●読本13:おくのほそ道にみる芭蕉の〝遊歩〟とは

百丈岩の上に立つ立石寺・開山堂をながめる瞑想カエル

バックパッカーの芭蕉? ウキウキの旅立ち?

 1689年3月27日、45歳の松尾芭蕉は、江戸深川から奥州路(みちのく)を目指して旅に出ます。45歳といえば今の100歳時代ではまだまだ若造の部類ですが、当時はまだ人生50年の時代、もう晩年にさしかかっています。もう爺さんとも呼んでもよいような芭蕉が、出発にあたって「昨年はいろいろ旅をしてよく歩いたが、年が明けるともう心がウズウズしてたまらない。とにかく旅に出かけてみたい。みちのくを歩いてみたい」と、そぞろ神(なんとなく人の心を誘い動かす神)が身に取り憑いて心をかき乱し、モモヒキ(パンツ)の破れを繕って、笠(ハット)のヒモを付け替え、健脚のツボを刺激するお灸(温マッサージ)をするなど、ソワソワして何も手がつかない気分を披瀝しています。それで、結局は「ええい!家(芭蕉庵)も売ってしまえ!」と、三千里に及ぶ旅立ちの手配りをととのえていく様子を、興奮気味に「おくのほそ道」の序文に記しています。まるで遠足前日の小学生のようです。
 俳句のことはよくわからない(俳諧と俳句の区別もできない)けれど、このウキウキ気分は平凡な現代人の私にもよ〜く理解できるところです。「あの沢をつめて峠へ・・・そこから彼方の峰々を眺め、この痩せ尾根をたどって・・・」とイメトレしながら、明日のトレッキングの準備にかかる。「これ要るかな? あれも欲しいな。でも重いしな〜」とパッキングに夢中になっている時の、何ともいえない充実感・高揚感、これは「わたしらと一緒やないか〜」こんな興奮が、レジェンドの俳聖にもあったと知って、とても身近な存在に感じてしまいます。もう〝俳諧の巨人〟などというよりは、バックパッカー・ロングトレッカー と呼んだ方が、彼人の〝歩き〟がすんなりと見えてくるような気がします。

芭蕉の歩き と 山頭火の歩き

 有名ないつくかの俳句と芭蕉という名は小さな頃よりお馴染みでした。けれど、その俳句以上に、とてつもなく〝歩いた人〟というイメージが圧倒的に焼き付いていて、〝先人にみる遊歩〟においても真っ先にリストアップしました。しかしながら、六甲山をウロウロとさ迷うような私の不確かな歩きっぷりは、スマートな隙のない芭蕉の〝歩き〟よりは、「どうしようもないわたしが歩いている」と愚痴りながら行き当たりばったりの旅をする山頭火の情けない〝歩き〟に近しいこともあって、そちらの方へ傾注することとなっておりました。まあ、優等生よりは反面教師の方が共感しやすいということなのでしょう。そういうことでついつい〝バックパッカー芭蕉〟の出番が遅れておりました。
 ついでに芭蕉と山頭火との歩きっぷりをもう少し比べてみますと、移動距離ではほぼ全国(北海道を除く)に足を伸ばした山頭火の方が、期間、時代や社会環境の差もありますが、思った以上に上回っています。しかしながら距離はともあれ〝歩き方〟の趣きは随分と異なります。試しに〝芭蕉 山頭火〟で比較検索してみると、ズバリ核心をついた記事がヒットしました。そこには「それは〝あて〟が有るか、無しかの違いだ」というご意見が。(文芸社ブログ)

宝珠山・立石寺におかれた芭蕉像(立石寺HPより拝借

『自らの意思と目的地を掲げ旅に出た西行と芭蕉に対して、山頭火や放哉は受け身も受け身、もはやそこへ行くしかないという場所に青息吐息で身を寄せ、何ごとからか逃げるようにその土地もあとにし、先細っていくようにまたどこかへ辿り着く……ということを繰り返したのです。「放浪」という語が、ある程度の見通しをもって進められる営み――とのニュアンスを含むとすれば、山頭火・放哉の旅はもっともっとあてどない「漂泊」と呼んでいいかもしれません』

 確かにそうですね。〝漂泊〟と言い捨てられましたが、六甲山でオロオロしていた私の〝歩き〟も、全くその部類でしょう。〝解くすべもない惑ひ〟を打ち払うために、やむなく己を放り出すように歩き出す。そんな山頭火の〝歩き〟に反して、芭蕉の〝歩き〟には〝覚悟〟がありました。「おくのほそ道」に先立って「野ざらし紀行」では、
 野ざらしを 心に風の しむ身かな
「無常の身だからいつ旅の途中で死ぬかもしれないが、新しい俳諧を切り開くために私は行く」というような、何ゆえに歩くのか、その覚悟が宣言されています。この辺りのスマートでストイックな歩き方が、だらしのない山頭火やおぼつかない私の〝歩き〟と違うところです。
 芭蕉の奥州路ロングトレッキングは、無常に身を晒し、西行や能因法師ら敬愛する歌人達に心を重ね、〝みちのく歌枕〟を訪ね歩くプロジェクトです。それは(言葉遊び)ゲームのような俳諧をもっと文学的にイノベーションするのだ、という一大目的に裏打ちされています。旅立つ前には、深川の芭蕉庵を売り払います。帰る所がある旅ならば、それは流浪・放浪でなく単なる旅行になります。はっきりと退路を絶ち、旅を住まいとしながら、どこで朽ちても悔いはないことを自分と弟子たちに示します。
 子供のような気分で旅の準備をしておりましたが、この三千里、半年にもわたる壮大な〝みちのくロントレ〟は、私らの2泊3日の週末山行とは二桁も三桁もスケールが違います。江戸前期では、白河の関を越えた向こうは、まだまだ異郷ともいえる不案内な地です。旅人も少なく、東海道のように旅行案内書があったり、旅籠や茶店が整備されているわけでもありません。峠道には野盗・山賊も出没してもおかしくありません。もうこれは〝大冒険〟というべきものでした。現実的にこのプロジェクトがどんな様子であったのか、芭蕉の紀行文だけでは見えない部分を、随行者の〝曽良〟の日記や後世の記録、他の膨大な資料と突き合わせながら、どんなルートであったのか、その場の景観や治安、関所や宿場の様子はどうだったのか、経費はどれだけかかったのか、などを詳しく検証した本(「芭蕉はどんな旅をしたのか」金森敦子著╱晶文社)があります。

1日28kmのペースで・・・

 それによりますと、まず、二人の歩いた距離はどれだけなのか?というところから話が始まります。当時のルートを特定して、そのルートが一体何里であったのか、その時代の藩の測量資料と照らし合わしながら、計算していった結果、143日間にわたる旅で、その距離は、424里(約1,665km)だろうと推察しています。143日の内、滞在していた日にちを差し引いて、実際に歩いた日は59日間、1日に約7.2里(約28km)を歩いていたことになります。ちなみに当時の東海道での成人男子は、1日に10里(約40km)というのが平均的なペースのようです。前年の山坂の多い「更科紀行」で芭蕉は、60里を5日(1日47km)で歩いています。やはり昔の人の歩行力・スピードは凄いですね。10kmほどのハイキングで、ふーふー顎をだす現代人とは比べ物になりません。
 奥の細道での1日の距離(約28km)が少ないのは、ゆっくり歩いたというより、その程度でしか歩けなかったと考えるべきだったと著者も述べています。明瞭な地図もなく、旅籠の場所も不明で、雨ならばぬかるみ、宿を尋ねようにも住人すら少ない。道を案じることに時間を取られたのだろうと思います。また、芭蕉の〝歩き〟のスタイルをうかがえる記述もあります。悪路の少ない東海道を旅した時「只一日のねがひ二つのみ」と記したものがあります。これは宿と草鞋(わらじ)が一番に気にかかる、ということですが、特に草鞋にはうるさかったようで丹念に自分の足に合うものを選んだようです。まあ、トレッカーやバックパッカーもそうでしょう。シューズは真っ先に気を配るところですし、その日をゆっくり安らげるテントやシュラフは大切です。バックパッカーは全てを完結させる背中のバックを〝家〟と見立てて歩きます。(C・フレッチャーの遊歩大全)芭蕉の時代には、そうはいきませんので、必要最小限度のものを担いで旅に出たものと思います。あとは現地調達です。1日に3足が必要になる草鞋もいく先々で買い揃えていきます。

小さな己の世界〝笠〟の外側と内側

 背に〝家〟こそ背負ってはいませんが、身一つで旅人たらんと一歩一歩しっかりと無常を踏みしめて歩いていきます。

 芭蕉には〝笠〟をテーマにした句がよくあります。自身でも竹を裂いて笠を編んで〝笠づくりの翁〟と名乗ることもあったそうです。これは〝笠〟を最小の「庵」と考えていたのではないかという説があります。とても共感できる考えです。「風雨をふせぐ侘び住まいの〝芭蕉庵〟も旅の〝笠〟も同じだ」という思想は〝家〟を担いでウィルダネス(原生自然)を求め歩くバックパッカーの世界感・延いては人生感に通じているといってもいいでしょう。小さなテントやターフは〝笠〟なのです。〝笠〟の外側は無常極まりない自然の領域です。〝笠〟の内のちっぽけな場所だけが、己の生活領域・世界です。その外と内の交感が〝歩き〟の中で際立ってくるのでしょう。それこそが〝遊歩〟に他なりません。そして、ウィルダネスといえば、芭蕉にとっては、単なる荒野ではありませんでした。辺境・北の果てにあった数々の〝歌枕の世界〟に他なりません。それを追い求めて〝みちのく遊歩〟へと旅立ったのでした。

幕末〜明治の浮世絵師・月岡芳年が描いた芭蕉

 ここでNHK番組の「名著 ゲストコラム」で講師の長谷川櫂さんのお話がわかりやすいので紹介いたします。

 古池や 蛙飛こむ 水のおと  芭蕉

貞享三年(1686年)に詠まれたこの句は、それまで他愛ない言葉遊びでしかなかった俳句にはじめて心の世界を開いた「蕉風開眼の句」でした。芭蕉はこの古池の句から死までの八年間、この句が開いた心の世界を自分の俳句でさまざまに展開し、門弟たちに広めてゆきます。それはじつに密度の濃い八年でした。
そのなかで古池の句の三年後に出かけたのが『おくのほそ道』の旅でした。芭蕉は歌枕の宝庫といわれた〝みちのく〟で心の世界を存分に展開しようとしたのでした。歌枕は現実に存在する名所旧跡とちがって、人間が想像力で創り出した架空の名所です。みちのくは辺境の地であったためにその宝庫だったのです

 歌枕とは? それはウィルダネスなのか?

