雛まつり三題

おひな粥イメージ

その1「小町とろろ」

 花の色は移りにけりないたづらに 我が身世にふるながめせし間に 小野小町

「世界三大美女」(ここに小町が入っているのは日本だけ?)の一人とも言われ、絶世の美女の代名詞となった小野小町は、平安前期の女流歌人・六歌仙の一人としてもよく知られています。この時代あたりから平安貴族の子女の間で「雛あそび」が流行ったといいますから、小町も無邪気に「雛あそび」に興じていたかも知れません。
当時はまだ、ヒシ餅などはまだ無かったでしょう。白酒は濁り酒だったのでしょうか。この遊びの中で馳走されたお菓子や飲み物がどんなものだったのかとても興味をそそられます。

小野小町が「山芋入り麦おかゆ」なるものを食べていたという記録があるそうです。後に「小町がゆ」「美人がゆ」と呼ばれたとか、呼ばれなかったとか。芥川龍之介の「芋粥」の出展となっている「今昔物語」など舞台は平安前期、この時代の宮廷グルメ・無上の佳味といわれたのが「芋粥」だったそうだ。これは自然薯を甘葛の樹液で煮込んだもの。この上品な甘味は貴族たちに大層愛されたと言いますから、こんな御馳走も「雛あそび」の折に、小町が味わっていたとしても不思議はないところです。

後に「雛あそび」は、「桃の節句」と結びついて庶民の行事として盛んになります。
霊力のある桃の木にちなんだ「桃の節句」は婦女子の災厄を祓い、健康を願うものですから、美人食の「小町がゆ」はこの行事にピッタリの食べ物です。麦の成分・栄養素と自然薯の若返り酵素・ミネラル成分が相乗して、血液の安定、お腹の掃除、ダイエットなどに効果があるヘルシーフードですからこれ以上の行事のお膳はありませんね。

ながし雛イメージ

その2「ひとがた流し」

紙などで作った人形(ひとがた)で体を撫でて穢れを祓い、それを川に流し無病厄災を願う風習があるそうだ。テレビドラマ化され話題となった「ひとがた流し」(北村 薫著)は古くから日本各地で伝わっているこの風習から採られた題名とのこと。

風習や儀式ではなくても何気なく遊びや占い気分で、自分を託したものを川へ流してみるという体験は誰にでもあるのではないだろうか。
例えば、橋の上から木の葉一枚を川に落としてみる。流れに任せてゆらゆらと水面に漂う木の葉、時には、流れの渦に巻き込まれハッとしたり、岩陰の淀みにつかまって苛っとしたり、夢中に追っているうちに、ついつい木の葉に自己を投影してしまう。軽い心地のはずが、わが人生の追憶に浸ったり、また暗示を受けているようであったり、最後には沁みた気分になってしまっている。

流れる水そのものの清冽さと「ひとがた」は、抗うことを許されなかった女性たちの押し込められた思いが託された歴史を感じさせられる。この風習は平安時代になって「雛あそび」と結びつき、雛人形という「ひとがた」に替わって、穢れや災いを負って捨てられたり、燃やされたり、流されたりする風習へと変化していく

前回、語呂合わせで「お雛粥(がゆ)」と紹介したが、気になって調べてみると、文字通り「お雛粥(おひなげえ)」という行事が埼玉県の無形民俗文化財として、小鹿野町に現存していた。4月3日、河原沢の川原で、子供達が粥を炊いて食べながら祝う雛祭りだそうだ。こうした「ひとがた流し」から受け継がれた古い風習が今でも各地に残っている。

もちがせ流しびな行事(鳥取県用瀬町)
~祈祷神事の斎場の隣で古い雛人形に感謝やお祓い、お清めの「お焚きあげ」神事を行う。~~
播州・龍野の〔ひな流し〕
~紙粘土の顔に折り紙で作った衣装の雛人形を、稲ワラで編んだ直径20センチほど の「桟俵(さんだわら)」の上にを乗せ、椿や菜の花を添えて河に流します。 準備に半年かかるそうです。~

祖谷渓イメージ

その3「平家落人伝説」

 流し雛ふたつ並んで果知らず 〔成田千空〕

前回の「ひとがた流し」から各地のひな流しの話題をレシピのつまみとしましたが、肝心の地元である山口周辺での流し雛行事を書き忘れていました。
県内各地でもこの風習が残っており、木野川(小瀬川)ひな流しは平安時代中期に盛んになったといれています。戦時中、一時中断されていましたが戦後に復活。初春の風物詩として現在まで伝統が受け継がれているとの事です。
そして、春告げの歳時として著名な下関・赤間神宮の「平家雛流し」も忘れてはなりません。

