●読本12:アルチュール・ランボオ 謎めいた砂漠の〝大遊歩〟とは

■イラストは、ヴェルレーヌが描く、若き日のランボー。左下はシャルルヴィルにあるランボオの墓、右上のシャルルヴィルの本屋のポスターと共に、旅ブログより(出典は最下段に)

中也とランボオ、そしてランボオとランボー

 あちこち各地を巡ったことで幕府の隠密じゃないかという説のある松尾芭蕉も〝歩き〟の点では気になる先人の一人です。山頭火も奥州・平泉まで足を延ばして〝奥の細道〟を後追い(トレース)しています。芭蕉は「月日は百代の過客にして」という書き出しで有名な奥の細道の序文のその後に「そヾろ神の物につきて心をくるはせ」という文言を残しています。〝そぞろ〟という言葉には〝遊〟の香りが匂ってきます。やはり、芭蕉を〝先人に見る遊歩〟の一番手に取り扱うのが順当なのか、それから放浪の俳人・種田山頭火、そして同郷つながりで〝散歩〟好きの中原中也、さらに、この中也に多大な影響を与えた詩人アルチュール・ランボオの〝大歩行〟をつなげれば、特に際立つ系譜や体系があるわけでは有りませんが、このそれぞれの〝歩き〟の違った切り口を通して、私たちにとっての〝遊歩〟を考えていく上でも大きな手掛かりとなるような気がします。(芭蕉が未稿の訳は次回に)

 中原中也は「ランボオ詩集」を翻訳したこともありますが、天才的な早熟であったこと、そして若くして病気で逝ってしまった(中也30歳、ランボオ37歳)そんなこととか、純真・繊細だが共に激情・粗暴であったとか、中也が恋人を友人の小林秀雄に奪われた奇妙な三角関係、ランボオは同性愛相手の詩人・ヴェルレーヌと喧嘩のあげく銃撃されるなというような痴話にも二人のシュールな生き様が重なったりします。
 特にランボオにおいては、詩人を放棄、後世に宝石のように輝くような作品を焼き捨て、貿易商〜探検家〜武器商人などへ転身して姿を消してしまう生き様は、どうも凡人には理解しがたいものがあります。門外漢の私には詩のことはよく分かりませんが、その人生を彩ったスケールのある歩行ぶりには、大いなる関心をいだきます。何とかこの天才詩人の〝遊歩〟がどんなものであったか、ぜひとも探ってみたいと思うところであります。
 ランボオといえば、詩人のそれよりスタローン主演の映画のジョン・ランボーを想起される人が多いかもしれません。ランボオとランボー、何か関係があるのでしょうか。詳しくは分かりませんが、原作者のマレルが主人公となる一人のベトナム帰還兵の名前を考えていた時に、たまたま奥さんがランボー・アップルを持ってきたから、というようなエピソードを語っているのですが、もしかしたら作者自体にもランボオへの思い入れがあったかもしれません。特に、未来に通じるはずの戦いで傷つき、失望した青年の姿が、パリコミューンという革命への熱狂と挫折という若き頃のランボオと少しは折りかさなったかも知れません。

■左:「太陽と月に背いて」でランボオを演じた美少年のレオナルド・ディカプリオ(1995年)、右:映画「ランボー」で孤独な帰還兵を熱演したシルヴェスター・スタローン(1982年)

 その映画ランボーも80年代前半のことです。若い人にはもう通じないかもしれません。映画のすぐ後に放映された1983年のサントリーローヤルのランボオ編というCMが、茶の間にもよく流れました。これにも〝ランボオ〟という名の印象に残っている方が案外多いのではないでしょうか。この電通が作成したぶっ飛んだCMはけっこう衝撃的でした。エキセントリックなビジュアル(砂漠・ピエロ・火吹き・魔術師・イグアナ)から、音楽、ナレーションなど斬新なコマーシャルとして記憶に焼き付いている方は多いと思います。子供の頃にこのCMを見て、なぜか「怖かった」と思い起こす人もいるようです。それ程に、異界の雰囲気がムンムンだったのでしょう。ランボウの詩の世界と通じるものがあるのかも、と今でも評価の高いCMです。YouTubeにも上がっていますので今一度思い出して拝見してください。リンクが外れていれば検索してください。そのCMのナレーションが次です。

 その男は 1人で立っていた
 10代で天才詩人
 10代であふれる才能を放棄
 20代は放浪
 そして砂漠の商人
 永遠の詩人 ランボオ
 あんな男 ちょっといない
 サントリーローヤル

 このバーションのナレーション、7行でズバリ、ランボオの足跡を言い表しています。次のバーションには・・・

 その詩人は 底知れぬ渇きを抱えて放浪をくり返した
 限りない無邪気さから生まれた詩(うた)
 世界中の詩人たちが青ざめたその頃
 彼は 砂漠の商人
 詩よりは美味い酒を などとおっしゃる
 永遠の詩人 ランボオ
 あんな男 ちょっといない
 サントリーローヤル

1983年のサントリーローヤルのCM・ランボオ編

なぜ? 何処に向かって、こんなにも歩いたのか?