 詩歌に慣れないものにとっては分かりにくいですね、この架空の名所〝歌枕〟というのは。私もなかなかピンときませんでした。一般的には〝白河の関〟〝松島〟〝象潟〟など地名としての歌枕は先人たちのイメージの総称という観念上のものであり、実際の風景・景色ではないようです。芭蕉はその歌枕の実地を踏みしめ、古の歌人や武人のイメージと融和・共振しつつ、自分の感性を放とうとしたのでしょう。

都をば 霞と共に 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関
 と能因法師が詠んだ〝白河の関〟は、平安の頃は辺境そのもので、そこを越えると異郷の世界でした。「都を春立ったが、ここではもう秋風が吹いている」という歌で、いかに遠く隔たった地にたどり着いたものかという感慨がよく表れています。そして、これよりさらに深く異世界に分け入っていくぞという決意を奮い起こさせる象徴的な場所だということも分かります。(700年の風雪で、リアルの白河の関は埋もれてしまい芭蕉らは実地を確認できなかった。落胆したのか?句は詠まれなかったようです)
 この〝歌枕〟ひょっとすると、平易な私たちの登山やハイキングの中でもあてはまるかもしれません。例えば身近な六甲山では〝魚屋(ととや)道〟〝アイスロード〟〝徳川道〟などもその類のものと言えそうです。〝魚屋道〟は江戸時代から灘浜の漁港から有馬温泉へ鮮魚を届けるために、最高峰(931m)の脇を通る15kmほどの山系を横断する古い歴史のあるルートです。〝アイスロード〟は冬場に山上の溜池で凍らせた氷を夏場に、神戸の市街地へ猛スピードで荷下ろしたルート、〝徳川道〟は幕末に誕生した神戸事件に絡んだ奇妙なバイパスルートです。そういう由緒を知って歩くのと、そうでないのとは大きな相違があります。朝網の鮮魚を担いで急峻な最短ルートを駆け登る魚屋、菰で包んだ氷塊をソリにのせ、ふんどし姿の人夫が六甲の頂から滑り落ちるように駆け下りる様、敗走兵のように険しい沢道を急ぐ備前藩の兵士たち、そういう者たちの足跡とイメージを重ねて、その道を歩くことの醍醐味はなんとも言えないものがあります。知らなければ目的地に至るための単なるきつい峠道、谷道でしかありません。名のある和歌に詠まれた訳ではありませんが、多くのハイカーに親しまれた道は〝歌枕〟のように様々な想い・イメージが積み重なった架空のルートでもあるのです。〝足枕〟〝歩き枕〟と言ってもよいのでしょうか。

 足枕としての〝剣岳〟や〝槍が岳〟や〝富士山〟もあります。これは地図上の3千何メートルの地点の単なる固有名詞とは違うものです。百人いれば百様の〝足枕〟としての架空の頂なのです。その人だけの〝頂き〟や〝歩き〟を確かめるために、苦労して一歩一歩を踏みしめて登っていくのです。その折に、自分しか味わえない景色と出会い、体の奥底からリアルを得て、内と外との世界を交流・交感できるのです。そのような自分が立つべき場所、歩くべき道程こそがウィルダネス(原郷)だといって良いのではないでしょうか。 話が逸れてしまいましたが、芭蕉は着実にウィルダネスをたどっていきます。白河の関(福島県)を越え、

夏草や つはものどもが 夢のあと (平泉 岩手県)
閑さや 岩にしみ入いる 蝉せみの声(立石寺 山形県)
五月雨を あつめて早し 最上川 (最上川 山形県)
象潟や 雨に西施が ねぶの花 (象潟 秋田県)
荒波や 佐渡によこたう 天河 (越後路 新潟県)

 越後路から金沢、敦賀、そして終点の大垣

蛤の ふたみにわかれ ゆく秋ぞ (大垣 岐阜県)

 9月6日、この句をラストに〝おくのほそ道〟の長旅を終えます。長谷川櫂さんによりますと、
この5ヶ月に渡る旅の間に、芭蕉は「不易流行」「かるみ」という二つの重要な考え方をつかむことになります。「不易流行」とは宇宙はたえず変化(流行)しながらも不変(不易)であるという壮大な宇宙観です。また、「かるみ」とはさまざまな嘆きに満ちた人生を微笑をもって乗り越えてゆくというたくましい生き方です。

「不易流行」と「かるみ」は芭蕉の俳句を成立させる大きな理念です。これについては、その道に通じた方々がていねいにいろいろと論じておられますので、興味をお持ちの方は、そちらの方でお調べください。

葛飾北斎による松尾芭蕉

 
〝侘び・さび・細み〟の精神、〝匂ひ・うつり・響き〟といった五感を駆使して、風雅の本質を追い求め歩き、最後には、肩の力を抜いて、自由な境地に立ち、自然や人間に接するという達観の域に達したといわれます。
 1694年10月、旅先の大阪で病に倒れ、8日、御堂筋の花屋仁左衛門の貸座敷にて、

 旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る

 と、彼にとっての最後となった句を詠み、その4日後の12日に息を引き取ります。敬慕してやまない偉大な先人たち、西行、李白、杜甫らと同様に、芭蕉も旅の途中で朽ち果てることになりました。〝俳聖〟であるというよりは、夢の中で見知らぬ枯野(ウィルダネス)を駆け回っている〝遊歩の達人〟であったことを示す壮絶な絶筆句となりました。

〈左〉群馬県桐生市の崇禅寺にある句碑   〈右〉滋賀県大津市の義仲寺にある芭蕉の墓

【使用画像】
■瞑想カエルは無料写真ACよりダウンロード。
■月岡芳年の芭蕉と葛飾北斎による芭蕉はウィキペディア「松尾芭蕉」より拝借。
■芭蕉の笠と杖は「いけふくろうのつぶやき」より拝借しました。
■絶筆句の句碑は、忘れ物探し 「おくのほそ道の風景地」を訪ねより
■義仲寺にある墓はウィキペディア「義仲寺」より拝借。

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読本12:アルチュール・ランボオ 謎めいた砂漠の〝大遊歩〟とは

回想:阪神淡路大震災 〜21日間のメモ〜

 明日で阪神淡路大震災から25年目。間接的ではありますが、その年に父を失くし、自身の生活においても大きな転換期になった1995年は、節目の〝1.17〟その日に限らず、何かの折々に、しっかりと打ち立てられた〝道しるべ〟として振り返っています。その〝道しるべ〟とはただ、その場であることを記しているだけで、進むべき彼方を示してくれるものではありません。

〝岐点〟としての阪神淡路大震災


 迷路のように谷が入り組む沢筋、何の手がかりも見通せない霧に覆われた尾根道、漕いでも漕いでもクマザサに塞がれた藪道で、進むべき方向を見失いそうになることがあります。そんな時に、いつも此処に至ったルート上の〝岐点〟を思い起こし、歩むべき方向を思案し直します。そのような〝岐点〟を持ち合わせていることは〝幸いなこと〟だと思います。しかし、それは〝起点〟でも〝基点〟でもなく、あくまでも〝岐点〟でしかないことも確かなことです。私にとっての〝1.17〟も然りです。

 この25年間にもいくつかの分岐点と向き合って「この行き方で良いいのか?」と問い質しながら、我が復興の一歩一歩を積み重ねてきました。その都度に大きく立ち戻る〝岐点〟は、やはり〝1.17〟です。私の進むべき道を、明るく指し示すものではありませんが、あの瓦礫の中で立ちすくんでいる自分が、何を見て、何を感じていたのか、その体感はしっかりとそこに刻まれています。震災そのものは〝岐点〟であっても、この新たに生命を授けられたような震えの体感は、ひとつの〝原点〟となっています。きっとどこかで〝遊歩〟と通じているものです。その〝原点〟を風化させまいと、折あらば〝岐点〟に立ち戻っておりますが、厄介なもので一筋縄ではいきません。風化もまた一つの手立てとなることもあります。ただ〝岐点〟から眺めていると自分が歩んできた一歩はよく見えてきます、その進むべき方向を見誤らないことこそが、犠牲になられた方々への供養に他ならないものと信じております。
 本ブログにおいても年一度は〝岐点〟に立ち戻ろうと思います。

【回想・阪神大震災ー21日間のメモ】
 震災直後から手元にあったノートに、走り書きのように書き留めていたメモがありました。このメモは、21日目後の2月6日に途絶えていました。はっきりとはその理由は覚えてはいませんが、その時点で「何かが終わった」のだろうと思います。

何がどう終わって、何が始まって、どう今に至っているのか?

