●読本9:自分の一歩、己の居場所(地図・コンパス・GPS)

スマホとGPS機器
GPSが歩きを変質させていくのか?

 地図(マップ)を取り上げるのは、「遊歩ハイキング必携グッズ10選」の中で、と思っていましたが、やはりこのテーマは、単なる技術話しでは終わらないようですので、読本として取り上げてみたいと思います。

迷い歩きとルートファインディング・読図

 インスタやツイッターで#登山#山歩きの流し読みをしてみると、まあ何と!写真もそうですが、スマートでクールな遊歩ファッション、グッズで身を包んだ山男・山ガールが次から次へ出てきますね。初心者の集まりで街中ファッションのジーンズやスタジャンで山歩きしていた初期の遊歩会などの時代と比べると隔世の感があります。同様に、GPS時代に突入した現代では、地図読みに関しても大きく様変わりしています。
 活動が始まった頃は、当然ながらGPSやスマホなどはありませんでしたから、地図とコンパスによる何百年もの続いてきた伝統的なアナログ方式による〝読図〟地図読みを会得することになりました。こればかりは、ラフなファッションのようにおざなりにはできません。〝一人で歩けないものは、皆とも歩けない〟というセオリーが出来つつあった頃で、山中にて一人なったとしても行動できるようにと、皆さんには真剣に取り組むようお願いしました。実はこの〝地図を読む〟というスキルには、遊歩を支える基本的な技術であると同時に、人としての〝歩き〟の姿勢を決定する大切なものが反映されることにもなります。
 もともと地図遊びが好きだった私は、この〝ルートファインディング〟にのめり込みました。「アレレ、どこを歩いていいるのだろう?」「こんな所に着いてしまった」などという〝迷い歩き〟が好きでした。その迷いの不思議感と、それを解き明かしていくプロセスが、何ともいえないミステリー感覚にあふれてて興奮するところです。会でも、ルートファインディングそのものを楽しむという企画をよく催しました。目的地を決める。それが頂き(ピーク)なら、そこに通じるいくつかの尾根や沢があります。その中から自分たちのルートを決めて辿っていきます。ピークに突き上げる本谷ルートの沢筋を使う場合ならば、途中いくつもの支谷に遭遇します。そこで読図力が試されることになりますし、迷って枝谷にもぐり込んだ時のルート回復もその力が活きてきます。そうやって読図ができるようになって、さまよい歩きにも慣れると白地図でも、自由にルートファインディングを楽しむことができます。

 当初は初心者ばかりでしたので、地図に一般的なルートが赤い線で描かれたルート地図(昭文社・山と高原地図 No.51)を使うことにしました。六甲山エアリアマップは、赤松滋さん(当時)が調査執筆されていました。後にご縁をいただいて、遊歩に関するさまざまな助言をいただいたり、一緒に歩く機会などもいただきました。氏の著書からも、多くの含蓄あるお言葉を拝借することになります。その一つに、
迷うことを潔しとし、道を見ず、地形を見てそこから道を案ずることを試みている」続けて、
この道は谷へ通じていく、尾根へ上って行きそうだと、先に思いを巡らせて足もとの道を選ぶようになった。単に道標を目安に右へ左へと分岐を選ぶのではなく、遠くまで視野を広げ、地形を意識していれば、たとえ道をはずれてかけても気がつくのが早い。また、どこで何故はずれたかが分かる」 
〝迷い歩き〟から始まった私には、この的を得た一文に大納得。さっそく「迷うことを潔しとす」が座右の銘になりました。この文脈をよく頭に留めいただいて、〝読図・ルートファインディング〟の話を先に進めましょう。

山頂近い山並み風景

アナログ地図とGPSアプリ

 読図の基本は〝目的地と自分現在地を知る〟というとてもシンプルなものです。しかし、これが案外と難しい。アナログなら、地図とコンパスで、方位角を探りながら、また、等高線の微妙なつまり具合やカーブを、頭の中で3D(三次元)イメージに再生・再現させつつ、周囲の地形と照らし合わせて自分の現在地と目的地を探っていきます。特にガスなどで視界を失うと情報量は激減します。これらの経験を幾度も積みかさねて、地形を読み取る感覚を養っていくしかありません。根気のいる作業でもあります。これは渡り鳥や野生のケモノが持っているような方向感覚を本能的に目覚めさせていくような作業なのかもしれません。私たち人間にもそういう本来的なイキモノとしての能力に迫っていく体験、ヴァーチャルでは決して掴みきれない体験は遊歩でもっとも貴重なものになります。
 しかし、GPS・スマホ時代になると一変します。ポンッとタップすると「予定ルートから何メートル○方向に外れています」と一瞬に教えてくれます。最近のスマホは耐寒性にもさほど問題がないようです。アプリの性能は米軍レベル並みの機能性をもっているようです。以下は、GPS推奨派のサイトから引用させていただいたコメントです。

■GPSなんか使うから読図が身に付かないのだ
 という反GPS派の意見に対して、
それは逆だと、GPS推奨派はこう答えています。
「読図できない人が紙の地図なんか見たって自分の位置は分からないでしょう。地形を読むのも慣れていないと難しい。GPSは『地形と地図に慣れるまでの先生』になってくれ、読図の先生がいないと出来なかったことが人間以上の精度で可能になる」 

■GPSなんかに頼ったら登山がつまらなくなる。という指摘には、
 紙の地図を読んで地形を味わいながら歩くのは、それはそれで楽しいものです。でも山の楽しみは一つだけではありません。読図は普通、手段であり目的ではありません。読図が目的の登山があってもいいでしょうが、そうでない登山もあります。読図が趣味の人が道迷い遭難なんてなかなか起こさないのでしょうが、万一があります。万一のために保険としてGPSやスマホを持ち、正しい使い方を覚えるのはリスクヘッジとしては必要なことだと考えています。道に迷って遭難した時に『GPSを持たずに山に入るなんて非常識です!』と言われる時代が必ず来ます。と、スマホにGPSアプリを詰めて山へ行くのがマナーになると断言されています。

 私からはこのご意見を、一つの提言として受け止めておきましょうとしか言えません。しかし、何かしっくりしない。違和感を感じるのも確かです。この提言に賛同した人の「紙情報と有視界に拘っているのは、日本の山屋ぐらいでは無いかと思います」というコメントもあった。この人の言によれば、私もやはり、日本のアナログ派の山屋の部類に入ってしまうのかなと思ったりします。
 道迷いが死に直結しやすい高山や冬山には縁のうすい低山派の私においては、ほぼほぼGPSアプリ使うことはないのですし、道迷いが一つの楽しみ、味わいになっている六甲山エリアでは、全く無用のものです。(最近は地図も持っていかない)もちろん迷うのが嫌!という方も多いでしょうし、GPSアプリをどのように有効利用するのかは、各人の対応に任せれば良いと思いますが、『GPSを持たずに山に入るなんて非常識です!』と面と向って言われれば、とても困惑してしまいます。

木に巻かれた赤テープ
匿名的な存在のような赤いテープ

救われる?惑わされる? 赤テープは道しるべ?

