〓 1,17 混沌がはじまった4〔No.6〕

何かの間違いだろうと、
可笑しく感じるぐらい現実感がない。
(1995年1月30日 撮影/T・Y)

【1995.1.17/震災当日4】

 午後3時過ぎ、垂水を出発してもう5時間以上ペダルをこぎ続けている。
 交差点で立ち止まる。ここを曲がれば自宅である10階建ての賃貸マンションが見えるはず。果たして無事な姿で建っているのか、確かめるのが恐くて一瞬目を伏せてしまったが、意を決して顔を上げると、いつもと変わらぬ風景でした。平成3年の新築だったので、まさか倒れることはないだろうと思ってはいましたが、近寄って目をやると外壁のあちこちに亀裂が走っていた。
 6階までかけ登って、ドアを開ける。その時の情景は今でもありありと覚えています。でも、その時に互いに掛け合った言葉が思い出せません。無音の映画のようだった記憶です。おそらく、安堵の後の照れがすこしあって、「どうやった?」程度の平凡な会話だったように思います。
 親父は倒れたタンスで頭を負傷していたが、お袋は無事だった。自宅には、家が傾いた長兄一家4名と同じく家が傷んだ次兄らと集まっていました。狭い2DKで、物が散乱し、余震に備え食器棚やダンスを途中で割って平積みしているので、ほとんど8人分の足場がない。

 お袋がおびえて小さくなっている。意外であった。こんなことには概して強い人だと思っていた。戦時中には兄と姉を抱えて、空襲から逃げ回った経験がある。「なあ、爆弾よりは 大したことないやろ?」背中をさすってやると、「空襲はこんな急にこん、サイレンが知らせるやろ」と、言われれば確かに、地震は全く前触れなくやってきた。でも、私にしたらやはりはるかに焼夷弾の方が恐い。死者の数こそ違え、神戸の大空襲はこの震災と同じような被害をもたらしている。神戸製鋼があったこの周辺も焼け野が原になるほどダメージを受けた。それに比べたら幸いにも、目立ったダメージがないように思える。

 「もう大丈夫やから」と何度、言って聞かせても「恐い 恐い」と脅えている。歳のせいもあるのだろう。幼い子供を守ろう発奮していた頃の若かりし母と比べても詮がない。
ベランダから見える南の方の黒煙がおさまらない。ここまで延焼することは無いだろうと思うが自分も気掛かりなって調べに走る。
 ついでに近所のあちこちに声をかける。幸いに大きな被害にあった方はいなかった。戻ってあれこれ手当にかかる。水や食料の手当に苛立った各々の家族の「こうしよう。ああしよう」と主張がぶつかる。何とか夜を迎える準備ができたようだ。私はその夜に向けて仏壇の細いろうそくをコップに溶かして大きな明かり取りをこしらえた。しかし、不思議なことにこのマンションと数件の建物だけに電気が一時的に復旧した。 
 一通りの出来る限りの手当を終えて、彼女の待つ垂水へ出発することにした。自宅を少し離れると、窓からこぼれる灯も、街灯も一つなく真っ暗であった。山でもこんな暗闇は経験ない。閉ざされた闇のように感じた。

 午後9時前、自転車のか細いランプを頼りに、再びあの惨状を横断していかなければいけない。寒さや疲労よりも、底なしの暗いトンネルに嫌が応にも吸い込まれていくような説明し難い恐怖感で身体が震え出した。

(続く) 

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。
(*このコメントは震災の12年後である2007年当時の旧ブログのものです。現在(2021年2月)、誤字などを訂正しつつ、本ブログへデータ移行しています)

〓 1,17 混沌がはじまった3〔No.5〕

バツ印のような亀裂を多く見かける。
それ自体が「立入禁止」の文字のようだ。
(1995年1月 撮影/Jこと私)