 もう一度、省察してみたいと十二支が一巡りした2007年の1月、このメモを読み返しながら、震災の前日からの足跡を、さらにそこから続いた12年間の足跡をブログ(旧ブログ:第三の青春)の中で辿ってみました。この震災25年を期に、拝見していただければ幸甚です。続きは下記の旧ブログへ・・・

阪神大震災/前夜その1〔No.1〕より〔No.22〕まで

阪神大震災

●読本12:アルチュール・ランボオ 謎めいた砂漠の〝大遊歩〟とは

■イラストは、ヴェルレーヌが描く、若き日のランボー。左下はシャルルヴィルにあるランボオの墓、右上のシャルルヴィルの本屋のポスターと共に、旅ブログより(出典は最下段に)

中也とランボオ、そしてランボオとランボー

 あちこち各地を巡ったことで幕府の隠密じゃないかという説のある松尾芭蕉も〝歩き〟の点では気になる先人の一人です。山頭火も奥州・平泉まで足を延ばして〝奥の細道〟を後追い(トレース)しています。芭蕉は「月日は百代の過客にして」という書き出しで有名な奥の細道の序文のその後に「そヾろ神の物につきて心をくるはせ」という文言を残しています。〝そぞろ〟という言葉には〝遊〟の香りが匂ってきます。やはり、芭蕉を〝先人に見る遊歩〟の一番手に取り扱うのが順当なのか、それから放浪の俳人・種田山頭火、そして同郷つながりで〝散歩〟好きの中原中也、さらに、この中也に多大な影響を与えた詩人アルチュール・ランボオの〝大歩行〟をつなげれば、特に際立つ系譜や体系があるわけでは有りませんが、このそれぞれの〝歩き〟の違った切り口を通して、私たちにとっての〝遊歩〟を考えていく上でも大きな手掛かりとなるような気がします。(追記:未稿になっていましたが、2020年2月29日に投稿しました

 中原中也は「ランボオ詩集」を翻訳したこともありますが、天才的な早熟であったこと、そして若くして病気で逝ってしまう(中也30歳、ランボオ37歳)そんな運命的なこととか、純真・繊細だが共に激情・粗暴であったとか、中也が恋人を友人の小林秀雄に奪われた奇妙な三角関係、ランボオは同性愛相手の詩人・ヴェルレーヌと喧嘩のあげく銃撃されるなというような痴話にも二人のシュールな生き様が折り重なったりします。
 特にランボオにおいては、詩人を放棄して、後世に宝石のように輝くような作品の多くを焼き捨て、貿易商〜探検家〜武器商人などへ転身して姿を消してしまいます。その生き様は、どうも凡人には理解しがたいものがあります。門外漢の私には詩のことはよく分かりませんが、その人生を彩ったスケールのある歩行ぶりには、大いなる関心をいだきます。何とかこの天才詩人の〝遊歩〟がどんなものであったか、ぜひとも探ってみたいと思うところであります。
 ランボオといえば、詩人のそれよりスタローン主演の映画のジョン・ランボーを想起される人が多いかもしれません。ランボオとランボー、何か関係があるのでしょうか。詳しくは分かりませんが、原作者のマレルが主人公となる一人のベトナム帰還兵の名前を考えていた時に、たまたま奥さんがランボー・アップルを持ってきたから、というようなエピソードを語っているのですが、もしかしたら作者自体にもランボオへの思い入れがあったかもしれません。特に、未来に通じるはずの戦いで傷つき、失望した青年の姿に、パリコミューンという革命への熱狂と挫折という若き頃のランボオを投影させたのかも知れません。

■左:「太陽と月に背いて」でランボオを演じた美少年のレオナルド・ディカプリオ(1995年)、右:映画「ランボー」で孤独な帰還兵を熱演したシルヴェスター・スタローン(1982年)

 その映画ランボーも80年代前半のことです。若い人にはもう通じないかもしれません。ついでに関連話ですが、映画のすぐ後に放映された1983年のサントリーローヤルのランボオ編というCMが、茶の間にもよく流れました。これにも〝ランボオ〟という名の印象に残っている方が案外多いのではないでしょうか。この電通が作成したぶっ飛んだCMはけっこう衝撃的でした。エキセントリックなビジュアル(砂漠・ピエロ・火吹き・魔術師・イグアナ)から、音楽、ナレーションなど斬新なコマーシャルとして記憶に焼き付いている方は多いと思います。子供の頃にこのCMを見て、なぜか「怖かった」と思い起こす人もいるようです。それ程に、異界の雰囲気がムンムンだったのでしょう。ランボウの詩の世界と通じるものがあるのかも、と今でも評価の高いCMです。YouTubeにも上がっていますので今一度思い出して拝見してください。リンクが外れていれば検索してください。そのCMのナレーションが次です。

 その男は 1人で立っていた
 10代で天才詩人
 10代であふれる才能を放棄
 20代は放浪
 そして砂漠の商人
 永遠の詩人 ランボオ
 あんな男 ちょっといない
 サントリーローヤル

 このバーションのナレーション、7行でズバリ、ランボオの足跡を言い表しています。次のバーションには・・・

 その詩人は 底知れぬ渇きを抱えて放浪をくり返した
 限りない無邪気さから生まれた詩(うた)
 世界中の詩人たちが青ざめたその頃
 彼は 砂漠の商人
 詩よりは美味い酒を などとおっしゃる
 永遠の詩人 ランボオ
 あんな男 ちょっといない
 サントリーローヤル

1983年のサントリーローヤルのCM・ランボオ編

なぜ? 何処に向かって、こんなにも歩いたのか?

 彼は、詩作を始めた15歳の頃から、20歳頃まで、家出をきっかけにパリ、ベルギー、英国、北欧と詩を作りながら放浪します。そして、詩と決別した20歳過ぎからは、ヨーロッパを捨てて、放浪の先をあたたかい南の方へと羅針盤を向けます。徒歩でアルプス山脈を越えイタリア、トルコそして、東南アジやアフリカ、アラビアと方々を巡りわたります。移動手段には船や馬車、ラクダなども使ったでしょうが、時代的にも基本は〝歩行〟だったと考えていいでしょう。その膨大な移動距離は何だったのか? 何のために? どこへ向かおうとしていたのか? その〝歩き〟を紐解きたいと思うのですが、にわか勉強ではよく分からないが正直なところです。
 西行らの足跡を追い、歌枕を求めて辺境の地へ旅立った芭蕉の旅や、〝解くすべもない惑ひ〟を背負った山頭火の放浪歩行のリズムに合わせて移ろう風景と我が感性を摺り合わすように徘徊した中也の散歩などは、それぞれに首肯できる〝歩き〟が見えて、私自身の〝遊歩〟にも通じるところを感じますが、ランボオという人物の生き方もそうですが、〝歩き〟そのものが一体何だったかがよく見えてきません。10代の後半、文学的資質を磨きながら詩を書き溜めながらの放浪には、詩人としての足跡がよくうかがえますが、その詩の殆どを焼き捨てて、突然に姿を消すように南の地へ旅立ったその後の生活者としての放浪の歩きには、〝底知れぬ渇き〟というような言葉だけでは、なかなか納得のいく足跡が見えて来ないのです。

 例えば野球で言うと50〜60本のホームランを中学卒ですぐガンガン打ち、いや、フランス文学、世界の文学に衝撃的に影響を与えたという位ですから、70本、300安打位かもしれません。そんな王・長嶋・イチロー・大谷をこえるようなヒーローが20歳で、たった4年間の現役生活を閉じて引退、パタッとどっかに消えてしまう。音楽界で例えればビートルズ、そのサウンドが旧来の音楽を揺さぶり、世界中の若者から熱狂的に迎えられていた時に、当の本人たちはバンドを解散して、中東あたりで武器商社を結成して一攫千金を狙っていた。という感じですか。まあ、なんとも不可解なことです。
 しかし、龍馬のような例もあります。新たな日本の進むべき道が見えて、新政府の中枢に誘われた坂本龍馬が、それをすっぱり断って「わしは海の向こうで商いじゃき」と世界に目を向けた貿易商へ転身する夢を語っています。暗殺がなかったならランボオのように世界中を動き回っていたかもしれません。もっと身近なものにでは、輝かしい実績を残したサッカーの中田英寿も引退後、直接的にはサッカーの現場に戻ってはいません。それを質した問いに「今、やりたいことが偶々サッカーではないから」と答えて、事業家としての充実感を語っています。次々と未来を見通すことができるランボオにおいても、詩の次に見えたのは〝商い〟だったのでしょう。ありとあらゆるものを荷馬車に積んだ隊商を引き連れ、砂漠を黙々と歩き続ける貿易商人としての姿、自ら詩の中で描いた砂漠のキャラバンを現実でも追っかけたのかもしれません。

 学生時代、私自身は残念ながら彼の詩に触れることがありませんでした。しかし、私の周囲には、この若々しい躍動する感性をそのまま自由奔放にぶち撒いた叛逆詩人に、ずぶりとハマっていた崇拝者がたくさん居ました。まあ、文学青年にとってはこのランボオ熱は、一種の麻疹のようなものだったのでしょうか。その内の一人の友人が、熱が高じて彼の足跡を追うべしと、フランスに渡り、シャルルヴィルから終焉の地となったマルセイユ、そして、イタリア、キプロス、さらに探検家・貿易商人として渡り歩いたアフリカのアレクサンドリア、カイロ、ハラール、アラビアのアデンなど、彼の踏みしめた地を後追いする旅に出ました。(その全部を走破できたのか記憶は定かじゃありませんが)その時、私は日本でサポート隊のお手伝いをしていたものの、何故そんなに必死になってランボオの足跡を追うのか、ぴったり共感することができませんでした。
 今なら、後追いした友人も〝底知れぬ渇き〟を抱えていたんだろう思い計ることはできます。それがランボオの詩を通じて、ランボウの足跡そのものをトレースすることで〝渇き〟の正体を確かめようとしたのでしょう。私の場合は、それから遅れて10数年後に加藤文太郎のにおける〝山における渇望〟というような〝歩き〟に出会って、六甲山中でかの人の足跡を追うことになるのですが・・・

ボヘミアンたるランボオは自らの足で詩を描こうとしていたのか?

 しかしながら、この〝底知れぬ渇き〟を抱えた放浪の〝歩き〟の正体はまだまだ不鮮明で納得できるものではありません。「彼は根っからのボヘミアンだ!」という人もいますが、定住地をもたないジプシー(ロマ)とも少し違う放浪者です。厳格なキリスト教の母や牧場での農作業を忌避していたのは確かのようですが、何かの問題の折々には故郷へ立ち戻っています。(フーテンの寅のように)
 砂漠に生きたランボオには、家族や商いの取引先、現地の行政官などに送った膨大な書簡が残されています。アフリカ書簡と呼ばれるものです。死の彷徨ともいえる末期には、妹であるイザベルが記録を残しており、これらから彼の後半生を解き明かそうという研究があります。その第一に挙げられるのが、鈴村和成氏による「ランボー、砂漠を行くーアフリカ書簡の謎ー 岩波書店」という評論があります。この本に向けた書評、フランス文学と詩の世界を紹介している壺齋散人氏の一文も目にとまりました。この感想がとても分かりやすいのでまず紹介させていただきます。

詩人としてのランボーは、この世の中と折り合いをつけることができず、世の中から遁走しようとする意思を絶えず抱いていたが、詩を放棄した後も、ついに世の中と折り合いをつけることができなかった。彼の一生はだから、この世の中から己の身を遠ざけるかの如くに、たえず歩き回っていた生涯だった。そして歩くのにくたびれ果ててついに足を失った。足を失って歩くことができなくなったランボーは、この世の中から去るしか道はなかった。この書物はどうも、そんなことをいいたいようなのだ。」(壺齋散人)
 