これは、壇ノ浦で平家の諸将とともに崩御された安徳幼帝の鎮魂の神事が「ひな流し」と結びついたものです。この時節の関門の潮は穏やかで波の秀(穂)をくぐるように折り紙でつくられた紙雛が漂っていきます。不思議な事に毎年必ず関門橋の方(東)へと流れていくそうです。その辺りが幼帝や女官等が入水した場所だと言い伝えられています。

歳時記レシピからどんどん離れて恐縮ですが、安徳天皇といえば、四国の秘境・祖谷渓を訪れたとき、とある地元資料館で「実は幼帝はこの地で亡くなられて栗枝渡八幡神社に祀られている」という平家落人伝説を聞かされたのを思い起しました。
平家落人伝説は日本各地にあって、特に珍しくもない伝聞なのですが、日本のチベットと呼ばれ誰をも寄せつけない要害そのもののようなこの祖谷渓の絶景を目の当たりにしてこのお話をうかがうと、「さもありなん」と思わず首肯、「ここ以外に逃げ落ちる地などないだろうな」と感じ入ってしまいました。

(健全な意味で)現代社会からの逃避は可能だろうか?と当時、真剣に脱都会・脱会社を模索していた自分でもありましたが、ここなら「できる 出来る、ここは立派な〝逃げ場〟になるだろう」と思わせた処です。
なぜ何故、マチュピチュのようなこの辺境の地に、彼の人々はひそやかに息を潜め続けてきたのしょうか。空中都市マチュピチュならば尾根を跨いだその開けた神々しい眺望にロマンチックなイメージをかき立てられるのでしょうが、深く暗く閉ざされた祖谷にあっては、峻険な断崖に虐げられるように住み続けてきた人々が抱え続けてきたものは、只々、逃避への強烈な意思と、開かれた社会への深いルサンチマン(憤怒)であったろうと想像するしかありません。

ついでに話はどんどん飛びます。やはりこの秘境に魅せられたアメリカの若きバックパッカーが、この地に住み着いて(逃げおちて)、地の住民たちと共に朽ちかけた藁葺きの古民家の修復を始めた。後に「美しき日本の残像」を著した東洋文化研究者のアレックス・カーである。(昨年MBSの「情熱大陸」でも登場)
現在も日本各地で幅広い活動を続け、彼が興した祖谷渓の古民家は現在「篪庵(ちいおり)トラスト」の拠点として、深奥な日本文化の体感を求める外国人たちのベースとなっている。

美人とろろの思いつき「お雛がゆ」から話に翼がついてしまいお粗末三題、誠に恐れ入ります。

→自然薯のお話「山芋四方山話」

山芋と織田信長

左:紙本著色織田信長像(狩野元秀画、長興寺蔵)中:天然山芋(自然薯)右:三宝寺蔵の信長の謎の肖像

 戦国武将の山芋にまつわる昔の説話を調べてみました。山芋に似合うと言えば、どちらかというと秀吉の方を思い浮かべてしまいそうですが、今回は、戦国の英雄・織田信長と山芋(自然薯)にまつわるお話を(ネット検索で集めてみました)紹介させていただきます。私たちが持っているあの近寄りがたい異端児のイメージが強い信長ですが、このエピソードに出てくる信長には、なんと人懐っこい人間的な一面もあるものだとちょっと見直してしまいました。

