回想:阪神淡路大震災 〜21日間のメモ〜

 明日で阪神淡路大震災から25年目。間接的ではありますが、その年に父を失くし、自身の生活においても大きな転換期になった1995年は、節目の〝1.17〟その日に限らず、何かの折々に、しっかりと打ち立てられた〝道しるべ〟として振り返っています。その〝道しるべ〟とはただ、その場であることを記しているだけで、進むべき彼方を示してくれるものではありません。

〝岐点〟としての阪神淡路大震災


 迷路のように谷が入り組む沢筋、何の手がかりも見通せない霧に覆われた尾根道、漕いでも漕いでもクマザサに塞がれた藪道で、進むべき方向を見失いそうになることがあります。そんな時に、いつも此処に至ったルート上の〝岐点〟を思い起こし、歩むべき方向を思案し直します。そのような〝岐点〟を持ち合わせていることは〝幸いなこと〟だと思います。しかし、それは〝起点〟でも〝基点〟でもなく、あくまでも〝岐点〟でしかないことも確かなことです。私にとっての〝1.17〟も然りです。

 この25年間にもいくつかの分岐点と向き合って「この行き方で良いいのか?」と問い質しながら、我が復興の一歩一歩を積み重ねてきました。その都度に大きく立ち戻る〝岐点〟は、やはり〝1.17〟です。私の進むべき道を、明るく指し示すものではありませんが、あの瓦礫の中で立ちすくんでいる自分が、何を見て、何を感じていたのか、その体感はしっかりとそこに刻まれています。震災そのものは〝岐点〟であっても、この新たに生命を授けられたような震えの体感は、ひとつの〝原点〟となっています。きっとどこかで〝遊歩〟と通じているものです。その〝原点〟を風化させまいと、折あらば〝岐点〟に立ち戻っておりますが、厄介なもので一筋縄ではいきません。風化もまた一つの手立てとなることもあります。ただ〝岐点〟から眺めていると自分が歩んできた一歩はよく見えてきます、その進むべき方向を見誤らないことこそが、犠牲になられた方々への供養に他ならないものと信じております。
 本ブログにおいても年一度は〝岐点〟に立ち戻ろうと思います。

回想・阪神大震災ー21日間のメモ
 震災直後から手元にあったノートに、走り書きのように書き留めていたメモがありました。このメモは、21日目後の2月6日に途絶えていました。はっきりとはその理由は覚えてはいませんが、その時点で「何かが終わった」のだろうと思います。

何がどう終わって、何が始まって、どう今に至っているのか?

 もう一度、省察してみたいと十二支が一巡りした2007年の1月、このメモを読み返しながら、震災の前日からの足跡を、さらにそこから続いた12年間の足跡をブログ(旧ブログ:第三の青春)の中で辿ってみました。この震災25年を期に、拝見していただければ幸甚です。現在、本ブログへ転載作業中です・・・

阪神大震災/前夜その1〔No.1〕より〔No.22〕まで

阪神大震災

戸惑いの風景4〔No.22〕

時間が止まったままの風景。市の都市計画、住民たちの
気持ち、折合わない事情をそのまま象徴している風景。
(JR新長田南駅前/4月2日撮影/J)

 戸惑いの風景がひろがっていく。地震による第一次的な疲弊はピークに差し掛かっている。平穏さを取り戻すと反比例して身も心も重い疲労に耐えかね悲鳴を上げそうになる。この巨大な復興の嵐の中で生きていくのには、かつて発揮したことのないような大きな「優しさ」が必要なのだろう。何をやっていく上でも、思いや気持ちの中に精一杯漲らせることの大切さを痛感する。許すことが難しいように、無為に優しくあるのもそう簡単ではない。
(引き続き昨日の続き/第二号のレポート)