 この感想では〝世の中から遁走するための歩き〟という分かりやすい様相が浮かび上がってきます。さらに、鈴村和成氏の評論をはじめ、数多の資料を駆使してランボオの〝歩き〟を徹底的に追いかけた「ランボーの右足」なる秀逸なサイト(管理人:紅玉)を見つけました。ここでは、ランボオの詩を詩ではなくパンクロックとして読み取りながらの、放浪の核心に迫り彼の〝歩き〟を解き明かすことを試みています。いくつか引用させてもらいます。少し長くなりますが、我慢して目を通してください。(関心が湧いた方は直接に読まれるのがベストです)
 この評論では、ランボオの辺境における〝歩き〟とは、彼が詩の世界で語ったもの、語ろうとしたものを、現実の貿易商人の足取りとして(再生するように)一歩一歩踏みしめて歩きだしたところから始まります。

●よく人生は道のりや歩みに喩えられるけれども、彼の生はまさに〝歩行〟にあった。そして、あまりにもよく歩きすぎたことで、人より速く人生を踏破してしまうことになる。現実の手応えは重く、心身ともにきわだって鋭敏だった彼は、〝世界と通じ合うための一歩一歩〟から、あまりにも多くの知を受け取りすぎたのだ。(ランボーの右足3より抜粋)
●今の彼はハラルの貿易商人で、個人としてのランボーは、いつもなにがしか自身が向かうところ、目的へと向かってゆく〝歩行そのものの不思議な奴隷〟だった。わがままだからではなく、飽きっぽいからでもなく、ただ「そうしなければならない」と決めてしまったことを、実行せずにいられなかったのだ。だから、文学を棄てたのも、そうしなければならなかったからだろう。(ランボーの右足4より抜粋)
●ランボーの基本的な行動志向をあらわす「ここ」と「あちら」の関係が、カイロ書簡にはよくあらわれている。「ここ」は定住地ではなく、「あちら」へ発つまでの通過点にすぎず、ゆえに「ここ」の場所はつねに変化しつづけていなければならない。「あちら」が「ここ」になってしまったら、もうそこにも文句だらけになってしまう。
(ランボーの右足13より)
●ランボーの「ここ」と「あちら」を結ぶ行為は、つねに身体と距離の移動である。〝歩行〟することそのものが、ランボーの志向性と生、そして「あちらには何かある」という幻想の統合をかたちづくっていた。そもそも、人のあらゆる行動も問いも、「私はここにいる」という位置決定からはじまるものだ。我が身を問う人間であることは、つねに今ある我を出でて変化してゆく存在であることだ。
 ランボーは、つねに「ここ」と「あちら」の道のりを眺めつつ、その距離に身体を運ぶことで統合してゆく。そういう生を、彼は生きた。我の身体ととりまく世界の光景を、〝歩く〟ことで結びつける生。動きのある全体であり、まぎれもなく独特である全体。「あちら」が「ここ」になった時点で、出てきた場所と歩いてきた道のりと、たどり着いたことそのものが、一つの生の時間と光景となって、まざまざと生きられる。同時にその体験は歩く道々で刻一刻と放棄されつづけるのだ、かつて詩を書き飛ばすと同時に棄て去りつづけてきたのと同じに。ランボーは身体を運んでゆくことで、主体が主体たるありかたを、不思議にもきわめて本質的な形で生きた。
そして「そちら」は「あなたがた」、つまり他人の場所である。彼はそこには行かない。(ランボーの右足18より)
●その表現形が詩であったこと、詩こそが彼の体質だったことによって、ランボーの詩は徹底して強靱である。その作者の行動形態は、あらゆることを経験するという志向による「ここ」から「あちら」への絶え間ない移動という形で、文学放棄以降も生涯生きられることになる。(ランボーの右足30より)

 
 自由奔放と見えた放浪、実は、なんとまあ、窮屈な〝歩き〟だったのでしょうか。(文太郎の〝歩き〟に近い?)己の感性とそれによって描かれた世界に対する義理堅さを感じえません。ただ単に、世の中と折り合いがつかずに遁走したという一言で済ましてしまうのは、あまりにも可哀相な気もします。そんなにも律儀に〝あちら〟と向き合わずに、「色即是空」「ここ即是あちら」「あちら即是ここ」というような、自然と一体になるように身を置く東洋的な精神風土であったなら、自らの〝歩き〟に縛られることもなく、こうも壮絶な放浪を背負うことなかったようにも思われます。
 1891年5月、骨肉腫により右足を失ったランボオは、シャルルヴィルへ連れ戻されますが、砂漠で果てることを願う本人の強い希望で、故郷から再び南のアデン(アラビア半島の南端)を目指すことになります。途中、11月10日マルセイユにて容態が悪化、キリスト教徒として死ぬこと、故郷に埋葬されることを拒みますが、それも叶わず、妹イザベルに看取られながら、詩人・探検家・貿易商という三重の人生を閉じることになります。享年37歳。

 不図、西行の「世の中を 夢と見る見るはかなくも なほ驚かぬわが心かな」なる歌が頭をよぎりました。

【使用画像】
■シャルルヴィルにあるランボオの墓とシャルルヴィルの本屋のポスターは旅ブログよりより拝借。
■レオナルド・ディカプリオはツイッターから拝借。シルヴェスター・スタローンは映画COMより拝借しました。

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幕末の緊急バイパス・幻の道「徳川道」(六甲山)

徳川道起点標識(神戸市・阪神石屋川駅北側)前方に六甲山系を望む

 六甲山には、カタカナ名のポイントやコース名が多い。幕末、開港された兵庫の港に居留した外国人たちによって名付けられたものだが、そのうちカスケードバレイ(和名:杣谷)という名の沢筋がある。阪急六甲駅・西側の都賀川を遡行していく摩耶山と長峰山に挟まれた、カスケードという名の通りいくつかの小滝を登り、流れをまたぎながら杣谷峠へと至る谷コースだ。峠を越えるとすぐに可愛らしい新穂高(648m)やシェール槍(643m)をバックにした穂高湖に出会う。新穂高の北側を回りこむ沢を〝シェール道〟南側の沢筋を〝徳川道〟と呼んでいる。この度は、洋名にあふれた六甲山において、和名でそれも山径としては異端とも言える〝徳川〟と冠せられた由来を少し紹介してみたいと思います。

神戸事件・幕末維新の荒波が六甲山中に押し寄せる

 徳川道の正式名は「西国往還付替道」、つまり神戸の海岸に沿って整備されていた西国街道(山陽道)のバイパスです。幕末、兵庫の開港(12月)をひかえて、外国人と街道を往来する大名行列との接触を避けるために、(9月から)3ヶ月ほどの突貫工事で整備された徳川幕府が命じた迂回路です(現在の明石市大蔵谷から、阪神石屋川駅付近までの全長33km)東側半分は六甲の山中で、特にカスケードバレイは滝や堰堤の巻道が険しい岩場となっているところあって、「大名行列? マジ?」と言いたくなるようなルートです。この急な工事を2万両(2億円くらいか)で幕府から請け負って必死に完成させた庄屋・谷勘兵衛は、完成後に勃発した戊辰戦争で勝勢となった長州軍に、この工事費を略奪されてしまうという目にも合います。このあたりの詳しい事情と顛末は『山田村郷土史』を中心に調べておられるサイトにも紹介されていますので徳川道 ~幻の西国街道のバイパス~を参照ください。
 なんとか12月の兵庫の開港に間に合ったバイパスですが、その数日後には王政復古の号令が下って「このバイパスを使え!」という通達も各地に伝わらず、明けて翌1月11日、新政府から西宮の警備を命じられた備前藩(岡山藩)の軍勢が西から進軍してきましたが、付替道(バイパス)の存在を知ることもなく、海岸沿いの西国街道を直進して、現在の三宮神社のあたりで、この備前藩の先発隊の隊列を横切ろうとしたフランス水兵と衝突します。世にいう〝神戸事件〟の勃発です。英兵や米兵も合わさって撃ち合い(威嚇射撃?)が始まり混乱します。
 後方にいた本隊と退却した先発隊は、ようやくバイパスが開通していたことを知らされ、敗残兵のような体で六甲の山越えに向かいます。麓の小さな山田村に600人を超える兵士たちが宿を求める大騒ぎぶりも前述の郷土史に残されているようです。世はたちまち明治の時代となって、この時の行軍が〝西国往還付替道〟の唯一の使用例となり、さらに時代が下って、現代では〝徳川道〟という名でハイキングコースとしてその名残りを伝えることになります。
 神戸事件の方は、明治政府・新進気鋭の伊藤博文の奔走で大事に至らず収まりますが、その陰で詰腹を切らされた〝滝善三郎〟の悲劇が起こっています。神戸事件は、一般にはアーネスト・サトウなど外国公使の回顧録をもとに語られることが多いのですが、もう一方の当事者であった岡山藩の資料を含め、広範囲な情報を収集している神戸事件を考える」というサイトでいくつかの推論が検証されていますので興味のある方は訪れてください。

神戸事件発生地(三宮神社境内)  Photo by S. Douan
カスケードバレーの入り口・杣谷堰堤
徳川道

 徳川道と神戸事件の顛末は、何ともいえない皮肉な因縁ですが、劇的に世が揺らぎ変化した幕末ならではの出来事です。六甲山は本当に不思議というか、面白いというか、無数の引き出しのあるおもちゃ箱のようです。シュラインロードや山上磐座群では、平安の世の修験者の打ち鳴らす錫杖の響きや法螺貝の音、山中各所にある源平合戦や戦国時代古戦場では武者たちの苦闘の足音も感じることができます。この徳川道でも歩くたびに、ゲーベル銃かミニエー銃を担いで六甲の山中を行軍した兵士、それも幕末の風雲に飛び込んだ若い農民兵たちの息遣いを聞くようなこともあります。私が踏みしめている一歩一歩、百数十年前には確かに彼らもこの道を踏みしめていたのです。何とも言えない思いと想いが交差して奇妙な共有感をいだきます。
 単なる資料ではなく、そんな〝歩き〟の体感を表したく、徳川道にちなんだ短い小説を書いてブログにもあげたことがありました。ちょうど神戸を離れ、六甲山とお別れして山口の地に移住してきた直後のことです。夜逃げのような田舎暮らしで、ほぼ無計画状態で移住してきた頃の不安な自分の尻を叩くよう作品でもあり、当時の生活を思い出す感慨深いものです。このブログでも再掲させていただきます。読んでいただければ幸甚のきわまりです。
(右写真:上は穂高湖、下3連が徳川道と呼ばれる小径、出処は最下段に記載)