 時は永禄8年(1565年)と言いますから、信長が桶狭間で今川義元を討ってから5年後、本格的な美濃攻めを始めた頃です。例の藤吉郎(後の秀吉)の墨俣一夜城が出現して、岐阜城(当時の稲葉山城)を制圧する前年にあたります。
 この岐阜城攻めの前哨戦に勝利し、木曽川を越えた信長は、戦場視察のために伊木山に登ります。そして山頂より美濃の平原を見下ろしていた折に、川筋衆の一人、伊木清兵衛が信長に大きな山芋を献上します。清兵衛は配下に命じて膳をととのえ、大きな鉢で芋を摺りおろし、大釜で塩味のきいた汁をこしらえ、摺った芋に合わせてのばしていきます。
出来上がったとろろ汁を、同じく川筋衆の蜂須賀小六前野将右衛門が、信長やその供衆に差し出しました。
 「うまいゾ 清兵衛!」一口すすった信長は、清兵衛に声をかけ、格別の風味がある珍味に椀を重ねます。ところが、小六と将右衛門には目もくれずねぎらいの言葉もかけません。しばらくして信長は二人に「やよ両人の者、久しぶりよな」(武功夜話)と声をかけます。「よくぞ、働いたか、それともこの山で芋を掘っておったか」と意地悪くたずねます。
 たしかに献上する山芋を探していた二人は、ズバリそう言われて返答に窮します。すると信長は興に乗って「皆の者、よく承れよ。これら両名の者、我らが戦うている間、この山中で芋掘りに精だしていたとか。芋掘り侍とはこの者どもを申すのよ」と信長は言いながら、手振り面白く瓢げて踊りはじめたと伝えられています。
 信長にとっては軽いジョークのつもりだったのでしょうが、二人はプライドが傷ついたのでしょうか信長に臣下せず秀吉の家来衆となります。そして、将右衛門の前野家文書として「武功夜話」が記され、芋踊りを演じたこの時の剽軽(ひょうきん)な信長の一面などを後世に伝えることとなります。

★上の写真は山道に自生していたじねんじょう山芋(自然薯)です。山芋が自生しているのは別に珍しいことではありません。日本の山にはどこにでも自生しています。山でなくても庭や公園等にも自生していることがあります。散歩の折に、かわいいハート型の葉っぱがあれば、山芋のツルかも知れません。ちょっと注意して道端をご覧下さい。

■人物歳時記 関連ログ(2021年追記)
小説「坊ちゃん」の正体・・・(弘中又一)
零余子蔓 滝のごとくにかかりけり(高浜虚子)
小説「吾輩は猫である」自然薯の値打ち(夏目漱石

■新ブログ・文人たちに見る〝遊歩〟(2021年追記)
解くすべもない戸惑いを背負う行乞流転の歩き(種田山頭火)
何時までも歩いていたいよう!(中原中也)
世界と通じ合うための一歩一歩(アルチュール・ランボオ
バックパッカー芭蕉・おくのほそ道にみる〝遊歩〟(松尾芭蕉)

脳がある植物・思考する植物

自然生自然薯、天然山芋、ヤマノイモなどと呼称は色々あり

★写真は机の上で芽をだした自然薯の姿です。可愛いというか、寂しげというか、ちょっと間が抜けているのか、なんとも言えない姿です。本来は土の中でこうあるべきなのですが・・・。

生き物には思考する脳とは別に、もう一つの脳が存在するだろう

 前々回にご紹介したように、近年、環境の変化にともなって、農作物の作柄が何かおかしいという話を良く聞きます。日本の山野に自生するものや畑で栽培される自然薯自然生、天然山芋、ヤマノイモなどと呼称は色々あり)においても、その芽立ちも悪いとの報せが多くなりました。私がWEB管理している会社での話ですが、例年なら1カ月ばかりで芽をだすのが、一月半経っても出ないので、様子を見てみると「土の中で化石のように黒く固まっている」と化石のように黒く固まっていた。適切に説明できる原因も分からず「何やら土の中で異常なことがあったのだろう」としか言えない状態で、とりあえずはその黒化した山芋をサンプルとして置いておくことにしました。その芋を水で洗って、ビニールにいれて棚に置いておいたところ、なんと!芽が出てきました!(写真は約2週間後・記念撮影後に山へ埋め戻しました)

植物にも脳があるのか?

 一定の条件、例えば温度や湿度さえ合えば、すくすく育つ品種の稲があるとする。その稲が穂をつけ収穫間際、台風に襲われる。倒れて水に浸かった穂先のモミは、「あっ!温度と湿度が適当だな」と芽を出し始める。
 一方、かたや野生児の品種、ちょっと扱いは難しいし癖はあるのだが、同じく風にたおされ水に浸かっているのだが「あれ? 田植えされた時とよく似た状況だが何かおかしいな。今、芽を出したらそのまま育っていけそうじゃないな。ヤバいぞ!」と考えたのかも知れない。確かに今発芽してもこれから冬に向かうので育ちはしない。こう考えた稲はえらい!考えたというのもおかしな表現だけれど、こうゆう品種を「脳のある植物」と呼ぶ人がいる。