●被災地・被災者というレッテルを貼ったあなた達に問う。

 母はガレキを怖がって外を歩けない。
 部屋の中に一人でいると不安で涙が出る。
 もう不安がることはないから、のんびりと親父と避難先で静養していたらと勧めても気持ちはこわばったままだ。
 明治生まれの父は以前にも増して無口になって動かない。兄二人も家を失い、誰が、どこで両親たちと暮らすのか、兄弟たちとの相談は口論のようになって堂々巡りとなる。親たちをタライ回しにするつもりはないが、それを聞いていた母が「もう止めて!」と突然に泣き出す。こんなに激しく泣く母を見たのは初めてだった。
 家族全員の生命があっただけでこれ以上の幸せはないはずだ、という説得はもう通じない。人生のあらゆる不安を胸の内に押しとどめていた堰を失ってしまっている。これは地震と関係ないことだ。ただ地震がそれを加速させたにすぎない。

 「体験者一人ひとりが、しっかり足元を見つめるしかない」という願いも言葉も虚しくなる。ただただ泣きじゃくる母をひしっと抱きしめるしかなかった。思えば私から母を抱きしめることは初めての経験であった。
 この母親の有様からは、空襲の中や戦後の焼け跡の中を、幼子4人を抱えて奮闘した母の姿を想像することができない。
 「こんどの地震の方がずっと怖い。あの頃の若さも元気もないから…」
 返す言葉もない。年寄りや弱者に被いかぶさる精神的圧迫を少しでも軽くするには、より一層の思いやりと優しさを以ってするしかないのだろう。言葉は美しいが、これも容易なことではない。これからこの悪環境の中で、いや環境がどうのこうのではなくて、精一杯、私たちがどれだけ優しくなれるのかだけが厳しく問われるのだろう。

 一時だが地震は、この社会の秩序を壊した。その混乱の中で体験者の多くは「生・死」をはじめとして細々した生活の端くれにおいても、さまざま根源的なものと出会うことができた。大きな犠牲をはらうことになったが、このおかげで今までの私たちの生活にあった嘘と誠、社会のもつ虚と実を垣間見ることができた。このことは凄い出来事だと思う。
 創刊号でのマスコミ、各機関へのお願いは当然ながら無視された。「被災」という言い回しからは、いつまで経っても人的、物的損傷しか語れない。あえて言うなら、この出来事は人の生き方と社会の在り方を顧みる「受難」だと言った方がふさわしい。

「被災地」「被災者」などと言うレッテルしか貼ることしかできなかったあなた達、いままでの社会の枠を越えて動くことができなかったあなた達に問いたい。あなた達は一体、私たちの「何」を見ることができたのですか? 

 創刊号一万部のうちさばけたのは4千部足らず(売れた数ではない撒いた数)残り6千部は目の前にある。押し入れに収まる嵩ではない。どうしようと思案する。優しく考えようとしてもつい苛立ってしまう。第二号は4千部に減らしました。

(完・戻る)

 ちょっと口では説明しがたい重い疲れで、ずいぶんと消耗してしまったのか、震災を回想する気力を失い、この記事を上げて4ヶ月ほどブログから離れる羽目になりました。肉体的にも腱鞘炎とドライアイがひどくなり、ドクターストップがかかりました。(まあ、これは職業病でしょうが)
 その後は、〝地域デザイン〟を念頭に、ポツポツと「地域・就農情報」や「裏山情報」を中心に、本来の遊歩ブログへと立ち返っていくこととなりました。

〓 戸惑いの風景3〔No.21〕

チキンジョージはどうなったか?と編集部によく問い合わせがきた。
写真はガレキの中で再開したライブの様子。
(4月6日/撮影者は不明)

 勤務時間内に編集部を訪れる人が増え出している。電話やFAXも入ってくる。就労時間外に編集をするというケジメがあっても、二足のわらじはどう見ても公私混同であることに違いない。快く黙認してくれる同僚だけではない、当然ながら批難も受ける。辞表は提出したが受け取ってもらえないで懐で眠っている。「R誌」の方は既に300人近い年間購読者からその購読料を先に頂いている。
 地震以降の中期展望が定まったのか社長から、両者の思惑を成立させてくれる妙案が出た。というより命令に近いものだったが、有難かった。社長にとっても英断であったのだろう。
私たち編集スタッフ一同で一営業所を立ち上げることになった。これからの情報社会を見据えた先見の明にあふれた事業に私たちも協力することとなった。暗黙の了解で編集部もそこに居候する事になった。状況は大きく一歩進んだかと思われた。
(引き続き以下/第二号の編集レポートから抜粋)

