厳冬の日本アルプスで打ち立てた数々の実績から、暗い時代に踏み込みつつあった昭和初期、〝不死身の加藤〟〝単独行の加藤〟と称されヒーローのように登場して、あっという間に槍ヶ岳・北鎌尾根に散った文太郎の足跡を後追いした人たちは数え切れない。その足跡の延長線上からは、植村直己をはじめ、多くの登山家・冒険家が輩出されたといってよいでしょう。その線上のさらに端の端、枝葉の枝葉に私の〝歩き〟もあったのでしょうか? 残念ながら歩き出し時はもう30代も半ば、口惜しさも少しはありましたが、私における文太郎の後追いは六甲全山縦走後、彼の人のようにアルプスや冬山には向かわず、この狭い六甲山域から出ることはありませんでした。
たゆまない努力・工夫・研鑽を黙々とつみ重ねて、単独できびしい自然に果敢に挑んでいった文太郎のもつ、その天性の逞しい生命力、冒険心、気概にはとうてい及ばないことは初めから承知のことでしたが、しかし、一個の青年として、山へ登ることの意味を真摯に自分の中で突き詰めようとした在り方は、大きく共感するところがありました。そして、その在り方は、高山や冬山でもなく、この平易な六甲山系にあっても、追求していくことは可能だろうと強く思い込むようになっていました。
パフォーマンスアート としての〝歩き〟
私における六甲山での歩き出しのひょんなキッカケとは、ちょっとした体力テストでした。学生時代から手を染めていた演劇活動、その練習のプロセスで出会ったダンス(少し前衛的な)が高じて、二十歳代は踊りの舞台に熱を上げていました。三十路に入ってリタイア後、35歳の時に突然、舞台に誘われたところで、そんな体力が残っているのかな?」と思い、本当に何気なく六甲山を登ってみようと思い立ったのです。登山の経験が無かった私には、それはちょっとした挑戦でした。そして、アゴを出し、喘ぎつつも六甲最高峰の初登頂を成し得たのが、一つの契機になりました。(その頃に文太郎とも出会った)
自然を追っかけて、またそれが阻まれたとしても、その都度に何かが体の内に響き渡って、その体感を自分の足に伝えながら山地を踏みしめていく。そして、さらなる刺激を求めるように、また足を踏み出していく。これはこれで十分自己表現になっていないだろうか。表現とまで言えなくても、何かを〝表出〟していることは間違いないないだろう。自然をたどる〝歩き〟の中にそういう己を乗せていくというようなパフォーマンス性を強く感じました。そういう〝表現としての歩き〟というようなことをぼんやりイメージしていた頃に、文太郎の〝ひとり歩き〟も被ってきたのです。
舞台公演において、〝この下は奈落〟その板を踏みしめながら、我れを表出するという得もいえない心緒がありましたが、この舞台の上でのバーチャルな〝歩き〟ではなく、六甲山というステージでのリアリティに満ちた〝歩き〟にも、大いに心が躍りました。観客はいなくても、こんな形で自分を表していくことができるではないか。そう思ってはみたものの、だから、どういう風に歩いて、どう自分の歩きを見定め、自分で納得すれば良いのか、しばらくはさまようような歩きに明け暮れていました。これで良いのだろうかと混乱して、戸惑うこともありましたが、〝表現としての歩き〟に少しづつ手応えをおぼえきたことによって、文太郎への深追いにブレーキがかかったのは確かでした。冬山やアルプスに向うことなく、裏山である六甲山にとどまり、そこをステージにしようと思った大きな要因になったのです。
〝自己の表出〟とは〝自己の探求〟と表裏一体です。いわば、この頃から第二の自分探しが始まったのだと思います。「なぜ、歩くのか?」は「私とは何者なのだ?」とイコールになっていきます。ちょっと抽象的になってきました。実情はもっとシンプルな話です。その頃の実際の〝歩き〟に戻ってみましょう。
共に歩く、群れて歩く