 もともと、食虫植物のように動物に似た草花のことは知っていましたが、生き物には思考する脳とは別に、もう一つの脳が存在するだろうという話を最近聞きかじって、驚きながらもよく感じ入っています。進化というのはその方の脳で進んできたのでしょう。

 自然科学ブログ「進化を考える・もう一つの脳」 ここでは、オーストラリアで生息する不思議な特殊ラン「ハンマーオーキッド」をはじめ、いろんな知性を感じさせられる植物を紹介しています。かしこい植物がいますよ!特に種子はもう頭脳の集積したようなものだから、叡智の塊という訳です。
 冒頭の自然薯の芽の話も、何かを暗示しています。そのまま土の中で発芽せず、棚の上で発芽した訳が何かあるように思われます。こういう現象が日本各地で起こってくるなら、日本各地で何やら変化が生じ始めているという事です。最後に「心の誕生」の仕組みを、植物と対比させたレポートの中に次のような一節がありました。

「心とは神経幹細胞群(桜の生長点細胞群)が外界からの情報と自己の記憶(桜の幹や枝)を基に検索しながら、未来に向かってより良く生きていくためのビジョンを描き出している脳全体の活動と考えられる」

【参照文献】
心はどこから生まれるのか」 出版/幻冬舎 著者/永井哲志

●追記(2011年4月)
 能のある食物・挺身の植物

戸惑いの風景4〔No.22〕

時間が止まったままの風景。市の都市計画、住民たちの
気持ち、折合わない事情をそのまま象徴している風景。
(JR新長田南駅前/4月2日撮影/J)

 戸惑いの風景がひろがっていく。地震による第一次的な疲弊はピークに差し掛かっている。平穏さを取り戻すと反比例して身も心も重い疲労に耐えかね悲鳴を上げそうになる。この巨大な復興の嵐の中で生きていくのには、かつて発揮したことのないような大きな「優しさ」が必要なのだろう。何をやっていく上でも、思いや気持ちの中に精一杯漲らせることの大切さを痛感する。許すことが難しいように、無為に優しくあるのもそう簡単ではない。
(引き続き昨日の続き/第二号のレポート)

●被災地・被災者というレッテルを貼ったあなた達に問う。

 母はガレキを怖がって外を歩けない。
 部屋の中に一人でいると不安で涙が出る。
 もう不安がることはないから、のんびりと親父と避難先で静養していたらと勧めても気持ちはこわばったままだ。
 明治生まれの父は以前にも増して無口になって動かない。兄二人も家を失い、誰が、どこで両親たちと暮らすのか、兄弟たちとの相談は口論のようになって堂々巡りとなる。親たちをタライ回しにするつもりはないが、それを聞いていた母が「もう止めて!」と突然に泣き出す。こんなに激しく泣く母を見たのは初めてだった。
 家族全員の生命があっただけでこれ以上の幸せはないはずだ、という説得はもう通じない。人生のあらゆる不安を胸の内に押しとどめていた堰を失ってしまっている。これは地震と関係ないことだ。ただ地震がそれを加速させたにすぎない。

 「体験者一人ひとりが、しっかり足元を見つめるしかない」という願いも言葉も虚しくなる。ただただ泣きじゃくる母をひしっと抱きしめるしかなかった。思えば私から母を抱きしめることは初めての経験であった。
 この母親の有様からは、空襲の中や戦後の焼け跡の中を、幼子4人を抱えて奮闘した母の姿を想像することができない。
 「こんどの地震の方がずっと怖い。あの頃の若さも元気もないから…」
 返す言葉もない。年寄りや弱者に被いかぶさる精神的圧迫を少しでも軽くするには、より一層の思いやりと優しさを以ってするしかないのだろう。言葉は美しいが、これも容易なことではない。これからこの悪環境の中で、いや環境がどうのこうのではなくて、精一杯、私たちがどれだけ優しくなれるのかだけが厳しく問われるのだろう。

 一時だが地震は、この社会の秩序を壊した。その混乱の中で体験者の多くは「生・死」をはじめとして細々した生活の端くれにおいても、さまざま根源的なものと出会うことができた。大きな犠牲をはらうことになったが、このおかげで今までの私たちの生活にあった嘘と誠、社会のもつ虚と実を垣間見ることができた。このことは凄い出来事だと思う。
 創刊号でのマスコミ、各機関へのお願いは当然ながら無視された。「被災」という言い回しからは、いつまで経っても人的、物的損傷しか語れない。あえて言うなら、この出来事は人の生き方と社会の在り方を顧みる「受難」だと言った方がふさわしい。

「被災地」「被災者」などと言うレッテルしか貼ることしかできなかったあなた達、いままでの社会の枠を越えて動くことができなかったあなた達に問いたい。あなた達は一体、私たちの「何」を見ることができたのですか? 

