周南デザイン その1〝プライドとブランド〟

周南デザイン01
プライドとブランド

 YDC山口県デザインセンターの「地域ブランド研究会」に初めて顔を出しました。前期から引き続きで今期の研究会は、明年まで5回が予定されており、足掛け2年越しの取組みとなっています。前期で開催されました他地域モデルケースの勉強・研修を踏まえて、いよいよ「周南とは?」という核心の課題に突入するようです。
 この研究会での具体的なやりとりは、継続中のスキームでもあり、詳細な内容には言及できませんのであしからず。(※気になる方はご参加を、以下は、当ブログ上での”個人的な意見”です)
 まずもって、どういう地域のブランドなのか?単純に地理的な定義づけが必要です。私が8年前にこの地へ移り住んだ時は、まだ周南市は誕生しておらず、その年に徳山市・新南陽市・熊毛町・鹿野町などが合併して現在の「周南市」と呼ばれるようになった訳ですが、それぞれの地域の特色・個性・風土は様々、もちろん産物も多様にわたっており、この10年も満たない行政市域を共通のキーワードで括って、地域ブランドを煮詰めることは、いささか難題のように思われます。
 しかし、このブランドを考えていく上でも〝連携〟というワードが強力な鍵(キー)となります。地域の結びつき・関係のありかたをよくよく突き止めれば、その「繋がり方に周南らしさを見出す」ことは、それ程難しいことではないでしょう。それぞれの地域の様々な(文化・歴史・産業)資源の見極めと、地域同士の連携の姿を整理して、まずはその辺りの掘り起こし作業を始めればよいと思います。「共生」や「交流」そのものの在り方そのものを名付け、ブランド化すればよいのです。
 但し、「海と山のあるまち」「都市と田舎の‥‥」という日本の沿岸部のどこでも通用するこの手の凡庸なフレーズに寄っかかれるほど、たやすいものでもありません。一掘りも二掘りも掘り下げた〝連携〟のあり方、〝共生〟の姿、これからの将来を托すことのできる〝持続可能〟なイメージを彷彿させるようなものでないとブランドとして結実できません。

 まずは、地域間の関係を見る前に核になる旧徳山市の地域性、地域資源を見てみましょう。
 本来、時系列的に見て、そもそも「お国自慢」=「地域ブランド」というのがごく自然な発想と思われます。ここから浮き上がってくるブランドイメージを膨らませていけばよいのですが。これが陳腐きわまりないものであろうが、なかろうが、掘り下げておくことはとても大切な手順だと思います。イノベーションは後の問題です。
 そう考えて、周南の核ともいえる徳山という町の「お国自慢」なるものをピックアップしていけば良いのですが、よそ者である私にはそのところがよく見えません。徳山には一体どんなお国自慢があるのか、あったのか? こればっかしは「プライド」とも言えるものですから、地元の人間の口からはっきり語られなければ意味がないように思います。個人的な印象では「周南市のここが良い・好き」というような話しぶりよりは「周南市にはとりたてて何もない」というようなことを聞くことの方がなぜか圧倒的に多く、ふるさとへの恋慕の声があまり聞かれない。おそらく昔にはあったのでしょうが。

 農山村における「3つの空洞化」の連鎖の根底にある「誇りの空洞化」がとり沙汰されていますが、中山間地に限らず産業の低成長期に入って、市街地・都市部にも「誇りの空洞化」を抱え始めている地域が増えています。徳山市域でもこのような現象が見てとれるかも知れません。
 神戸から初めて「徳山」を訪れたときの印象は、新幹線の窓から眺めた周南コンビナート夜景の圧倒的な存在感に尽きます。それから15年ほど経ちましたが「周南らしさ」という点で、それを超えるモノにはこの街では、まだ出会えてはいません。産業ツーリズムの見地からは、あのプラントの夜景は価値ある資源であることに間違いありません。最近ようやくこの夜景のハンティング・クルーズ等が開催されるようになりました。(夜景評論家・丸々もとお氏のお世話になっているようです)

