突然に歩き出した・・・
35歳の時、突然のように私は〝歩き〟始めました。それも狂ったように遮二無二にあちらこちらを歩き出したのです。まあ、週末の山歩きが中心でしたが、平日は市街地でも、時間があれば一駅や二駅位ならテクテクと徒歩移動、エスカレータやエベレータも使わず、極力自分の足で階段を上り下りするようになりました。
それまではというと、ヨガとかダンスという趣味体験もあって、運動自体はさほど苦ではなく、身体はよく動かしていた方でしたが、淡々とジョギングしたり、移動のために黙々と歩き続けるような反復運動は苦手で、その効能なり、やすらぎの妙趣にも関心はさほどありませんでした。性格がものぐさというかセッカチだったといった方が正直なところです。
日常的な生活の中で〝歩き〟は必要性にかられた行動でしかないと思っていました。というよりほとんど意識すらしていませんでした。私たちは何かをするためにいつも身体を動かさなければいけませんが、それも面倒で、部屋の中でも中央に座ったまま、何にでも手が届くようにしてなるべく動かず済むようにしたり、お出かけの時も、近場であってもテクテクと歩いて行くよりは、自転車や車を使うほうが合理的だろうと〝歩き〟をできる限りスルーする。たまには自分の足で階段を使うのも健康にはいいのだろうと思いつつも、エスカレーターやエレベーターがあればやはりそれを拒否することはあまりない。やはり歩くことを、不合理なことと考えていたのかもしれません。
その私が、三十半ばになって突然のように六甲山を歩き始めました。それも家族や友人がいぶかるような変貌ぶりで、二十数年も見向くこともなかった裏山に分け入って、ズブリとのめり込むように〝歩き〟だしたのです。こうなった訳には何か原因はあったのでしょう。何モノかが私の心の裡あった遊び心に、何らかの切っ掛けで火を点けて、私を歩きの世界へと焚きつけたのでしょうが、そういった了解をよく呑み込めていなかった当の本人が一番に面食らいました。誰かに、何かに〝歩け〟と追い立てられるような、〝もっと歩かなくては〟と焦燥感に苛まれるような歩き、とにかく何かを背負わされ謎解きの旅にでたような歩き方で、とても趣味とかレクリェーションとは言えない代物でした。
何故そのようになったのかは追々に説明できると思いますが、当時の私といえば、休日という休日は、体調や天候にかかわらず山に向かいました。家から徒歩でアプローチできる裏山をはじめ、電車やバスを使って、市内各所にある登り口から六甲山や摩耶山、再度山、須磨の山々のピークや沢や見知らぬ尾根を手当たり次第に巡り始めました。平日は平日で、仕事の合間に山からの眺望をイメージしたり、歩きのコースを頭の中でトレースしたり、山を眺めることできる時には、食い入るように山肌や山の端を見つめ、そこを喘ぎながら歩いている自分を思い浮かべて疑似体験にふけったりしていました。どんな条件にも耐え、どんなコースでも挫けることのないよう、時間があれば、電車に乗らず、徒歩で移動したり、ビルの階段が目に入れば、用もないのに登り降りを繰り返すようにたりました。そしていつの間にかに、それもトレーニングというより、それ自体も〝歩き〟なのだ、と思うようになりました。
何が、私をかり立てているのだろう?