神戸事件の概要を紹介する銅版(瀧善三郎の切腹のシーン)  Photo by S. Douan

アキラの徳川道(ショートショート)

 「ようし!徳川道、歩いてみるか」
 突然思い立ったように、アキラはハイキングマップとお気に入りの椎茸おにぎり三っつをデーバックに放り込んで下宿を出た。郷里の岡山を出て、神戸の大学へ入って以来、すっかり山歩きにご無沙汰であった。身体の芯がなにかぴりっとしない。それが何に因っているのかアキラは薄々と感じていた。入学以来、同輩との遊興やアルバイトに追われ続けたこの一年間、羽を伸ばすのは良いとしても、目的感の薄れた俗な暮らしに飽きて、いささか気が滅入りはじめていたのだ。そんな鬱々とした気分を晴らすには身体を苛めるのが手っ取り早いと、通学用のバスも使わず、アプローチから全て徒歩で歩き通すことにした。 
 下宿のすぐ側にある阪神石屋川駅、JR六甲道駅そして阪急六甲駅と辿り、さらに北へ閑静な住宅街の急坂を登ると、眼の前に古い石積みの杣谷ダムが姿を現わした。堰堤の脇から広い河原に下り立つ。杣谷入り口は、砂場も多く渓流も澄んで、デーキャンプにもってこいの河原になっている。六甲山上へのいくつかのハイキングコースの起点にもなっており、この日も初夏の休日とあって多くのハイカーやファミリーで賑わっていた。
 アキラは額の汗をひと拭きしただけで、休憩も取らずに、人込みを避けて杣谷への沢筋のルートに分け入った。ことのほか鬱蒼と草木が茂る沢道で、両脇の尾根の傾斜も険しく見えた。たちまち深山に迷い込んだような気にさせた。先ほどまでの都会の相貌やら喧噪が嘘のように思えた。
 「う~ん六甲山。案外侮れんな」
 気合いを入れ直すため、シューズの紐をぎゅっと締め上げた。すぐに二基連なったビルのような高さの砂防ダムが現れた。その脇を巻いて登る岩場は、滝の登攀を思わすほどの急勾配だった。それが一息つくと、今度は肩幅ほどの岩棚を這うような所もあって、
 「おいおい本当に、これが徳川道かよ」
 大名行列がのんびりと行進する林道ような古道を想像していたアキラは、のっけからイメージを突き崩されてしまった。
 一時間余で、やっと杣谷峠へ登り詰めた。高校時代はワンダーフォーゲル部、歩きに歩いたその頃の自信は見事に吹っ飛んだ。この急な沢筋になまった足腰は音を上げてしまい、峠のすぐ先にある穂高湖でへたり込んでしまった。

 昼ごはんの椎茸にぎりを頬張りながら、
 「そう言やあ、このおにぎりだ。こいつのお陰で、俺さまはへとへとじゃあ」
 思わずぷっと吹き出してしまった。祖母の作る椎茸一杯のおにぎりが子供の頃からの好物だった。祖母の味に近いコンビニにぎりが販売されてからは、これが夕餉の定番となっていた。昨夜のことである、馴染みのコンビニでは手に入らず、もう一つ先のコンビニへ行こうと、ふらりと下宿を出た。国道2号線を石屋川まで辿りそれから南へ折れたところに小さな公園があった。そこで古ぼけた一枚の案内板と出会った。何気なく足を止め目を通してみた。
 『ここは幻の道として知られる徳川道の起点である・・・』
 「なに、幻の道?」
 まず、この文言がアキラの気をそそった。続いて、
 『徳川道は江戸時代末期(慶応三年)に幕府が兵庫港を開港するにあたって開港場付近の外国人と西国街道を往来する諸大名や武士との衝突を避けるために作られた迂回路である』
 「なに、なに? 海岸沿いの西国街道を、六甲山系をぶち抜いて山沿いに付け替えた?それも34キロメートル」
 慶応三年と言えば、維新回天の加速がピークを迎えた年。幕末小説に凝って目下、乱読の日々が続いているアキラにとって、騒立つ幕末の匂いがぷんぷんするこの案内板は、アキラの好奇心に火を付けてしまった。早速下宿に戻り、いつか友人に借り受けていたままのハイキングマップを引っぱり出して、徳川道なるもののルートを探した。確かに山中に数キロばかりだが、その名を冠した道があった。
 しばらく地図を睨んでいる内に、なにやら体の芯がもぞもぞとしてきた。
 「う~ん、歩いてみようか」
 単なる思いつきではあったが、そうとも言えない何かしら既往感のようなものをうっすら感じた。何かに誘われているような気もした。この時、この誘いがある人物との出会いの端緒となるとは、アキラは露にも思わなかった
 
 弁当を食べ終え穂高湖を後にした。
 ここから布引谷に流れ込む渓流沿いの小径をハイカーたちは「徳川道」と呼んでいるらしく、地図にも明記されいる。この辺りは当時の面影を十分に偲ぶことができた。足下にせせらぎを聞き、杉の木立の間を陽がさす。そのまま時代劇のロケにも使えそうだと思った。
 「ここなら、行列が通ってもおかしくはないな」
 アキラはあれこれ想像してみた。
 「幕末であったなら、こんな感じかな」
 次々にイメージは膨らみ、あっと言う間に百数十年の時を飛び超えていった。
 「ザッ、ザッ、ザッ、」
 鼓動のような足音を立てながら、ミニエー銃を胸に抱え、隊士らが二列縦隊で小走りに街道を次から次へと通り過ぎていく。なんと砲兵までがやってくる。大砲の車列が横を駆け抜ける時、轍の泥が、
 「バアーッ!」
 とアキラのシューズに跳ねた。
 「うっ!」
 と、我に返った。湿地に足をとられて転けそうになった。靴は泥で汚れていたが、もちもん周囲は誰も居なかった。たわいな空想のつもりだったが、幻影のような妙に生々しい人気を感じた。
 
 翌日、大学の図書室で「徳川道」のいくつかの文献を調べてみた。ほとんどの資料は神戸事件との絡みで紹介されていた。 
 「神戸事件?」
 どこかでうっすらと聞きかじったような気がしたが、この事件の詳細については全く知らなかった。
 さらに資料を漁った。
 『幕府では、諸外国の要請に圧され、1868年1月1日に兵庫開港を決定する。これに対応する居留地や税関等の設定にかかったが、もっとも恐れたのは外国人との衝突であった。生麦事件の二の舞いを避けるために、幕府は市街地を貫通する西国街道を廃止し、遠く背後の山地を迂回する「西国往還付替道」の工事を緊急に決定し、着工の命をだした。これが七月末。ルートの確定が九月。わずか三ヶ月という驚異的な突貫工事であった。工事費は二万両。幕府も決死の覚悟であった。』
 これだけの事なら徳川道は単なる古道として歴史に埋もれたかも知れない。しかし、この道の完成を知らされず、または知らずに旧西国街道を東進した備前藩の一行が外国居留兵と衝突した神戸事件、これこそ幕府の一番危惧したトラブルであった。しかもその備前藩の敗走に使われたのが、唯一の使用例だと皮肉混じりに紹介する資料もあった。お陰でこの道は、幕末という歴史の光彩をことのほか際立たせることとなった。
 「ふ~ん、備前藩か・・・」
 備前はアキラの郷里であった。
 アキラの脳裏にまた新たな空想が膨らんできた。
 「もしや、先祖さまにこの徳川道を通った者がいる?」
 しかし、本家筋は古い農家と聞いている。維新の動乱に活動した人物がいるような話も聞いたことがない。
 「いやいや、この頃は奇兵隊を初め諸隊と呼ばれる農民兵が活躍した時代だ。わからんぞ~」
 沸々と湧き上がってくるものを感じた。
 「昨日、徳川道で出くわした藩兵たちの行進は幻影じゃない。あの中に確かにそいつがいたんじゃあ」
 余りにも唐突な発想も、アキラの中では何一つ違和感はなかった。
 
 盆の帰郷を早めた。七月の内に実家に戻り、家に入るや否や、父母や兄弟たちに、矢継ぎ早に聞きただした。質問というより詰問のような勢いに家中は唖然とした。ついでに本棚から古い書き物を片っ端から引っ張りだした。
 「おえんな~」
 母の悲鳴の横で、
 「ルーツじゃあ。ルーツ発掘!」
 ろくな説明もないまま、
 「じいちゃんちへ行かんとおえん」
 と、捨て台詞を残して、本家の備前に向かった。それっきり三日も戻ってこない。九十近い祖父に、またあれやこれや質問の嵐を浴びせて、
 「家系図か古文書はないか」
 と、土蔵まで荒らす。役場で戸籍謄本を取り寄せ、最後には寺まで押しかけて過去帳を拝見させてもらう。
 真新しかった大学ノートはあっという間に脈絡の定かでないメモで埋め尽くされた。その一つ一つを丹念に繋ぎ合わせ、練り合わせ、そして、漸く一人の人物に浮かび上がってきた。
 「そういやあ、じいさんがが言うとったかな~」
 祖父がぽつりと洩らした。
 「じいさんって、おれの曾々祖父か?」
 「ああ、明治になるかならん頃に、鉄砲傷で死んだ甥がいたと」
 この祖父の言質が本線になった。書き集めたメモを繋ぎ合わせた末に、明治元年に鉄砲傷で死んだ曾々祖父の甥なる人物に辿り着いた。
 「彰次郎か・・・」
 奇しくも我が名と同字が含まれている。もちろんのこと、面影も人柄も知る由もない。何故、農家の次男坊である彰次郎が、戊辰の戦乱へ躍り出て、あっけなく二十二歳という若さで死んでいったのだろうか。彼の死は何か隠ぺいされた節があるようにも思えた。あの動乱の時代、憂国の想いに自ら進んで身を捧げたのだろうか。それとも、無理矢理に時代の濁流に引きずり込まれたのだろうか。彰次郎の足跡をあれこれ想像すればするほど、奇妙な親近感が湧いてきた。
 「よし!アキラ、出発じゃあ!」
 と、すぐ傍で叫び出しそうな、兄貴のような活き活きとした彰次郎像が浮かんでくる。今までの自分に欠けていた躍動感を投影させてようとしたのかも知れない。
 