●まだセンテンスが成立しえない。

 地震以来、何が嬉しいことだと言っても、この暖かさに勝るものはない。春の訪れに心を動かすことはこれまでにも幾度かあった。でも、今はそんな季節感ではない単にこの物理的な暖かさ…、温度としての温かさに身体の芯から救われる思いをしている。
 市外に足を伸ばし、何度かいただいた風呂、いくら湯を沸かしても、どれほど長時間浸かっていようが、身体の芯まで温まることはなかった。その固まった芯がやっと最近この穏やかな気候の中で緩んできている。

 この二ヶ月余をどうレポートすればよいのか、特にこの一ヶ月ばかりのことをどう報告すればよいのか正直戸惑っている。
 時折、創刊号を読み直すが、よくぞこんなものをこの時期に作れたものだと、自分自身でも呆毛にとられる。地震直後の異常なテンションが産み落としたものとしか言いようがない。事実多くの人が多少の好意を含めて「冗談だろう?」と言ってくれた。また相応の批判もいただいた。けれど、辛いのは「一体、何を、どう、誰にアピールしたいのか分からない本だ」としごく冷静に評されること。そうゆうご意見をいただく方々の外野席での立姿が、私たちからいかに遠いものか。
 その批評も多くは「みんなに読んでもらい、この小誌がいくらかは売れるように」との好意を含んだ上でのアドバイスであることは承知している。「せっかく作ったんだから、もっとコンセプトをしっかり打ち出そう!」これらの忠告が雑誌つくりには欠かせないことだとは重々承知している。
 しかし「何」とは何なのか「どう」とはどうなのか「誰」とはダレなのか。そんなことが地震直後に明確に了解できていたならば、決してこの小誌は産まれてはいなかったことだけは断言できる。
 「食料」を「車に満載」して「職員」が「運ぶ」
 「消防隊」が「水」を「放水」して「消す」
こんなセンテンスすらも成り立たない時に、あの直後の「思い」や「叫び」を「誰」に「どう」「アピール」する為の編集を冷静に組み立てようなんてことができただろうか。決して言い訳しようとするつもりではない。「思い」や「叫び」をただ無念と涙で包んで飲み込むざるを得なかった人々がいた中で、幸いにして「R誌」というささやかな場を与えられたに過ぎない。
 「地震ジャーナル」という刺激的な発信方法をとってしまったが、実質は単に個人の「思い」をただ吐露する場でしかない。そういうやり方でないと、少なくともこの一年は持ち堪えないだろう。私たちのキャパはとても小さいこともあるし、「誰」とか「どう」とかを見定められる状況ではないのだ。そういう意味で私たちの足元はまだ揺れ続いている。  

●内的ガレキをどうするのか?

 物的な回復が進むにつれ「心のケア」が方々で叫ばれている。
 物的なダメージはさまざまであったけれど、精神的なダメージ「内的なガレキ」とでも言えるか、これは物的なものとは比べようもないほど多様で複雑きわまりない。ますますこれから増加し続けるだろう。
 地震ショックとに加え、それ以降に派生した多くの問題の中で増していく精神的苦痛、圧迫、混乱、それらに「誰」が「どう」明かりをさし示していくのか私にはなかなか見えてこない。
 今、それを見つめる上で大事なことは、それらのほとんどが地震以前からの問題であったり、私たちの生活にもともと内在していた課題であるということだ。以前なら、それらを先延ばしにしたり、見過ごしたりできていたものが、この生活の激変で、一挙に噴き出しているのだ。これらは言うならば、地震とはさほど関係ないことなのだ。

 「年老いた親」それを突然失った人たちの「思い」を代弁することは私にはできないし、しかし、幸いにも失わずにすんだ私たちにも「これから親たちとどう暮らしていくのか?」と目の前に突き付けられている。生き残った者たちの贅沢な問題だ。(この項続く)

 片方では闘いの狼煙を上げながら、一方ではもう昔を振り返って弱音とも愚痴ともつかないことを書いている。これも戸惑いの風景そのものだが・・・。 

(続く)

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。

〓 戸惑いの風景2〔No.20〕

若い編集スタッフが書き上げた「Kobe Man」
(第二号より)