【1995.1.17/震災当日3】

 会社がある長田区はもう間近なのだが、見上げる東の空一面はもうもうと黒煙で覆われている。これ以上の東へ進むのは無理と思い、板宿の方面へ北上する。この辺りにも気掛かりな人たちが幾人かいる。特に板宿で暮らす後輩Tが心配だ。独り住まいの彼のマンションは古い、かなり古い建物だったはずだ。その建物が見えてきたが、遠目にも異様で何やら歪んでいるように見える「ああ~っ」と胸が締め付けられる。立ち入り禁止のロープが一本張られているだけで、中の状態はよく分からない。建物に入ろうとしたら「止めろ!」と押しとどめられた。その男性に、三階に住むTの安否を尋ねると「分からない。とにかくここにはもう誰の居ない」「死傷者もわからない。この地区の避難先で調べてくれ」といくつかの学校を教えてくれた。おそらく、無事なら会社へ顔を出している可能性が高いだろうと、避難所探しは後回しにして会社へ急いだ。

 正午過ぎ、会社にたどり着いた。周辺は騒然としていた。
隣接の小学校のすぐ南から、東風に煽られ西へ延焼が広がっていく。ここでも消防車を見かけても消化をしている気配がない。ホースが空しく伸びているだけだ。肝心の水が出ないのだ。
東にある市民病院は悲惨な状態だ。5階部分が完全にへしゃげている。多数の死傷者がでているもようで、患者の避難と救急で混乱状態になっている。
 会社では、2か月前に竣工したばかりの新工場3階の壁に大きな穴が開いていた。何トンもある工作機が倒れたらしい。4階建ての別館はかろうじて建っているが、幾本かの柱がちょうちん破裂して、鉄鋼がむき出しており、立ち入るのもはばかる状態だった。そして木造の本社社屋は、見事に倒壊していた。そのガレキの前で佇む社長に声を掛けようとしたが言葉が出なかった。社長の方から、「全滅やな」とぽつり。その声は妙に明るい吹っ切れたような響きがあった。
 幾人かの社員が駆け付けていた。Tは居なかった。「Kさんが生き埋めになっているらしい」「Aさんの家が倒れてお母さんが・・・」など、辛い情報が次から次へ入ってくる。
 上空で多数のヘリが舞っている。朝見た映像があそこから撮影されているのだろうか。そのヘリの爆音は無性に苛立つ。「なんとかしたれや! 水まいたれや!」と空へ誰かが叫んだ。しばらくして、ひょこっとTが顔を出した。何もいわずに手を握りしめ、肩を叩いた。取りあえず、これにメモを残していこうと社屋入口に安否確認ノート設置した。

 気掛かりなことは、一杯あったが、早く家に帰らなくては、社を離れて再び東へとペダルをこぎだした。これでもか!これでもか!という惨状が次から次へと目の前に現れる。戦場のような風景を否応なく見せつけられながら、兵庫~神戸~元町、やっと三宮駅へと辿り着いた。此所も酷かった。ここに到るまでに、数件の知人宅に寄ったがだれの安否も確認できなかった。連れ合いの勤め先の洋菓子屋へも立ち寄ったが全く人影がなかった。オフィス街は無気味なほど人影が少ない。
 その先の角を曲がると目の前に、十数階建ての大きなビルが横倒しになっている。もう完全に特撮映画に出てくるビジュアルだ。唖然とするが不思議に現実感がなかった。

(続く) 

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。
(*このコメントは震災の12年後である2007年当時の旧ブログのものです。現在(2021年2月)、誤字などを訂正しつつ、本ブログへデータ移行しています)

〓 1,17 混沌がはじまった2〔No.4〕

窓の向こうの公園にはテント村がある。その向こうには避難所がある。
そして、その向こうには焼け跡が広がっている。
(1995年1月 撮影/Jこと私)

【1995.1.17/震災当日.2】


 未明5時46分、振動の中に飛び交う凄まじい騒音で目が覚めました。
 中国の旧正月に打ち鳴らす爆竹の破裂音によく似た「パパパパーン、バシバシバシ」という凄まじい騒音が、今でも耳に焼き付いています。連れ合いに布団をかぶせ、覆いかぶさり、そのまま長い時間を耐えていました。意識もまだ覚醒していなので何が起こっているのかが分からない。たとえ覚醒していても何も出来なったでしょうが。