 彼は、詩作を始めた15歳の頃から、20歳頃まで、家出をきっかけにパリ、ベルギー、英国、北欧と詩を作りながら放浪します。そして、詩と決別した20歳過ぎからは、ヨーロッパを捨てて、放浪の先をあたたかい南の方へと羅針盤を向けます。徒歩でアルプス山脈を越えイタリア、トルコそして、東南アジやアフリカ、アラビアと方々を動き回ります。移動手段には船や馬車、ラクダなども使ったでしょうが、時代的にも基本は〝歩行〟だったと考えていいでしょう。その膨大な移動距離は何だったのか? 何のために? どこへ向かおうとしていたのか? その〝歩き〟を紐解きたいと思うのですが、にわか勉強ではよく分からないが正直なところです。
 西行の足跡を追い、風雅を求めて辺境の地へ旅立った芭蕉の旅や、〝解くすべもない惑ひ〟を背負った山頭火の放浪、歩行のリズムに合わせて移ろう風景と我が感性を摺り合わすように徘徊した中也の散歩などは、それぞれに首肯できる〝歩き〟が見えて、私自身の〝遊歩〟にも通じるところを感じるのですが、ランボオという人物の生き方もそうですが、〝歩き〟そのものが一体何だったかがよく見えてきません。10代の後半、文学的資質を磨きながら詩を書き溜めながらの放浪には、詩人としての足跡がよくうかがえますが、その詩の殆どを焼き捨てて、突然に姿を消すように南の地へ旅立ったその後の生活者としての放浪の歩きには、〝底知れぬ渇き〟というような言葉だけでは、なかなか納得のいく足跡が見えて来ないのです。

 例えば野球で言うと50〜60本のホームランを中学卒ですぐガンガン打って、いや、フランス文学、世界の文学に衝撃的に影響を与えたという位ですから、70本以上かもしれません。そんな王・長嶋をこえるようなヒーローが20歳を過ぎて、たった4年間の現役生活を閉じて引退、パタッとどっかに消えてしまう。音楽界で例えればビートルズの最盛期、そのサウンドが旧来の音楽を揺さぶり、世界中の若者から熱狂的に迎えられていた時に、当の本人たちはバンドを解散して、中東あたりで武器商社を結成して一攫千金を狙っていた。という感じですか。まあ、なんとも不可解なことです。
 しかし、龍馬のような例もあります。新たな日本の進むべき道が見えて、新政府の中枢に誘われた坂本龍馬が、それをすっぱり断って「わしは海の向こうで商いじゃき」と世界に目を向けた貿易商へ転身する夢を語っています。暗殺事変がなかったならランボオのように世界中を動き回っていたかもしれません。もっと身近なものにでは、輝かしい実績を残したサッカーの中田英寿も引退後、直接的にはサッカーの現場に戻ってはいません。それを質した問いに「今、やりたいことが偶々サッカーではないから」と答えて、事業家としての充実感を語っています。次々と未来を見通すことができるランボオにおいても、詩の次に見えたのは〝商い〟だったのでしょう。ありとあらゆるものを荷馬車に積んだ隊商を引き連れ、砂漠を黙々と歩き続ける貿易商人としての姿、自ら詩の中で描いた砂漠のキャラバンを現実でも追っかけたのかもしれません。

 学生時代、私自身は残念ながら彼の詩に触れることがありませんでした。しかし、私の周囲には、この若々しい躍動する感性をそのまま自由奔放にぶち撒いた叛逆詩人に、ずぶりとハマっていた崇拝者が幾人か居ました。まあ、文学青年にとってはこのランボオ熱は、一種の麻疹のようなものだったのでしょうか。その内の一人の友人が、熱が高じて彼の足跡を追うべしと、フランスに渡り、シャルルヴィルから終焉の地となったマルセイユ、そして、イタリア、キプロス、さらに探検家・貿易商人として渡り歩いたアフリカのアレクサンドリア、カイロ、ハラール、アラビアのアデンなど、彼の踏みしめた地を後追いする旅に出ました。(その全部を走破できたのか記憶は定かじゃありませんが)その時、私は日本でサポート隊のお手伝いをしていたものの、何故そんなに必死になってランボオの足跡を追うのか、はっきりと共感することができていませんでした。
 今なら、後追いした友人も〝底知れぬ渇き〟を抱えていたんだろう思い計ることはできます。それがランボオの詩を通じて、ランボウの足跡そのものをトレースすることで〝渇き〟の正体を確かめようとしたのでしょう。私の場合は、それから遅れて10数年後に加藤文太郎のにおける〝山における渇望〟というような〝歩き〟に出会って、六甲山中でかの人の足跡を追うことになるのですが・・・

ボヘミアンたるランボオは自らの足で詩を描こうとしていたのか?

