○資料01:〝遊歩〟とは?(1)散歩? 登山? 冒険?

山口市・湯野観音岳 408m 平成30年 元日
山口市・湯野観音岳 408m 平成30年 元日

●このカテゴリーは、私が六甲遊歩会時代(1984-1995年頃)にまとめた遊歩の資料をアーカイブとして掲載しました。
(1984-1994年の間に記述・編集されたもので、ブログの日付けは収録日に過ぎません)
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■ウォーキングは健全なる狂気?

 『テレビ、ヘロイン、株。ひたすらのめり込み、常習患者になりがちなこれらの楽しみに、ウォーキング、すなわち「歩く」という行為にもつながっているような気がする。だが、精神的な偏執に陥りかねないこれらの狂気の中で、「歩く」だけは少し異質だなと感じられるのは、その狂気が快いものであり、精神の健全さにつながっているからであろう。』
   (C.フレッチャー著「遊歩大全」より)

 狂ったように六甲山を歩いていた時期があった。何故、私はこの様に歩いているのか、というより何故、このように歩かされているのか?自身でもよく分からない。その不明さを解き明かすにはやはり、歩く他に手立てが無かった。というような私の初期の「ウォーキング中毒」にかかっていた時代に、上記のフレッチャーの言葉に出会った。
 すでに「歩いている」方には、何も説明もなくても、充分に理解されると思いますが、未だ「歩くことを知らない」方には、ピンとこない、実感のつかめないものだと思います。「なぜ、そんなしんどい事を?」と仰る方が大半でしょう。そういう「歩き」を放棄された方に、遊歩の素晴らしさ、愉快さ、爽快さを説明するほど厄介なことはありません。しかし、そういう方にこそ「歩き」の楽しみを素晴らしさを一番知って欲しいのです。


■散歩なのか?

「遊歩」というものをいかなる角度で切り取っても、それらの断面からはユニークな発見が期待されます。目的に縛られた移動手段の「歩行」や生活に埋没した「歩き」から少し外れたところに『散歩』というものがあります。いつの時代からかそれが、日常の歩きといささか違うものと意識されたものか、私には不明ですが、それはきっと太古の時代、人類が二足での歩行を始めた頃までさかのぼれるかも知れません。いや四足歩行の時代、つまり、犬やネコのような生活をしていた時代、彼らも、もしかしたらそうかも知れませんが、餌の収集やテリトリーの確認という目的で歩き回っているだけではなく、たまには無目的にぶらり歩いてみたいと、気ままな散歩を楽しんでいたかも知れません。
 「散歩」を遊歩の一つの断面だと見ると、果たしていつの頃から「生活歩行」と「遊的歩行」の違いを意識するようになったのだろうか?何を契機に人類は目的のための歩きではない、歩きそのものが目的の歩きをするようになったのだろうか?おそらくこの点が遊歩を解き明かす大きなファクターとなるかもしれません。
 私の勝手な想像ですが、その契機は人類が「私」というものの周囲に存在している風景なり気配なりに、大いなる畏敬を感じたところから、何かが始まっているのかも知れません。言い換えれば、「私」と「私の周囲」のバランスが微妙に崩れ始め、純な欲求のみで日々を暮らすことが許されなくなった時代から「遊歩的な歩き」が生まれたと思われます。

瀬戸内から見た山口県の山(柳井・岩国)
瀬戸内から見た山口県の山(柳井・岩国)

■競歩は歩きか?

 話はいきなり近代へ飛びますが、ヨーロッパの産業革命以降、急速な近代化の中の一つにスポーツの発展があります。スポーツから見た遊歩の断面をいくつかみ見てみましょう。日常に埋もれやすい「歩き」をもっとも単純にスポーツ化したものに『競歩』というのがあります。古代オリンピックにはたして、この種目は存在していたのかどうか調べてはいませんが、近代五輪では歩行の「スピード」を競う立派な種目として採用されていています。  ただし、「走り」との区別を明確にするために、同時に両足が地面から離れてはいけない。一瞬でも膝が伸びなければいけないという二つの原則を設けました。そのおかげであの奇妙な歩行フォームが生まれた訳ですが、競歩における「歩き」とは全く「遊歩」とは無縁なものとなりました。単に「走り」の奇形というしかありません。「遊歩」にとっては「スピード」とは全く不要なファクターです。