「なぜ、歩くのか? その答えを求めて歩く」とは言ってみても、山行の前日までは、地図を前にここをこのルートで歩いて、ここで食事して、何時頃には下山路にとりつこう等と、計画の確認やシミュレーションで頭はいっぱいです。当日も、不安な思いと、それに倍する未知との出会いの期待感の高まりの中で〝歩き〟は始まります。〝歩くことの意味は?〟なんてことは寸分にも考えてはいません。自然を前にしたときの身を引き締める緊張感、なんとも言えない高揚感を、初めてみる風景に塗りこめるように一歩一歩を踏み出していきます。私にとってのささやかな冒険への挑戦が始まっていくのです。
名のない小さな枝尾根や支谷に一人立ち入って、行き先も退路も見失うという憂き目にも合います。藪漕ぎの果てにイノシシの寝ぐらに突入してしまったり、ホタルを追っかけて沢に落ち足を痛めて帰れなくなり、その場で夜を明かしたり、岩の氷に滑って滝壺に落ちあわてて、有馬温泉へ逃げ帰ったり、この少年のいたずら遊びのような探検ごっこは、目の前の状況をどう判断するのか、エマージェンシーにどう対応するか、このまま目標をクリアしていけるのか、というようなことで頭の中は、常に一杯なのです。しかし、その緊張感の合間、手のひらで掬い上げる渓流の水の美味さ、フト樹林の間から垣間見る風景の美しさ、頂から見渡す果てしない山並みの幽玄さ、幾重にも盛り上がってくる青緑の深さ、沢から吹き上げてくる風の清清しさ、それら都会の日常ではとうてい得られることのない、正にリアルな体感が、自分の身体の奥底へ向かって、涙がでるような喜びをつれて染み込んでくるのです。
〝私は、この為に歩いているのだろう〟〝それ以外に、どんな答えがあるものか〟心地よい疲労感、充足感に酔いながら帰り道をくだり、バスや電車に乗りつつ、今日の〝歩き〟をリプレイしながら胸の奥で歩き直すのです。ほてった高ぶりが少しずつクールダウンされてくると、少しづつ心持ちが変わってきます。自宅で風呂に入って布団に潜り込む頃には、快く満ち足りた達成感の裏から、はやり〝なぜ、私は歩くのか?〟という思いがまたまた顔を出してくるのでした。この相克するような思いの行き来は、いく度も繰り返されます。それは、前に引用した新田次郎の〝深いかなしみ〟という情感よりは、もっと未分化なもので、要は訳が分からないという〝戸惑い〟に近いものだったのでしょう。
ともかく私は、内から押し上げてくる〝歩き〟の渇求に戸惑いながらウロウロしていたのでしょう。その〝歩き〟の中で私は表出されたり、自分を再発見したり、それに嫌悪もしたりしながらさ迷っていたに違いありません。
これを文太郎のように、一人きりで突き詰めるように進んでいたら、おそらく私は、出口を見つけ出すまで、相当な時間がかかったかもしれません。でも、従来の寂しがり屋という私の性分が、一人で歩くところに、みんなで歩くことを無理やり引き入れようとしました。実はこのことで、あっさりとこの〝戸惑いの歩き〟を出口へと導かせることになりました。「そうだ、誰かと一緒に歩けばいいんだろう。仲間と共に〝歩き〟を探せばいいのだ」と、アラインゲンガーから舵を切ることができたのが、大きな分岐点となりました。
小説(新田次郎)の単独行者・文太郎においては、この〝皆と共に歩く〟パーティーを組むことで、悲劇的な結末(遭難)を招いたように描いています。しかし、残念ながら結果はそうであれ、実像の文太郎においては、決してそうではなかっただろうと推測します。(別の要因があったのだろう)彼もまた、みんなと歩くことへの切望もあっただろうし、長命でありえたら、そういう歩きをおそらく実践していただろうと想像します。私を始めごく普通のどこにでもいる〝歩き〟を愛する遊歩人と何らかわらない存在です。ただ、彼の人の疾走するような脚力が、ある方向の〝歩きの世界〟に押し上げていったことが、私たち凡人と違って伝説の存在へと導びかれてしまった所以でしょうか。
ズバ抜けた脚力も体力もなかった私は、群れの世界の方へ歩みを進めました。元々が芝居やダンスでサークル活動してことも相まって、群れ集うのは得意です。早速のこと「曙塾(しょじく)」なるサークルを結成、芝居や踊りの活動と別に登山部として、多くの仲間とこの〝六甲山遊び〟へ踏み出すこととなりました。
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