 しかしながら、この〝底知れぬ渇き〟を抱えた放浪の〝歩き〟お正体はまだまだ不鮮明で納得できるものではありません。「彼は根っからのボヘミアンだ!」という人もいますが、定住地をもたないジプシー(ロマ)とも少し違う放浪者です。厳格なキリスト教の母や牧場での農作業を忌避していたのは確かのようですが、何かの問題の折々には故郷へ立ち戻ります。(フーテンの寅のように)
 ランボオには、家族や商いの取引先、現地の行政官などに送った膨大な書簡が残されています。アフリカ書簡と呼ばれるものです。死の彷徨ともいえる末期には、妹であるイザベルが記録を残しており、これらから彼の後半生を解き明かそうという研究があります。その第一に挙げられるのが、鈴村和成氏による「ランボー、砂漠を行くーアフリカ書簡の謎ー」という評論があります。この本の書評に、フランス文学と詩の世界を紹介している壺齋散人氏の一文を発見しました。この感想がとても分かりやすいのでまず紹介させていただきます。

詩人としてのランボーは、この世の中と折り合いをつけることができず、世の中から遁走しようとする意思を絶えず抱いていたが、詩を放棄した後も、ついに世の中と折り合いをつけることができなかった。彼の一生はだから、この世の中から己の身を遠ざけるかの如くに、たえず歩き回っていた生涯だった。そして歩くのにくたびれ果ててついに足を失った。足を失って歩くことができなくなったランボーは、この世の中から去るしか道はなかった。この書物はどうも、そんなことをいいたいようなのだ。」(壺齋散人)
 
 この感想では〝世の中から遁走するための歩き〟という分かりやすい様相が浮かび上がってきます。さらに、前述の評論をはじめ、数多の資料を駆使してランボオの〝歩き〟を徹底的に追いかけた「ランボーの右足」なる秀逸なサイト(管理人:紅玉)を見つけました。ここでは、ランボオの詩を詩ではなくパンクロックとして読み取りながらの、放浪の核心に迫り彼の〝歩き〟を解き明かすことを試みています。いくつか引用させてもらいます。少し長くなりますが、我慢して目を通してください。(本体を直接に読まれるのがベストです)
 この評論では、ランボオの辺境における〝歩き〟とは、彼が詩の世界で語ったもの、語ろうとしたものを、現実の貿易商人の足取りとして(再生するように)一歩一歩踏みしめて歩きだしたところから始まります。

●よく人生は道のりや歩みに喩えられるけれども、彼の生はまさに〝歩行〟にあった。そして、あまりにもよく歩きすぎたことで、人より速く人生を踏破してしまうことになる。現実の手応えは重く、心身ともにきわだって鋭敏だった彼は、〝世界と通じ合うための一歩一歩〟から、あまりにも多くの知を受け取りすぎたのだ。(ランボーの右足3より抜粋)
●今の彼はハラルの貿易商人で、個人としてのランボーは、いつもなにがしか自身が向かうところ、目的へと向かってゆく〝歩行そのものの不思議な奴隷〟だった。わがままだからではなく、飽きっぽいからでもなく、ただ「そうしなければならない」と決めてしまったことを、実行せずにいられなかったのだ。だから、文学を棄てたのも、そうしなければならなかったからだろう。(ランボーの右足4より抜粋)
●ランボーの基本的な行動志向をあらわす「ここ」と「あちら」の関係が、カイロ書簡にはよくあらわれている。「ここ」は定住地ではなく、「あちら」へ発つまでの通過点にすぎず、ゆえに「ここ」の場所はつねに変化しつづけていなければならない。「あちら」が「ここ」になってしまったら、もうそこにも文句だらけになってしまう。
(ランボーの右足13より)
●ランボーの「ここ」と「あちら」を結ぶ行為は、つねに身体と距離の移動である。〝歩行〟することそのものが、ランボーの志向性と生、そして「あちらには何かある」という幻想の統合をかたちづくっていた。そもそも、人のあらゆる行動も問いも、「私はここにいる」という位置決定からはじまるものだ。我が身を問う人間であることは、つねに今ある我を出でて変化してゆく存在であることだ。
 ランボーは、つねに「ここ」と「あちら」の道のりを眺めつつ、その距離に身体を運ぶことで統合してゆく。そういう生を、彼は生きた。我の身体ととりまく世界の光景を、〝歩く〟ことで結びつける生。動きのある全体であり、まぎれもなく独特である全体。「あちら」が「ここ」になった時点で、出てきた場所と歩いてきた道のりと、たどり着いたことそのものが、一つの生の時間と光景となって、まざまざと生きられる。同時にその体験は歩く道々で刻一刻と放棄されつづけるのだ、かつて詩を書き飛ばすと同時に棄て去りつづけてきたのと同じに。ランボーは身体を運んでゆくことで、主体が主体たるありかたを、不思議にもきわめて本質的な形で生きた。
そして「そちら」は「あなたがた」、つまり他人の場所である。彼はそこには行かない。(ランボーの右足18より)
●その表現形が詩であったこと、詩こそが彼の体質だったことによって、ランボーの詩は徹底して強靱である。その作者の行動形態は、あらゆることを経験するという志向による「ここ」から「あちら」への絶え間ない移動という形で、文学放棄以降も生涯生きられることになる。(ランボーの右足30より)

 
 自由奔放と見えた放浪、実は、なんとまあ、窮屈な〝歩き〟だったのでしょうか。(文太郎の〝歩き〟に近い?)己の感性とそれによって描かれた世界に対する義理堅さを感じえません。ただ単に、世の中と折り合いがつかずに遁走したという一言で済ましてしまうのは、あまりにも可哀相な気もします。そんなにも律儀に〝あちら〟と向き合わずに、「色即是空」「ここ即是あちら」「あちら即是ここ」というような、自然と一体になるように身を置く東洋的な精神風土であったなら、自らの〝歩き〟に縛られることもなく、こうも壮絶な放浪を背負うことなかったようにも思われます。
 1891年5月、骨肉腫により右足を失ったランボオは、シャルルヴィルへ連れ戻され、本人の強い希望で故郷から再び南のアデン(アラビア半島の南端)を目指すことになりますが、途中、キリスト教徒として死ぬこと、故郷に埋葬されることを拒みつつ、11月10日マルセイユにて、妹イザベルに看取られながら、詩人・探検家・貿易商という三重の人生を閉じることになります。享年37歳。(二つの遺言は共に叶いませんでした)