 国道2号線という流通幹線をもち、港湾を構え、一大コンビナートを土台にした徳山は、工業都市として高度成長期の波風に乗って華を咲かせ、県内屈指ともいえる近代都市が形成されてきました。この発展の道を辿ったのも、旧日本海軍の第三燃料廠の開設が契機なのでしょう。海軍がこの港湾に目をつけていなければ、山と海に囲まれた静かな「徳山藩」の城下町としての趣をもっと色濃く残した街になっていたと思われます。
 地方都市としての「徳山」は、モノや情報があふれ、利便で住みやすい町として、住民等には支持され(誇りを持たれ)、周辺の農山村地域の雇用も支え、街としても「徳山には何でもある」と羨望され、キラキラ輝く都市であった筈です。それがいつの時代からか色褪せて、この「まち」へ寄せていた想いや自負を見失っている。(行政や大企業にもその責任があるが)
 さあ、動物園だ! まどさんだ! エバンゲリオンだ! ホタルだ! 映画だ! と周南ブランド・イノベーションは大歓迎ですが、市民たちの根底にある(あった)街への誇り(プライド)をやっぱり大切にすることから、切り込んでいかないと「ブランド」(誇れる将来)が立ち行かないと痛感します。このプライドとブランドがどう繋がっていくのかは、次回に提案したい方法がありますのでその時に。

  エネルギッシュな親父は、朝から晩まで必死に働いて、家を支え守ってきた。
  よくある話しだが、そういう親父は家族達と ちゃんとコミュニケーションが
  とれていない。
  この親父も今では往年のワパーも失せて、家族の顔色を伺うようになった。
  妻や子供たちは、てんで違う方を向いている。
  「今更と」思うのだが、通じ合う言葉が中々見当たらない。 でも・・・、
  
  そうなんだけれど、上手く言葉にできないのだけれど、
  親父へのリスペクトは心底に漲っている。
  親父のことは誇りに思っている。


【関連ログ】
 周南デザイン最終稿「新たなる道標
 周南デザイン4〝周南アイデンティティを生み出す「道の駅」を創ろう!
 周南デザイン3〝シビック プライド in 周南?
 周南デザイン2〝イメージとスペース
 周南デザイン1〝プライドとブランド

周南デザイン その1.プライドとブランド

周南デザイン・その1

 YDC山口県デザインセンターの「地域ブランド研究会」に初めて顔を出しました。前期から引き続きで今期の研究会は、明年まで5回が予定されており、足掛け2年越しの取組みとなっています。前期で開催されました他地域モデルケースの勉強・研修を踏まえて、いよいよ「周南とは?」という核心の課題に突入するようです。
 この研究会での具体的なやりとりは、継続中のスキームでもあり、内容には言及できませんのであしからず。(※気になる方はご参加を、以下は、当ブログ上での”個人的な意見”です)

 どの地域のブランドなのか?まずもって、単純に地理的な定義づけが必要です。私が8年前にこの地へ移り住んだ時は、まだ周南市は誕生しておらず、その年に徳山市・新南陽市・熊毛町・鹿野町などが合併して現在の「周南市」と呼ばれるようになった訳ですが、それぞれの地域の特色・個性・風土は様々、もちろん産物も多様にわたっており、この10年も満たない行政市域を共通のキーワードで括って、地域ブランドを煮詰めることは、難問・難題のように思われます。
 しかし、この点においても〝連携〟というワードが強力な鍵(キー)となります。地域の結びつき・関係のありかたをよくよく突き止めれば、その「繋がり方に周南らしさを見出す」ことは、それ程難しいことではないでしょう。それぞれの地域の様々な(文化・歴史・産業)資源の見極めと、地域同士の連携の姿を整理して、まずはその辺りの掘り起こし作業を始めればよいと思います。「共生」や「交流」そのものの在り方そのものを名付け、ブランド化すればよいのです。
 但し、「海と山のあるまち」「都市と田舎の‥‥」という日本の沿岸部のどこでも通用するこの手の凡庸なフレーズに寄っかかれるほど、たやすいものでもありません。一掘りも二掘りも掘り下げた〝連携〟のあり方、〝共生〟の姿、これからの将来を托すことのできる〝持続可能〟なイメージを彷彿させるようなものでないとブランドとして結実できません。

 まずは、地域間の関係を見る前に核になる旧徳山市の地域性、地域資源を見てみましょう。
 本来、時系列的に見て、そもそも「お国自慢」=「地域ブランド」というのがごく自然な発想と思われます。ここから浮き上がってくるブランドイメージを膨らませていけばよいのですが。これが陳腐きわまりないものであろうが、なかろうが、掘り下げておくことはとても大切な手順だと思います。イノベーションは後の問題です。
 そう考えて、周南の核でもある徳山の「お国自慢」なるものをピックアップしていけば良いのですが、よそ者である私にはそのところがよく見えません。徳山には一体どんなお国自慢があるのか、あったのか? こればっかしは「プライド」とも言えるものですから、地元の人間の口からはっきり語られなければ意味がないように思います。個人的な印象では「周南市のここが良い・好き」というような話しぶりよりは「周南市にはとりたてて何もない」というようなことを聞くことの方がなぜか圧倒的に多く、ふるさとへの恋慕の声があまり聞かれない。おそらく昔にはあったのでしょうが。