 アキラは神戸に戻り、早速、事件の碑と備前藩の大砲が置かれている三宮神社に詣った。神社すら都会のビル群に埋もれて、つい見過ごしてしまいそうな佇まいだった。そのわずかな一角を除いて、何一つとして135年前の変事を偲ばせるものはない。南側の旧居留地一帯は大手デパートをはじめ、海岸通りまで巨大なショッピングモールと化している。
 お社の拝殿を静かに深くそして長い時間をかけて拝した。これ程真摯な思いで瞑目したことはなかった。彰次郎の死を昨日のことのように弔った。同時にアキラは『徳川道』の全ルート34キロメートルの走破を決心した。決行日は、
 「はやり1月の11日だな」
 それまでに彰次郎のレポートを書き上げるつもりであった。そして並行して徳川道なる幻の道のルートも綿密に調べた。六甲山以西のルートは、市街化のためほとんどは街路を辿ることになる。迷走しないためにもいくつかの箇所の下見にも出かけた。そのために今までのバイトを断り、友人らとの遊興からも遠ざかっていた。よそよそしいアキラに友人たちは、
 「なんか 隠しとるだろう」
 「いいや、ちょっと勉学に目覚めただけじゃ」
 気の好い彼らを疎遠にするつもりはなかった。ただ、ちょっと先の見通せない自分の学業生活を見つめ直すためには、彼らのペースにはまる訳にはいかなかった。誰にもこの走破決行を知らせなかった。大学入学以来の一年間には見出せなかった己の意志、むくむくと動きだした意欲を誰にも削がれたくない一心からであった。
 
 年が明け、決行日が訪れた。未明、西の起点である明石と神戸の市境・大蔵谷に立った。肌を刺す寒風が思いっきり気を奮い立たせる。アキラがかき集めたルーツ探索の資料からは、はっきりと彰次郎という青年の生き様と、彼の歩いた足跡が浮かび上がっていた。それを確かめるべき一歩を踏み出した瞬間に、めくるめく時が逆流したように彰次郎の一歩と折り重なった。
 「いざ出発じゃあ〜」
 
 朝廷よりの勅命を受け、備前藩は家老日置帯刀率いる総勢六百余人の部隊を西宮の警備に差し向けた。西国街道を東進、1月11日昼過ぎ、神戸村の三宮神社前に差しかかった。彰次郎は耕戦隊と称される農民兵で構成された第三砲隊に居た。
 「さてさて、これより先どこまで進むものやら」
 出陣の命を受けて以来、昂る気持ちは今も鎮まってはいない。西宮の次は京へ上るやもしれない。もしやして討幕の戦は江戸まで続くかもしれない。それは彰次郎が、進んで選んだ道であった。幼い頃から目をかけて、その才覚を可愛がってくれた遠縁の下士の影響が大きかった。農家の出であったにも関わらず一端の尊王攘夷を志す青年へと育っていた。耕戦隊の前身、農兵隊が結成された時もまっ先に志願した。不惜身命の思いで激動の時代を突き進むことに何の衒いもなかった。

 街道を挟んで北側に神社、南側は拓かれたばかりの諸外国の居留地がある。社の森を過ぎようかという辺りで、先を行く第二砲隊との狭間が開いた。その時、神社側から数人の居留地警備の数名の外国兵が隊列を横切ろうとした。
 「止まれ!止まれ!」
 怒号のような隊士の制止を声に、一旦足を止めたかに見えたが、そのまま押し切って隊列の間を通り抜けた。押し止めようと第三砲隊の令士・瀧善三郎は槍をかかげた隊士と共に外国兵の前に立ちふさがった。その時、反射的に外国兵は瀧にピストルを向けた。
 「鉄砲である!」
 瀧は注意を促すために叫んだつもりであったが、隊列を乱された隊士達は、交戦命令と思い隊士らが銃を構え、槍をかかげた。それを見てひるんだ外国兵が居留地へと逃げ込もうと、空に向け数回、威嚇の発砲をしながら駆け出した。
 「空~!」
 瀧の号令が彰次郎の耳に飛び込んできた。鉄砲隊は射撃の体勢に構えた。続いて、
 「空~!打て~!」
 威嚇射撃の号令を聞いた。彰次郎は夢中で引き金の指に力を込めた。上空への発砲であったが身体は震えた。先方からも数発の銃声が返ってきた。一帯は混乱した。双方が睨むあう一時の間に、この混乱を聞きつけた居留地の諸外国の兵士らが、海岸添いにぞくぞくと集結し始めた。
 家老日置は、交戦の意志など毛頭なかった。一旦、須磨の浦辺りまで退いて様子をうかがった。
 「当方に落度なし」
 全く偶発的な些事と捨て置いて、一刻も早く勅命である西宮への東進を慮った。幸い双方に死傷者が出なかったが、事態は急激に悪化、神戸村は居留地兵によって占拠され行く手を塞がれていた。やむをえなく日置隊は神戸を迂回する東進の道を探した。彰次郎は発砲の直後、何やら当ったか擦ったかで、二の腕を痛めていた。出発までの休息の間にそれを思い出し、傷の手当てをした。
 「かすり傷じゃあ、大丈夫じゃあ」
 出血も止まっていたし、興奮状態が続いているのだろう、痛みもさほどではなかった。
   
 「西国往還付替道あり」
 との報を受けた家老日置は、
 「ええい 早々の出立じゃあ」
 と、東進の道が開かれた安堵感よりも、この付替道を知らされなかった仕打ちにほぞを噛んだ。勤王派と佐幕派の綱引きで一転二転三転と勢力地図は推移していた。しかし大政奉還という期におよんでは、幕府には付替道の完成を各藩に広報する余裕などあったとは考えられない。ましてや勅命で討幕の軍となるやもしれない備前藩に、その情報が錯綜し滞ったもの当然かもしれない。無理もない話であった。
  急遽、明石までもどり、新道なる付替道を抜け神戸を迂回するルートをとった。しかしこのまま強行軍を続けると、険しい六甲の山中で夜を迎えることになる。小部村(現神戸市北区)での宿営となった。
 「何ごとか、戦が始まるのか」
 村人の不安と恐怖は一通りではなかった。夜半、彰次郎の腕が丸太のように腫れ上がり激しい痛みに襲われた。傷は鉄砲玉によるものであった。玉のかけらを取り出し当てを施すと少しは痛みがやわらいだ。
 翌日、険しい六甲の山中を抜け、夜半やっとの思いで西宮に辿り着いた。西宮到着後の七日目あたりから、彰次郎の腕に異変が起きた。いや腕だけでなく指や足までもが、他人のように感じられる。口や舌も思うように動かない。日々容態は悪化して、駐屯地近くの療養場に運び込まれた。
 その頃、隊では東征の先鋒に、この耕戦隊が選ばれるとの風評が盛んであった。
 「俺も、連れてってくれや」
 と、もつれた声で見舞いに訪れた同輩たちに懇願した。誰もがその口惜しさが分かるだけに無視した。
 たまらず一人の隊士が
 「国で養生せいや、それから追っかけても遅うない」
 と声をかけた。

 国元は神戸での事変の処理で右往左往であった。神戸はまだ諸外国に占領されたままで、新政府も諸外国の多大な請求にどう対処するか苦慮していた。事態は急速に動いた。新政府は開国和親のため一方的に落ち度のない備前藩へ責任を押しつけた結果となった。翌2月初め、実行責任者として令士・瀧善三郎の処断の沙汰が下り、同月七日神戸永福寺で各国公使立会いの下、瀧の処刑が執行された。古式に則った潔い割腹であった。
 彰次郎はその報を耕戦隊の仲間から密やかに告げられた。自分を弟のように育んでくれた恩人の死を聞いて激しく泣いた。その頃、頬も痙攣も激しく、泣き顔は苦悶の容貌に歪んだ。
 草莽の士とも言える彼はその三日後に他界した。死因は定かではないが、舌のもつれ、顔がゆがむとの事から破傷風だと思われる。享年二十二歳。混沌の幕末、維新後の新日本を見ることもなく散っていった数多くの若者の一人であった。 杣谷を下り、谷道が終わろうとする頃、陽は落ちて、周囲はすっかり闇となっていた。谷が開け、杣谷ダムの河原に下り立ったアキラの眼前には、神戸の夜景が綺羅びやかに拡がっていた。その都会の光彩に身を埋めるように、重い足をひずりながら黙々と街路を歩いた。やがて、今日の自分へと誘ってくれたあの徳川道起点の案内板にたどり着いた。その前でしばし立ち尽くした。重い足とは反して、胸の裡は清々しく軽快であった。彼の中にあった安穏たる日々の憂鬱ははるか遠く消え去っていた。
(完)

【参考文献】 
「徳川道 西国往還付替道」(徳川道調査委員会編集 神戸市市民局発行) 
 神戸事件に関する一考察 「その性格と歴史的意義」(文責:前田結城)
 
【使用画像】
■徳川道起点と杣谷堰堤のヨコ長の画像は、Googleストリートビューから拝借。
■穂高のタテ長画像は、ウィクペディアより拝借。
■3連の徳川道の画像は、いそしずのライナーノートより拝借しました。
■ラストの写真は現在能福寺の境内にある31歳で切腹した滝善三郎の墓碑です。
能福寺と兵庫大仏[神戸観光壁紙写真集]より拝借しました。


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遊歩のススメ・第1話(なぜ歩くのか?)はこちらから

※歩かない人のための歩きレクチャー読本

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〝遊歩〟ハイキンググッズ10選・トイレ編

※その2、出したものは全て持ち帰る?