 創刊号一万部のうちさばけたのは4千部足らず(売れた数ではない撒いた数)残り6千部は目の前にある。押し入れに収まる嵩ではない。どうしようと思案する。優しく考えようとしてもつい苛立ってしまう。第二号は4千部に減らしました。

(完・戻る)

 ちょっと口では説明しがたい重い疲れで、ずいぶんと消耗してしまったのか、震災を回想する気力を失い、この記事を上げて4ヶ月ほどブログから離れる羽目になりました。肉体的にも腱鞘炎とドライアイがひどくなり、ドクターストップがかかりました。(まあ、これは職業病でしょうが)
 その後は、〝地域デザイン〟を念頭に、ポツポツと「地域・就農情報」や「裏山情報」を中心に、本来の遊歩ブログへと立ち返っていくこととなりました。

〓 戸惑いの風景3〔No.21〕

チキンジョージはどうなったか?と編集部によく問い合わせがきた。
写真はガレキの中で再開したライブの様子。
(4月6日/撮影者は不明)

 勤務時間内に編集部を訪れる人が増え出している。電話やFAXも入ってくる。就労時間外に編集をするというケジメがあっても、二足のわらじはどう見ても公私混同であることに違いない。快く黙認してくれる同僚だけではない、当然ながら批難も受ける。辞表は提出したが受け取ってもらえないで懐で眠っている。「R誌」の方は既に300人近い年間購読者からその購読料を先に頂いている。
 地震以降の中期展望が定まったのか社長から、両者の思惑を成立させてくれる妙案が出た。というより命令に近いものだったが、有難かった。社長にとっても英断であったのだろう。
私たち編集スタッフ一同で一営業所を立ち上げることになった。これからの情報社会を見据えた先見の明にあふれた事業に私たちも協力することとなった。暗黙の了解で編集部もそこに居候する事になった。状況は大きく一歩進んだかと思われた。
(引き続き以下/第二号の編集レポートから抜粋)

●まだセンテンスが成立しえない。

 地震以来、何が嬉しいことだと言っても、この暖かさに勝るものはない。春の訪れに心を動かすことはこれまでにも幾度かあった。でも、今はそんな季節感ではない単にこの物理的な暖かさ…、温度としての温かさに身体の芯から救われる思いをしている。
 市外に足を伸ばし、何度かいただいた風呂、いくら湯を沸かしても、どれほど長時間浸かっていようが、身体の芯まで温まることはなかった。その固まった芯がやっと最近この穏やかな気候の中で緩んできている。

 この二ヶ月余をどうレポートすればよいのか、特にこの一ヶ月ばかりのことをどう報告すればよいのか正直戸惑っている。
 時折、創刊号を読み直すが、よくぞこんなものをこの時期に作れたものだと、自分自身でも呆毛にとられる。地震直後の異常なテンションが産み落としたものとしか言いようがない。事実多くの人が多少の好意を含めて「冗談だろう?」と言ってくれた。また相応の批判もいただいた。けれど、辛いのは「一体、何を、どう、誰にアピールしたいのか分からない本だ」としごく冷静に評されること。そうゆうご意見をいただく方々の外野席での立姿が、私たちからいかに遠いものか。
 その批評も多くは「みんなに読んでもらい、この小誌がいくらかは売れるように」との好意を含んだ上でのアドバイスであることは承知している。「せっかく作ったんだから、もっとコンセプトをしっかり打ち出そう!」これらの忠告が雑誌つくりには欠かせないことだとは重々承知している。
 しかし「何」とは何なのか「どう」とはどうなのか「誰」とはダレなのか。そんなことが地震直後に明確に了解できていたならば、決してこの小誌は産まれてはいなかったことだけは断言できる。
 「食料」を「車に満載」して「職員」が「運ぶ」
 「消防隊」が「水」を「放水」して「消す」
こんなセンテンスすらも成り立たない時に、あの直後の「思い」や「叫び」を「誰」に「どう」「アピール」する為の編集を冷静に組み立てようなんてことができただろうか。決して言い訳しようとするつもりではない。「思い」や「叫び」をただ無念と涙で包んで飲み込むざるを得なかった人々がいた中で、幸いにして「R誌」というささやかな場を与えられたに過ぎない。
 「地震ジャーナル」という刺激的な発信方法をとってしまったが、実質は単に個人の「思い」をただ吐露する場でしかない。そういうやり方でないと、少なくともこの一年は持ち堪えないだろう。私たちのキャパはとても小さいこともあるし、「誰」とか「どう」とかを見定められる状況ではないのだ。そういう意味で私たちの足元はまだ揺れ続いている。  