 農山村における「3つの空洞化」の連鎖の根底にある「誇りの空洞化」がとり沙汰されていますが、中山間地に限らず産業の低成長期に入って、市街地・都市部にも「誇りの空洞化」を抱え始めている地域が増えています。徳山市域でもこのような現象が見てとれるかも知れません。
 神戸から初めて「徳山」を訪れたときの印象は、新幹線の窓から眺めた周南コンビナート夜景の圧倒的な存在感に尽きます。それから15年ほど経ちましたが「周南らしさ」という点で、それを超えるモノにはこの街では、まだ出会えてはいません。
産業ツーリズムの見地からは、あのプラントの夜景は凄い資源であることに間違いありません。最近ようやくこの夜景のハンティング・クルーズ等が開催されています。(夜景評論家・丸々もとお氏のお世話になっているようです)

 国道2号線という流通幹線をもち、港湾と構え、一大コンビナートを土台にした徳山は、工業都市として高度成長期の波風に乗って華を咲かせ、県内屈指の都市が形成されてきました。この発展の道を辿ったのも、旧日本海軍の第三燃料廠の開設が契機なのでしょう。海軍がこの港湾に目をつけていなければ、山と海に囲まれた静かな「徳山藩」の城下町としての趣をもっと色濃く残した街になっていたと思われます。

 プチ都会としての「徳山」は、モノや情報があふれ、利便で住みやすい町として、住民等には支持され(誇りを持たれ)、周辺の農山地域の雇用も支え、街としても「徳山には何でもある」と羨望され、キラキラ輝く都市であった筈です。それがいつの時代からか色褪せて、この「まち」へ寄せていた想いや自負を見失っている。(行政や大企業にもその責任があるが)
さあ、動物園だ! まどさんだ! エバンゲリオンだ! ホタルだ! 映画だ! と周南ブランド・イノベーションは大歓迎ですが、根底にある、あった街への誇り(プライド)をやっぱり大切にすることから、切り込んでいかないと「ブランド」(誇れる将来)が立ち行かないと痛感します。このプライドとブランドがどう繋がっていくのかは、次回に提案したい方法がありますのでその時に。

 エネルギッシュな親父は、朝から晩まで必死に働いて、家を支え守ってきた。
 よくある話しだが、そういう親父は家族達と ちゃんとコミュニケーションがとれていない。
 この親父も今では往年のワーも失せて、家族の顔色を伺うようになった。
 妻や子供たちは、てんで違う方を向いている。
 「今更と」思うのだが、通じ合う言葉が中々見当たらない。 でも・・・、
  
 そうなんだけれど、上手く言葉にできないのだけれど、
 親父へのリスペクトは心底に漲っているのは確かだ。
 親父のことは誇りに思っている。

「吾輩は猫である」山芋(自然薯)の値打ち

 自然生山芋(自然薯)畑では、野性的な山芋の面構えからは想像もできない可憐でかわいい自然薯の花が一斉に咲き乱れ、いよいよ零余子(むかご)が結実するシーズンを迎えようとしています。

 ほろほろと むかごこぼるる 垣根かな

 この正岡子規の句は、人物歳時記(2)の高浜虚子の項でご紹介しましたが、この子規に、文学的にも人間的にも多大な影響を受けた学友に夏目漱石がいます。後に子規の後継者となる高浜虚子に小説への道を誘われます。そして、雑誌「ホトトスギ」に「吾輩は猫である」を発表し文壇へデビュー。これが好評を得て、翌年には、漱石も教師として在籍した松山中学を舞台にした「坊っちゃん」などを執筆、文人への道を歩みます。
この小説「坊っちゃん」のモデルと言われる弘中又一は、自然薯の特産事業がすすむ湯野温泉の出身で、漱石との交友をはじめ、教育家としての業績・足跡が注目されており、地元史家によって掘り起こしの研究が現在盛んです。