 ややあって、その爆竹のような破裂音が、部屋の小物や食器が飛びはねている音ではなく、壁やガラス自体が激しく軋んでいる音だと気付きました。「頼む倒れるな、割れるな」と願った瞬間、すーっと嘘のように静まり返りました。
 地震だと覚った瞬間、「こんな所で、これだけ揺れたのだから、恐らく震源地の東海地方か東京は壊滅的だろうな…」と本気でそういう風に了解していました。
 そーと表をうかがった。真っ暗で静かだった。今のところ火事やガス漏れはなさそうだ。ここから、幾日間も前日の山行に使っていた遊歩アイテムが活躍してくれるのですが、携帯ラジオだけは同行のN君のもので、手元にはない。ヘッドランプを頼りに、散乱した部屋中を片付けた。水は出るが電気はダメだった。(実は水も屋上のタンク分しか無かったのだが)電話も一切つながらない。
 少し東の空が白んで、もう一度周囲をうかがってみる。隣の人がラジオを手に「震源地は、そこの北淡らしいですよ」と南の方へ視線を投げた。被害は各所で出ているらしいのだが詳細は分からない。駅なら詳しい情報がつかめるかもしれないと、垂水駅へ立ち寄ったが、ここでも「よく分からない。電車の復旧も何時になるのか分からない」とのこと。
 しっかり夜が明けてきて、あらためて辺りを見渡してみる。家こそ倒れてはいませんが、和風の家屋の周囲は瓦が落ちて大量に散乱しているし、古い土塀などは倒れている。遠くでは緊急車のサイレンが聞こえはじめ、人の動きが慌ただしくなってきた。

 建設中の明石大橋ごしに見る海峡と震源地の淡路島は静かだった。この辺りが震源地に一番近いのだから、此所より遠い神戸の中・東部は少なくとも此所よりは被害は軽微だろうと良い方に願った。ただ、神戸中心街がある東方面の空が異様にどんよりしている。その無気味さは何やら今までに体験したことのない不安感をかき立てるものでした。
 部屋に戻って、二人で途方にくれるが、如何ともし難い。落ち着こうと山の道具で朝食をこしらえ、非常食のスープをすする。明石の友人宅へ電話が偶然につながる。先方でもまだ事情がつかめていないようだ。それっきりまた電話がつながらなくなった。せめて父母宅だけでもとダイヤルするが時間が経つばかり。
 8時過ぎ、部屋に灯がついた。思ったより素早い復旧で「地震の被害もさほどでもないか?」と淡い期待が頭をよぎったが、つけたテレビの画像に唖然とした。背筋が凍った。(確かにこのビジュアルは強烈であった)
「ん? 高速道路がこけている・・・」
 その情景を目にした一瞬に、そこで何が起こっているのか事態の異常さが了解できました。
「早く、実家へ帰らなくては!」
ようやく見つけたバイク屋で、「すぐ乗れるバイクはない! 自転車もみんな売れた。いや1台ある」
 その1台残っていたのママチャリを買って、冬山装備のスタイルで神戸の中心部へ向かうことにした。食べ物、水の手配、連絡用メモの取り決め(メモが絶対確かだ)、最悪の場合は明石まで歩いて友人宅へ等など、もろもろを彼女と打ち合わせて、必ず今日は、戻るからと留守居を頼んだ。周囲に頼れる人も居なくてずいぶん心細かっただろう。
 午前10時前出発、国道2号線を東へ向かう。
 ゆっくりながら車は走っている。須磨駅の手前辺りから地割れ、街樹の倒木が目立ち、異様な景色が広がってくる。ついにその場に踏み込んだというキリキリする緊張感で息苦しくなってくる。出会う人、すれ違う人の全てがそんな緊張感を抱えた表情。そのことが一番、ことの重大さを物語っていました。
 駅をこえて東正面に大きな火災、消火の手当をしている人影が居ない。もちろんヤジ馬も無い。ただ燃えているだけだ。よくある火災の情景とは全く違う、異様そのものだった。火災を避け、JR線路沿いの東進をやめて鷹取駅の南へ回る、駅前は電柱が倒れて、クモの巣を払ったように電線が方々に垂れている。自転車でも進み辛い。
 会社がある長田はもう間近、見上げる東の空一面はもうもうと黒煙で覆われている。

(続く) 

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。
(*このコメントは震災の12年後である2007年当時の旧ブログのものです。現在(2021年2月)、誤字などを訂正しつつ、本ブログへデータ移行しています)