●内的ガレキをどうするのか?

 物的な回復が進むにつれ「心のケア」が方々で叫ばれている。
 物的なダメージはさまざまであったけれど、精神的なダメージ「内的なガレキ」とでも言えるか、これは物的なものとは比べようもないほど多様で複雑きわまりない。ますますこれから増加し続けるだろう。
 地震ショックとに加え、それ以降に派生した多くの問題の中で増していく精神的苦痛、圧迫、混乱、それらに「誰」が「どう」明かりをさし示していくのか私にはなかなか見えてこない。
 今、それを見つめる上で大事なことは、それらのほとんどが地震以前からの問題であったり、私たちの生活にもともと内在していた課題であるということだ。以前なら、それらを先延ばしにしたり、見過ごしたりできていたものが、この生活の激変で、一挙に噴き出しているのだ。これらは言うならば、地震とはさほど関係ないことなのだ。

 「年老いた親」それを突然失った人たちの「思い」を代弁することは私にはできないし、しかし、幸いにも失わずにすんだ私たちにも「これから親たちとどう暮らしていくのか?」と目の前に突き付けられている。生き残った者たちの贅沢な問題だ。(この項続く)

 片方では闘いの狼煙を上げながら、一方ではもう昔を振り返って弱音とも愚痴ともつかないことを書いている。これも戸惑いの風景そのものだが・・・。 

(続く)

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。

〓 戸惑いの風景2〔No.20〕

若い編集スタッフが書き上げた「Kobe Man」
(第二号より)

 地震から2カ月ほど過ぎ神戸にも春がやってきた。春霞といえば態はいいが、実際は街中いたる所でひっきりなしに行っている解体の塵とホコリだ。善くも悪くも神戸は巨大な力が躍動し始めている。
 そして、これ又、いたるところで「戸惑いの風景」が広がり始めている。私の心象にひろがる戸惑う風景からは一本の狼煙が立ち上げっていた。(以下/第二号の編集レポートから抜

【本当の闘いは今からはじまる!】

 つぶれるかも、と思った会社が何とか息を吹き返している。仮設だったが社屋も建った。給料もいただいている。仕事は馬鹿みたいに忙しい。JRも動いた。目の前にはテント村があると言ってもすっかり見慣れて違和感はない。ライフラインはほぼ回復した。
 私個人の周辺はこんな風だ。なにかと不便はあるが、さし迫っての問題ではない。ときおり訪ねる避難所もあの頃の緊迫感は薄れ、避難というより、そこで生活しているという感じで落ちついているようにうかがえる。言ってもきりがないから口に出さないのか家を失った知人たちからも、やりきれない話があまり聞かなくなった。困った人は大勢いるのだが、何故か目立たない。
 私自身の生活と言えば、薬、ライト、非常食を詰めたデーバックをもう背負ってはいない。運動靴も革靴に、フリースの防寒具がワイシャツに代わって、遅刻を気にして小走りで駅へと走ったり、サリンのことが気になってつい新聞を買ってしまう。「昨日には戻らない!」と叫んでいた私が懐かしく思えたりする。「何だ立派に戻っているじゃないか」

