【1995.1.17/震災当日.2】
未明5時46分、振動の中に飛び交う凄まじい騒音で目が覚めました。
中国の旧正月に打ち鳴らす爆竹の破裂音によく似た「パパパパーン、バシバシバシ」という凄まじい騒音が、今でも耳に焼き付いています。連れ合いに布団をかぶせ、覆いかぶさり、そのまま長い時間を耐えていました。意識もまだ覚醒していなので何が起こっているのかが分からない。たとえ覚醒していても何も出来なったでしょうが。
ややあって、その爆竹のような破裂音が、部屋の小物や食器が飛びはねている音ではなく、壁やガラス自体が激しく軋んでいる音だと気付きました。「頼む倒れるな、割れるな」と願った瞬間、すーっと嘘のように静まり返りました。
地震だと覚った瞬間、「こんな所で、これだけ揺れたのだから、恐らく震源地の東海地方か東京は壊滅的だろうな…」と本気でそういう風に了解していました。
そーと表をうかがった。真っ暗で静かだった。今のところ火事やガス漏れはなさそうだ。ここから、幾日間も前日の山行に使っていた遊歩アイテムが活躍してくれるのですが、携帯ラジオだけは同行のN君のもので、手元にはない。ヘッドランプを頼りに、散乱した部屋中を片付けた。水は出るが電気はダメだった。(実は水も屋上のタンク分しか無かったのだが)電話も一切つながらない。
少し東の空が白んで、もう一度周囲をうかがってみる。隣の人がラジオを手に「震源地は、そこの北淡らしいですよ」と南の方へ視線を投げた。被害は各所で出ているらしいのだが詳細は分からない。駅なら詳しい情報がつかめるかもしれないと、垂水駅へ立ち寄ったが、ここでも「よく分からない。電車の復旧も何時になるのか分からない」とのこと。
しっかり夜が明けてきて、あらためて辺りを見渡してみる。家こそ倒れてはいませんが、和風の家屋の周囲は瓦が落ちて大量に散乱しているし、古い土塀などは倒れている。遠くでは緊急車のサイレンが聞こえはじめ、人の動きが慌ただしくなってきた。
建設中の明石大橋ごしに見る海峡と震源地の淡路島は静かだった。この辺りが震源地に一番近いのだから、此所より遠い神戸の中・東部は少なくとも此所よりは被害は軽微だろうと良い方に願った。ただ、神戸中心街がある東方面の空が異様にどんよりしている。その無気味さは何やら今までに体験したことのない不安感をかき立てるものでした。
部屋に戻って、二人で途方にくれるが、如何ともし難い。落ち着こうと山の道具で朝食をこしらえ、非常食のスープをすする。明石の友人宅へ電話が偶然につながる。先方でもまだ事情がつかめていないようだ。それっきりまた電話がつながらなくなった。せめて父母宅だけでもとダイヤルするが時間が経つばかり。
8時過ぎ、部屋に灯がついた。思ったより素早い復旧で「地震の被害もさほどでもないか?」と淡い期待が頭をよぎったが、つけたテレビの画像に唖然とした。背筋が凍った。(確かにこのビジュアルは強烈であった)
「ん? 高速道路がこけている・・・」
その情景を目にした一瞬に、そこで何が起こっているのか事態の異常さが了解できました。
「早く、実家へ帰らなくては!」
ようやく見つけたバイク屋で、「すぐ乗れるバイクはない! 自転車もみんな売れた。いや1台ある」
その1台残っていたのママチャリを買って、冬山装備のスタイルで神戸の中心部へ向かうことにした。食べ物、水の手配、連絡用メモの取り決め(メモが絶対確かだ)、最悪の場合は明石まで歩いて友人宅へ等など、もろもろを彼女と打ち合わせて、必ず今日は、戻るからと留守居を頼んだ。周囲に頼れる人も居なくてずいぶん心細かっただろう。
午前10時前出発、国道2号線を東へ向かう。
ゆっくりながら車は走っている。須磨駅の手前辺りから地割れ、街樹の倒木が目立ち、異様な景色が広がってくる。ついにその場に踏み込んだというキリキリする緊張感で息苦しくなってくる。出会う人、すれ違う人の全てがそんな緊張感を抱えた表情。そのことが一番、ことの重大さを物語っていました。
駅をこえて東正面に大きな火災、消火の手当をしている人影が居ない。もちろんヤジ馬も無い。ただ燃えているだけだ。よくある火災の情景とは全く違う、異様そのものだった。火災を避け、JR線路沿いの東進をやめて鷹取駅の南へ回る、駅前は電柱が倒れて、クモの巣を払ったように電線が方々に垂れている。自転車でも進み辛い。
会社がある長田はもう間近、見上げる東の空一面はもうもうと黒煙で覆われている。
(続く)
十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。
(*このコメントは震災の12年後である2007年当時の旧ブログのものです。現在(2021年2月)、誤字などを訂正しつつ、本ブログへデータ移行しています)