 地震から2カ月ほど過ぎ神戸にも春がやってきた。春霞といえば態はいいが、実際は街中いたる所でひっきりなしに行っている解体の塵とホコリだ。善くも悪くも神戸は巨大な力が躍動し始めている。
 そして、これ又、いたるところで「戸惑いの風景」が広がり始めている。私の心象にひろがる戸惑う風景からは一本の狼煙が立ち上げっていた。(以下/第二号の編集レポートから抜

【本当の闘いは今からはじまる!】

 つぶれるかも、と思った会社が何とか息を吹き返している。仮設だったが社屋も建った。給料もいただいている。仕事は馬鹿みたいに忙しい。JRも動いた。目の前にはテント村があると言ってもすっかり見慣れて違和感はない。ライフラインはほぼ回復した。
 私個人の周辺はこんな風だ。なにかと不便はあるが、さし迫っての問題ではない。ときおり訪ねる避難所もあの頃の緊迫感は薄れ、避難というより、そこで生活しているという感じで落ちついているようにうかがえる。言ってもきりがないから口に出さないのか家を失った知人たちからも、やりきれない話があまり聞かなくなった。困った人は大勢いるのだが、何故か目立たない。
 私自身の生活と言えば、薬、ライト、非常食を詰めたデーバックをもう背負ってはいない。運動靴も革靴に、フリースの防寒具がワイシャツに代わって、遅刻を気にして小走りで駅へと走ったり、サリンのことが気になってつい新聞を買ってしまう。「昨日には戻らない!」と叫んでいた私が懐かしく思えたりする。「何だ立派に戻っているじゃないか」

 これは揶揄して言っているのではない。私自身の正直な感想だ。しかし、生活の表層が平穏に戻りつつあると言っても、すんなりとそんな日々のくつろいだ時の流れに身を委ねきれない。そうできればどんなに楽だろう。でも何かが後ろ髪をつかみ引き戻そうとしている。これらは比較的ダメージの軽かった人のもつ、今の感覚に近いだろうと勝手に想像する。
 その中で「昨日には戻らない」とはっきり意識している人たちを別にして、ほとんどはこのまま元に戻ってよいものか」とおぼろげな引っかかりやこだわりを感じているように思われる。
 一つにはそんな選択すら許されない大きなダメージを受けている人たちへの配慮があるだろう。私たちだけが戻ってよいのだろうか、という後ろめたさ。どんどん拡がっていく格差は、ダメージの大小に関係なくあの時に持ちえた体験の共有感に大きな亀裂を生じさせている。
 もう一つは、戻り着く先の社会の不確かさ。言いかえれば、それは1.17までの自身の生活に対しての不確かさなのか。それに対してのおぼろげな疑念をゆっくり解きほぐすヒマもなく、再び、強烈に社会の波に巻き込まれていくことの恐れだろうか。
  (中略)
「闇雲に戻っていくだけなら、この地震は単なる空白に過ぎないではないか」という創刊号で訴えた私の体験もどんどんと風化が進み、再生のための復興という願いそのものにも「空白」がうまれつつある。
 しかし、私においては、私自身の空白との戦いが、本当の闘いだと肝に銘じている。「R誌」編集部の会社からの独立は充分に可能であった。それまでの生活を清算するにはその方が都合が良かった。しかし、現状は会社に残留する方向に進んでいる。この間いろんな苦悩が編集スタッフに被いかぶさった。辞表と封の切っていない給料袋をずっと懐にしながら、編集作業を模索し続けた。それは、水や電気や電話のなかった頃の編集より辛いものがある。しかし、そんなしがらみをスパっとふっ切る気にはなれなかった。それを断ち切れば楽なことには違いないが、それは1.17を単なるトピックとすることに他ならない。私の人生を踏まえた通過点ではなくてはいけない。しがらみを曳きずって行くことの大切さを若いスタッフもバックアップしてくれた。
 「変えて行きましょうよ、この会社を。ここで辞めたら僕は単なる被災者になります」
 結局、私たちは二足のわらじという一番しんどい選択をしてしまった。ここ三ヶ月間全くオフがない。ここ何週間はほどんど眠る時間がない。外部の人からは滑稽な選択と見えるかもしれない。でも、この二足のわらじが見事に一足の履物になるまで私たちの闘いの一つは終わらない。
 この地には、大小様々な闘いが渦巻いている。私たちの闘いはちっぽけだが、これを積み上げていくよりしかたがない。巨大な復興の求心力に丸ごと飲み込まれないために・・・。

