昭和60年、ひょんなキッカケから六甲山に取り憑かれて(憑いて)おぼつかない足取りで、慣れない私の山歩きが始まりました。それは35歳の時でした。最初の一年足らずは、それに関する経験なり知識、装備グッズも乏しいままの、今思えば、場違いで、滑稽な〝歩き〟だったと自分でも失笑しながら思い出しています。いきなり高級レストランに作業着で入ってしまったような気不味さとでもいうのでしょうか。そう自分でも感じながらも、本人はセオリーや見栄えは二の次で、とにかく勇む足に引きずられながら、私は山へ山へと向かっていたようです。
まずは有り合わせのモノ、手元にあるモノからはじめようと、リュックも小学校か中学校で使っていたモノを引っ張り出してみた。旧陸軍の兵隊さんが担いでいたようなラクダ色のキャンバス生地のリュックサックでした。靴も帽子もとりあえず今あるモノを使った。雨の日は、ゴムガッパと長靴という出で立ちでハイキングに出かけた。さすがに半時間も歩けば、外から濡れるよりも、内側からの蒸れの方が大変だと気づく有様だった。まあ、それなりの道具から趣味に入っていく人は、ビシッと揃えてから満を期して行動するのでしょうが、私の場合は、とにかく〝歩け〟と追い立てられるようなスタートでしたから、グッズの方はあとでボチボチと必要に応じて取り揃えていくことになりました。しかしながら、やはり靴だけは無頓着ではおれないと、山歩き用のシューズを探して、キャラバンシューズを買うことになりました。
登山靴ならキャラバン!
「山へ行くならキャラバンでしょう」という時代がありました。日本山岳会のマナスル登頂(S.31年)の成功から、大衆登山ブームに火がついて、植村直己らのエベレスト初登頂(S.45年)の頃には、私ら団塊の世代をはじめとする多くのアウトドア派が、野山に足を踏み入れるようになっていました。この山派の多くが、キャラバンシューズを履いていました。私の長兄や姉もこの靴を履いて、夏山登山やハイキングをしていた記憶があって、「山=キャラバン」のイメージがしっかりと焼き付いていました。マナスル登頂のベースキャンプまでのアプローチ用シューズ(軽登山靴)として、キャラバン社の創設者(佐藤久一朗)によって開発されたこのシューズですが、戦後、まだまだ娯楽の少なかった時代のレジャーシーンを華々しく彩った象徴的なアイテムといえます。
それまでには登山靴って無かった? 日本人は一体何をはいて山登りをしていたのか?と、ふと考えさせるほどの一択品だったように記憶しています。「地下足袋の加藤」で知られる伝説的な登山家・加藤文太郎は言わずもがな、無積雪では地下足袋を使っていました。幕末の英人外交官アーネスト・サトーも登山好きで、革製釘靴で六甲山を登ったといういう記録があります。明治〜大正期では、外国人が使った鋲打ちの革靴は、重いとかオーダーメイドで高価なこともあり、日本人の多くは慣れ親しんだ草履を登山でも使っていたようですが、すぐに履き潰れることもあって、長い縦走などでは何十足もの草鞋(わらじ)が必要だったようです。俳人の河東碧梧桐ら文人たちによる日本アルプス縦走(針ノ木峠〜槍が岳)では150足もの草鞋を人夫に担がせたという紀行文も残っています。やはり、キャラバンの登場まで、専門登山家以外の一般ハイカーなどにとっては、山専用の靴はやや縁遠いものだったかもしれません。
私がキャラバンを初めて手に入れたのが、キャラバン誕生から、時代が30年ほど下った頃で、すでにこの辺りなると、国内外のいくつかのブランド品が、目的や多様なニーズに合わせたシューズが出始めていました。現在に至っては、アルパイン、マウンテニアリング、バックパッキング、トレッキング、ライトトレッキング、ハイキング用と百花繚乱、さらには通勤用トレッキングシューズなるものも平然と並んでいる。モノへのこだわりの薄い私は、通勤用であろうと、散歩用であろうと試履でピッタリくればそれでOK。おかげで靴箱は山用シューズで溢れてれていましたが思い入れの深いシューズは、はやりキャラバンスタンダードでしょうか。
●六甲全山縦走(レジェンドの足跡)