 もう一つルートファインディングに関していえば、山道の木々に巻きつけられた〝赤テープ〟に言及しなければいけないでしょう。
 背を超えるヤブの中で、大海原の漂流者のごとく方向を失ったものにとって、パッと目に入った赤テープは、救世主の導くともしびのように映るだろうし、いく先々にこれ見よがしにベタベタ貼り付けられたテープは、でしゃばり者の余計なお節介モノのように映る。
 六甲山を歩き始めた頃、この赤テープに惑わされて、こっぴどい目にあったことが度々あります。テープを追っていくと、とんでもないところに連れていかれたのです。通常のルートではない、どこかのサークルが自分たちのイベント用のルートに設置して、そのまま外さずに放置していたのかもしれませんが、それならせめてテープに使用目的を書き込んでおけよと、妙に腹立たしくなりましたが、同時に「なぜ、自分で判断しなかったのか」と、それを追っかけていた自分の不甲斐なさに対しても呆れてしまいます。
 この〝赤テープ〟コース上にある道標とちがって、意味も目的も不明なものが多く、煩わしく感じ始めて、ついにはこれは先行者の〝単なるゴミ〟ではないのか?と思い定めて、不要なテープを剥がしていくようになりました。しかし、それはそれで、〝あなたの独断でしょう〟と会内でも異論・反論がでて紛糾してしまう始末。それならばと、阪神間の六甲山をフィールドにしていると思われる各山岳会、大学サークル、官公庁、団体・個人の岳人などの意見をいただこうということになり、アンケート調査を実施することとなりました。この〝赤テープ問題〟の詳細はここでは割愛しますが、貴重な意見を集約でしたものと思います。(この調査の集計・結果報告書をご参照ください)
 先の赤松滋氏にも「テーピング」と題したコラム記事をいただきました。報告書のまとめに収めさせていただきましたが、この一文で〝赤テープ調査〟に関しての全体的な論調を推察できるものと思います。
「現在、六甲山におけるルート表示は煩雑で、見苦しい状態であり、本来の意味も失われているものが多い。部分的に必要なテープを除いて、現存している一時的意味合いのテープ表示は、撤去すべきだろう」

赤テープなるもの、実は六甲山以上に、僕たち社会のまわりにもベタべタ貼られている

 同じく報告書にある私の投稿に・・・、
「山での出来事を山で、都会での生活はその都会で済ましてしまう、と言うのでは、何故、人は山と都会を行き来するのかという問いに答えることができなくなる。(中略)ベタベタと貼られたそのお節介な赤テープのおかげで、行く道を惑わされることもある。しかし、考えてみると赤テープなるもの、実は六甲山以上に、僕たちの社会のまわりにもベタべタ貼られていることに気付くだろう。幼少期は何の疑念もなく、親たちが付けてくれた赤テープを頼りにヨタヨタと辿っていき、反抗期ともなると、それらを無視して逆の方向へと進んだしたりする。思春期に入ると、周囲の煩雑たる赤テープの氾濫に頭を悩ませることになる。「大学?」「就職?」「ああしろ」「こうだろう」あまりのプレッシャーで社会への適応に自信を失うこともある。しかし、ややもすると自分を見失いがちになる時に、「こう考えたら? そう生きたら?」と生活や人生の指針となるべき赤テープとも出会うことも大いにあるのだ。
 このように僕たちの人生にとっても赤テープ(情報)の選択が大事でもあるのだが、テープの正体をよく掴まないまま、それを追っかけて進む悪癖が身についてしまうと、それを順に辿って、自分がどこに居て、どこを歩いているのかが不明のまま、次の赤テープだけを探すような生き方・歩き方に陥ってしまうこともあるだろう。

 ここでもう一度、赤松滋氏の「迷うことを潔しとす」という文脈を思い出しながら、GPSアプリの話に戻ります。氏の一文を、

「迷うことを潔しとし、与えられた指針を見ず、広く社会を見てそこから進路を考えよう。この生き方はこうなるだろう。このやり方はあのようになるだろうと、先に思いを巡らせて足もとから進路を選ぶようになった。目の前の規範だけを目安に右か左かと選択するのではなく、遠くまで視野を広げ、社会や人間関係を意識していれば、たとえ進む道をはずれてかけても気がつくのが早い。また、どこで何故はずれたかが分かるはずだ」というように読み直すことができます。

 スマホをタップしたら、地図の上にすでに予定のルートが既に表示されており、自分の人形がそのコースに乗っている。線上ならOK。外れていればコースに戻れば良いだけです。まさに簡単!わが現在地がバーチャルに表示されます。しかしながら、この赤テープを追っかけているような作業の中で、何かしら大切なものが欠けているような気がするのは私だけでしょうか?
 GPSはリスク回避には最適なグッズです。山の歩き方、楽しみ方も様々ですが、同時にリスクに対する考え方も多様だと思います。安全が第一だとは思いません。安全第一を求める人は山に入らないことが一番です。私は、読図によって自身の一歩が深化していくものと信じています。その自分を支えている一歩一歩を確かめるために山を歩きます。道とは〝身〟〝地〟だと聞いたことがあります。己と大地のコンタクトの場所です。踏み出した一歩に自分を感じて、わが居場所を確かめます。その連続が〝遊歩〟だと銘じています。その大切な一歩と現在地を、GPSに委ねてしまうのはもったいない限りです。個人的には、二次的装備に留めておきたいと思います。(スマホは持っていないけど)

 ちなみにバックパッカーのコリン・フレッチャー師、遊歩大全〝ルートファイディング〟の項目で、「ルートファイディングをするために、地図なしで出かけたり、概略図だけしか持たずに行くことがある」と記している。地図は、あればとても便利だ。というスタンスのようだ。さすが〝遊歩の達人〟ただしコンパスは必携にしている。

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山端ぼう:著つたなき遊歩・ブラインドウォーカー」が出版されました。定価¥500

遊歩大全をバイブルとして六甲山を巡り歩いた老いた遊歩人とブラインドサイト(盲視)という不思議な能力をもつ全盲の青年とが、巻き起こすミステリアスな物語です。 続きは・・・
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遊歩のススメ・第1話(なぜ歩くのか?)はこちらから

※歩かない人のための歩きレクチャー読本
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〝遊歩〟ハイキンググッズ10選・トイレ編

※その2、出したものは全て持ち帰る?

