●読本6:ウォーキングは健全なる狂気である?(遊歩大全)

コリン・フレッチャー著 遊歩大全(左:1998年版 右:1978年初版)
コリン・フレッチャー著 遊歩大全(左:1998年版 右:1978年初版)

〝歩く〟ことの素晴らしい快さは、すでに「歩いている」方には、何も説明もなくても、充分に理解されると思いますが、未だ「歩くことを知らない」方には、ピンとこない、実感のつかめないものだと思います。「なぜ、そんなしんどい事を?」と仰る方が大半でしょう。そういう「歩き」を放棄している方に、遊歩の素晴らしさ、愉快さ、爽快さを説明するほど厄介なことはありません。しかし、そういう方にこそ「歩き」の心おどる素晴らしさを一番知って欲しいのです。そんな一心で仲間を募っていきました。

私たちの歩きを どう呼べばよいのだろう?

   しかし、どう言えば、どう説明すれば、最初のとっかかりなるのだろうか?「一緒に、山をあるきませんか?」で、十分良いように思うのだけれど、そんな文言で人の目がこちらへ向いてくれるだろうか? あれこれ思案の末に、やや奇をてらって〝近所登山パフォーマンス〟と銘打つことにしたが、今イチしっくりこなかったのが正直なところでした。
〝登山〟と言い切るとなにか大仰、とは言っても、〝ピクニック〟では軽すぎるし、〝ハイキング〟では何かもの足りていない。もちろん〝散歩〟とか〝そぞろ歩き〟では自然に立ち向かう勢い感が薄い。〝ワンゲル〟〝オリエンテーリング〟それっぽいようで何か違う。妥当なところでは、はやり〝トレッキング〟あたりでしょうか。トレッキングは特にピークだけが目標にするのではなく、高原や山のふもと、川沿いや里山を伝うような歩きを指します。しかしながら、マウンテンバイクや、オフロードバイクを使ったものも○×トレッキングと呼ぶらしいので、もう少し〝歩き〟に特化・純化した言葉が欲しい・・・。いろいろ考えあぐねたけどれも、帯に短しタスキに流しであった。私たちの〝歩き〟をそっくりそのままを包み込んでくれるような呼び名がなかなか見つからなかった。
 そんな時でした。前項のような経緯で出会ったのがコリン・フレッチャーの「遊歩大全」でした。まさに邂逅といえます。恐る恐る開いたページの冒頭に次の一文がありました。

テレビ、ヘロイン、株。ひたすらのめり込み、常習患者になりがちなこれらの楽しみに、ウォーキング、すなわち〝歩く〟という行為にもつながっているような気がする。だが、精神的な偏執に陥りかねないこれらの狂気の中で、〝歩く〟だけは少し異質だなと感じられるのは、その狂気が快いものであり、精神の健全さにつながっているからであろう」(C・フレッチャー著「遊歩大全」より)

ウォーキングは健全なる狂気である?

 闇雲に歩く他に手立てが無い、禁断症状がやってくると不安で拠り所をなくしてしまう。そんな「ウォーキング中毒」の真っ只中でウロウロしていた頃でしたから、これはズドンと胸の奥に突き刺さりました。そうだ!〝これは健全なる狂気〟なんだろう! いままでの人生の中で、様々な言葉に動かされたり、踊らされたりしてきましたが、この言葉が、何か一番に腑に落ちたような気がしました。大げさに言ってこの言葉に出会うために35年を生き延びてきたのかも知れないと思った程で、そして、この言葉で、これからの35年をも生き延びることができるかとも思いました。そして、この衝撃とともに、大きな安堵も連れもってやってきました。出口のない深い谷で一筋の踏み跡を見つけたような、ホッと救われる思いでした。
 この一年近くの突然の中毒症状かと思える〝狂ったような歩き〟が〝遊〟であったこと、そして、それが精神の健全につながっていることを、数行の一文の中にこれぞとばかりに押し込めて、私に知らしめてくれたこと、そして遠く離れた著者の〝狂気〟とも共感できることになったこの一文に、私は心から感謝しました。健全とは自らの内にあるリアルにつながっていくものであり、いわば社会性そのものでもあります。つまり反社でない狂気、皆と共生していける狂気なのです。このことは〝一人で歩く〟ことと〝皆んなで歩く〟という相克をよく言い表しています。そして更に、それをヒョイと乗り越えさせてくれる可能性を含蓄したものでもあります。