 これは揶揄して言っているのではない。私自身の正直な感想だ。しかし、生活の表層が平穏に戻りつつあると言っても、すんなりとそんな日々のくつろいだ時の流れに身を委ねきれない。そうできればどんなに楽だろう。でも何かが後ろ髪をつかみ引き戻そうとしている。これらは比較的ダメージの軽かった人のもつ、今の感覚に近いだろうと勝手に想像する。
 その中で「昨日には戻らない」とはっきり意識している人たちを別にして、ほとんどはこのまま元に戻ってよいものか」とおぼろげな引っかかりやこだわりを感じているように思われる。
 一つにはそんな選択すら許されない大きなダメージを受けている人たちへの配慮があるだろう。私たちだけが戻ってよいのだろうか、という後ろめたさ。どんどん拡がっていく格差は、ダメージの大小に関係なくあの時に持ちえた体験の共有感に大きな亀裂を生じさせている。
 もう一つは、戻り着く先の社会の不確かさ。言いかえれば、それは1.17までの自身の生活に対しての不確かさなのか。それに対してのおぼろげな疑念をゆっくり解きほぐすヒマもなく、再び、強烈に社会の波に巻き込まれていくことの恐れだろうか。
  (中略)
「闇雲に戻っていくだけなら、この地震は単なる空白に過ぎないではないか」という創刊号で訴えた私の体験もどんどんと風化が進み、再生のための復興という願いそのものにも「空白」がうまれつつある。
 しかし、私においては、私自身の空白との戦いが、本当の闘いだと肝に銘じている。「R誌」編集部の会社からの独立は充分に可能であった。それまでの生活を清算するにはその方が都合が良かった。しかし、現状は会社に残留する方向に進んでいる。この間いろんな苦悩が編集スタッフに被いかぶさった。辞表と封の切っていない給料袋をずっと懐にしながら、編集作業を模索し続けた。それは、水や電気や電話のなかった頃の編集より辛いものがある。しかし、そんなしがらみをスパっとふっ切る気にはなれなかった。それを断ち切れば楽なことには違いないが、それは1.17を単なるトピックとすることに他ならない。私の人生を踏まえた通過点ではなくてはいけない。しがらみを曳きずって行くことの大切さを若いスタッフもバックアップしてくれた。
 「変えて行きましょうよ、この会社を。ここで辞めたら僕は単なる被災者になります」
 結局、私たちは二足のわらじという一番しんどい選択をしてしまった。ここ三ヶ月間全くオフがない。ここ何週間はほどんど眠る時間がない。外部の人からは滑稽な選択と見えるかもしれない。でも、この二足のわらじが見事に一足の履物になるまで私たちの闘いの一つは終わらない。
 この地には、大小様々な闘いが渦巻いている。私たちの闘いはちっぽけだが、これを積み上げていくよりしかたがない。巨大な復興の求心力に丸ごと飲み込まれないために・・・。

(続く)

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。

〓 最後のメモ〔No.19〕

何か灯りが見えないか必死に車窓から眼をこらす。
まるで自分の心の底を覗き込むように・・・。
(ビジュアル新規作成)

 この日でメモが終わっている。何故だかその訳は思い出せない・・・
おそらく、何かが終わったことは確かなことなのだろう。

【1995.2.6/震災21日目・最後のメモ】

○会社/
地震見舞いの礼状と封筒を作成。
離職証が出来たと後輩へ電話する。

○実家/
3~4本電話。FAXで入稿もあった。
次兄宅へ猫の餌やりにいく。
Sへ電話。FAXが送信できない。
Mとやっと連絡がとれる。
神戸駅よりJRに乗る。車窓は恐ろしいほど暗かった。

注:阪神大震災復旧の過程とういうページで調べたら、まだ2月6日段階では神戸駅の復旧がなっていなかった。おそらく「兵庫駅」の思い違いだと思われます。

 兵庫~新長田~鷹取~須磨の間、車窓からは何一つ見えなかった。その暗さ、背筋から寒くなりそうな静寂の暗さだけは、今になっても忘れることはありません。

(続く)

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。

〓 戸惑いの風景2〔No.18〕

何時見ても心が抉られる景色だった。
(長田区 3月12日/M・S氏の写真を拝借します)

 創刊号を抱えて、日々あちこちを訪ね歩いている。三月に入って、何処へ行っても地震直後の風景とは異質な風景が広がっているのに気が付かざるを得ないのだった。
以下は第二号のテーマとなった写真特集「戸惑いの風景」のコメントから抜粋しました。