●読本8:一人歩くときほど孤独より遠い

真田ケ岳620.7m (山口県)
真田ケ岳620.7m (山口県)

ひとりいる時こそ、もっとも孤独からへだたった世界である。 (エドワード・ギボン)

 この名言も、フレッチャー師の「遊歩大全」より拝借いたしました。
上巻・付録2にある「瞑想的ウォーカーのための名言集」に収録されていたギボンの言葉です。東西の哲学者・文学者・詩人・科学者・政治家・偉人、広範囲にわたる先人たちの言葉から〝ウォーキング〟の根っこに連なっていくような金言・妙言を集めたものですが、どの言葉にも、心に響くような共感があったり、深く納得するものあって「なるほど」と膝をうったりします。この撰集からでも、フレッチャーの〝深化した歩き〟〝解放された歩き〟をたっぷりと感じることができます。
一人いるときほど孤独より遠い」この言葉には、誰しもが思い当たることがある筈です。独り自分だけの時間の中でひたっている時のあの充足感です。一人でコーヒーを飲んでいる、音楽を聴いている、景色を眺めている。何かに心を預けたまま己が解放されている状態でしょうか。それはうら寂しい孤立感とは、ほど遠いものです。逆に、大勢の人に囲まれていても、にぎやかにコミュニケーションをとっているような時でも、フト自分が見えなくなって、時には激しい孤独感に襲われることがあります。
 ギボンは独り歩いているときに感じたのか、それとも書斎で物思いにふけっているときに、このような一人の世界を味わっていたものか不明ですが、コリン・フレッチャーにとっては、広大なウィルダネスの砂漠地帯を粛々と歩いている時に、または、漆黒の闇の中で、チラチラと揺れるキャンプの火を独り見つめている時に、ヒシヒシと感じていた至福の境地であったことは間違いのないことでしょう。
 孤独感とか孤立感は、自立を意識しはじめた思春期において、何かと心を騒めかせ、悩ませるものです。私の場合もそうですが、大勢の人に囲まれて中で感じる孤独感にどう対処していこうかと思い迷うことがありました。いわゆる社会的孤独というやつです。今の時代では「私はどうあれば良いのだろう」とあがきながらSNSの大海をさまよっている人も多いと聞きます。これを上手く乗り越えていけるかどうかで、その人の将来に大きい影響もたらすことになります。次のような(心理学的)対比からみていきましょう。(※青年期における孤独感の構造 落合良行 著を参照)    

1、孤独をどう見るのか(自己の存在の仕方)

ひとりでいることを紛らわしたい孤独とは人間の真の姿だ
ひとりだと思うと不安で怖いひとりということに優越感を感じる
孤独とは悪魔だ孤独とは人間の真の姿だ

2、共感についての感じ方 

他人は私を理解してくれない私を理解する人は何人かいる。
私の悩みを分かる人はいない悩みを分かってくれる人はどこかにいる。
イラスト by 四万十川洞安

 左は、マイナス思考の人、右はプラス思考の人だと考えれば、よく対比が見えます。要は、孤独に苛まれたくない、逆に、孤独愛にも溺れたくないと、考えるなら〝プラス思考〟で生きていけば良いのですが、これがなかなかに難しい。スイッチを切り替えるように簡単にいくものではありません。
 独りでいるときの快い孤独感、頭ではそういうのもアリだな、と思っても若いうちは、それがどんなものかが掴みにくいものです。「私はひとりきりだ〜」体の奥底から湧き上がってくる、その充足感というものをしっかと受け止める、というのは、禅坊主のような一種の悟りの感覚に近いものだから、若い人から〝その感じ、よ〜く分かります〟といわれても、「ホント〜?」と何かしっくりとは納得ができないところがあります。そう言うと年寄りの不遜と思われてしまうかもしれませんが・・・

孤独とは人間の真の姿だ

 言葉を絞ってみると、ひとつは「孤独とは人間の真の姿だ」というところでしょう。決して孤独は悪魔ではなく、それを踏まえて生きていくことが、社会性にもつながっていきます。人は争いや不幸があったり、病気や挫折、トラブルにあったりしながら、少しづつ〝孤独=真の姿〟をかい間みながら歳を経ていきます。中には、若いうちから本能的に〝孤独=真の姿〟を嗅ぎとっているような人もいるでしょう。
もう一つは〝独り〟だということを自分のどこで受け止めているのだろうかという点にあります。小理屈や座学という観念ではなく、身体、目や耳、手足や皮膚など自身の身体で体感できていなかったのか、体幹の芯までとどくような経験に欠けていたのかもしれません。観念的というか感傷的な甘ちゃんのまま、そういうチャンスや体験を齢30半ばまで持ち得なかって、それからの反撥が、突然の山狂いにつながったのでしょう。〝山を歩く〟という身体性を通すことで、しっかりと孤独と向き合うこと中年になってから、せっせとやり直したものと思います。 

防長百名山・大高神山 647.2m(山口県)からの日の出

 生きるということは所詮、自然との格闘です。それを抜きに他人や社会との格闘はありえません。土・水・風・雨・木々・花・草・石・岩・星・虫たちと交感し、自然とトコトンやりあって、それを自分の体でしっかり受け止めていくことが欠けていた、もしくは充分でなかったのでしょう。〝真の姿である孤独〟を求めて、いい大人が、あてどもなく山中をさまよい、ひとり谷奥で蛇やイノシシに怯えながらキャンプし、冬の山上でテントなしで夜をあかしたり、水も食べ物も持たずに樹林にこもったりしながら、子供の時のような体験を通して自然なるものと格闘していた訳です。〝自然に向う〟ことで多くの生きる知恵や元気を授かりました。自然と対決しているのではなく、自然に包まれていることも学びました。そういうところでも六甲山は父であり母だったのだろうと感謝している次第です。
 男の冒険譚? おとこのロマン? 〝孤独〟のおはなしは女性陣からは、「ただのお遊びでしょ」と、冷たくスルーされるのがオチですが、もともと女性の方が本質的に、孤独な存在だと思われます。そうでないとあの深い母性と共生・共感能力は持ちえないのだと、甘ちゃんの私としては、確信しつつ、冒頭の言葉を男性陣にむけて贈りたいと思います。

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●読本7:遊歩のステージ(舞台)に立つ

摩耶山(702m)・掬星台での初日の出
 摩耶山(702m)・掬星台での初日の出

私たちの遊歩に観客はいるのか?