日々、度を越すような〝歩き〟にのめり込む自分に対しての面妖な謎は頭を離れませんでした。誰でも、今まで何の関心もなかった趣味を突然に始めたとか、まるで縁のなかったようなモノに取り憑かれたということはあるでしょう。「ビビッときた」自分の心を触発させるモノとの出会いというやつです。その出会いの衝撃が大きいものであれば、転職したり出奔したり生活を変え、人生の転機なってしまう場合もあります。アマチュアのロックグループを楽しんでいた知人が、ある日フラメンコギターに出会って、のめり込むように練習を始め、遂には退職してスペインへ音楽留学してしまったことがありました。
何故だと聞いたところで、やはり〝出会い〟だろうという答えが返ってきます。その出会いに一体何モノが導いたのだろうと詮索しても、その何モノかの正体が分かるまでには時間がかかります。私においても、〝何ゆえ歩くのだろう?〟という疑問を理に沿って説明できるようになるまでそれなりの月日を必要としました。それまでは周囲にも〝かくかくしかじかで歩いている〟と言い訳できるよう、あれこれ登山やアウトドア関連の書籍も漁っては〝人はこうやって歩き出すのだ〟というような理由づけを探しましたが、なかなか納得いくものには出会えませんでした。結局は、そのヒントを求めてまた歩きつづけるしかないのです。それでしか自身の奥底に潜んでいる解答に近づくことができないのです。
そう思いながら必死に歩いている間にも、山々は前にも増して、私を歩きの迷路に誘いつづけ〝六甲山とは何だ?〟〝自然とはどこにある?〟〝一人で歩くのか?〟と新たな問いを次から次へと投げかけ迷宮を彷徨うようになり、歩きに掻き立てる正体不明な何モノかと併せていくつかの大切なテーマと数年にわたって悶々と向き合うことになりました。
迷路からの脱出
これは無明と言えば大仰ですが、出口の見えない負のスパイラルにはまり込んでしまったようで、決して趣味・道楽といえるような呑気な心持ちではありませんでした。しかし一方では、この迷宮・迷路をウロウロしていることを楽しんでいる自分も居たのも確かです。それならば、そこへ大勢を引き込んで愉しんでやれと、身近な知人や見ず知らずの人たちにも声をかけて仲間を集め出しました。結局のところこれが迷宮からの脱出には、一番の処方箋のようでした。
一人で悶々と歩きつつも、同時に集まった仲間たちとワイワイ賑やかにも歩いている内に、少しづつもつれた糸が解れるように自分の〝歩き〟が見えてきました。仲間たちの一人一人もそれぞれの迷路を抱えていたのでしょう。六甲山という自然を共に体感しすることで、人にも自分にも素直になれて互いにそれをさらけ出し、共有していく中で迷路の全体像が見え出してきました。のちにこれを〝みんな歩き〟と称して、全く自然と一人で対峙する〝ひとり歩き〟として〝歩き〟の両輪と考えるようになりました。
ひとりで歩くことができる者は、みんなとも歩くことができる。ひとりで歩くことのできない者は、みんなとも歩くことができない。自立と共生がサークルの柱となり、1986年に近所登山パフォーマンスというイベントをしてスタートさせました。そんな〝みんな歩き〟を積み重ねにつれ、私の個としてのもつれた〝ひとり歩き〟にも光があたって、うっすらと私を歩きの世界に引きずりこんだ何者かの正体もぼんやり浮かび上がってきました。
この頃にはまだ〝遊歩〟という言葉はなく、自然と出会い、それを体感し、自己を表出するという意味でパフォーマンスという当時の流行の言葉を使っていましたが、それでも、自分たちのめざす〝歩き〟を表すにはまだ何か違う、まだ言い足りないという思いがありました。そんな時に、ひょんなことで目にした一冊の書物に〝遊〟という文言を発見して「これだろう!」「これしかない!」と歩きに〝遊〟の文字を被せ、〝遊歩〟と名付けた。
ここで、はたとホモ・ルーデンス(=遊ぶ人)に立ち返ってみた。遊びは文化よりも古いのだった。人は創る前に、遊んでいたのだ!
「遊びは、本気でそうしているのではないもの、日常生活の外にあると感じられるものだが、それにもかかわらず、遊んでいる者を心の底まですっかり捉えてしまうことも可能なひとつの自由な活動である」(ヨハン・ホイジンガ・松岡正剛)
これでようやく腑に落ちた。私は全くのところ遊びに飢えていたのでした。もやもやと抱えていた違和感も霧が吹き飛ぶように晴れて、見事に〝歩き〟の世界がパッと広がっていきました。
サークル名を「六甲遊歩会」として、本格的な遊びの活動を六甲山を舞台にして邁進することになりました。(2003年にて退会)この読本では、私自身を突然に襲った不明な〝歩き〟が〝遊歩〟と変身していく謎解き、および、六甲山に突きつけられた数々のテーマに対する考察、そして、〝歩き〟にまつわるエピソードや、遍歴・放浪といった〝歩き〟と格闘した先人たちの足跡なども通して、私たちの生活や人生においての〝歩き〟の意味などを、自らの経験を通しての勝手な私見を紹介していきたいと思います。脈絡の定まらないままの列挙という形ですが〝遊歩〟なるものの一端を感じていただきければと思います。
すでに歩かれておられる方には、〝遊歩〟の魅惑を紹介するまでもないでしょうが、未だ踏み出されていない方には、是非ともその第一歩の契機になれば嬉しい限りです。文筆家とか評論家なら、すらすらと〝遊歩〟の本来の姿(本質)を押さえつつ、そこに新たな価値を生き生きと吹き込むような文章で語れるのでしょうが、なに分ブログの一文にも悪戦苦闘する文章力のなさ、語彙の乏しい私にあって、どれだけのものがお伝えることができるおぼつきませんが、よろしく拙文にお付き合いくだされば仕合わせます。
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