 今回は、漱石と自然薯(山の芋)との絡みはないものかと調べてみました。すると早速処女作で、ある軽妙・爽快な語り口が愉快な「吾輩は猫である」の中に自然薯にまつわるのエピソードが描かれています。当時の「自然薯」への庶民感覚が伺えますので紹介したいと思います。

 「吾輩」の主人(飼い主)である苦沙彌先生宅に泥棒がしのび込んできます。
奥さんの枕元には四寸角の一尺五六寸ばかりの釘付けにした箱が大事そうに置いてあります。書生である住人多々良三平君が先日九州・唐津へ帰省したときに御土産に持って来た山の芋です。
 何も御存知ない泥棒は、この山芋の入っている箱をさぞ大事なものと思い込み博多帯でくくって盗んでいきます。翌日、盗難に気づき警察に届をだすと、巡査さんがやってきて調べが始まります。苦沙彌先生と奥さんとの盗難届けを書くやりとりが軽妙に続きます。

 「黒繻子と縮緬の腹合せの帯一筋・・・価はいくらくらいだ」
 「六円くらいでせう」
 「それから?」
 「山の芋が一箱・・・ねだん迄は知りません」
 「そんなら十二円五十銭位にしておこう」
 「・・・いくら唐津から掘って来たって十二円五十銭は堪るもんですか」


 枕元に自然薯を置いて寝ているいるのも可笑しなものですが、山芋をあれこれ値踏みしているところも可笑しい。
 釘付けのみやげ箱の大きさが、だいたい12cm×50cm位のサイズすから、よく入って500g程の山芋が2本位入っていたのでしょうか? 当時は、自然薯の栽培技術などありませんですから山掘り職人が山から掘ってきた土産ものでしょう。
 この「山の芋」を帯の値の倍ほど、12円50銭にしておこう!と苦沙彌先生はフカス(水増しする)のですが、一体この金額は現代でどれほででしょう?
小説の明治時代(1905年頃)では、1円の価値はいくらか、物価指数などでも想定はできますが、分かりやすい公務員の給与で換算してみましょう。学校教師の初任給が8~9円の時代ですから、おおよそ1円が2万円位と目安してよいでしょうか。これで換算して見ると、主人の言う12円50銭なら、なんと25万円程ということになります。
 奥さんが「それは余りにも法外な・・・」と言っていますが、このエピソードから、自然薯は当時も希少な珍品で高価なものだったというイメージがよく伝わってきます。

 ちなみにこの日本のソウルフード現代では、市場にはなかなか出回りませんが、初冬の頃にネットでの販売を見かけることがあります。栽培物は廉価(3〜4千円╱kg)ですが、天然の山彫り物は1〜2万円╱kgとやはりお値打ち品となっています。


■人物歳時記 関連ログ(2021年追記)
小説「坊ちゃん」の正体・・・(弘中又一)
零余子蔓 滝のごとくにかかりけり(高浜虚子)
貴族・宮廷食「芋粥」って?(芥川龍之介)

■読本・文人たちに見る〝遊歩〟(2021年追記)
解くすべもない戸惑いを背負う行乞流転の歩き(種田山頭火)
何時までも歩いていたいよう!(中原中也)
世界と通じ合うための一歩一歩(アルチュール・ランボオ
バックパッカー芭蕉・おくのほそ道にみる〝遊歩〟(松尾芭蕉)

私のMac そしてジョブスとの足跡

▲ビートルズファンでもあったジョブス、 右上が20年前のMacクラシック
 下の写真はiPad、iPod発表での基調講演風景(各サイトより拝借)

 別件の仕事上で、「理念の投影」を例としてスティーブ・ジョブズの事をまとめていた矢先、「アップルCEOを辞任!」というニュースが飛び込んできた。本人はもちろん健在なのですが、失礼にも何やら逝去してしまったような衝撃をこのニュースに感じてしまった。
(日頃はあまりITやPCについて触れませんが、この機会に少しこの業界の話しを・・・)
このジョブスという人間が、いかなる人物なのか。直接にはもちろん、基調講演などにも立ち会ったこともなく、彼の書籍を読んだ訳でもないのですが、彼が生み出したMac(マッキントッシュ)というコンピューターを通して、彼の羽ばたくような理念、夢、苦悩、喜びというようなものをずっと感じ続けてきました。つまり、私にとってのMacとは彼ジョブスそのものだったといっても過言ではありません。