 不図、西行の「世の中を 夢と見る見るはかなくも なほ驚かぬわが心かな」なる歌が頭をよぎりました。

【使用画像】
■シャルルヴィルにあるランボオの墓とシャルルヴィルの本屋のポスターは旅ブログよりより拝借。
■レオナルド・ディカプリオはツイッターから拝借。シルヴェスター・スタローンは映画COMより拝借しました。

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読本11:中原中也の散歩生活にみる〝徘徊的遊歩〟

幕末の緊急バイパス・幻の道「徳川道」(六甲山)

徳川道起点標識(神戸市・阪神石屋川駅北側)前方に六甲山系を望む

 六甲山には、カタカナ名のポイントやコース名が多い。幕末、開港された兵庫の港に居留した外国人たちによって名付けられたものだが、そのうちカスケードバレイ(和名:杣谷)という名の沢筋がある。阪急六甲駅・西側の都賀川を遡行していく摩耶山と長峰山に挟まれた、カスケードという名の通りいくつかの小滝を登り、流れをまたぎながら杣谷峠へと至る谷コースだ。峠を越えるとすぐに可愛らしい新穂高(648m)やシェール槍(643m)をバックにした穂高湖に出会う。新穂高の北側を回りこむ沢を〝シェール道〟南側の沢筋を〝徳川道〟と呼んでいる。この度は、洋名にあふれた六甲山において、和名でそれも山径としては異端とも言える〝徳川〟と冠せられた由来を少し紹介してみたいと思います。

神戸事件・幕末維新の荒波が六甲山中に押し寄せる

 徳川道の正式名は「西国往還付替道」、つまり神戸の海岸に沿って整備されていた西国街道(山陽道)のバイパスです。幕末、兵庫の開港(12月)をひかえて、外国人と街道を往来する大名行列との接触を避けるために、(9月から)3ヶ月ほどの突貫工事で整備された徳川幕府が命じた迂回路です(現在の明石市大蔵谷から、阪神石屋川駅付近までの全長33km)東側半分は六甲の山中で、特にカスケードバレイは滝や堰堤の巻道が険しい岩場となっているところあって、「大名行列? マジ?」と言いたくなるようなルートです。この急な工事を2万両(2億円くらいか)で幕府から請け負って必死に完成させた庄屋・谷勘兵衛は、完成後に勃発した戊辰戦争で勝勢となった長州軍に、この工事費を略奪されてしまうという目にも合います。このあたりの詳しい事情と顛末は『山田村郷土史』を中心に調べておられるサイトにも紹介されていますので徳川道 ~幻の西国街道のバイパス~を参照ください。
 なんとか12月の兵庫の開港に間に合ったバイパスですが、その数日後には王政復古の号令が下って「このバイパスを使え!」という通達も各地に伝わらず、明けて翌1月11日、新政府から西宮の警備を命じられた備前藩(岡山藩)の軍勢が西から進軍してきましたが、付替道(バイパス)の存在を知ることもなく、海岸沿いの西国街道を直進して、現在の三宮神社のあたりで、この備前藩の先発隊の隊列を横切ろうとしたフランス水兵と衝突します。世にいう〝神戸事件〟の勃発です。英兵や米兵も合わさって撃ち合い(威嚇射撃?)が始まり混乱します。
 後方にいた本隊と退却した先発隊は、ようやくバイパスが開通していたことを知らされ、敗残兵のような体で六甲の山越えに向かいます。麓の小さな山田村に600人を超える兵士たちが宿を求める大騒ぎぶりも前述の郷土史に残されているようです。世はたちまち明治の時代となって、この時の行軍が〝西国往還付替道〟の唯一の使用例となり、さらに時代が下って、現代では〝徳川道〟という名でハイキングコースとしてその名残りを伝えることになります。
 神戸事件の方は、明治政府・新進気鋭の伊藤博文の奔走で大事に至らず収まりますが、その陰で詰腹を切らされた〝滝善三郎〟の悲劇が起こっています。神戸事件は、一般にはアーネスト・サトウなど外国公使の回顧録をもとに語られることが多いのですが、もう一方の当事者であった岡山藩の資料を含め、広範囲な情報を収集している神戸事件を考える」というサイトでいくつかの推論が検証されていますので興味のある方は訪れてください。