●読本11:中原中也の散歩生活にみる〝徘徊的遊歩〟

冬の長門峡・中原中也(長門峡入り口の詩碑)
 冬の長門峡・中原中也(長門峡入り口の詩碑)

 前回は〝動けない心を動かすためには、体をうごかさなければならない。歩き続けるしかなかった〟という山頭火の放浪の〝遊歩〟を取り上げましたが、今回は地元・山口県にゆかりのある文人として、コアなファンも多い中原中也の〝歩き〟を覗いてみたいと思います。ちょうどこの10月22日が〝中也忌〟にあたります。それまでには投稿をと思いつつ、畑違いの〝詩歌〟の中に遊歩を見出すことに手こずって間に合いませんでした。ご容赦を。
 山頭火が小郡の「其中庵」を離れ最終ステージに選んだ松山にいたるまでの一年足らず、仮に身をよせていたのが、山口市の市街地にある湯田温泉近く龍泉寺となりの「風来居」でした。ここで俳友を通じて、縁を得て中也の生家であった「中原医院」に出入りするようになり、中也の弟や家族らと交流を温めています。その中原医院の跡地に現在の「中原中也記念館」が平成6年に建てられています。
 山口県へ移住後、山頭火の句碑めぐりなどはしたものの、中也記念館へ足を運んだのは、本年の1月、この地に移ってから実に16年も経ってのことでした。山頭火の記念館の方は、不思議なことに全国的な人気を誇る山頭火にしては遅く、平成29年になって、やっと生家近くの防府天満宮下に「山頭火ふるさと館」がオープンしたばかりです。私の個人的感想ですが、様々な不幸が重なった種田家、自身も身持ちが悪く、生活破綻者のような山頭火に対しては、地元では、身近者への反感のようなものがあったのでしょうか、何かしらウケが悪いような印象があります。「風来居」などは未だ記念碑はおろか、目印になる標柱もないようです。(各所に句碑はたくさんありますが)句友以外には厄介者でかしかないような山頭火が中也の実家に出入りするようになった一年前、昭和12年に中也は、鎌倉の病院において30歳で夭折しています。(結核性の脳膜炎といわれています)
 俳句もそうでしたが、詩歌にも全く造詣がうすく、中也の詩を語ろうにもその資格は全くありませんが、かろうじて次のフレーズだけが、感受性に振り回されて、ダダイズムにも酔っていた若き頃の私の胸の奥底に焼き付いています。

  汚れつちまつた悲しみに
  今日も小雪の降りかかる
  汚れつちまつた悲しみに
  今日も風さへ吹きすぎる


 詩集(山羊の歌)で読んだわけでもなく、この詩の全文を覚えているわけでもない〝汚れつちまつた悲しみに〟というフレーズが丸々、私が吐きだしたような言葉のように感じられ、そのまま心の奥深くに刺し込まれていたのでしょうか。この詩以外は、ほとんど中也との接点はありませんでしたが、一昨年の真夏遊歩が、中也の生き様の中にあった彼の〝遊歩〟に導いてくれましたので、しばし、その前段の話にお付き合いください。

長門峡
長門峡(山口県・阿武川)

「山高きが故に貴からず」中也との出会いの伏線?

 低山派ハイカーの決まり文句だけれど、ついつい嵩のない山を侮って酷い目に会うこともままあります。「せっかくの夏季休暇、九州まで足を伸ばすか・・・」とテント、シュラフを車に押し込んで、行き先未定のまま取り合えず出発する予定が、早朝のスコールのような雨に腰を折られて、遠出の意欲はくじかれ、どこか近場の低山、楽チンコースは無いものかとシフトを切り替えました。しかし、この安易な転向、低き山を侮ったことが失敗の元、火の山(268.2 m)のアタックもカンカン照りの太陽と、ベトっと湿気が肌にとりつくような暑さに見舞われて、案の定リタイヤすることになってしましました。(遊歩の達人への道はまだまだ)
 このフラストレーションを晴らすために、次の日、納涼をかねて訪れたのが阿武川上流にある長門峡。道の駅・長門峡側から渓谷に入りましたが、起点が川上となっており、ほぼ水平かと思うほどのなだらかな流れに沿って谷を下っていくコースです。下山路ではなく歩き始めから谷を下りはじめるのは、何か違和感がありました。(反対側の起点から入れば良いことですが・・・)コースは整備されていて、のんびり渓谷を楽しむには文句はありませんでしたが、如何せん昨日からの高温多湿、おまけに風もなく、身体中に湿気がへばりつき、企んだ納涼とは、ほど遠い蒸した谷歩きとなりました。折り返し復路、歩き始めには気を止めなかった渓谷の入口横の廃屋のトビラに、今にも朽ち落ちそうな看板に「洗心館は閉鎖・・」との文字が目に留まりました。そして、そのすぐ先の橋のたもとで中原中也の詩碑「冬の長門峡」と出会うことになりました。(冒頭の画像)

 長門峡に、水は流れてありにけり。
  寒い寒い日なりき。
 われは料亭にありぬ。
  酒酌みてありぬ。
 われのほか別に、
  客とてもなかりけり。
 水は、恰も魂あるものの如く、
  流れ流れてありにけり。
 やがても密柑の如き夕陽、
  欄干にこぼれたり。
 ああ! そのような時もありき、
  寒い寒い 日なりき。

 50年ほどの時間が逆流するかのように〝汚れつちまつた悲しみに〟のフレーズがクロスオーバー。まだ、陽も高く、季節も真夏でこの詩の情景とは違っていたものの、何やら悲しい寂然さを感じずにはおられませんでした。料亭で酒を飲みながら夕日を眺めていたのでしょうか。先ほどの廃屋がその料亭のようです。さっそく帰宅後にググってみると、やはり、中也はこの長門峡でよく遊んだようで、あの廃屋は中也が友人たちを誘って訪れていた「洗心館」という料亭でした。この詩を書いた前月に、2歳になる長男の文也を亡くしていることを知って〝水は、恰も魂あるものの如く、流れ流れてありにけり〟というところの寂然さに思い当たりました。
 この長門峡がキッカケとなって、その秋、中也記念館を訪れることになりました。奇しくもテーマ展示は「中也の散歩生活」という彼の身体性を主題に、〝歩き〟の中から生み出されていったポエムの数々、そして、中也が日常生活において、「歩く」といことをどのように思っていたのかがよくうかがえる展示がありました。

詩人・中原中也

散歩というよりは徘徊というべき〝歩き〟のボリューム

大正十二年より昭和八年十月迄、毎日々々歩き通す。読書は夜中、朝寝て正午頃起きて、それより夜の十二時頃迄歩くなり」(中原中也・詩的履歴書より)

 この記述を真に受けると、実家を離れて詩作を始めた十六歳から結婚するまでの十年程の間、毎日、1日の半分12時間は歩いていたことになる。これは〝散歩〟とか〝散策〟というような言葉では当てはまらないだろうとツッコミたくなる程の歩きっぷりです。アスリートなら〝訓練・修練〟であり、求道者なら〝修行〟そのものと言ってもよいレベルかと思います。まずは、この生活の中で占める圧倒的な〝歩行〟のボリュームに驚きました。それは、詩人が気分転換にぶらっと出歩くというような、ましては私の毎朝夕、半時間程の〝犬連れ散歩〟や低山ハイクとは比べようもないボリュームです。中也が強く影響を受けたといわれる天才詩人アルチュール・ランボオも〝歩行三昧〟もすごいものがあります。ヨーロッパや北アフリカを歩き回って〝放浪〟の詩人とも称されていますが、中也の場合は、京都や東京の巷をウロついている感があって、その歩きっぷりは〝放浪〟というよりは〝徘徊〟に近いものがあります。私個人では〝徘徊の詩人〟と認識を新たにするものでした。

 歩きといっても、酒場に通ったり、文人仲間の家を訪れ、情報交換をしたり、論戦したり、車や電車のインフラが乏しい頃で、そのために、あちこちを徒歩で歩き回っていたこともあったでしょう。実際〝歩く〟という言葉をそういう意味で使っていたようですが、京都や東京の街中で出くわす風景のそれぞれを点検するようにほっつき廻っている姿を、作品や書簡の中からも窺い知ることができます。

僕はねえ、やっぱり毎日お歩きです」(友人への手紙)
近頃の夜歩きは好い。月が出ていたりすると僕は何時まででも歩いていたい。実にゆっくり、何時までも歩いていたいよう!」(友人への手紙)

 兎にも角にも、中也は、己の命と鋭い感性を、数行の言葉に押し込めるために、張り付いた壁紙のような下宿部屋から抜け出して、日々、川沿いの土手や街中を歩き廻ったと思います。自分が移動した分、草木や月と出会い、建物や街灯が映り、違った風景が次々と現れ、歩行のリズムの中で五感が触発され、そぎ落とされた詩句が体感として沸き上げってきたのかもしれません。空気や風の微妙な違いにも、自分の命や存在を投影していったのかもしれません。そういう〝歩き〟は、私のような凡人が見ることもない異界を覗き込むための〝徘徊〟といえるような〝歩き〟だったと勝手に想像します。そしてそれは、〝本来の愚に帰ろう、そしてその愚を守ろうと〟遊化の道につき進んだ種田山頭火に通じているように思えます。「我が生活」という散文の中で、歌舞伎を観たくなって、本を売り見料と電車代をひねり出して明治座まで出かけるが、昼飯代が無い。観劇の途中、空腹に耐えかねて退散し、家まで歩いて帰る途中・・・

歩き出すと案外に平気だつた。初夏の夜空の中に、電気広告の様々なのが、消えたり点つたりする下を、足を投げ出すやうな心持に、歩いてゆくことは、まるで亡命者のやうな私の心を慰める

と銀座の風景を語りながら、自分の性格や生き方など心境も語りはじめます。そして、生活者としての不便さ(不甲斐なさ)も嘆きながらも、夢見る自分を次のように語っているところに私の目がいって、あの愚の道を歩んだ山頭火を思い起こしたところです。

然し人生には、どんな荒んだ社会にもなお小唄があるやうに、詩人といふものは在るものなのである。その詩人なるものに、多分は生れついてゐる、否、それ以外ではツブシも利かないのが、私といふものだつたのである

主な略歴
1933年(昭和8年)
『ランボオ詩集(学校時代の詩)』を三笠書房より刊行。上野孝子と結婚。
1934年(昭和9年)
長男文也(ふみや)が誕生。『山羊の歌』を刊行。
1935年(昭和10年)
5月 『歴程』が創刊され同人となる。「青い瞳」を『四季』に発表。
1936年(昭和11年)
文也死去。精神が不安定になる。次男愛雅が誕生。
1937年(昭和12年)
『ランボオ詩集』(野田書店)を刊行。『在りし日の歌』原稿を小林秀雄に託す。
10月22日、結核性脳膜炎を発症し死去。墓所は山口市吉敷。
1938年(昭和13年)
愛雅死去。創元社より『在りし日の歌』を刊行。
1994年(平成6年)
山口市湯田温泉の生家跡地に中原中也記念館が開館。
1996年(平成8年)
山口市等が新たに中原中也賞を創設。


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風の中声はりあげて南無観世音
 長沼隆代作の和紙人形(山頭火ふるさと館