話を元に戻して、キャラバンは履いたものの、麦わら帽やゴムガッパで、六甲山を歩いていた私の最大の目標は、この山系の西の端から東端までの尾根を歩き続ける〝全山縦走〟でした。ここに気が向いたのは、この年の初めに何気なく読んだ新田次郎作の「孤高の人」がキッカケとなりました。この小説の主人公が先にふれた地下足袋の青年・文太郎です。兵庫県北部・浜坂町から技術者になるべく神戸にやってきた彼が、地図遊びをはじめ、山歩きというものに目覚めて、一人で歩き出しのが、まず、裏山であった高取山(長田区)でした。そして、その足先が六甲の峰々へと広がって、とり憑かれたように山々や道々をかけ歩くようになりました。
この山系の縦走路(50数km)、西の塩谷から東の宝塚までは、一日で歩き通すことも大変な距離ですが、それをさりげなく完走したのち、そのまま市街地を徒歩で自宅まで(計100km超)帰っていったという伝説を残しています。その歩きの速さの凄さもそうですが、私が惹かれたところはその〝歩き〟の独自性です。普及品の少ない大正時代にウエアや靴、装備品、携行食などを様々な工夫で機能性を追求していったその手作り感にあふれる歩く様が何とも心地よく私に共振しました。初めての北アルプスで、作業着、地下足袋、古ズボンにゲートルの文太郎は、洋風アルピニスト風の関東学生登山者に笑われるシーンがあります。アルピニズムの萌芽期の大正時代、日本にも勢いよく西洋の技術や装備を導入されていましたが、そういった流行や風潮にも振り回されることなく、自分の体感と経験を土台にして、山に立ち向かっていきました。その自己流を貫いた独創的な〝一人歩き〟に私はたまらなく惹かれました。文太郎は、山という自然に立ち向かうと同時に、彼の深く裡に向かって〝歩き〟を生み出そうとしているように思われました。私も当初は、訳も何も分からない状態で歩きだしましたが、この〝歩き〟が自分への内に向かっていくものだろうという予感がありました。そういう意味でも、自分の足で文太郎の足跡を〝トレースしたい〟と無性に希求するようになりました。
●なぜ山へ登るのか?
当時の学生登山会や社会人登山会でも、天狗と称された彼の〝速さ〟には付いていける者はいなかっただろうと言い伝えられています。ましてや、中年にさしかかった俄かハイカーの私の脚力では、到底のところ届くはずもなかったし、冬山への扉を叩くまでも至りませんでした。しかし、六甲山における彼の足跡とその気配を追っかけることで、一から自分の歩きを作り出していくという単独行者(アラインゲンガー) の気概は、十分に学ぶことはできました。
小さな沢筋を辿って、そこそこの滝に出くわす、「さて、岩に取り付いてそのまま登るか」または「サイドを巻いて滝上にでるか」いっそ「尾根に逃げるか」文太郎だったらどうしたのだろう。ここでどんな行動食を取ったのだろうか。冬のノーテントキャンプでも、雪洞で眠る文太郎をイメージしたりした。全山縦走にも文太郎のような周到な計算を立てた。まずは、下見を兼ねて全縦走路を三つに分けて歩いてみた。その都度に、レモンや蜂蜜を入れた水の工夫や炊き込みの握り飯、野菜サンドなどの行動食も工夫したり、雨具や装備、ウェアなども選分していきました。
30数年もこの六甲の山麓で暮らしておきながら、子供の頃から見上げていたほとんどのピーク名を言えなかったことが情け無かった。小説に登場してきた須磨アルプス? 鍋蓋山? 石の宝殿? 水無山? 塩尾寺? 六甲の山々は、母のような慈愛の眼差しを、麓の住人たちにそそいできたはずだろうに・・・。私は申し訳ない、気恥ずかしい思いをいっぱい抱えながら、その峰々をつたない歩きで探し求め、ひとつひとつのピークに後追いの足跡を重ねていきました。
そして、半年後に何とか六甲全山縦走に挑戦、なんとか完走する(所用時間16時間40分)こととなり、文太郎の足跡トレースは一段落することになりました。しかしながら、一人悶々と「なぜこんな風に〝歩き〟に魅入られているのだろうか?」という自らの内に向かう思いだけは、ますます膨らんでいくばかりでした。小説の文太郎においても、いく度も「なぜ、山へ登るのか?」と自問は繰り返されます。
なんのために山に登るのかという疑問のために、山に登り、その疑問のほんの一部が分かりかけたような気がして山をおりて来ては、そこには空虚以外のなにものもないのに気がついて、また、山に行く・・・この深いかなしみが、お前には分からないだろう〈新田二郎・孤高の人より引用〉
私においての〝歩き〟も全く同様でした。「なぜ歩くのか? その答えを求めるためには、ただ歩く他に術はなかった」〈遊歩人日誌より〉
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