神戸事件発生地(三宮神社境内)  Photo by S. Douan
カスケードバレーの入り口・杣谷堰堤
徳川道

 徳川道と神戸事件の顛末は、何ともいえない皮肉な因縁ですが、劇的に世が揺らぎ変化した幕末ならではの出来事です。六甲山は本当に不思議というか、面白いというか、無数の引き出しのあるおもちゃ箱のようです。シュラインロードや山上磐座群では、平安の世の修験者の打ち鳴らす錫杖の響きや法螺貝の音、山中各所にある源平合戦や戦国時代古戦場では武者たちの苦闘の足音も感じることができます。この徳川道でも歩くたびに、ゲーベル銃かミニエー銃を担いで六甲の山中を行軍した兵士、それも幕末の風雲に飛び込んだ若い農民兵たちの息遣いを聞くようなこともあります。私が踏みしめている一歩一歩、百数十年前には確かに彼らもこの道を踏みしめていたのです。何とも言えない思いと想いが交差して奇妙な共有感をいだきます。
 単なる資料ではなく、そんな〝歩き〟の体感を表したく、徳川道にちなんだ短い小説を書いてブログにもあげたことがありました。ちょうど神戸を離れ、六甲山とお別れして山口の地に移住してきた直後のことです。夜逃げのような田舎暮らしで、ほぼ無計画状態で移住してきた頃の不安な自分の尻を叩くよう作品でもあり、当時の生活を思い出す感慨深いものです。このブログでも再掲させていただきます。読んでいただければ幸甚のきわまりです。
(右写真:上は穂高湖、下3連が徳川道と呼ばれる小径、出処は最下段に記載)

神戸事件の概要を紹介する銅版(瀧善三郎の切腹のシーン)  Photo by S. Douan

アキラの徳川道(ショートショート)

 「ようし!徳川道、歩いてみるか」
 突然思い立ったように、アキラはハイキングマップとお気に入りの椎茸おにぎり三っつをデーバックに放り込んで下宿を出た。郷里の岡山を出て、神戸の大学へ入って以来、すっかり山歩きにご無沙汰であった。身体の芯がなにかぴりっとしない。それが何に因っているのかアキラは薄々と感じていた。入学以来、同輩との遊興やアルバイトに追われ続けたこの一年間、羽を伸ばすのは良いとしても、目的感の薄れた俗な暮らしに飽きて、いささか気が滅入りはじめていたのだ。そんな鬱々とした気分を晴らすには身体を苛めるのが手っ取り早いと、通学用のバスも使わず、アプローチから全て徒歩で歩き通すことにした。 
 下宿のすぐ側にある阪神石屋川駅、JR六甲道駅そして阪急六甲駅と辿り、さらに北へ閑静な住宅街の急坂を登ると、眼の前に古い石積みの杣谷ダムが姿を現わした。堰堤の脇から広い河原に下り立つ。杣谷入り口は、砂場も多く渓流も澄んで、デーキャンプにもってこいの河原になっている。六甲山上へのいくつかのハイキングコースの起点にもなっており、この日も初夏の休日とあって多くのハイカーやファミリーで賑わっていた。
 アキラは額の汗をひと拭きしただけで、休憩も取らずに、人込みを避けて杣谷への沢筋のルートに分け入った。ことのほか鬱蒼と草木が茂る沢道で、両脇の尾根の傾斜も険しく見えた。たちまち深山に迷い込んだような気にさせた。先ほどまでの都会の相貌やら喧噪が嘘のように思えた。
 「う~ん六甲山。案外侮れんな」
 気合いを入れ直すため、シューズの紐をぎゅっと締め上げた。すぐに二基連なったビルのような高さの砂防ダムが現れた。その脇を巻いて登る岩場は、滝の登攀を思わすほどの急勾配だった。それが一息つくと、今度は肩幅ほどの岩棚を這うような所もあって、
 「おいおい本当に、これが徳川道かよ」
 大名行列がのんびりと行進する林道ような古道を想像していたアキラは、のっけからイメージを突き崩されてしまった。
 一時間余で、やっと杣谷峠へ登り詰めた。高校時代はワンダーフォーゲル部、歩きに歩いたその頃の自信は見事に吹っ飛んだ。この急な沢筋になまった足腰は音を上げてしまい、峠のすぐ先にある穂高湖でへたり込んでしまった。

 昼ごはんの椎茸にぎりを頬張りながら、
 「そう言やあ、このおにぎりだ。こいつのお陰で、俺さまはへとへとじゃあ」
 思わずぷっと吹き出してしまった。祖母の作る椎茸一杯のおにぎりが子供の頃からの好物だった。祖母の味に近いコンビニにぎりが販売されてからは、これが夕餉の定番となっていた。昨夜のことである、馴染みのコンビニでは手に入らず、もう一つ先のコンビニへ行こうと、ふらりと下宿を出た。国道2号線を石屋川まで辿りそれから南へ折れたところに小さな公園があった。そこで古ぼけた一枚の案内板と出会った。何気なく足を止め目を通してみた。
 『ここは幻の道として知られる徳川道の起点である・・・』
 「なに、幻の道?」
 まず、この文言がアキラの気をそそった。続いて、
 『徳川道は江戸時代末期(慶応三年)に幕府が兵庫港を開港するにあたって開港場付近の外国人と西国街道を往来する諸大名や武士との衝突を避けるために作られた迂回路である』
 「なに、なに? 海岸沿いの西国街道を、六甲山系をぶち抜いて山沿いに付け替えた?それも34キロメートル」
 慶応三年と言えば、維新回天の加速がピークを迎えた年。幕末小説に凝って目下、乱読の日々が続いているアキラにとって、騒立つ幕末の匂いがぷんぷんするこの案内板は、アキラの好奇心に火を付けてしまった。早速下宿に戻り、いつか友人に借り受けていたままのハイキングマップを引っぱり出して、徳川道なるもののルートを探した。確かに山中に数キロばかりだが、その名を冠した道があった。
 しばらく地図を睨んでいる内に、なにやら体の芯がもぞもぞとしてきた。
 「う~ん、歩いてみようか」
 単なる思いつきではあったが、そうとも言えない何かしら既往感のようなものをうっすら感じた。何かに誘われているような気もした。この時、この誘いがある人物との出会いの端緒となるとは、アキラは露にも思わなかった
 