解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た

 種田山頭火との出会いは、いつ頃だったのかよく覚えていない。俳句といえば、芭蕉や蕪村、一茶ぐらいですか、それも有名な数句が思い浮かぶ程度で、ましてや自由律詩などというものには、ほとんど触れたことがありませんでした。しかし、いつか、何処かで〝山頭火〟という名がうっすらと気にはかかっていたのでしょう(テレビの金八先生か?)うすい文庫本一冊を買いおきしていたようで、本棚に紛れていたその本を手にして開いたのが、「孤高の人(新田次郎)」「遊歩大全(コリン・フレッチャー)」と並んで、私の〝歩き〟に大きく波紋を与えるに絶妙なタイミングとなりました。
 直接的に六甲山という舞台へ私を誘ってくれた加藤文太郎、その六甲山彷徨の〝歩き〟に、精一杯に自分を解放、寛がせることの楽しさを教えてくれたコリン・フレッチャーとの出会いの間に、現れたのが山頭火でした。文太郎の足跡を追っかけるように歩き出したは良いが、いざ、歩き出した後は自分でもコントロールの効かない、赤子の泣きながらの道迷いのような〝なぜ歩くのか?〟〝歩かされているのか?〟と自問自答しながら、さまようように歩いていた頃です。偶々だったのか、何かに導かれたのか、手に取った文庫本をめくってみると、目に入ってきたのが・・・
[大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た]という一文に釘付けになりました。「分け入っても分け入っても青い山」この有名な句の前書きです。

 母の自殺、酒造場の経営・破綻、夜逃げ、離散、被災、作句に情熱をそそぎつつも、家族を捨て自儘な酩酊の生活に堕ちてのあげくに、42歳の時に熊本・報恩禅寺で得度する。ここから仏道に導かれて、穏やかに作句の余生をと思いきや、翌年、この味取観音堂の堂守を捨てて、本格的な行乞放浪の旅が始まるのでした。この旅立ちにあたって書かれていた〝解くすべもない惑ひ〟とは何なのか? 放浪の末に世を捨て、出家した彼がなおも抱えつづけていた〝惑い〟を軽々に推しはかるつもりはありませんが、慣用的な〝煩悩〟という言葉だけで説納得しきれない何かを感じます。心があることにしがみついて動こうにも動けない。こびりついている感じですか、動けない心を動かすためには、体をうごかさなければならない。歩き続けるしかなかった。そんな感じでしょうか。彼の行乞流転の旅をそういう風に勝手に受けとってみると、当時の私の〝戸惑いの歩き〟とピッタリと折りかさなって、強烈なシンパシーをおぼえました。
 人は、いつも自分自身の絵を描いていて、その「描かれた私」と向き合いながら生きています。そして、或る日、その私というものがブレたり、かすんで正体不明になってしまうことがある。彼の人においても、お堂で悠然と禅をむすんでいるだけでは己を掴まえきれなかったのかもしれません。とにもかくにも己を探すべく山頭火は歩き始めたのでしょう。彼にとっては確かな成算があって歩き出したのではなく、背負った惑いを解くために、つまり、我執にからまれ動きのとれない心を動かすために、とにかくは「歩きだす」しかなかったのでしょう。重苦しい〝独り歩き〟が始まりました。

  鴉啼いてわたしも一人
  捨てきれない荷物の重さまへうしろ
  どうしようもないわたしが歩いている
  風の中おのれを責めつつ歩く

 
 松岡正剛が千夜千冊「山頭火句集」の中で・・・

 修行僧としては当然の行脚だが、どうも山頭火のそれは一途な行脚とちがっていた。味取観音堂でじっとしていられない。寂しくて寂しくて、それで旅に出る。そうすると寂しいことが動いていく。その動きが見える。いや、見えるときがある。寂しさというものが山や道のどこかで、ふうっと動く。それを句に仕立て、また行乞をする。
 山頭火はそこで「途上、がくねんとして我にかえる」ということを知った。そうであれば、それが最善だとおもうようになっていった。山頭火はそこを「空に飛ぶ」とも言っていた。「空」は色即是空の「空」で、「飛ぶ」はおそらくは「遊化」であろう。


と評しています。

 長沼隆代作の和紙人形(山頭火ふるさと館)

遊化 (ゆけ) は遊行教化という仏語。心にまかせて自由自在に振る舞うこと、遊戯 (ゆげ) に通じる。

 「遊化三昧」とは、楽しい事、苦しい事、嬉しい事、悲しい事、迷う、悩む、出来上がる、壊れる、成功した、失敗した・・・ 世の中に起こる全ての出来事を遊んでしまいましょう、という意味でポジティブ教化に使われます。〝遊〟の字が垣間見えたあたりで少し〝遊歩〟にも近づいてきたでしょうか。
 俳句は、言葉というより映像です。私にとって山頭火の自由律句は、体感のビジュアル化そのものです。彼の想いや意味とは違っていたとしても、私が感じていることを私の一歩に上手くのっかってくれます。本当は行く先をちゃんと指し示してくれる一本道が歩きやすいのですが、敢えて山あり谷あり、曲がりくねったルートファインディングをついつい選んで不安な一人歩きに四苦八苦することが往々にしてあります。そんな時にポッと目の前に長い一本道が現れて先を見通すことができると・・・
  まつすぐな道でさみしい 
 などと、本当はホッとしているのだが、強がってそういう句を当てはめる。ホタル調査で夜通し歩いて、沢で飛び石に足をかけようとしたとき・・・
  うしろから月のかげする水をわたる
 少し肌寒いが、木漏れ陽の草むらで横になって休憩する・・・
  石を枕に秋の空ゆく
 尾根を伝っていると突然しぐれて、雨に打たれた・・・
  あの雲がおとした雨にぬれてゐる
 浮石や枯葉に足をすくわれて転倒したとき・・・
  すべつてころんで山がひつそり
 などなど、私の〝歩き〟一歩一歩の肌触りを見事にビジュアルにしてくれます。

   水音といつしよに里へ下りて来た
  山から山がのぞいて梅雨晴れ
  人生即遍路
  このみちをたどるほかない草のふかくも 
  道がなくなり落葉しようとしてゐる

 厳しい漂泊の旅を一段落させようと、50歳の時、小郡(現山口市)にて其中庵をむすんで、自足の生活へ入り「孤高自ら持して、寂然として独死する」と願い庵居生活を始めます。が、独坐も長くつづかず、寂しさのゆえか、動かぬ心を動かすためなのか、また旅に出ることとなり、旅先で病を得てその旅にも頓挫してしまいます。気が塞いだのでしょうか、庵居にてカルモチン(睡眠薬)による自殺未遂。
 ついにはこの庵居を捨てて、死に場所を求めるような流浪の旅に出ていきます。やはり、山頭火を生き生きさせるのは、やはり旅なのでしょう。自分らしい句を追い求め、コロリと逝くことを願いながら面目躍如たる〝歩き〟の中に身を置きます。57歳の時、近代俳句のメッカといわれていた四国・松山を訪れ、その地で最後の庵をむすび、終活というべき一代句集「草木塔」を出版します。「若うして死をいそぎたまへる╱母上の霊前に╱本書を供へまつる」との扉書きには、山頭火が喪失したウィルダネスを偲んでいるような印象をいだきます。

  歩かない日はさみしい
 飲まない日はさみしい
 作らない日はさみしい
 ひとりでゐることはさみしいけれど、
 ひとりであるき、ひとりで飲み、ひとりで作ってゐることはさみしくない。

 本来の愚に帰ろう、そしてその愚を守ろうと、遊化三昧の果てに山頭火は、昭和15年(58歳)松山の一草庵にてコロリ往生を遂げました。辞世の句とされるのが・・・

 もりもり盛りあがる雲へあゆむ

うまれた家はあとかたもないほうたる(生家跡の碑に置かれた酒)
うまれた家はあとかたもないほうたる(生家跡の碑に置かれた酒・分け入っても分け入っても青い山)

〝遊歩〟とは〝私自身に向かう旅立ち〟なのだろうと、ぼんやり意識できるようになるまで、私自身、なぜ六甲の山々に魅了されているのか、放浪に近いような歩きを続けているのか、しばらくの間は不明なものでした。そういう時に出会った山頭火の流浪の〝歩き〟は〝独り歩き〟の何たるかを良しにつけ悪しきにつけ教えてくれるものでした。

 分け入っても分け入っても青い山(草木塔より)

 青い山とは自然そのもの本質であり、この世の根源そのものです。そうだと了解したところでも、また次々と青い山は目の前に現れてきます。そんな言い尽くされたような摂理を山頭火は句にしたかった訳ではないでしょう。ただ、その青い山が見えていることの肉感のようなものを句(ことば)に替えてビジュアル化したに過ぎません。青い山が見えている、見ることができることが生きていることの証のようなものだったのではないでしょうか。
 この句は、やはり私の〝遊歩〟においても全てを言い尽くしているような気がします。特別な説明も不要です。文字通りそのまんまです。これを体感として味わえることは素晴らしいことだと思います。幸せなことだとも言えます。六甲山を分け入るようにさ迷う歩く中で〝青い山〟を見ることが出来たことは、終生の喜びで心底感謝するところです。そして、そんな遊歩の明け暮れの中で、うっすらと私は〝青い山〟の頂きから峰々に長く長く伸びた、自らの影を追い掛けていることに気がつきはじめました。「失われた私の影との出会い」これは、もちろん神秘的な現象ではありませんし、ことさら詩的に飾って言っている訳でもありません。六甲山というステージで〝青い山〟を見出したことは、「見失っていた私と再会」に大いに役立ちました。まだまだ、これから旅は続く訳ですが、右往左往はもうありません。〝遊化〟の一歩を一歩を刻んでいくばかりです。



※種田山頭火の略歴・足跡は「山頭火アルバム」(春陽堂:発行、村上護:責任編集)を参照させていただきました。
※写真の長沼隆代氏作の和紙人形は「山頭火ふるさと館」にて展示中のものです。機会がございましたらお立ち寄りの上、ぜひ実物をご覧ください。漂泊の俳人が見事に和紙の中によみがえっておりました。

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長沼隆代作の和紙人形(山頭火ふるさと館)「雨ふるふるさとははだしであるく」
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〝遊歩〟ハイキンググッズ10選・トイレ編

※その2、出したものは全て持ち帰る?