていきそうな予感がします。もっと大胆な民間活力を爆発させるようなシステムを生み出すには、今の官僚たちでは無理なのかもしれません。

 この内閣府の推計で注目する所は、「ふるさと回帰」の願望が高い世代が、(二重生活を除く)定住に限り、定年前の50歳代より、20歳代の方が高いという点です。団塊世代が、まだ現役で働けるだけ働こうと現場で頑張っているのでしょう。「団塊の世代」の大量リタイアが、ふるさと回帰のムーブメントを引き起こすと言われましたが、実はその団塊ジュニアやロストジェネレーションが「ふるさと回帰」の核心的な主体となっていきそうです。そうなれば誠に嬉しい限りです。
 団塊世代の二重生活的「ふるさと回帰」だけでは、本当の意味で「人の空洞化」「土地の空洞化」「ムラの空洞化」そして一番肝心の「ふるさとへの誇りの空洞化」を埋める事はむすかしいでしょう。若い「アメニティ・ムーバー」たちを巻き込んだ、彼らのライフスタイルを共有できるような「ふるさと創造」であってほしいものです。

ここで、もう一度、
北欧で静かに広がる「ふるさと存続運動」の本質的な理念を紹介しましょう・・・

農業は、地域の自然が語る言葉を理解する文化的行為である。文化(culture)とは大地を耕す(cultivate)ことである。農業では、地域の自然全体を体系的に理解しなければならない。
農業を通じて人間は自然を全体として学び、全体として世界がいかに機能しているかを考えようとする。そのため地域の自然とのかかわりが、人間の感性や人間の思考の在り方を形成する。

(「ふるさと存続運動」は神野直彦さんのコラム記事より。2008/6/16の記事に詳細があります)

ふるさとは遠きにありて思ふもの?

室生犀星の愛したふるさとの犀川(フォトショで加工)

 先だって福田総理が食料自給率のアップに真剣に取り組むとの重大決意を発表いたしましたが、何やらサミット向けの宣伝臭い感もなきにしもあらずで、今ひとつピンとしない。というより、遠い将来の大切な事を見定めないまま、その場限りの施策でお茶を濁してきた日本の”農政”の負の部分を引きずるような気がします。もっと人の生き方までを突き詰めた理念ある農政を提唱しなければいけないのですが・・・。
東大教授の神野直彦氏の「ふるさと存続運動」の記事(日本農業新聞/論点)に共感しました。紹介したいと思います。

 「ふるさとは遠きにありて思ふもの」(室生犀星)この詩の一節が日本の近代化を象徴しているともいう。「ふるさと納税」にしても、仕送りはするが「ふるさと」を見捨てて、遠くで懐かしもうとしているものだ。と切り捨てている。
 今、あくまでも「ふるさとは近くにありて愛するもの」「近くにありて守るもの」という発想から着実に展開している北欧の「ふるさと存続運動」、特にノーマライゼーション(高齢者・障害者と健常者が助け合って暮らせる社会作り)や、クオリティ・オブ ライフ(人間的尊厳を保つ生活)が、掛け声もなくと静かに広がるスウェーデンでの「ふるさと存続運動」の本質的な理念を紹介しています。核心部分は原文にて・・・

 『運動を支える背後理念は地域が人間の生存に必要な資源を、いつも提供してくれているという信念である。それは人間の生存という営みが、生きている自然に働きかける農業を基本としていることをも前提にしている。つまり地域には人間の生存に必要な”生命の蓄積”としての自然資源が十分にあることを意味している。
農業は、地域の自然が語る言葉を理解する文化的行為である。文化(culture)とは大地を耕す(cultivate)ことである。農業では、地域の自然全体を体系的に理解しなければならない。
農業を通じて人間は自然を全体として学び、全体として世界がいかに機能しているかを考えようとする。そのため地域の自然とのかかわりが、人間の感性や人間の思考の在り方を形成する。』

 ちょっと抽象的で分かり辛いかも知れませんが、これを子育てにおいて説明したところは、我が身に置き換えやすいので目を通して下さい。

 『それだからこそ「ふるさと存続運動」を展開する北欧では、子どもたちが「人生のための教育」を学ぶことができる。とことろが、「ふるさと」を見捨てている日本では、子どもたちが森に足を踏み入れ、生命の誕生に感動することもなく、生きる川を目にすることもなく育っていく。もちろん、大地に種を蒔くこともない。
 自然が自然に異変が起きていることを語ってきても、日本の子どもたちはそれを理解することができない。地域の自然とのかかわりを通して、自分の生きている世界を全体として理解し、生きていく上で遭遇する問題を解決していく人間的能力は身に付かない。
「ふるさと」を存続することは、子どもたちを育てていくことでもある。北欧が子どもたちの教育に成功し、知識社会を築いているのは「ふるさと」を存続し、子どもたちが自然との会話が出来るからである』


 遠きにありて思ふ「ふるさと」そのものを持ち得なかった都市遊民の自分にとっては、お腹をえぐられるような痛みを覚えます。自らの「ふるさと」再生を含め、今生活を始めたこの地域の自然をもっと体験・体感でき得るよう頑張らなくてはとあらためて感じる次第です。