 弁当を食べ終え穂高湖を後にした。
 ここから布引谷に流れ込む渓流沿いの小径をハイカーたちは「徳川道」と呼んでいるらしく、地図にも明記されいる。この辺りは当時の面影を十分に偲ぶことができた。足下にせせらぎを聞き、杉の木立の間を陽がさす。そのまま時代劇のロケにも使えそうだと思った。
 「ここなら、行列が通ってもおかしくはないな」
 アキラはあれこれ想像してみた。
 「幕末であったなら、こんな感じかな」
 次々にイメージは膨らみ、あっと言う間に百数十年の時を飛び超えていった。
 「ザッ、ザッ、ザッ、」
 鼓動のような足音を立てながら、ミニエー銃を胸に抱え、隊士らが二列縦隊で小走りに街道を次から次へと通り過ぎていく。なんと砲兵までがやってくる。大砲の車列が横を駆け抜ける時、轍の泥が、
 「バアーッ!」
 とアキラのシューズに跳ねた。
 「うっ!」
 と、我に返った。湿地に足をとられて転けそうになった。靴は泥で汚れていたが、もちもん周囲は誰も居なかった。たわいな空想のつもりだったが、幻影のような妙に生々しい人気を感じた。
 
 翌日、大学の図書室で「徳川道」のいくつかの文献を調べてみた。ほとんどの資料は神戸事件との絡みで紹介されていた。 
 「神戸事件?」
 どこかでうっすらと聞きかじったような気がしたが、この事件の詳細については全く知らなかった。
 さらに資料を漁った。
 『幕府では、諸外国の要請に圧され、1868年1月1日に兵庫開港を決定する。これに対応する居留地や税関等の設定にかかったが、もっとも恐れたのは外国人との衝突であった。生麦事件の二の舞いを避けるために、幕府は市街地を貫通する西国街道を廃止し、遠く背後の山地を迂回する「西国往還付替道」の工事を緊急に決定し、着工の命をだした。これが七月末。ルートの確定が九月。わずか三ヶ月という驚異的な突貫工事であった。工事費は二万両。幕府も決死の覚悟であった。』
 これだけの事なら徳川道は単なる古道として歴史に埋もれたかも知れない。しかし、この道の完成を知らされず、または知らずに旧西国街道を東進した備前藩の一行が外国居留兵と衝突した神戸事件、これこそ幕府の一番危惧したトラブルであった。しかもその備前藩の敗走に使われたのが、唯一の使用例だと皮肉混じりに紹介する資料もあった。お陰でこの道は、幕末という歴史の光彩をことのほか際立たせることとなった。
 「ふ~ん、備前藩か・・・」
 備前はアキラの郷里であった。
 アキラの脳裏にまた新たな空想が膨らんできた。
 「もしや、先祖さまにこの徳川道を通った者がいる?」
 しかし、本家筋は古い農家と聞いている。維新の動乱に活動した人物がいるような話も聞いたことがない。
 「いやいや、この頃は奇兵隊を初め諸隊と呼ばれる農民兵が活躍した時代だ。わからんぞ~」
 沸々と湧き上がってくるものを感じた。
 「昨日、徳川道で出くわした藩兵たちの行進は幻影じゃない。あの中に確かにそいつがいたんじゃあ」
 余りにも唐突な発想も、アキラの中では何一つ違和感はなかった。
 
 盆の帰郷を早めた。七月の内に実家に戻り、家に入るや否や、父母や兄弟たちに、矢継ぎ早に聞きただした。質問というより詰問のような勢いに家中は唖然とした。ついでに本棚から古い書き物を片っ端から引っ張りだした。
 「おえんな~」
 母の悲鳴の横で、
 「ルーツじゃあ。ルーツ発掘!」
 ろくな説明もないまま、
 「じいちゃんちへ行かんとおえん」
 と、捨て台詞を残して、本家の備前に向かった。それっきり三日も戻ってこない。九十近い祖父に、またあれやこれや質問の嵐を浴びせて、
 「家系図か古文書はないか」
 と、土蔵まで荒らす。役場で戸籍謄本を取り寄せ、最後には寺まで押しかけて過去帳を拝見させてもらう。
 真新しかった大学ノートはあっという間に脈絡の定かでないメモで埋め尽くされた。その一つ一つを丹念に繋ぎ合わせ、練り合わせ、そして、漸く一人の人物に浮かび上がってきた。
 「そういやあ、じいさんがが言うとったかな~」
 祖父がぽつりと洩らした。
 「じいさんって、おれの曾々祖父か?」
 「ああ、明治になるかならん頃に、鉄砲傷で死んだ甥がいたと」
 この祖父の言質が本線になった。書き集めたメモを繋ぎ合わせた末に、明治元年に鉄砲傷で死んだ曾々祖父の甥なる人物に辿り着いた。
 「彰次郎か・・・」
 奇しくも我が名と同字が含まれている。もちろんのこと、面影も人柄も知る由もない。何故、農家の次男坊である彰次郎が、戊辰の戦乱へ躍り出て、あっけなく二十二歳という若さで死んでいったのだろうか。彼の死は何か隠ぺいされた節があるようにも思えた。あの動乱の時代、憂国の想いに自ら進んで身を捧げたのだろうか。それとも、無理矢理に時代の濁流に引きずり込まれたのだろうか。彰次郎の足跡をあれこれ想像すればするほど、奇妙な親近感が湧いてきた。
 「よし!アキラ、出発じゃあ!」
 と、すぐ傍で叫び出しそうな、兄貴のような活き活きとした彰次郎像が浮かんでくる。今までの自分に欠けていた躍動感を投影させてようとしたのかも知れない。
 