 大きな岩塊によじ登って、ピークを踏みしめたなら、360度の景色をじっくりと確かめながら達成感と高揚感をもって飽きることなくその風景を眺めることでしょう。誰だってそうでしょう。しかし、同時にそのえも言えない神々しい光景の向こうから、逆にピークに立っている私を見つめているモノを感じたことはありませんか?
 日常では見ることのできない雄大で厳かな風景を鑑賞しにやってきた観客であるはずの私は、同時にそれを実現したパフォーマーでもあります。一人っきりの私のパフォーマンスは、誰にも気を留められることがありません。観客の居ない一人芝居のようなものですが、「よくやってきたね」と労う大自然の時には厳しく、時にはやさしい眼差しをどうしても感じることがあります。向こうからも見つめられているのです。そうやって互いが向き合っている関係が、溶け合って一つになる至福の感覚がそこにはあります。まあこれが山登りの最大の目的といえるでしょう。
 つまり、私たちの山歩きシーンには、観客が必ず何処かにいるということです。それは樹々であったり、小鳥やけものであったり、風雨であったり、様々な自然の様相で私に眼差しを送って交歓してくれます。それは決して険しい山岳だけではありません。自然と触れ合えるところならどんな場所でもそうだと思います。ビルに囲まれた街中であっても、フト見上げたその先の青い空に白い雲が流れていれば、きっとそれに慈しむような眼差しを感じるでしょう。それが山上から眼下に広がる雲海と対話した経験のある方にとっては、一層心に響くものでしょう。下から見上げる雲の向こうにはピークに立ちすくんでいるもう一人の自分とも対面しているのです。
 人それぞれに、心を通じ合える裏山や、刺激や感動を分かち合える山岳との出会いがあるでしょう。そういった舞台(ステージ)で得た体感や感性を、日常に持ちかえって育むことによって、峰々とは程遠いステージにあっても自分の立ち位置を確かめることができて、自らの歩きの舞台を押し広げていくことができるものと信じています。

山頂から360度の眺望
 風景を見ている時には、私は観客とつながっている

 私の初期の歩きの舞台となった六甲山は、日本各地のどこにでもあるようなごく普通の背山です。(「遊歩の舞台としての六甲山とは」も参照ください)それも山脈とまで言えないような狭いエリアで1,000mを超えるピークもない山系(最高峰:931.3m)です。すぐ麓には神戸・大阪間の都市がぎっしりととり囲み、多くの住民を抱え込んでいます。国立公園のエリア内においても観光化が進み、自然もいたんでおり、かなり俗化された山域だといえます。ドライブウェイを始め、ケーブル、ロープウェイ数系統などによる山上へのアクセスも整備され、植物園、博物館、牧場、スキー場、ホテル、レストラン、ゴルフ場(日本最古)別荘群、郵便局、小学校などの行政施設も整った都市機能があるというか、もう都市そのものでもあります。
 エマージェンシーにおいても、危険生物や困難ルートも際立ったものはなく、山上の気象も年間を通して穏やかで、常識的な装備で注意して歩けば、さほど技術を要求されることもありません。迷った時は、山上方面へ向かえば必ずドライブウェイに出会うし、下山を選べば、どこかしらの市街地に数時間でたどり着くことができます。
 しかし、1,000mに届かない標高とはいっても、南山麓はほとんどが急斜面となっており、アプローチ地点が海抜20~50mといった地点から始まることを考えれば、内陸地の1500~2000m級と変わらない実標高差を登ることになります。(伯耆大山1,710m:実標高差930mなど)簡単に低山とは侮ってはいけないでしょう。逆に六甲山を歩き慣れた方は、2000m級の山岳においても体力的な問題はないと思います。

六甲山に深奥幽玄はあるか?

 この点では日本各地の都市近郊の山系は大なり小なり似たようなものかもしれません。さて、我が裏山もこのような紹介であれば、何も遊歩においてもさほど際立つ特色があるようには思わない舞台(ステージ)ですが、「遊歩」がより遊歩のステージとして鮮明に浮き上がる重要な条件、他の山域にはあまり類のない条件を考えてみましょう。
 それは、やはり山麓の周囲一帯に拡がる「巨大な都市圏」というものの存在が外せないようです。東西南北から圧倒的な市街地化の波を受け、緩やかな山麓のほとんどがゾンビに襲われれたように侵食され、建造が許されるギリギリの斜面まで市街化が進んでしまっています。山上周辺の観光化も前述の通りです。自然の保全という点では、ほとんど六甲山系は満身創痍といえます。六甲山には幽玄深奥というような(異空間的な)自然と残念ながら、ほとんど出会うことはありません。「六甲山で一体、在るべき自然がどれだけ残っているのか?」と訊かれることがあります。答えに窮しますが、未開のジャングルや未踏の深山のような状態を自然というなら、そういう自然は残念ながら、このエリアにはほとんど見当たらないでしょう。近代に至るまでに平安の源平合戦、戦国時代に繰り返された戦火で多くの樹木は伐採され、禿山となっていました。現在の植生の多くは明治以降の植林事業によるものだし、沢のほとんどが都市を守る名目で進んでいる堰堤100年計画で、谷は砂防ダムだらけ、都市化のあおりでクマ、猿、鹿などの野生の動物も去っていきました。この地でどれだけ自然のリアルと出会えるものでしょうか? 私たちのウィルダネスに果たしてなりうるのだろうかという疑問はぬぐえません。
 しかし、山麓に数百万という住人(ほとんどが都市生活者)を抱え、この自然と不自然がせめぎ合い、都市化の脅威と侵食をこれほど受けつつも、なおかつこの山系が 独自の自然の秩序を保ち得ているのは確かなことです。不思議なことですが、せめぎ合う近さに因る六甲山特有の厳然とした自然が在るのです。それは、時には父親のような凛々しい威風で、自然の何であるかを教えてくれますし、時には母親のような優しい慈愛を持って私たちの歩きを包んでくれます。そう感じるのは私だけでしょうか。
 それは高い山岳登山などで自然と立ち会っているときの感覚とは少し違うかもしれません。もっと身近な里と里山というような、現代ではすっかり失われしまったような距離感を感じます。
 ちょっとした山岳へ遠征といえば、はやり長いアプローチが必要で、その途中に都会の日常生活の緊張感から徐々に解きほどかれ、自然のフィールドへ向かう気持ちに対応していきます。そんなモラトリアムが与えられますが、六甲山では、そんな間がなく、登り口からいきなり自然空間へジャンプします。そういうワープ感覚が何といっても、この山系の醍醐味でしょうか。真冬なら、朝、スタバで熱々のコーヒーをすすって、昼までにはもう有馬の百間滝の氷壁を登っているってことも可能です。この山域は、自然の営みがコンパクトに納まっていて、日常の生活感からの落差を生む距離感も手伝って、私たちの感性に響きやすいところがあるようです。「トンネルを抜ければそこは北国であった」じゃないですが、一歩踏み入れば、そこそこの稜線歩きや沢歩きのコース、クライムコースなど、近しい自然に囲まれます。そして、一歩踏み出るだけで、もう都会のど真ん中という体験に見舞われます。一種のワンダーランドです。このワープ感覚が味わえることに、この六甲山のステージ(舞台)としての本領があるのでしょう。

