〓 1,17 混沌がはじまった3〔No.5〕

バツ印のような亀裂を多く見かける。
それ自体が「立入禁止」の文字のようだ。
(1995年1月 撮影/Jこと私)

【1995.1.17/震災当日3】

 会社がある長田区はもう間近なのだが、見上げる東の空一面はもうもうと黒煙で覆われている。これ以上の東へ進むのは無理と思い、板宿の方面へ北上する。この辺りにも気掛かりな人たちが幾人かいる。特に板宿で暮らす後輩Tが心配だ。独り住まいの彼のマンションは古い、かなり古い建物だったはずだ。その建物が見えてきたが、遠目にも異様で何やら歪んでいるように見える「ああ~っ」と胸が締め付けられる。立ち入り禁止のロープが一本張られているだけで、中の状態はよく分からない。建物に入ろうとしたら「止めろ!」と押しとどめられた。その男性に、三階に住むTの安否を尋ねると「分からない。とにかくここにはもう誰の居ない」「死傷者もわからない。この地区の避難先で調べてくれ」といくつかの学校を教えてくれた。おそらく、無事なら会社へ顔を出している可能性が高いだろうと、避難所探しは後回しにして会社へ急いだ。

 正午過ぎ、会社にたどり着いた。周辺は騒然としていた。
隣接の小学校のすぐ南から、東風に煽られ西へ延焼が広がっていく。ここでも消防車を見かけても消化をしている気配がない。ホースが空しく伸びているだけだ。肝心の水が出ないのだ。
東にある市民病院は悲惨な状態だ。5階部分が完全にへしゃげている。多数の死傷者がでているもようで、患者の避難と救急で混乱状態になっている。
 会社では、2か月前に竣工したばかりの新工場3階の壁に大きな穴が開いていた。何トンもある工作機が倒れたらしい。4階建ての別館はかろうじて建っているが、幾本かの柱がちょうちん破裂して、鉄鋼がむき出しており、立ち入るのもはばかる状態だった。そして木造の本社社屋は、見事に倒壊していた。そのガレキの前で佇む社長に声を掛けようとしたが言葉が出なかった。社長の方から、「全滅やな」とぽつり。その声は妙に明るい吹っ切れたような響きがあった。
 幾人かの社員が駆け付けていた。Tは居なかった。「Kさんが生き埋めになっているらしい」「Aさんの家が倒れてお母さんが・・・」など、辛い情報が次から次へ入ってくる。
 上空で多数のヘリが舞っている。朝見た映像があそこから撮影されているのだろうか。そのヘリの爆音は無性に苛立つ。「なんとかしたれや! 水まいたれや!」と空へ誰かが叫んだ。しばらくして、ひょこっとTが顔を出した。何もいわずに手を握りしめ、肩を叩いた。取りあえず、これにメモを残していこうと社屋入口に安否確認ノート設置した。

 気掛かりなことは、一杯あったが、早く家に帰らなくては、社を離れて再び東へとペダルをこぎだした。これでもか!これでもか!という惨状が次から次へと目の前に現れる。戦場のような風景を否応なく見せつけられながら、兵庫~神戸~元町、やっと三宮駅へと辿り着いた。此所も酷かった。ここに到るまでに、数件の知人宅に寄ったがだれの安否も確認できなかった。連れ合いの勤め先の洋菓子屋へも立ち寄ったが全く人影がなかった。オフィス街は無気味なほど人影が少ない。
 その先の角を曲がると目の前に、十数階建ての大きなビルが横倒しになっている。もう完全に特撮映画に出てくるビジュアルだ。唖然とするが不思議に現実感がなかった。

(続く) 

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。
(*このコメントは震災の12年後である2007年当時の旧ブログのものです。現在(2021年2月)、誤字などを訂正しつつ、本ブログへデータ移行しています)

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