ひとりいる時こそ、もっとも孤独からへだたった世界である。 (エドワード・ギボン)
この名言も、フレッチャー師の「遊歩大全」より拝借いたしました。
上巻・付録2にある「瞑想的ウォーカーのための名言集」に収録されていたギボンの言葉です。東西の哲学者・文学者・詩人・科学者・政治家・偉人、広範囲にわたる先人たちの言葉から〝ウォーキング〟の根っこに連なっていくような金言・妙言を集めたものですが、どの言葉にも、心に響くような共感があったり、深く納得するものあって「なるほど」と膝をうったりします。この撰集からでも、フレッチャーの〝深化した歩き〟〝解放された歩き〟をたっぷりと感じることができます。
「一人いるときほど孤独より遠い」この言葉には、誰しもが思い当たることがある筈です。独り自分だけの時間の中でひたっている時のあの充足感です。一人でコーヒーを飲んでいる、音楽を聴いている、景色を眺めている。何かに心を預けたまま己が解放されている状態でしょうか。それはうら寂しい孤立感とは、ほど遠いものです。逆に、大勢の人に囲まれていても、にぎやかにコミュニケーションをとっているような時でも、フト自分が見えなくなって、時には激しい孤独感に襲われることがあります。
ギボンは独り歩いているときに感じたのか、それとも書斎で物思いにふけっているときに、このような一人の世界を味わっていたものか不明ですが、コリン・フレッチャーにとっては、広大なウィルダネスの砂漠地帯を粛々と歩いている時に、または、漆黒の闇の中で、チラチラと揺れるキャンプの火を独り見つめている時に、ヒシヒシと感じていた至福の境地であったことは間違いのないことでしょう。
孤独感とか孤立感は、自立を意識しはじめた思春期において、何かと心を騒めかせ、悩ませるものです。私の場合もそうですが、大勢の人に囲まれて中で感じる孤独感にどう対処していこうかと思い迷うことがありました。いわゆる社会的孤独というやつです。今の時代では「私はどうあれば良いのだろう」とあがきながらSNSの大海をさまよっている人も多いと聞きます。これを上手く乗り越えていけるかどうかで、その人の将来に大きい影響もたらすことになります。次のような(心理学的)対比からみていきましょう。(※青年期における孤独感の構造 落合良行 著を参照)
1、孤独をどう見るのか(自己の存在の仕方)
ひとりでいることを紛らわしたい | ⟷ | 孤独とは人間の真の姿だ |
ひとりだと思うと不安で怖い | ⟷ | ひとりということに優越感を感じる |
孤独とは悪魔だ | ⟷ | 孤独とは人間の真の姿だ |
2、共感についての感じ方
他人は私を理解してくれない | ⟷ | 私を理解する人は何人かいる。 |
私の悩みを分かる人はいない | ⟷ | 悩みを分かってくれる人はどこかにいる。 |
左は、マイナス思考の人、右はプラス思考の人だと考えれば、よく対比が見えます。要は、孤独に苛まれたくない、逆に、孤独愛にも溺れたくないと、考えるなら〝プラス思考〟で生きていけば良いのですが、これがなかなかに難しい。スイッチを切り替えるように簡単にいくものではありません。
独りでいるときの快い孤独感、頭ではそういうのもアリだな、と思っても若いうちは、それがどんなものかが掴みにくいものです。「私はひとりきりだ〜」体の奥底から湧き上がってくる、その充足感というものをしっかと受け止める、というのは、禅坊主のような一種の悟りの感覚に近いものだから、若い人から〝その感じ、よ〜く分かります〟といわれても、「ホント〜?」と何かしっくりとは納得ができないところがあります。そう言うと年寄りの不遜と思われてしまうかもしれませんが・・・
孤独とは人間の真の姿だ
言葉を絞ってみると、ひとつは「孤独とは人間の真の姿だ」というところでしょう。決して孤独は悪魔ではなく、それを踏まえて生きていくことが、社会性にもつながっていきます。人は争いや不幸があったり、病気や挫折、トラブルにあったりしながら、少しづつ〝孤独=真の姿〟をかい間みながら歳を経ていきます。中には、若いうちから本能的に〝孤独=真の姿〟を嗅ぎとっているような人もいるでしょう。
もう一つは〝独り〟だということを自分のどこで受け止めているのだろうかという点にあります。小理屈や座学という観念ではなく、身体、目や耳、手足や皮膚など自身の身体で体感できていなかったのか、体幹の芯までとどくような経験に欠けていたのかもしれません。観念的というか感傷的な甘ちゃんのまま、そういうチャンスや体験を齢30半ばまで持ち得なかって、それからの反撥が、突然の山狂いにつながったのでしょう。〝山を歩く〟という身体性を通すことで、しっかりと孤独と向き合うこと中年になってから、せっせとやり直したものと思います。
生きるということは所詮、自然との格闘です。それを抜きに他人や社会との格闘はありえません。土・水・風・雨・木々・花・草・石・岩・星・虫たちと交感し、自然とトコトンやりあって、それを自分の体でしっかり受け止めていくことが欠けていた、もしくは充分でなかったのでしょう。〝真の姿である孤独〟を求めて、いい大人が、あてどもなく山中をさまよい、ひとり谷奥で蛇やイノシシに怯えながらキャンプし、冬の山上でテントなしで夜をあかしたり、水も食べ物も持たずに樹林にこもったりしながら、子供の時のような体験を通して自然なるものと格闘していた訳です。〝自然に向う〟ことで多くの生きる知恵や元気を授かりました。自然と対決しているのではなく、自然に包まれていることも学びました。そういうところでも六甲山は父であり母だったのだろうと感謝している次第です。
男の冒険譚? おとこのロマン? 〝孤独〟のおはなしは女性陣からは、「ただのお遊びでしょ」と、冷たくスルーされるのがオチですが、もともと女性の方が本質的に、孤独な存在だと思われます。そうでないとあの深い母性と共生・共感能力は持ちえないのだと、甘ちゃんの私としては、確信しつつ、冒頭の言葉を男性陣にむけて贈りたいと思います。
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