新神戸駅前、駅橋の下に布引渓谷の入口がある
新神戸駅前(photo by TopTrip)駅橋の下に布引渓谷の入口がある

水の〝リアル〟と出会う

 新幹線・新神戸駅のホームのすぐ下に渓流への入り口があります。芦屋川の表銀座ルートと並んで人気ある摩耶山・再度山への玄関口です。この下流はすぐコンクリート護岸となって、港まで街の中心を流れ神戸港へとそそぐ二級水系です。この水がどこから流れ出てくるのだろうか? などと都会の住人たちはあまり考えもしないのですが・・・。この流れを辿ってみると様々な水との触れ合いを体験することができ、そのリアルさを体で感じることができます。
 コンクリート護岸を流れる川にはホタルも居ないし、ましてやその水を直接に飲もうとは思いませんが、すこし上流に遡ると、もう流れは渓流となって、30mを超える布引の滝の瀑布がミストになって私たちにふりそそぎます。そのすぐ先には日本最古の大型コンクリートダムがあって、市ケ原のキャンプ場へと続きます。そのあたりから流れの中に足を入れたくなります。そこを抜けると、ツエンティクロス(二十渉)といわれる水際にそった長い渓流を辿る間にたくさんの枝谷から流れ込んでくる水を見ます。この辺りでは、水は本来の水です。なんのためらいもなく頭から浴びたり、飲み干したりしています。本谷が狭まってくると、歴史古道の徳川道から流れが急になる桜谷に入ります。ちょうど上高地から梓川を遡って横尾から涸沢に回り込む感じのミニチュアコースでしょうか。距離は半分くらいで、景観の迫力には負けますが、水に触れ合ったり、流れのリズムなど身近な体感はこちらは負けません。
 少しづつ流れは細まって、登りもきつくなり、ゴールの近さを感じさせます。そこを更に源頭に向けて詰めていくと、摩耶山直下にたどり着きます。そこでチョロチョロと湧き出してくる水を目にして、そっと手のひらにとって口にすると、もう理屈抜きで水のリアルさをそのまま飲み干すことができます。

布引谷、ツエンティクロスの流れ
ツエンティクロス(二十渉)photo by 六甲遊歩会

 大阪湾へ流れ出した沢の水が、海上で温められ蒸気・大気となって雲を作り、六甲の峰々の上で雨になったり、露になって山地に戻ってきて、流れを集めてまた海へと帰っていきます。自然が永遠に繰り返している循環です。ここでは、そういうことが何気なく半日ほどの時間でコンパクトに体験できるのです。このように感じ得たリアリティが、また都会の生活でも反映してくるのです。
 ビル群の一室で、カルキ臭くなった水道水と出会う。しかし、その水の源流を知る者、沢を登り詰め岩の間からわずかに滴る水を一度でもノドに通したことがある者にとっては、水が何であるのか、自然の何であるか、また同時に不自然の何であるかを十分に知ることができのです。壁に囲まれた部屋にあっても、そこで飾られた一輪の花に豊かな自然を感じることができる人ならば、その部屋には自然が広がります。風であれ雨であれ然りです。そういった感性を培っているか、わが内にある自然が問題なのです。
 話は少し逸れましたが(「資料3:引き裂かれた六甲山」の項目にあるコリン・フレッチャーの言葉も味わってください)自然と不自然が圧倒的にせめぎあっている状態がこのエリアのいたる所にあります。そういうことを肌で感じることによって、逆に、都会における生活の中でリアリティの乖離を受け止めやすくしてくれます。そんな不思議なバランスを教えてくれることが六甲山という舞台の大きな特徴だと思います。 

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●読本6:ウォーキングは健全なる狂気である?(遊歩大全)

コリン・フレッチャー著 遊歩大全(左:1998年版 右:1978年初版)
コリン・フレッチャー著 遊歩大全(左:1998年版 右:1978年初版)

〝歩く〟ことの素晴らしい快さは、すでに「歩いている」方には、何も説明もなくても、充分に理解されると思いますが、未だ「歩くことを知らない」方には、ピンとこない、実感のつかめないものだと思います。「なぜ、そんなしんどい事を?」と仰る方が大半でしょう。そういう「歩き」を放棄している方に、遊歩の素晴らしさ、愉快さ、爽快さを説明するほど厄介なことはありません。しかし、そういう方にこそ「歩き」の心おどる素晴らしさを一番知って欲しいのです。そんな一心で仲間を募っていきました。

私たちの歩きを どう呼べばよいのだろう?

   しかし、どう言えば、どう説明すれば、最初のとっかかりなるのだろうか?「一緒に、山をあるきませんか?」で、十分良いように思うのだけれど、そんな文言で人の目がこちらへ向いてくれるだろうか? あれこれ思案の末に、やや奇をてらって〝近所登山パフォーマンス〟と銘打つことにしたが、今イチしっくりこなかったのが正直なところでした。
〝登山〟と言い切るとなにか大仰、とは言っても、〝ピクニック〟では軽すぎるし、〝ハイキング〟では何かもの足りていない。もちろん〝散歩〟とか〝そぞろ歩き〟では自然に立ち向かう勢い感が薄い。〝ワンゲル〟〝オリエンテーリング〟それっぽいようで何か違う。妥当なところでは、はやり〝トレッキング〟あたりでしょうか。トレッキングは特にピークだけが目標にするのではなく、高原や山のふもと、川沿いや里山を伝うような歩きを指します。しかしながら、マウンテンバイクや、オフロードバイクを使ったものも○×トレッキングと呼ぶらしいので、もう少し〝歩き〟に特化・純化した言葉が欲しい・・・。いろいろ考えあぐねたけどれも、帯に短しタスキに流しであった。私たちの〝歩き〟をそっくりそのままを包み込んでくれるような呼び名がなかなか見つからなかった。
 そんな時でした。前項のような経緯で出会ったのがコリン・フレッチャーの「遊歩大全」でした。まさに邂逅といえます。恐る恐る開いたページの冒頭に次の一文がありました。

テレビ、ヘロイン、株。ひたすらのめり込み、常習患者になりがちなこれらの楽しみに、ウォーキング、すなわち〝歩く〟という行為にもつながっているような気がする。だが、精神的な偏執に陥りかねないこれらの狂気の中で、〝歩く〟だけは少し異質だなと感じられるのは、その狂気が快いものであり、精神の健全さにつながっているからであろう」(C・フレッチャー著「遊歩大全」より)

ウォーキングは健全なる狂気である?