(続く)

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。

〓 最後のメモ〔No.19〕

何か灯りが見えないか必死に車窓から眼をこらす。
まるで自分の心の底を覗き込むように・・・。
(ビジュアル新規作成)

 この日でメモが終わっている。何故だかその訳は思い出せない・・・
おそらく、何かが終わったことは確かなことなのだろう。

【1995.2.6/震災21日目】

○会社/
地震見舞いの礼状と封筒を作成。
離職証が出来たと後輩へ電話する。

○実家/
3~4本電話。FAXで入稿もあった。
次兄宅へ猫の餌やりにいく。
Sへ電話。FAXが送信できない。
Mとやっと連絡がとれる。
神戸駅よりJRに乗る。車窓は恐ろしいほど暗かった。

注:阪神大震災復旧の過程とういうページで調べたら、まだ2月6日段階では神戸駅の復旧がなっていなかった。おそらく「兵庫駅」の思い違いだと思われます。

 兵庫~新長田~鷹取~須磨の間、車窓からは何一つ見えなかった。その暗さ、背筋から寒くなりそうな静寂の暗さだけは、今になっても忘れることはありません。

(続く)

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〓 戸惑いの風景2〔No.18〕

何時見ても心が抉られる景色だった。
(長田区 3月12日/M・S氏の写真を拝借します)

 創刊号を抱えて、日々あちこちを訪ね歩いている。三月に入って、何処へ行っても地震直後の風景とは異質な風景が広がっているのに気が付かざるを得ないのだった。
以下は第二号のテーマとなった写真特集「戸惑いの風景」のコメントから抜粋しました。

 ビルの谷間のきれいに整理された更地を見て、ここは一体どんな惨状であったのか、必死に思い出そうとする。見たはずのない場所であっても一所懸命に想像する。この習癖は風化への抵抗なのだろうか。
直後のままのガレキの中を歩いていると安心するという人もいる。焼け跡の取り残された傾斜のビルを「シンボル」のように眺める人もいる。ガレキを見ると恐ろしくて、足がすくみ歩けないという人もいる。
 復興に直走るこの街では、加速度的に動き始めた時間、まだ、1・17で止まったままの時間、そして進んではすぐ立ち止まってしまう時間、遠くへ戻ろうとする時間、揺らめき戸惑う時間、様々な時間が方々を向いて流れている。
数多くの個々の体験があったように、そこを出発点として流れ出した時間も数知れない多様さで絡み合っている。
今、このリズムの違い、感覚のズレ、定まらない視点に多くの体験者らが戸惑い、悩んでいる。
               *  *  *

 いくつかの建物が解体された。いくつかの整地に仮設の建物が建ち始めた。既存の街で何万、何十万という建物を一度に建て直し、補修するのは、荒野に新都市を建設するよりはるかに難しい。
 少しづつ整備されていると言っても、あの時からこの目に見える風景はさして変わっていない。ただ、その風景を見つめる視線が大きく変わっていこうとしている。その違いが、あの時に持ち得た共有感に亀裂をうみつつある。

 戸惑う風景は、内からも外からも引き裂かれていくような気がしてならない。

【1995.2.4/震災19日目】

○会社/
とにかく寒気がする。
抵抗力が落ちているのか。
6~7名だけが出社。
創刊号のレイアウトが固まる。

○垂水/
連れ合いが帰ってきた。
久々の手料理。とにかく美味い。
銭湯へ。男湯は15分程の行列で入れた。女湯は長そう。
溜まった洗濯を片付けてくれた。
地震後、初めて全部を着替えた。

【1995.2.5/震災20日目】

朝が起きれない。
○会社/
原稿書きに専念する。ガイド版のゲラが出来る。
創刊号の目次もできる。
表紙もWが作った。

○垂水/
今日も手作り料理。うれしい。
連れ合いは明日また、避難先の実家へ帰る。
一緒に避難している祖母の世話もあるから。

(続く)

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。