戦国武将の山芋にまつわる昔の説話を調べてみました。山芋に似合うと言えば、どちらかというと秀吉の方を思い浮かべてしまいそうですが、今回は、戦国の英雄・織田信長と山芋(自然薯)にまつわるお話を(ネット検索で集めてみました)紹介させていただきます。私たちが持っているあの近寄りがたい異端児のイメージが強い信長ですが、このエピソードに出てくる信長には、なんと人懐っこい人間的な一面もあるものだとちょっと見直してしまいました。
時は永禄8年(1565年)と言いますから、信長が桶狭間で今川義元を討ってから5年後、本格的な美濃攻めを始めた頃です。例の藤吉郎(後の秀吉)の墨俣一夜城が出現して、岐阜城(当時の稲葉山城)を制圧する前年にあたります。
この岐阜城攻めの前哨戦に勝利し、木曽川を越えた信長は、戦場視察のために伊木山に登ります。そして山頂より美濃の平原を見下ろしていた折に、川筋衆の一人、伊木清兵衛が信長に大きな山芋を献上します。清兵衛は配下に命じて膳をととのえ、大きな鉢で芋を摺りおろし、大釜で塩味のきいた汁をこしらえ、摺った芋に合わせてのばしていきます。
出来上がったとろろ汁を、同じく川筋衆の蜂須賀小六と前野将右衛門が、信長やその供衆に差し出しました。
「うまいゾ 清兵衛!」一口すすった信長は、清兵衛に声をかけ、格別の風味がある珍味に椀を重ねます。ところが、小六と将右衛門には目もくれずねぎらいの言葉もかけません。しばらくして信長は二人に「やよ両人の者、久しぶりよな」(武功夜話)と声をかけます。「よくぞ、働いたか、それともこの山で芋を掘っておったか」と意地悪くたずねます。
たしかに献上する山芋を探していた二人は、ズバリそう言われて返答に窮します。すると信長は興に乗って「皆の者、よく承れよ。これら両名の者、我らが戦うている間、この山中で芋掘りに精だしていたとか。芋掘り侍とはこの者どもを申すのよ」と信長は言いながら、手振り面白く瓢げて踊りはじめたと伝えられています。
信長にとっては軽いジョークのつもりだったのでしょうが、二人はプライドが傷ついたのでしょうか信長に臣下せず秀吉の家来衆となります。そして、将右衛門の前野家文書として「武功夜話」が記され、芋踊りを演じたこの時の剽軽(ひょうきん)な信長の一面などを後世に伝えることとなります。
★上の写真は山道に自生していたじねんじょう山芋(自然薯)です。山芋が自生しているのは別に珍しいことではありません。日本の山にはどこにでも自生しています。山でなくても庭や公園等にも自生していることがあります。散歩の折に、かわいいハート型の葉っぱがあれば、山芋のツルかも知れません。ちょっと注意して道端をご覧下さい。
■人物歳時記 関連ログ(2021年追記)
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