 闇雲に歩く他に手立てが無い、禁断症状がやってくると不安で拠り所をなくしてしまう。そんな「ウォーキング中毒」の真っ只中でウロウロしていた頃でしたから、これはズドンと胸の奥に突き刺さりました。そうだ!〝これは健全なる狂気〟なんだろう! いままでの人生の中で、様々な言葉に動かされたり、踊らされたりしてきましたが、この言葉が、何か一番に腑に落ちたような気がしました。大げさに言ってこの言葉に出会うために35年を生き延びてきたのかも知れないと思った程で、そして、この言葉で、これからの35年をも生き延びることができるかとも思いました。そして、この衝撃とともに、大きな安堵も連れもってやってきました。出口のない深い谷で一筋の踏み跡を見つけたような、ホッと救われる思いでした。
 この一年近くの突然の中毒症状かと思える〝狂ったような歩き〟が〝遊〟であったこと、そして、それが精神の健全につながっていることを、数行の一文の中にこれぞとばかりに押し込めて、私に知らしめてくれたこと、そして遠く離れた著者の〝狂気〟とも共感できることになったこの一文に、私は心から感謝しました。健全とは自らの内にあるリアルにつながっていくものであり、いわば社会性そのものでもあります。つまり反社でない狂気、皆と共生していける狂気なのです。このことは〝一人で歩く〟ことと〝皆んなで歩く〟という相克をよく言い表しています。そして更に、それをヒョイと乗り越えさせてくれる可能性を含蓄したものでもあります。

アラインゲンガー(単独行者)であることは、みんな歩きの十分条件で、〝みんな歩き〟は、〝ひとり歩き〟であるための必要条件なのです。

 厳しい言いようですが〝ひとり歩き〟が出来ない者は、豊かな〝みんな歩き〟ができない。〝みんな歩き〟が出来ない者は、満たされた〝ひとり歩き〟ができない。ということでしょうか?
このようなことを踏まえた上で、私たちの一歩一歩を〝遊歩〟と名付け活動を開始しました。月二回の近所登山パフォーマンス(イベント名として残った)、うち元日越年キャンプ遊歩、春秋遠足、高山遠征、就学として六甲全山縦走と〝健全たる狂気〟の発露〟をすべく、怒涛の一年を突き進むように歩きました。

コリン・フレッチャーと遊歩大全

(The New Complete Warker 芦沢一洋訳)
コリン・フレッチャー著「遊歩大全」表紙より
コリン・フレッチャー著「遊歩大全」表紙より

 この後も度々「遊歩大全」は登場してくると思いますので、この本と著者であるコリン・フレッチャーに少し触れておきます。
原著の初版は1968年、5年後の改定版が芦沢一洋訳で日本語版として、1978年に出版されてました。〝ハイキング・バックパッキングの歓びとテクニック〟という副題のもと、バックパッカーための道具とその使い方を、ぎっしりと網羅した600頁を大きく超える技術書です。このバックパッカーのためのハウツウ本が、七〇年代の米国、ベトナム戦争で疲れ果てていた青年たちに、強烈に支持され、一つの生き方・スタイルを提示することになりました。広大な自然へ立ち向い、また深奥な自然に寄りそいながら自分を見つめるバックパッカー達にとって、心地良く、快い〝ひとり歩き〟の世界を押し広げることになります。必読のバイブルとも言われた名著です。
 私おいても、強烈な出会いの勢いから〝歩きのバイブル〟というような言い回しをしますが、一気に隅から隅まで丹念に読み込んだ訳ではありませんでした。まあ、ウォーキング技術の百科事典という感じで、歩行ペースは?、水の補給は? 緊急対応は?など気になったところを辞書引きするように読みました。当然ながら、六甲山と北米のウィルダスネスのスケールや環境的な違い、グッズの時代差などがあって、そのまま適応できないところもありますが、自然を前にした個人の心構え、身の処し方の基本はなんら変わることはありません。自分を囲んでいる環境と自分自身をいかに見定められのかということです。体力勝負というより、一種の頭脳ゲームでもあります。小さな工夫やアイディアで自分の〝歩き〟を創っていく楽しみ、快さを120%を教えてくれました。
 特記すべきは、コリン・フレッチャーと私の距離感を大きく縮めてくれた訳者の存在でしょうか。深化したアウトドアスタイルを追求していた芦沢一洋氏の力量が、訳本の壁を感じさせない名訳が裏で支えになっており、日本の裏山であってもウィルダネスウォークを味わえることを違和感なく伝えてくれたように感じます。何をおいても、〝コンプリート・ウォーク〟を〝遊歩〟と訳されたことは、実に素晴らしい英断だったでしょう。東洋的な〝あそび〟の風趣も相まって、フレッチャーの瞑想的ウォークとも響きあう。私たちの一癖二癖ある〝歩き〟も十二分にすっぽりと包んでくれ、そして更なる可能性とポテンシャルを十二分に感じさせてくれるものでした。

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伯耆大山の連峰、北麓より望む。photo by 四万十川洞安
伯耆大山の連峰、北麓より望む。photo by 四万十川洞安

 この年(昭和60年)、極端な円高不況にみまわれましたが、これを底に世はバブル景気という浮かれた時代へ向かうことになりました。神戸では5月、バース・掛布・岡田の三連発から、秋の日本一の覇権まで、タイガースの悲願達成にむけて上に下にへの大騒ぎで、実に腰が浮いたままの一年でした。多少はその風にあおられ「よし! 我々も仲間を集めて、身体を動かしながら、気持ちの開放や表現を楽しめもう!」と芝居とか舞踊とかだけにこだわらずに、身体を使うものなら何でもありのパフォーマンスグループを作ろうと、友人三人で「曙塾」なるサークルを立ち上げ、ミソもクソも取り混ぜたような仲間(塾生)募集を始めることになりました。
 下の写真がその時の募集チラシです。ヨガ・太極拳・ダンスなどの身体表現の活動募集に混じって、社会時事を勉強する井戸端シンポジウムの参加者や、歴史・心理学の勉強会、そして、登山部を設けて、近所登山パフォーマンスと称したハイキングの参加者も募りました。阪神タイガースの二十一年ぶりの優勝ということもあって、その社会的ハイテンションに乗じたイベント、第一回井戸端シンポジウムが〝阪神タイガース優勝と私〟と題して決行された。「永遠の2位としての美学を築いてきた阪神が、思わぬ優勝によってその存在意義が問われる! 来シーズンからどう生きていくのか?」を真剣に朝まで話し合おうというものだったが、結果は居酒屋でのドンチャン騒ぎに終始してしまった。その他、思いつつままに雑多なイベントを行ったが、一番に反響が大きく、参加者が集めたのが、なんと!近所登山パフォーマンスと名付けた山歩きイベントであった。
 まだ、一般的なアウトドアレジャーといえば海水浴か山歩きしかなかった昭和30年代から40年代に比べ、この頃には、海ではサーフィンやウインドウサーフィン、山ではクライミングや各種のトレッキング、映画ランボーの影響で山奥でサバイバルを楽しむソロキャンプなど、レジャーもスポーツもかなり多様化していた折、多少色褪せかけていたハイキングや山歩きというアクティビティを、もうちょっと違う感触で、新感覚で取り組めるようにしょうとターゲットを若い世代に絞った。
 そうは言ってもやはり、近所登山・裏山ハイクなんて、中年のオジさんオバさんのお遊びなんだろうかと、気を揉んでいたところ、曙塾登山部によく反応してくれのは、嬉しいことに若い世代だった。まあ、要は単なるハイキングなのだけれど、それを態とらしく、当時、日常語になりつつあったパフォーマンスなる横文字を拝借したが受けたのか、存外、初心者が気軽に山歩きを楽しめるハイキングサークルが少なかったのか、あれよあれよと言う間に二十人を超える参加者が集ってきた。
 その曙塾の会報一号に「場と人を求めて」という理屈っぽく気負った設立趣旨がある。少し恥ずかしいのですが、当時の〝歩き〟の転換点を思い起こすためにも紹介させていただきます。