 アキラは神戸に戻り、早速、事件の碑と備前藩の大砲が置かれている三宮神社に詣った。神社すら都会のビル群に埋もれて、つい見過ごしてしまいそうな佇まいだった。そのわずかな一角を除いて、何一つとして135年前の変事を偲ばせるものはない。南側の旧居留地一帯は大手デパートをはじめ、海岸通りまで巨大なショッピングモールと化している。
 お社の拝殿を静かに深くそして長い時間をかけて拝した。これ程真摯な思いで瞑目したことはなかった。彰次郎の死を昨日のことのように弔った。同時にアキラは『徳川道』の全ルート34キロメートルの走破を決心した。決行日は、
 「はやり1月の11日だな」
 それまでに彰次郎のレポートを書き上げるつもりであった。そして並行して徳川道なる幻の道のルートも綿密に調べた。六甲山以西のルートは、市街化のためほとんどは街路を辿ることになる。迷走しないためにもいくつかの箇所の下見にも出かけた。そのために今までのバイトを断り、友人らとの遊興からも遠ざかっていた。よそよそしいアキラに友人たちは、
 「なんか 隠しとるだろう」
 「いいや、ちょっと勉学に目覚めただけじゃ」
 気の好い彼らを疎遠にするつもりはなかった。ただ、ちょっと先の見通せない自分の学業生活を見つめ直すためには、彼らのペースにはまる訳にはいかなかった。誰にもこの走破決行を知らせなかった。大学入学以来の一年間には見出せなかった己の意志、むくむくと動きだした意欲を誰にも削がれたくない一心からであった。
 
 年が明け、決行日が訪れた。未明、西の起点である明石と神戸の市境・大蔵谷に立った。肌を刺す寒風が思いっきり気を奮い立たせる。アキラがかき集めたルーツ探索の資料からは、はっきりと彰次郎という青年の生き様と、彼の歩いた足跡が浮かび上がっていた。それを確かめるべき一歩を踏み出した瞬間に、めくるめく時が逆流したように彰次郎の一歩と折り重なった。
 「いざ出発じゃあ〜」
 
 朝廷よりの勅命を受け、備前藩は家老日置帯刀率いる総勢六百余人の部隊を西宮の警備に差し向けた。西国街道を東進、1月11日昼過ぎ、神戸村の三宮神社前に差しかかった。彰次郎は耕戦隊と称される農民兵で構成された第三砲隊に居た。
 「さてさて、これより先どこまで進むものやら」
 出陣の命を受けて以来、昂る気持ちは今も鎮まってはいない。西宮の次は京へ上るやもしれない。もしやして討幕の戦は江戸まで続くかもしれない。それは彰次郎が、進んで選んだ道であった。幼い頃から目をかけて、その才覚を可愛がってくれた遠縁の下士の影響が大きかった。農家の出であったにも関わらず一端の尊王攘夷を志す青年へと育っていた。耕戦隊の前身、農兵隊が結成された時もまっ先に志願した。不惜身命の思いで激動の時代を突き進むことに何の衒いもなかった。

 街道を挟んで北側に神社、南側は拓かれたばかりの諸外国の居留地がある。社の森を過ぎようかという辺りで、先を行く第二砲隊との狭間が開いた。その時、神社側から数人の居留地警備の数名の外国兵が隊列を横切ろうとした。
 「止まれ!止まれ!」
 怒号のような隊士の制止を声に、一旦足を止めたかに見えたが、そのまま押し切って隊列の間を通り抜けた。押し止めようと第三砲隊の令士・瀧善三郎は槍をかかげた隊士と共に外国兵の前に立ちふさがった。その時、反射的に外国兵は瀧にピストルを向けた。
 「鉄砲である!」
 瀧は注意を促すために叫んだつもりであったが、隊列を乱された隊士達は、交戦命令と思い隊士らが銃を構え、槍をかかげた。それを見てひるんだ外国兵が居留地へと逃げ込もうと、空に向け数回、威嚇の発砲をしながら駆け出した。
 「空~!」
 瀧の号令が彰次郎の耳に飛び込んできた。鉄砲隊は射撃の体勢に構えた。続いて、
 「空~!打て~!」
 威嚇射撃の号令を聞いた。彰次郎は夢中で引き金の指に力を込めた。上空への発砲であったが身体は震えた。先方からも数発の銃声が返ってきた。一帯は混乱した。双方が睨むあう一時の間に、この混乱を聞きつけた居留地の諸外国の兵士らが、海岸添いにぞくぞくと集結し始めた。
 家老日置は、交戦の意志など毛頭なかった。一旦、須磨の浦辺りまで退いて様子をうかがった。
 「当方に落度なし」
 全く偶発的な些事と捨て置いて、一刻も早く勅命である西宮への東進を慮った。幸い双方に死傷者が出なかったが、事態は急激に悪化、神戸村は居留地兵によって占拠され行く手を塞がれていた。やむをえなく日置隊は神戸を迂回する東進の道を探した。彰次郎は発砲の直後、何やら当ったか擦ったかで、二の腕を痛めていた。出発までの休息の間にそれを思い出し、傷の手当てをした。
 「かすり傷じゃあ、大丈夫じゃあ」
 出血も止まっていたし、興奮状態が続いているのだろう、痛みもさほどではなかった。
   