〓 1,17 混沌がはじまった〔No.3〕

無理して侵入しようかと躊躇した。 
此所からの風景がとても遠くに見えた。
(1995年1月 撮影/T・I)


 震災のあった2年前には、北海道西南沖地震・奥尻町の大災害があった。更にその2年前には島原で普賢岳の大噴火による大きな被害がありました。(海外でも多くの災害があった)どちらにしても私は、その災害・被害の「外側の人間」であった。何やら心を痛めることはあったとしても、テレビの前に鎮座して、その出来事を追うに必死で、その事象の推移に添ってしか、その現場の人たちの心を推し量ることしか出来ませんでした。 当然ながら、大半のマスメディアも、事件の延長のようなスタンスでしか報道しない。そういう報道のフィルターを通して、うちら側がよく見える筈がない。だから現場へ行かなければならないという単純なものでもないけれど…。
 阪神・淡路の震災を体験して、私はやっと「内側の人」となった訳ですが、その「内側」の何と凄まじいものか。悲惨さは当然として、その対極にある歓喜や解放までを含めて、この「被災地」とよばれたエリア内部の混沌さと共有感は、まず体験してみないと理解できないものでしょう。
 テレビの映像や新聞の報道がこの内側の有り様をほとんど伝えていないというより、伝える力が無かったという方が正しいのでしょう。今の社会ならインターネットの力が、無力なマスコミ報道を凌駕していたとも思います。大災害を目の当たりにしてジャーナリストの本来的な性根を持ち直した方も多々おられたと思いますが、悲惨さを伝えるためには悲惨なビジュアルが必要だ、という盲信のようなマスコミの無神経な報道は、現在も改まっていないと思います。
 マスコミとはますます離反していきました。しかし、ワラをも掴む思いで、一人くらいは分かってくれる人間はいないものか?心の底では希求していたのも確かな気持ちでした。

 火事場の糞力でしょうか。震災直後から、この混沌を誰かに伝えるべく必死に奔走しました。自分の中にこんなエネルギーがあるものなのか不思議なほどに動き回りました。スピリチュアルというものに関心があっても、自分には大した霊体験がありません。でも人生の節目には目に見えない力、不思議な波動が自分を奮い起こすことがあります。私が山を歩きはじめた時もそうでした。訳も何もなく、急に狂ったように六甲の山々を歩きはじめたのは自分の意思だけではないように思います。震災よりの一年あまりの奔走を支えた行動力も、今思い返しても、自分のものとは全く思えません。やはり、何かしらの力が私の背を押していたと言う他ありません。その間、それまでの人生で知り合った人の幾倍もの方々と出会うことになりました。
 冒頭の二つの被災地の方々とは、震災の年の夏にコンタクトがとれ、復興にいたる貴重な体験を教授いただきました。互いに内側の人としてまみえたのは感慨深いものでした。直接、支援に行けないことを気づかわれ、その意を感じて「いや~私もあの雲仙の火砕流をせんべいをかじりながら見ていました」などと言ってしまった。
しばらくは「内側」「外側」という言葉にこだわっていくつもりですが、内側=体験者と言う意味では決してありません。事実、炎にまかれてオロオロしていた自分が、部屋に帰ってテレビの前で「これ、すごいじゃん」という気分で見ている。テレビや新聞の前ではいとも簡単に「外側の人」になってしまう。内側の自分を外側から見るというパラドックスというか騙し絵というか、そんな二重性にとても気持ちが苛立ち、嫌気がさして、しばしはマスメディアの報道を封印することにしました。

 その瞬間「ど~んと」地下から突き上げられるような衝撃で身体が浮いたという話は多く聞きました。それから長い横揺れが続くのだが、私の場合、未明の5時46分、振動の中に飛び交う凄まじい騒音で目が覚めました。
 中国の旧正月に鳴り響く、無数の花火の破裂音によく似た「パパパパーン、バシバシバシ」という止むことのない騒音が、今でも耳に焼き付いています。連れ合いに布団をかぶせ、覆いかぶさり、そのまま長い時間を耐えていた。意識もまだ覚醒していなので何が起こっているのかが分からない。たとえ覚醒していても何も出来なったでしょうが・・・

