〓 1,17 混沌がはじまった4〔No.6〕

何かの間違いだろうと、
可笑しく感じるぐらい現実感がない。
(1995年1月30日 撮影/T・Y)

【1995.1.17/震災当日4】

 午後3時過ぎ、垂水を出発してもう5時間以上ペダルをこぎ続けている。
 交差点で立ち止まる。ここを曲がれば自宅である10階建ての賃貸マンションが見えるはず。果たして無事な姿で建っているのか、確かめるのが恐くて一瞬目を伏せてしまったが、意を決して顔を上げると、いつもと変わらぬ風景でした。平成3年の新築だったので、まさか倒れることはないだろうと思ってはいましたが、近寄って目をやると外壁のあちこちに亀裂が走っていた。
 6階までかけ登って、ドアを開ける。その時の情景は今でもありありと覚えています。でも、その時に互いに掛け合った言葉が思い出せません。無音の映画のようだった記憶です。おそらく、安堵の後の照れがすこしあって、「どうやった?」程度の平凡な会話だったように思います。
 親父は倒れたタンスで頭を負傷していたが、お袋は無事だった。自宅には、家が傾いた長兄一家4名と同じく家が傷んだ次兄らと集まっていました。狭い2DKで、物が散乱し、余震に備え食器棚やダンスを途中で割って平積みしているので、ほとんど8人分の足場がない。

 お袋がおびえて小さくなっている。意外であった。こんなことには概して強い人だと思っていた。戦時中には兄と姉を抱えて、空襲から逃げ回った経験がある。「なあ、爆弾よりは 大したことないやろ?」背中をさすってやると、「空襲はこんな急にこん、サイレンが知らせるやろ」と、言われれば確かに、地震は全く前触れなくやってきた。でも、私にしたらやはりはるかに焼夷弾の方が恐い。死者の数こそ違え、神戸の大空襲はこの震災と同じような被害をもたらしている。神戸製鋼があったこの周辺も焼け野が原になるほどダメージを受けた。それに比べたら幸いにも、目立ったダメージがないように思える。

 「もう大丈夫やから」と何度、言って聞かせても「恐い 恐い」と脅えている。歳のせいもあるのだろう。幼い子供を守ろう発奮していた頃の若かりし母と比べても詮がない。
ベランダから見える南の方の黒煙がおさまらない。ここまで延焼することは無いだろうと思うが自分も気掛かりなって調べに走る。
 ついでに近所のあちこちに声をかける。幸いに大きな被害にあった方はいなかった。戻ってあれこれ手当にかかる。水や食料の手当に苛立った各々の家族の「こうしよう。ああしよう」と主張がぶつかる。何とか夜を迎える準備ができたようだ。私はその夜に向けて仏壇の細いろうそくをコップに溶かして大きな明かり取りをこしらえた。しかし、不思議なことにこのマンションと数件の建物だけに電気が一時的に復旧した。 
 一通りの出来る限りの手当を終えて、彼女の待つ垂水へ出発することにした。自宅を少し離れると、窓からこぼれる灯も、街灯も一つなく真っ暗であった。山でもこんな暗闇は経験ない。閉ざされた闇のように感じた。

 午後9時前、自転車のか細いランプを頼りに、再びあの惨状を横断していかなければいけない。寒さや疲労よりも、底なしの暗いトンネルに嫌が応にも吸い込まれていくような説明し難い恐怖感で身体が震え出した。

(続く) 

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。
(*このコメントは震災の12年後である2007年当時の旧ブログのものです。現在(2021年2月)、誤字などを訂正しつつ、本ブログへデータ移行しています)

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