 「西国往還付替道あり」
 との報を受けた家老日置は、
 「ええい 早々の出立じゃあ」
 と、東進の道が開かれた安堵感よりも、この付替道を知らされなかった仕打ちにほぞを噛んだ。勤王派と佐幕派の綱引きで一転二転三転と勢力地図は推移していた。しかし大政奉還という期におよんでは、幕府には付替道の完成を各藩に広報する余裕などあったとは考えられない。ましてや勅命で討幕の軍となるやもしれない備前藩に、その情報が錯綜し滞ったもの当然かもしれない。無理もない話であった。
  急遽、明石までもどり、新道なる付替道を抜け神戸を迂回するルートをとった。しかしこのまま強行軍を続けると、険しい六甲の山中で夜を迎えることになる。小部村(現神戸市北区)での宿営となった。
 「何ごとか、戦が始まるのか」
 村人の不安と恐怖は一通りではなかった。夜半、彰次郎の腕が丸太のように腫れ上がり激しい痛みに襲われた。傷は鉄砲玉によるものであった。玉のかけらを取り出し当てを施すと少しは痛みがやわらいだ。
 翌日、険しい六甲の山中を抜け、夜半やっとの思いで西宮に辿り着いた。西宮到着後の七日目あたりから、彰次郎の腕に異変が起きた。いや腕だけでなく指や足までもが、他人のように感じられる。口や舌も思うように動かない。日々容態は悪化して、駐屯地近くの療養場に運び込まれた。
 その頃、隊では東征の先鋒に、この耕戦隊が選ばれるとの風評が盛んであった。
 「俺も、連れてってくれや」
 と、もつれた声で見舞いに訪れた同輩たちに懇願した。誰もがその口惜しさが分かるだけに無視した。
 たまらず一人の隊士が
 「国で養生せいや、それから追っかけても遅うない」
 と声をかけた。

 国元は神戸での事変の処理で右往左往であった。神戸はまだ諸外国に占領されたままで、新政府も諸外国の多大な請求にどう対処するか苦慮していた。事態は急速に動いた。新政府は開国和親のため一方的に落ち度のない備前藩へ責任を押しつけた結果となった。翌2月初め、実行責任者として令士・瀧善三郎の処断の沙汰が下り、同月七日神戸永福寺で各国公使立会いの下、瀧の処刑が執行された。古式に則った潔い割腹であった。
 彰次郎はその報を耕戦隊の仲間から密やかに告げられた。自分を弟のように育んでくれた恩人の死を聞いて激しく泣いた。その頃、頬も痙攣も激しく、泣き顔は苦悶の容貌に歪んだ。
 草莽の士とも言える彼はその三日後に他界した。死因は定かではないが、舌のもつれ、顔がゆがむとの事から破傷風だと思われる。享年二十二歳。混沌の幕末、維新後の新日本を見ることもなく散っていった数多くの若者の一人であった。 杣谷を下り、谷道が終わろうとする頃、陽は落ちて、周囲はすっかり闇となっていた。谷が開け、杣谷ダムの河原に下り立ったアキラの眼前には、神戸の夜景が綺羅びやかに拡がっていた。その都会の光彩に身を埋めるように、重い足をひずりながら黙々と街路を歩いた。やがて、今日の自分へと誘ってくれたあの徳川道起点の案内板にたどり着いた。その前でしばし立ち尽くした。重い足とは反して、胸の裡は清々しく軽快であった。彼の中にあった安穏たる日々の憂鬱ははるか遠く消え去っていた。
(完)

【参考文献】 
「徳川道 西国往還付替道」(徳川道調査委員会編集 神戸市市民局発行) 
 神戸事件に関する一考察 「その性格と歴史的意義」(文責:前田結城)
 
【使用画像】
■徳川道起点と杣谷堰堤のヨコ長の画像は、Googleストリートビューから拝借。
■穂高のタテ長画像は、ウィクペディアより拝借。
■3連の徳川道の画像は、いそしずのライナーノートより拝借しました。
■ラストの写真は現在能福寺の境内にある31歳で切腹した滝善三郎の墓碑です。
能福寺と兵庫大仏[神戸観光壁紙写真集]より拝借しました。


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