〓 内なる活断層のざわめき1〔No.8〕

心の何処かしらに亀裂が広がっている。
おそらく昔からあったものなんだけれど・・・
(1995年1月22日 撮影/J)


 変に横道に逸れないためにも、次のこのブログの展開をかいつまんで書いておきます。震災4日目に、ある心のざめきが起こります。
「昨日にもどりたくない・・・」
 そして5日目に、決心が固まり、6日目から出版への行動が始まりました。「本を出そう! 水も電気もパソコンもない此所から、このガレキの中からこの時を発信できる本を出版したい!」2月28日に出版された創刊号に次の一文をかかげました。

 「この野郎!やられぱなしでたまるか!」と言うのが主直な気持ち。
 マグニチュード7,2の地震のパワーをどんな形でお返ししてやろうか?
 これが大きな犠牲をともなった警告であるなら、堂々と受けて立とうじゃないか!
 とうてい物理的な力では自然には対抗しえないが、個々の体験で軋んだ内なる活断層のパワーを集めるなら、ちっとはお返しができるだろう!・・・・
 1.17を基点とした個々の体験を繋ぎ併せ、照らし会わせ、ほぐし合えば今までの社会に、そして、今までの私たちの生活に欠落していたもの、埋もれていたものが見通せるかもしれない。復旧とあわせ新たなる人間社会の復興のため、この冊子がその一翼を担うことができれば幸いです。
 不定期なると思いますが今年中に六号までを限定発行する予定です。それである種の役目は終わると思います。その後は全く未定です。創刊号はさまざまな制約もあって40ページと予定の頁数をクリアできませんでした。次号は80頁を目標とします。500円の頒価に異議があるかも知れませんが、次号以降の充実でご勘弁下さい。配本は自主ルートの開発です。第三種郵便は認可されません。郵送料軽減のためにも、二号以降の充実した紙面づくりのためにも、ぜひ多くの方々の年間購読と多部数買い取り販売を切にお願いいたします。

 自ら内なる復興への挑戦が始まりました。本当の試練はここから始まっていきました。

【1995.1.18/震災2日目のメモ】

 ほとんど昨日と同じ動きをとることになった。背中にはどこかで給水できる処があればと、キャンプ用のポリタンをはじめ万一何処でも生活できる道具、といってもすべて山の道具だが、それらを押し込んだ10kgばかりのリュックを担いでママチャリまたがり、神戸の東西を行き来することになった。
 東西に伸びている神戸にはJRの駅が西から、朝霧~舞子~垂水~塩屋~須磨~鷹取~新長田~兵庫~神戸~元町~三宮~灘~六甲道~住吉~本山の15駅ある。(甲南山手駅はまだなかった)
 この内の10駅を往復するので、震災の概略はこの目で確かめることが出来た。あと東灘以東の様子がよく分からない、うわさや報道では東灘区が壊滅的だとかを耳にする。もうママチャリでは限界である。早くバイクを手に入れたいのだが大阪へもまだ電話が通じない。
 今日も、行き帰りに数カ所、避難所に寄ったがめぼしい情報が得られなかった。長田から須磨にかけての火災はまだ鎮火していない。

(続く)

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。
(*このコメントは震災の12年後である2007年当時の旧ブログのものです。現在(2021年2月)、誤字などを訂正しつつ、本ブログへデータ移行しています)

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