夢とプライドの共有

 Macを使い続けて20年程になります。その当時は、デザイン・印刷とか設計業界が、Mac(マッキントッシュ)というコンピューター導入の先導役になっていたこともあって、私も、烏口(製図用のペン)や彩色筆を捨てて、このじゃじゃ馬のように扱いにくいマシンと日々向き合っておりました。繰り返されるフリーズ、意味不明のバグ、遅々たる計算能力・・・悪戦苦闘の連続でした。16Mほどのメモリで(今では安いパソコンでも2000Mはあるでしょうか)全面イメージのA1ポスターを制作するという神業的な仕事もありました。ワンセーブ・ワンスモーク(保存に数十分もかかり、一度の保存ごとにタバコを一服していた)という今にして見ればのんきな時代なのですが、デザイナーが彩色して、線を引き、撮影し、マスクをつけ、網をつけ、刷版に焼付ける・・・何人かの人たちが、複雑な工程をへて、何日もかかる作業が、たった一台のマイコンの中、机の上(DTP)で完結する!というような夢が実現し始めていた時代です。

 「ここでこう出来ればうれしい」「ここでダメになるのは辛い」「なぜ?これが出来ないのか!」机の前でのつぶやきは、ジョブスの夢と苦悩のメッセージとして、常にMacや新しいOSを通して返ってきました。アップルの開発ニュース、新製品のスペックリリース、そして実際の最新鋭マシーンを目の前にして、「おっ!やってくましたね」「こう、こなくっちゃね」とまるで自分が創り上げたような気分でセットアップしていきます。彼と一緒に進化し、進歩しているという共有感があり、お互いのプライドを確認し合うというえも言えぬよろこびを感じていました。
 そんな私の机の上で実現しつつあった夢のような出来事が、情報の世界で、音楽の世界で、映像の世界でも実現すれば、どんなに楽しい事だろうと近未来的な夢想をついつい抱いてしまいました。そして、それらの全てをインターネット、音楽配信、映像配信と、馬車が突き進むように次々に実現させてしまったのが、天才ジョブスです。

世界を変えた〝ものづくり〟

 1995年頃、マイクロソフトのウィンドウズ95のリリースで世間は大騒ぎ、日本中のほどんどのPCメーカーがウィンドウズを搭載となり、Macもやや異端視されるようになり、アップル内部でも社内闘争があったりして、創設者の一人であるジョブスは一時会社を追い出され、業績も落ち込むことになります。辛うじてマニアックなファンが支えているような影の薄いそんな時代もありました。
 満を期して復帰したジョブスは、パソコンの革命児となる「iMac」を電撃的に世に送り出し、iPod、iPhone、iPadと怒濤の進撃を続けました。そして何と!この2011年6月には、あのお巨大なマイクロソフトやグーグルを遂に押しのけて、時価総額ランキングで世界二位に躍りでる(一位は石油のエクソンモービル)巨大企業の雄となりました。(追記:それも追い抜く)
 「ソーシャルネットワーク」という映画で紹介されたようにあの業界のドタバタには凄まじいものがあります。しかしそんなドタバタなど足下に及ばない程の修羅場を、そのカリスマ的な行動力と発想とで幾度もくぐり抜け、這い上がってきたのが奇人・鉄人ともいわれるジョブスであり、その足跡はすでに伝説と言ってよい存在でした。今回の辞任ではっきりと歴史に刻まれました。(さすがに再復帰はないと思います)

 iPhone、iPadを愛用していますが、この端末を手にして、いつも「こんなものは本当は、日本の製造業で作らなあかんやろ」と思うことがあります。ウォークマンの盛田さん(ソニー)をはじめ、本田さん(ホンダ)や松下さん(パナソニック)が産み出したジャパンブランドも、一時代を創ったとは言え、今ではもう時代を揺すぶるような創造力が枯れているのでしょうか。モノづくり「にっぽん」が、残念ながら情報産業においては後塵を拝し続けました。
 日本からは、もう世界を席巻するようなワクワクする魅惑的な商品が生まれないのでしょうか? IT技術が遅れていたという事情より、やはりジョブスのようなそのブランドイメージを一身に引き受けるリーダーシップとビジョンを持った魅惑的な人物が、今の日本には居ないことが原因だろうと思います。ジョブスは日本のPCメーカーのことを「海岸を埋めつくす死んだ魚」と表したらしいですが、確かに、21世紀的なモノづくりへのビジョンの希薄さを指したものかも知れません。