【1995.1.17/震災当日】

 二日間の雪中行軍は思ったより身に応えていました。急きょ有り合わせで作ってくれた連れ合いの夜食と熱い風呂で、身体は溶けるように芯が抜けていきました。
布団の中で、山から下りてきた時の独特の昂奮感、夕食をすっぽかした老父母に申し訳ない気持ち、明日の出社をどうするものかの思案、あれやこれやが頭の中で交錯したかと思うとくるくると回転して、ふわぁ~と沈んで泥のような眠りに落ちていきました。それが1月16日の夜12時少し前。

 いつもの場所で、いつもの生活の中で迎えた試練、私のようにちょっと違った場所で与えられた試練、このエリアに暮らす何十万、何百万の人たちに様々の試練を背負わせた兵庫県南部地震が起きる6時間前でした。

(続く)

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。
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〓 阪神大震災/前夜その2〔No.2〕

先が見通せないないことは辛い。しっかりと自分の足下を見るしか術がない。
今は、そんな時間が与えられたと思えば、うっすら先が見えてくるかも知れない。
(1995年1月 撮影/Y・Y)

 この回想を、この期に始めた理由については昨日のログで説明した通りです。
悠々たる気分や環境の中で「人生って何だろう」とゆったり思索に耽る時は、誰にだってあるでしょう。
「親子のつながりって何だろう?」「会社って私にとってなんだろう?」「愛って何だろう?」「友達って?」「プライドって?」「お金って?」「食物って?」「社会って?」「国って?」「あれって?」「?」・・・

 1・17以降、あらゆる「?」が剥き出しのまま、様々な場面でこれでもかと噴出してきました。生きていく上に必要な事柄、大切なテーマ、平穏な日々の中では、先送りできる問題、ことさら掘り下げなくても何とか通り過ごせる課題が、大地の一揺れを契機に私の中を次々と駆け巡りました。大事な人を失ったり、傷付いたり、かけがいの無いものを失ったり、また、そういう直接の被害が無かったとしても、多くの人は様々な「?」と日々、向き合わざるを得ない事態に陥りました。
 もしも、そういう事態と無縁の方が、あの現場に居られたとしたらその方は「阪神大震災」の外側に居た方だと言った方がよいでしょう。逆に、阪神地区と遠く離れた方々であっても、震災を契機にそういう「テーマ」を深く掘り下げられた方々は、震災の内側に居た方と言っても間違いではありません。
 地震によって、倒壊した家屋や、施設から目もくらむような膨大なガレキが出現しました。しかし、復興という原型復帰の大波の中で、そのガレキは確実に処理され減っていきました。外側の人々は、そういう視線で復興の尺度を測っていきました。しかし実は、平穏な社会では、やり過ごしてしまっていた自らの生き様を問う「?」を、あらゆる角度から突き付けられた人達の中では、今まで味わったことのないスピードで心の裡にガレキが積み重なっていきました。

 この期まで、確信のあった価値観が揺らぎ、また崩れたり、何ともなかった信頼感や絆に亀裂が入ったり、苦悩や葛藤の傍に投げ出された「心のガレキ」は捨て去るどころかどんどんと積み上げられ一方でした。このガレキの解体・撤去は時間がかかります。作業も複雑でその方法も多様なはずです。人ぞれぞれに乗り越えていくしかありません。孤独と言えば孤独な作業です。とは言っても、本来これらは「人の触れ合い・関わりの中」で見つめ直していくべき問題で、そうでなく内に潜っていくと、とても厄介で困難な作業となります。
「復興」とは社会的インフラだけにあるのではないと考えはじめたのは、不思議なもので地震の直後から直感として芽生えていました。

【1995.1.16/震災前夜2】

 二日間の雪中行軍は思ったより身に応えていました。急きょ有り合わせで作ってくれた連れ合いの夜食と熱い風呂で、身体は溶けるように芯が抜けていきました。布団の中で、山から下りてきた時の独特の昂奮感、夕食をすっぽかした老父母に申し訳ない気持ち、明日の出社をどうするものかの思案、あれやこれやが頭の中で交錯したかと思うとくるくると回転して、ふわぁ~と沈んで泥のような眠りに落ちていきました。それが1月16日の夜12時少し前。