アラインゲンガー(単独行者)であることは、みんな歩きの十分条件で、〝みんな歩き〟は、〝ひとり歩き〟であるための必要条件なのです。

 厳しい言いようですが〝ひとり歩き〟が出来ない者は、豊かな〝みんな歩き〟ができない。〝みんな歩き〟が出来ない者は、満たされた〝ひとり歩き〟ができない。ということでしょうか?
このようなことを踏まえた上で、私たちの一歩一歩を〝遊歩〟と名付け活動を開始しました。月二回の近所登山パフォーマンス(イベント名として残った)、うち元日越年キャンプ遊歩、春秋遠足、高山遠征、就学として六甲全山縦走と〝健全たる狂気〟の発露〟をすべく、怒涛の一年を突き進むように歩きました。

コリン・フレッチャーと遊歩大全

(The New Complete Warker 芦沢一洋訳)
コリン・フレッチャー著「遊歩大全」表紙より
コリン・フレッチャー著「遊歩大全」表紙より

 この後も度々「遊歩大全」は登場してくると思いますので、この本と著者であるコリン・フレッチャーに少し触れておきます。
原著の初版は1968年、5年後の改定版が芦沢一洋訳で日本語版として、1978年に出版されてました。〝ハイキング・バックパッキングの歓びとテクニック〟という副題のもと、バックパッカーための道具とその使い方を、ぎっしりと網羅した600頁を大きく超える技術書です。このバックパッカーのためのハウツウ本が、七〇年代の米国、ベトナム戦争で疲れ果てていた青年たちに、強烈に支持され、一つの生き方・スタイルを提示することになりました。広大な自然へ立ち向い、また深奥な自然に寄りそいながら自分を見つめるバックパッカー達にとって、心地良く、快い〝ひとり歩き〟の世界を押し広げることになります。必読のバイブルとも言われた名著です。
 私おいても、強烈な出会いの勢いから〝歩きのバイブル〟というような言い回しをしますが、一気に隅から隅まで丹念に読み込んだ訳ではありませんでした。まあ、ウォーキング技術の百科事典という感じで、歩行ペースは?、水の補給は? 緊急対応は?など気になったところを辞書引きするように読みました。当然ながら、六甲山と北米のウィルダスネスのスケールや環境的な違い、グッズの時代差などがあって、そのまま適応できないところもありますが、自然を前にした個人の心構え、身の処し方の基本はなんら変わることはありません。自分を囲んでいる環境と自分自身をいかに見定められのかということです。体力勝負というより、一種の頭脳ゲームでもあります。小さな工夫やアイディアで自分の〝歩き〟を創っていく楽しみ、快さを120%を教えてくれました。
 特記すべきは、コリン・フレッチャーと私の距離感を大きく縮めてくれた訳者の存在でしょうか。深化したアウトドアスタイルを追求していた芦沢一洋氏の力量が、訳本の壁を感じさせない名訳が裏で支えになっており、日本の裏山であってもウィルダネスウォークを味わえることを違和感なく伝えてくれたように感じます。何をおいても、〝コンプリート・ウォーク〟を〝遊歩〟と訳されたことは、実に素晴らしい英断だったでしょう。東洋的な〝あそび〟の風趣も相まって、フレッチャーの瞑想的ウォークとも響きあう。私たちの一癖二癖ある〝歩き〟も十二分にすっぽりと包んでくれ、そして更なる可能性とポテンシャルを十二分に感じさせてくれるものでした。

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