●数あるジョブス語録の中から・・・

 あなたの時間は限られている。だから他人の人生を生きたりして無駄に過ごしてはいけない。
ドグマにとらわれるな。それは他人の考えた結果で生きていることなのだから。
 他人の意見が雑音のようにあなたの内面の声をかき消したりすることのないようにしなさい。そして最も重要なのは、自分の心と直感を信じる勇気を持ちなさい。それはどういうわけかあなたが本当になりたいものをすでによく知っているのだから。
 それ以外のことは、全部二の次の意味しかない。

  今や彼の言葉を、人生の師からの言葉として受け取っている若い人が多いと聞きます。
成功と挫折と敗北を繰り返し、更には死への恐怖も体感した氏の言葉は重いのでしょう。テクノロジーとの葛藤をはるかに超えて生き方そのものを示唆する教祖的存在だといってもおかしくはありません。

追記:この記事を書いてから1カ月余りの10月5日にジョブズ逝去。心より追悼したいと思います)

読本「遊歩のススメ」第一話(なぜ歩くのか?)
先人たちの遊歩(芭蕉・山頭火・中原中也・アルチュール ランボー)

ふるさと回帰?ふるさと創造?〝農村六起〟

 「ダッシュ村」や「田舎へ泊まろう」的TV番組が貢献したからでしょうか、田舎や農業がダサイ、クライとイメージされた時代は、もうずっと昔の話しで、今やオシャレで心地よく明るいイメージにあふれている!(と言われてみても?当事者・現場にはあまり実感はないのですが・・・)
 確かに世間一般のトレンドは「農」的なものに傾斜していますし、企業の農への進出はすごい勢いで、「食」の話題も地方を中心に弾んでいますし、実際、都市部からのUJIターン「ふるさと回帰」も急速に進んでいるようです。

 ・国交省の「地域づくりインターン
 ・農水省の「田舎で働き隊!
 ・総務省は「集落支援員」「地域おこし協力隊

 地方を何とかしようとお国もいろいろ手配りをしてきましたが・・・遂には
雇用は頭打ちだから、「ふるさと回帰」でビジネスチャンスが増えるので、アンタ等自身で起業しなさい!というのが「農村六起」なるもの。農山村での6次産業起業人材育成事業を内閣府で振興していて、「地域マネジメント法人」を育成しようとしている。
この「農村六起」では・・・

 ・インターンシップ(実地無料研修)では10万円の活動費がもらえる。
  (年収200万以下の人)
 ・ビジコン(事業モデルコンテスト)で認定されると起業経費200万円の補助がもらえる。

 内閣府によりますと、2030年に都市住民約1千万人の地方定住 または二地域居住が見込めると推計があり、こうしたふるさと回帰の普及に伴う「ふるさと回帰産業 とも呼ぶべき巨大な新たな市場・産業が形成されていくだろうと予測し、手近な所では2012 年に、約8兆円の市場規模となるだろうと言われています。
続いて、次のようにも予測しています。

 『ふるさと回帰希望者を各地に誘導するプロモーター事業(行政、旅行業、メディア・広告業、NPOなど)、定住・ 二地域居住用の住まいや農地などを提供する事業 (不動産業、農業団体、建設業、住宅改修業など)、 働く場や田舎暮らしを充実させるアクティビティを提供する事業(職業紹介、起業支援、農林漁業、観光施設業、趣味関連など)、生活サービスや運輸サー ビス業(小売・飲食業、各種生活支援サービス業、鉄道・バス・航空、レンタカー、引っ越し業など)等、 様々な業種・業態の事業機会が発生する。また、これらさまざまな業種・業態を結合させてトータルな「ふるさと回帰産業」として組み立てるインテグレーター業(統治企業)も現れるだろう。』

 この市場を担うべき地域に精通した「地域マネジメント法人」が成熟しておらず、これら人材や企業を育てるのが「農村六起」だと言う事らしい。「農民一揆」と語呂合わせもあって、何だか凄いイノベーションを感じさせますが、果たして目論み通りにいくでしょうか?
結局は、既存のソフト事業の業界に、大半お金が吸い込まれていきそうな予感がします。もっと大胆な民間活力を爆発させるようなシステムを生み出すには、今の官僚たちでは無理なのかもしれません。