曙塾ぶんぶん第一号会報 昭和60年10月発行
曙塾ぶんぶん第一号会報 昭和60年10月発行

曙塾、そして遊歩会の誕生

〝若いうちに必死に勉学に打ち込んだ訳でもない。歳を喰ってからも、ひたすら一つのものを追い続けている訳でもない。重い腰をあげてようとしても、なかなかそんな決意を持続し実行するに至らない。色々と問題は考えられるけれど、最大のネックは〝場〟がないところにあると思い、その場づくりとなるようにと安易に思いついた。これがこの〈曙塾〉である。
 本来〝場〟とは、何かを生み出そうとするところに生じるもので、〝場〟さえあれば、そこから何かが生まれるだろうと考えるのは調子の良いサロン的発想だということは承知している。できればそうならない為に、建前だけは高遠に、修学の場としての〈塾〉、新しい価値観を模索する場としての〈曙〉を願って命名しました。
 けれども実際には、何から手をつけるにしても、指導的立場のスペシャリストも居ないし、手持ちのスキルや知識・経験も不足している。たとえ仲間が集まったとしても右往左往するばかりで、今すぐに共同作業を通して、何かを生み出していくのは困難かもしれません。でもとりあえずは、集まろうとする人々がその各々の思いで、まず歩いてみる、のぼってみる、演じてみる、唄ってみる、踊ってみる、演じてみる、つまり自分の身体を動かしてみるところから始め、そういう一人称の作業でもって集団の中で互いに触発させながら実行(パフォーマンス)することを最初のアクションとし、少しづつ積み上げることで場が〝場〟として有効に機能していくだろうという予感があります。ぜひ一緒に何かをはじめましょう


 パフォーマンスアートとは、今でこそ誰もが平易に使う言葉ですが、当時としてはまだ、ハプニングなどと並んで前衛アートの思潮としての意味合いが強く残るちょっとした流行り言葉でした。最終的に出来上がった作品そのものに芸術的な価値があるのではなく、その作品に至るまでの行為〈実行〉こそがアートなのだという意味で、私はあえて必要以上にこの言葉を使っていました。つまり、観客が居るのかどうかの以前に、都会においては生活に埋没しがちな〝歩き〟という行為を通して、六甲山という舞台で、自然の前で素直に自分を表してみよう、まず自分を晒しだすようなアートな山歩きをしてみようと訴えました。
 参加者はそんな小難しい理屈にどれほどこだわってくれたのかは別として、素直に〝面白そう〜〟と反応して、顔をだし集まってくれたと思います。大学生や社会人一~二年生の若者が集まってきました。想定していたように、ガチな山登り派は居らず、ほとんどは全くの初心者か、緩いアウトドア派でした。ちょっとしたテーマ(歴史・社会・自然)を決めて、ワイワイとそのお題について語らいながら、ボチボチと山を歩くというような〝パフォーマンス〟でしたが、中には〝自然の中で心を躍らせ、身体を踊らせよう〟というメッセージを真に受けて、当時の若者の必需品だった大きなラジカセを抱えてくる者や、サバイバルナイフを腰に差した和製ランボーもやってきました。

 にわかに大所帯になって、〈曙塾〉では収まりきらず、こうなったら、六甲山ハイキングに特化した新規の別サークルとして独立、活動の充実を図ることにしました。ちょうどその頃でした。メンバーの一人から、東京・神田の古本屋街で見つけたという、上下巻1セットの本が、東京から送られてきました。コリン・フレッチャーの「遊歩大全」でした。この本との出会い、フレッチャーとの遭遇によって、私の〝歩き〟と私たちの〝歩き〟をピッタリと表してくれる〝遊歩〟という素晴らしい名を冠することができ、飛躍へと向かうことになりました。
 そして、昭和61年、「六甲遊歩会」が誕生。加藤文太郎の後追いから始まった手綱のきかない荒馬のような〝不明な歩き〟にさまよっていた我が足先は、〝遊歩という内なるウィルダネス〟へと向かうことになりました。

曙塾会報15号1987年12月号
曙塾会報15号1987年12月号

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由布岳・東峰より湯布院へくだるやまなみハイウェイを望む
由布岳・東峰より湯布院へくだるやまなみハイウェイを望む

 厳冬の日本アルプスで打ち立てた数々の実績から、暗い時代に踏み込みつつあった昭和初期、〝不死身の加藤〟〝単独行の加藤〟と称されヒーローのように登場して、あっという間に槍ヶ岳・北鎌尾根に散った文太郎の足跡を後追いした人たちは数え切れない。その足跡の延長線上からは、植村直己をはじめ、多くの登山家・冒険家が輩出されたといってよいでしょう。その線上のさらに端の端、枝葉の枝葉に私の〝歩き〟もあったのでしょうか? 残念ながら歩き出し時はもう30代も半ば、口惜しさも少しはありましたが、私における文太郎の後追いは六甲全山縦走後、彼の人のようにアルプスや冬山には向かわず、この狭い六甲山域から出ることはありませんでした。
 たゆまない努力・工夫・研鑽を黙々とつみ重ねて、単独できびしい自然に果敢に挑んでいった文太郎のもつ、その天性の逞しい生命力、冒険心、気概にはとうてい及ばないことは初めから承知のことでしたが、しかし、一個の青年として、山へ登ることの意味を真摯に自分の中で突き詰めようとした在り方は、大きく共感するところがありました。そして、その在り方は、高山や冬山でもなく、この平易な六甲山系にあっても、追求していくことは可能だろうと強く思い込むようになっていました。

