〓 1,17 混沌がはじまった5〔No.7〕

皮肉ではなく、このオブジェは立派に作品だ。
そして、私というものを端的に表しているように感じる。
(1995年1月 撮影/K・U)

 ここでお詫びを申し上げなくてはいけません。コメントを頂いて気が付きました。少し回想にのめり込み過ぎて、ついつい何やら物語を煽ってしまったようです。恥ずかしい限りです。悲惨さや過酷さを書き綴る気は毛頭ありません。それらを教訓にこうしよう、ああしようというメッセージを伝えるつもりでもありません。もう少し、我慢してこれを読み進めてもらえればこのブログで描きたいものの正体が分かって頂けると思います。
 今、手元に当時のごく簡略に走り書きしたメモが残っています。しかし、1.17の終日の記憶はメモに頼らなくてもはっきりと記憶に張り付いています。2日以降はダメです。メモを見ないと思い出せません。そのメモも翌2月6日、地震から21日目で途切れています。ここで途切れたと言うことは、何らかの部分で私の震災は21日間で終わったとも言えます。

 あまり見る気にはなりませんが、この時期になると「取り残された復興… 生活や暮らし向きが取り戻せない… 心の痛手から未だ立ち直れない…」この手の話から、「この経験をこれからの防災社会にどう活かすのか?」という類いものまで、まるで歳時記のように特集番組が組まれます。
 あれだけの災害でしたから、多くの方々が言い尽くせない辛い試練を背負い、それを乗り切られた方、振り切った人、未だ引き摺って乗り越えることが出来ない方と、今日に到る無数の軌跡があったろうと思います。その個別に言及するつもりはありません。ただ、絵面を先に決めて、それに似合う事実を探すマスコミには、とうてい取り上げることが出来なかった事象、被災地と呼ばれたエリアに闇のまま消えていこうとしているものは一体何だったのか?
この回想は、その再確認のために始まったものだと思います。願わくば、そこに辿り着くことができるよう今しばらく頑張ってみたいものです。

【1995.1.17/震災当日5】

 か細い自転車の灯を頼りに、今度は西へ西へとペダルを漕ぎはじめました。灯を失った街ほど無気味なものはありません。途中、二か所ほど避難所の小学校へ立ち寄りましたが、知人たちのめぼしい情報はありませんでした。
 夜10時頃に長田の辺りに戻ってきました。火の勢いは収まることなく、ますます西へ延焼が広がっていました。ごうごうと夜空を焦していました。不思議なものです。あの横倒しなったビルを見たときもそうですが、目の前の情景に現実感が伴いません。逃げまどう人たちや、走り回る消火隊員たちが居たならば、確かにここが被災現場そのものだと感じられたのでしょうが、この時は、スクリーンが映し出す幻想的な風景の中をさ迷っていたような気がします。
 その無人の火災現場で方向を失いかけました。気が付けば左からも右からも炎に追われてる。川に救われました。そこで火炎が途切れた隙に、必死にペダルを踏んで北へ。大きく迂回したあと西へ進みました。

 長田から須磨の大火災は翌日も燃え続けていました。燃えさかる情景は、災禍の渦中であることを忘れさせるように美しい映像イメージように一日中続きました。そして、感じても感じ尽くせない重い現実が出現して、私たちを打ちのめすのは、鎮火した焼け跡の酷い情景を目にしてからになります。
 垂水へたどり着いたのは午前1時、数知れない試練、底知れない混乱と混沌でこのエリアを覆い尽くした1.17は、もう昨日のこととなっていました。

(続く)

*十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。
 あと6時間ほどで、12度目の1.17となります。ひたすらに合掌の心で迎えたいと思います。

(*このコメントは震災の12年後である2007年当時の旧ブログのものです。現在(2021年2月)、誤字などを訂正しつつ、本ブログへデータ移行しています)

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