■オリエンテーリングに見る「遊歩」

 「歩く」ことをスポーツ化する困難さには、「スピード」以外にもいくつかファクターがあります。速度を競うのみではなく、フィールドの地形や状況を正確に読みながら歩くという「ルートファインディング」を「歩き」に絡ませてスポーツ化したものに『オリエンテーリング』というものがあります。もともとは北欧の雪中の軍事教練から生まれたものですが、20世紀初めにスポーツ化されました。
 私個人における「遊歩」では、「ルートを探す」楽しみは欠かせないものになっています。地図と磁石、時には「勘」のみでルートを探す。逆に、道を探すのではなく、自分が歩くところが道なのだと開き直り、地形の起伏にまかせて迷い歩き、その後、どんなルートを歩いたかを地図上でその軌跡を確認しながら楽しむ…など、このルート遊びの愉快さは、初期の遊歩から現在にいたるまで変わらない遊歩の重要条件になっています。
 しかし、目的地に至るスピードやルート選択の正確さを競うことは本来的な「遊歩」とは無縁のことです。そういう枠やルールを作った瞬間に歩きは、遊歩という輝きを失ってしまいます。しかし、競歩のように自然のフィールドを無視した「歩き」と比べると、オリエンテーリングでは自然の起伏というフィールドのおかげで「本来的」なスポーツに一歩近づいているとも言えます。


■登山(アルピニズム)と遊歩

 スポーツ登山というものがヨーロッパ市民層に芽生えるまでは、古くは宗教的な儀式・修行か、または交易や獲物を求めて険しい山に登る(軍事的必要性もあったか)そんなことが登山の主な目的だったと思われます。『アルピニズム』も近代の産物です。かつての登山はスポーツというより『冒険』そのもので、より高く、より険しいピーク、未踏の頂きを目指すようになりました。その為に高度な技術や厳しい訓練、ルール、チームワークなどを習得しなければなりません。
 『アルピニズム』はあくまでも頂上をきわめることを目標としがちで、その目的に向かって技術や方法が集約される場合が多くなります。「歩き」と「フィールド」の関係でいえば、圧倒的に「フィールド」の方が苛酷な状況になっており、その場合「歩く」という行為は「登る」(または下る)という言葉に置き換えられ、その一歩一歩が頂上を獲得するための手段となりがちで、制約された「歩き」に縛られることが多くなります。 
 遊歩では山頂や目標地点に辿り着くことだけが目的ではなく、「歩き」の一歩一歩がどれだけ自分らしくあるか、自由であるか、という問いかけを大事にします。極論すれば、今、踏み出した一歩そのものが全目的だとも言えます。


■冒険とは?
 宇宙に飛び出す以外にもう冒険は成立しないのでしょうか。その冒険にしろ、もう個人の領域では考えられません。国家とか企業の単位に組み込まれた冒険です。
 地上においてほぼ「未踏の地」が失われた現代では、冒険のあり方も変わらずにはいません。よりスポーツ化され、極寒時のアタックとか、無酸素登頂とか、単独横断とか、無帰港渡航とか、なにかしら条件付加が必要になってきました。その内に裸体で登頂とか、竹馬で横断とか、少しマンガチックな光景になりそうです。
 数年前、読売テレビのイベントで「チョモランマからの生中継」とかいう番組がありましたが、スポーツがそうであったように、猛々しいチャレンジ精神や自らの全存在をかけた行為としてあった冒険が、いとも簡単に「金」で置き換えられました。膨大な資金、装備さえあれば、何処へでもいけるのです。これからの「冒険」とはもっと内的な部分で語られ、行われることだろうと想像します。
 遊歩のひとつの断面には「冒険」はかかせない条件です。険しさを冒す、あえてリスクを背負う、冒険家でなくても誰でもこういう欲求にかられることがあります。その欲求が何処から沸き上ってくるのか?リスクとは何か? 現代社会の中に満ち溢れている個人的リスクから、もっともっと大きな領域で背負っているリスク、人類が何万年も背負ってきたリスクを考えてみるのも一つの冒険のそして、遊歩のヒントかもしれません。


■遊歩は最高の健康法!

 とは言っても、専門家ではない私は科学的、医学的な裏づけがどれほどできるのか分かりません。体験的な現象を2~3紹介できるだけです。
 激しい運動よりも、低エネルギー運動を持続する方が健康維持に効果があるという点は医学的にも認められています。ニューヨークなどで流行している「徒歩通勤」なども交通機関や革靴、ハイヒールからのストレスを避ける目的を含めて、トリムやフィットネスの感覚で「歩き」を健康維持や増進に大いに利用しようというものでしょう。
 さらにこれが自然のフィールドでの森林浴と重なれば、都会的なストレスの発散にも大きな効果はあります。樹木から発散するフィトンチッドは身体に作用すると言われますが、どれほどの効果をもつのか私には不明です。個人的に感じることは、身体のいろんな機能が自然と向き合うというところで、都会的環境にはない刺激をたくさん受けることが快適です。辺一面のみずみずしい緑、爽やかな風、又は猛暑や極寒であってもここでは快い刺激となります。起伏に富んだフィールドは、日常にはないスタンスや歩幅を経験させてくれます。  こういう刺激の積み重ねが私の場合、腰痛がなくなった、胃の調子がいい、風邪をひかなくなった、というような現象に結びついていると信じています。と言っても、月一回程度のものでは効果は少ないでしょう。できるだけ多くの機会をもつ必要はあります。(全盛期では年間100回を越えていました。最近は月2回程度で、身体は少し不調です)


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