パフォーマンスアート としての〝歩き〟

 私における六甲山での歩き出しのひょんなキッカケとは、ちょっとした体力テストでした。学生時代から手を染めていた演劇活動、その練習のプロセスで出会ったダンス(少し前衛的な)が高じて、二十歳代は踊りの舞台に熱を上げていました。三十路に入ってリタイア後、35歳の時に突然、舞台に誘われたところで、そんな体力が残っているのかな?」と思い、本当に何気なく六甲山を登ってみようと思い立ったのです。登山の経験が無かった私には、それはちょっとした挑戦でした。そして、アゴを出し、喘ぎつつも六甲最高峰の初登頂を成し得たのが、一つの契機になりました。(その頃に文太郎とも出会った)
 自然を追っかけて、またそれが阻まれたとしても、その都度に何かが体の内に響き渡って、その体感を自分の足に伝えながら山地を踏みしめていく。そして、さらなる刺激を求めるように、また足を踏み出していく。これはこれで十分自己表現になっていないだろうか。表現とまで言えなくても、何かを〝表出〟していることは間違いないないだろう。自然をたどる〝歩き〟の中にそういう己を乗せていくというようなパフォーマンス性を強く感じました。そういう〝表現としての歩き〟というようなことをぼんやりイメージしていた頃に、文太郎の〝ひとり歩き〟も被ってきたのです。
 舞台公演において、〝この下は奈落〟その板を踏みしめながら、我れを表出するという得もいえない心緒がありましたが、この舞台の上でのバーチャルな〝歩き〟ではなく、六甲山というステージでのリアリティに満ちた〝歩き〟にも、大いに心が躍りました。観客はいなくても、こんな形で自分を表していくことができるではないか。そう思ってはみたものの、だから、どういう風に歩いて、どう自分の歩きを見定め、自分で納得すれば良いのか、しばらくはさまようような歩きに明け暮れていました。これで良いのだろうかと混乱して、戸惑うこともありましたが、〝表現としての歩き〟に少しづつ手応えをおぼえきたことによって、文太郎への深追いにブレーキがかかったのは確かでした。冬山やアルプスに向うことなく、裏山である六甲山にとどまり、そこをステージにしようと思った大きな要因になったのです。
自己の表出〟とは〝自己の探求〟と表裏一体です。いわば、この頃から第二の自分探しが始まったのだと思います。「なぜ、歩くのか?」は「私とは何者なのだ?」とイコールになっていきます。ちょっと抽象的になってきました。実情はもっとシンプルな話です。その頃の実際の〝歩き〟に戻ってみましょう。

山から見るご来光には無限の力を、ただただ感じる。
山から見るご来光には無限の力を、ただただ感じる。

共に歩く、群れて歩く

なぜ、歩くのか? その答えを求めて歩く」とは言ってみても、山行の前日までは、地図を前にここをこのルートで歩いて、ここで食事して、何時頃には下山路にとりつこう等と、計画の確認やシミュレーションで頭はいっぱいです。当日も、不安な思いと、それに倍する未知との出会いの期待感の高まりの中で〝歩き〟は始まります。〝歩くことの意味は?〟なんてことは寸分にも考えてはいません。自然を前にしたときの身を引き締める緊張感、なんとも言えない高揚感を、初めてみる風景に塗りこめるように一歩一歩を踏み出していきます。私にとってのささやかな冒険への挑戦が始まっていくのです。
 名のない小さな枝尾根や支谷に一人立ち入って、行き先も退路も見失うという憂き目にも合います。藪漕ぎの果てにイノシシの寝ぐらに突入してしまったり、ホタルを追っかけて沢に落ち足を痛めて帰れなくなり、その場で夜を明かしたり、岩の氷に滑って滝壺に落ちあわてて、有馬温泉へ逃げ帰ったり、この少年のいたずら遊びのような探検ごっこは、目の前の状況をどう判断するのか、エマージェンシーにどう対応するか、このまま目標をクリアしていけるのか、というようなことで頭の中は、常に一杯なのです。しかし、その緊張感の合間、手のひらで掬い上げる渓流の水の美味さ、フト樹林の間から垣間見る風景の美しさ、頂から見渡す果てしない山並みの幽玄さ、幾重にも盛り上がってくる青緑の深さ、沢から吹き上げてくる風の清清しさ、それら都会の日常ではとうてい得られることのない、正にリアルな体感が、自分の身体の奥底へ向かって、涙がでるような喜びをつれて染み込んでくるのです。
〝私は、この為に歩いているのだろう〟〝それ以外に、どんな答えがあるものか〟心地よい疲労感、充足感に酔いながら帰り道をくだり、バスや電車に乗りつつ、今日の〝歩き〟をリプレイしながら胸の奥で歩き直すのです。ほてった高ぶりが少しずつクールダウンされてくると、少しづつ心持ちが変わってきます。自宅で風呂に入って布団に潜り込む頃には、快く満ち足りた達成感の裏から、はやり〝なぜ、私は歩くのか?〟という思いがまたまた顔を出してくるのでした。この相克するような思いの行き来は、いく度も繰り返されます。それは、前に引用した新田次郎の〝深いかなしみ〟という情感よりは、もっと未分化なもので、要は訳が分からないという〝戸惑い〟に近いものだったのでしょう。
 ともかく私は、内から押し上げてくる〝歩き〟の渇求に戸惑いながらウロウロしていたのでしょう。その〝歩き〟の中で私は表出されたり、自分を再発見したり、それに嫌悪もしたりしながらさ迷っていたに違いありません。

大分県・由布岳 マタエ
大分県・由布岳 マタエ

 これを文太郎のように、一人きりで突き詰めるように進んでいたら、おそらく私は、出口を見つけ出すまで、相当な時間がかかったかもしれません。でも、従来の寂しがり屋という私の性分が、一人で歩くところに、みんなで歩くことを無理やり引き入れようとしました。実はこのことで、あっさりとこの〝戸惑いの歩き〟を出口へと導かせることになりました。「そうだ、誰かと一緒に歩けばいいんだろう。仲間と共に〝歩き〟を探せばいいのだ」と、アラインゲンガーから舵を切ることができたのが、大きな分岐点となりました。
 小説(新田次郎)の単独行者・文太郎においては、この〝皆と共に歩く〟パーティーを組むことで、悲劇的な結末(遭難)を招いたように描いています。しかし、残念ながら結果はそうであれ、実像の文太郎においては、決してそうではなかっただろうと推測します。(別の要因があったのだろう)彼もまた、みんなと歩くことへの切望もあっただろうし、長命でありえたら、そういう歩きをおそらく実践していただろうと想像します。私を始めごく普通のどこにでもいる〝歩き〟を愛する遊歩人と何らかわらない存在です。ただ、彼の人の疾走するような脚力が、ある方向の〝歩きの世界〟に押し上げていったことが、私たち凡人と違って伝説の存在へと導びかれてしまった所以でしょうか。
 ズバ抜けた脚力も体力もなかった私は、群れの世界の方へ歩みを進めました。元々が芝居やダンスでサークル活動してことも相まって、群れ集うのは得意です。早速のこと「曙塾(しょじく)」なるサークルを結成、芝居や踊りの活動と別に登山部として、多くの仲間とこの〝六甲山遊び〟へ踏み出すこととなりました。

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