 いつもの場所で、いつもの生活の中で迎えた試練、私のようにちょっと違った場所で与えられた試練、このエリアに暮らす何十万、何百万の人たちに様々の試練を背負わせた兵庫県南部地震が起きる6時間前でした。

(続く)

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。
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〓 阪神大震災/前夜その1〔No.1〕

明石海峡大橋。
何かに引きずられるように「此所」へやってきたとしか言えない気がする。
「此所」は神戸市内で、その震源地に一番近い所だった。

 あれから12年の歳月が経とうとしています。今年の抱負の一つにこの回想があります。
 毎年訪れる1.17自体に特別な感慨は無いと言えばウソになるかもしれませんが、今までは敢えてさりげなく無視して、正面から向き合うことを避けて通り過ぎてきました。否、というより出来得るなら早く、遠い過去のもう風化してしまった事柄になるよう願っていたのかもしれません。

 あの体験から得た幾多の貴重な教訓・学びは確りと自分のものとして、今の生活の中に脈々と生きて、そして活かされているはずだろうという「自負」はあります。しかし、本年にいたって、ことさらに振り返ってみようと思うようになったのは、やはり、どこかしら自身の中に整理しきれていない1.17が在って、今まで抱えてきた「自負」というモノに対していささかの疑念が芽生えているのかもしれません。
 それは、神戸を離れて田舎暮らしを始めて4年近い年月の中で、自然ゆたかな大地を踏みしめ、それに根ざし、その風土に中にすっぽりと身をゆだねて生きていく実感を噛みしめられるようになったからかもしれません。よいチャンスなのでしょう。これからの生活の明るい指針としても、もう一度、自分が震災の体験で得たものが何であったのか検証してみる契機になればとも思います。
 まとまって何かを書き上げる力も時間もありません。ブログという性質上、淡々と日々を追っていく方が気負いなく書けそうです。12年前の日々とは前後いろいろ錯綜はあるとは思いますが、とりあえずは前日あたりから思い起こしてみます。

【1995.1.16/震災前夜】

 震災後「あれが、ああだったのは地震の前ぶれだった」などという様々な予兆・予知話が飛び交いました。学術的なものから、個人的な虫の知らせという類いのもの、動物の仕草まで、日頃にはないちょっと変わった出来事などは全て予兆話のネタになりました。
 私においても、いくつかのその類いの出来事がありました。それをちゃんと説明しようとすれば、ブログの域を超えるずいぶんの字数が必要です。その辺りを割愛して要点だけをピックアップしますと、震災前々日は、大雪の北摂山系を篠山から南下して、ひなびた温泉で山友のN君と二人で吹雪の露天風呂に浸り、初めてのシシ鍋を食っていました。明けて16日、まだ残雪の深い沢や峰をたどって能勢に着いたのは、日没後からかなり時間が経っていた頃です。
 この山行自体がそもそも10年来の遊歩の枠を外した異様なものでした。(その説明は省略)それから大阪へ帰るN君と別れ、重い身体をシートに沈めて神戸へ向かうJRの車窓から通り過ぎていく自宅の建物を眺めていました。幾度かの逡巡はあったようなのですが、父母と住む自宅のある灘で下車せず、三宮、元町、神戸、兵庫を越え垂水まで乗り継ぎ、結婚準備で神戸で暮らしはじめていた今の連れ合い宅まで足を延ばしていました。
 これは全く予定外の行動でした。へとへとで空腹、早く眠りたいと身体は言っているし、第一明日の出社はどうするつもりだ? 時間的にも自宅へ折り返す訳にもいかない。この山から下りてきた格好で会社へ出るつもりたったのだろうか。彼女に会いたいという気持ちを差し引いたとしても、泊まり掛けの山行帰りに家を空けることは前例がないし、尋常な行動ではありませんでした。今振り返っても、それは自分の意志ではなく、何かに引きずられるように「此所」へやってきたとしか言えない気がします。

「此所」から海を隔てて10数キロ南に兵庫県南部地震を引き起こした野島断層がある。「此所」は神戸市内で、その震源地に一番近い所でした。

(続く)

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。
(*このコメントは震災の12年後である2007年当時の旧ブログのものです。現在(2021年2月)、誤字などを訂正しつつ、本ブログへデータ移行しています)