 この内閣府の推計で注目する所は、「ふるさと回帰」の願望が高い世代が、(二重生活を除く)定住に限り、定年前の50歳代より、20歳代の方が高いという点です。団塊世代が、まだ現役で働けるだけ働こうと現場で頑張っているのでしょう。「団塊の世代」の大量リタイアが、ふるさと回帰のムーブメントを引き起こすと言われましたが、実はその団塊ジュニアやロストジェネレーションが「ふるさと回帰」の核心的な主体となっていきそうです。そうなれば誠に嬉しい限りです。
 団塊世代の二重生活的「ふるさと回帰」だけでは、本当の意味で「人の空洞化」「土地の空洞化」「ムラの空洞化」そして一番肝心の「ふるさとへの誇りの空洞化」を埋める事はむすかしいでしょう。若い「アメニティ・ムーバー」たちを巻き込んだ、彼らのライフスタイルを共有できるような「ふるさと創造」であってほしいものです。

ここで、もう一度、
北欧で静かに広がる「ふるさと存続運動」の本質的な理念を紹介しましょう・・・

農業は、地域の自然が語る言葉を理解する文化的行為である。文化(culture)とは大地を耕す(cultivate)ことである。農業では、地域の自然全体を体系的に理解しなければならない。
農業を通じて人間は自然を全体として学び、全体として世界がいかに機能しているかを考えようとする。そのため地域の自然とのかかわりが、人間の感性や人間の思考の在り方を形成する。

(「ふるさと存続運動」は神野直彦さんのコラム記事より。2008/6/16の記事に詳細があります)

〝能〟のある食物・挺身の植物

ブロッコリー

 机の上で天空を目指して芽を吹き出した自然薯を見て書いた「脳のある植物」という記事があります。もう4年も前の記事で「思考する植物」に関しての感想を書いたものですが、これが私のブログでは群を抜いてアクセスが多かった。参考資料をいただいた南大谷クリニックさん等の経由で訪れる方たちなのだろうと思いますが、アクセス解析ではこのキーワード「脳のある植物」がいつもトップで、PVトータル数でもダントツであった。
 しかし、この1ヶ月は殆どこのルートでの訪問者が居ない。おかしいなと思って実際に「脳のある植物」でキーワード検索をかけてみた。すると、「あっ!そうか」とポンポン膝を打って納得する次第。検索結果に現れた結果は・・・ 
どれもこれも「放射能のある植物」「放射能○×植物」「植物・・放射能」というタイトルがずらり、何ページにも渡って並んで、3・11以前には、考えられない内容の情報に埋め尽くされている。
(後で気付いたのですが実は「〝能〟のある植物」と変換ミスのまま検索していた・・・)

植物による放射能物質の除去

 おそらく放射能と植物の関連に関しても、各分野でチェルノブイリでの事故以降の様々な事象と、因果と、試みなどの情報が今、必死に精査されていることでしょう。
 とある大麻関連サイトで、汚染物質除去のために、チェルノブイリ周辺に産業用大麻を植えるプロジェクトの記事があった。植物による土壌浄化は、ヒマワリや菜の花でも提唱されているので、わずわざ産業用大麻でなくても良いのだが・・・・。

 「寒地土木研究所」の防災地質チームが、報告している「ファイトレメディエーション(植物を用いた地盤の浄化法)」が俄然脚光をあびて、このページへのアクセスが急増している。カドミウムやスズの重金属を植物に濃集させて回収させ土壌洗浄する研究は各国では従来より盛んであったようですが・・・
★レポートの一部に
「(※重金属以外にも)放射性物質を吸収する能力も研究されている例があり、それによるとヒマワリの根を用いた水耕栽培試験によりセシウム、ストロンチウムを蓄積することが判明した内容である」(※筆者加筆)

「危険性が失われるまで30年以上かかる放射性物質を20日間で95%以上も除去できる能力を有する結果が得られている」という具体的な数字は、どうやら削除されているみたいですが、とにかくこれは今注目に値するレポートでアクセス集中も当然です。

 自然の仕組みとは言え、この数字の威力には全く頭が下がる思いです。ただし、この方法にも様々な問題があります。どんな放射性物質を吸収できるのかとか、身を挺して土から放射性物質を吸い取ったヒマワリ自身は汚染されたままなので、このヒマワリの処理をどうするのかがまた課題となります。
 自然の摂理を超えた人の傲慢が産んだといえ、ホントに放射能とは厄介なものです。
我が家の十坪菜園のキャベツとブロッコリーは穀雨に打たれぐんぐん育っております。

脳がある植物・思考する植物