人物歳時記・高浜虚子(零余子蔓 滝の如くにかかりけり)

▲黄葉が始まった山中の自然生は、黄金の滝のように目に映ります。丸い子実が零余子(むかご)

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 現在、NHKで製作中のスペシャル大河ドラマ「坂の上の雲」(原作:司馬遼太郎)は、近代日本の勃興期に陸海軍へ身を転じた秋山兄弟と、近代文学に大きな影響を与えた正岡子規の旧制松山中学出身の三人の人物を縦糸に、その他に登場する多くの青春群像を横糸に描いたものですが、子規に係わって夏目漱石尾崎紅葉、そして弟子の俳人高浜虚子河東碧梧桐などの文人らも多く登場します。「柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺」という句で有名な正岡子規ですが、「ほろほろと ぬかご(むかご)こぼるる 垣根かな」という自然生にまつわる句を一つ残しています。(むかごはジネンジョの子実・10月の季語)
 この子規に兄事し俳句を学び、後に俳誌「ホトトギス」で俳壇を確立した高浜虚子においては、冒頭の句をはじめ、ジネンジョにまつわる句がいくつか残されています。きっと少年期から、山芋掘りに興じて、ジネンジョ(自然薯・自然生)や零余子(むかご)に親しむ体験があったのでしょう。

 零余子蔓 滝の如くに 懸りけり 
 黄葉して 隠れ現る 零余子蔓 
 零余子蔓 流るる如く かかりをり
 鵙(モズ)高音 自然薯を掘る 音低く

生涯、二十万句

 明治二十一年、伊予尋常中学に入学。一歳年上の河東碧梧桐と同級になり、彼を介して正岡子規に兄事し俳句を教わり、子規より虚子の号を受け、明治二十六年、碧梧桐と共に京都の第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)に進学。この当時の虚子と碧梧桐は非常に仲が良く、寝食を共にしその下宿を「虚桐庵」と名付けるほどでした。共に仙台の第二高等学校を経て上京、東京都の根岸にあった子規庵に転がり込みます。
 明治三〇年、柳原極堂が松山で創刊した俳誌「ほとゝぎす」に参加。翌年、虚子がこれを引き継いで東京に移転し俳句だけでなく、和歌、散文などを加えて俳句文芸誌として再出発させました。
 子規の没後、五七五調に囚われない新傾向俳句(山頭火はこちらの系譜)を唱えた碧梧桐に対して、虚子は大正二年の俳壇復帰の理由として、俳句は伝統的な五七五調で詠まれるべきであると唱え、季語を重んじ平明で余韻があるべきだとし、客観写生を旨とすることを主張し、「守旧派」として碧梧桐と激しく対立しましたが、碧梧桐の死にあたっては、嘗ての親友であり激論を交わしたライバルの死を悼む句も詠んでいます。俳壇に復帰したのち虚子つまり「ホトトギス」は大きく勢力を伸ばし、大正、昭和期(特に戦前)は、俳壇に君臨する存在になりました。
 昭和三十四年四月八日、八十五歳で長寿を全うされ、その生涯に二十万句を超える俳句を残しました。
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■人物歳時記 関連ログ(2021年追記)
小説「坊ちゃん」の正体・・・(弘中又一)
小説「吾輩は猫である」自然薯の値打ち(夏目漱石)
零余子蔓 滝のごとくにかかりけり(高浜虚子)
貴族・宮廷食「芋粥」って?(芥川龍之介)

■読本・文人たちに見る〝遊歩〟(2021年追記)
解くすべもない戸惑いを背負う行乞流転の歩き(種田山頭火)
何時までも歩いていたいよう!(中原中也)
世界と通じ合うための一歩一歩(アルチュール・ランボオ
バックパッカー芭蕉・おくのほそ道にみる〝遊歩〟(松尾芭蕉)

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