 ビルの谷間のきれいに整理された更地を見て、ここは一体どんな惨状であったのか、必死に思い出そうとする。見たはずのない場所であっても一所懸命に想像する。この習癖は風化への抵抗なのだろうか。
直後のままのガレキの中を歩いていると安心するという人もいる。焼け跡の取り残された傾斜のビルを「シンボル」のように眺める人もいる。ガレキを見ると恐ろしくて、足がすくみ歩けないという人もいる。
 復興に直走るこの街では、加速度的に動き始めた時間、まだ、1・17で止まったままの時間、そして進んではすぐ立ち止まってしまう時間、遠くへ戻ろうとする時間、揺らめき戸惑う時間、様々な時間が方々を向いて流れている。
数多くの個々の体験があったように、そこを出発点として流れ出した時間も数知れない多様さで絡み合っている。
今、このリズムの違い、感覚のズレ、定まらない視点に多くの体験者らが戸惑い、悩んでいる。
               *  *  *

 いくつかの建物が解体された。いくつかの整地に仮設の建物が建ち始めた。既存の街で何万、何十万という建物を一度に建て直し、補修するのは、荒野に新都市を建設するよりはるかに難しい。
 少しづつ整備されていると言っても、あの時からこの目に見える風景はさして変わっていない。ただ、その風景を見つめる視線が大きく変わっていこうとしている。その違いが、あの時に持ち得た共有感に亀裂をうみつつある。

 戸惑う風景は、内からも外からも引き裂かれていくような気がしてならない。

【1995.2.4/震災19日目のメモ】

○会社/
とにかく寒気がする。
抵抗力が落ちているのか。
6~7名だけが出社。
創刊号のレイアウトが固まる。

○垂水/
連れ合いが帰ってきた。
久々の手料理。とにかく美味い。
銭湯へ。男湯は15分程の行列で入れた。女湯は長そう。
溜まった洗濯を片付けてくれた。
地震後、初めて全部を着替えた。

【1995.2.5/震災20日目のメモ】

朝が起きれない。
○会社/
原稿書きに専念する。ガイド版のゲラが出来る。
創刊号の目次もできる。
表紙もWが作った。

○垂水/
今日も手作り料理。うれしい。
連れ合いは明日また、避難先の実家へ帰る。
一緒に避難している祖母の世話もあるから。

(続く)

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。

〓 戸惑いの風景〔No.17〕

R誌が突っ走り始めた頃、足下では無数のズレが
蔓延りはじめていた。(2月5日/編集部撮影)

 印刷・製本を大阪なり明石なり、市外の業者に発注すれば簡単なことなのだが、何としても神戸で最後まで作り上げたい。その思いもあって発行がやや遅れたが、2月末になって創刊号がやっと誕生した。

 刷り上がった1万冊の創刊号を目にして、まずはそのボリュームに圧倒されました。壮観でした。4畳半一部屋あっても収まりきれない。地震でただでさえ空きスペースがないのに、どこへ置いておくものか困る。そして、これがみんな売りさばけるのか?いや、高くても(頒価500円)これは売らなければいけない。自立への道だから、趣味でもボランティアでもないのだから。
もしも、売れなかったとしても、これを配付するだけでも大変な作業になる。「本を創るのは簡単!問題はそれからだよ」という地元出版社のIさんの言葉を思い出した。

 実際、ここからイバラの道が始まるのですが、この創刊号をとにかく少しでも多くの本屋に置いていただくために、手分けして駆け回り始めた。一方では次の第二号の取材や編集に取りかからなくてはいけない。そして、会社をどうするのか?プライベート生活をどう整頓していくのか? などなど難題を山と抱えつつ、「売るしかない」と60リットルのザックに詰め込んで、バイクにまたがり本屋を巡る。100冊も詰め込めば、2泊3日の山行を思い起こす重さになる。だが肩の痛さより、配本時の交渉のもどかしさが辛い。
 自費出版本の持ち込みは、決済や管理が煩わしいので大体は断られる。しかし、内容が内容だけに、じっくり経緯を説明すると、そこそこの共感が芽生えて話がすすむ。大型書店でも「よし!やりましょう」と店長と合点するれば、快く預かってくれるところもあった。

大阪は外側・別世界だった

 ところが大阪は違った。有名K書店ではけんもほろろに断られた。「地震ジャーナル?」怪訝な顔つきを見て説明する気もなくなった。書店だけではなかった。大阪というもの自体が私たちを怪訝に見ていたようだ。大阪駅に下り立った時に、震災ルックにリュックを担いで立っている自分の周りの空気がまったく異質なことに戸惑った。「別世界に来てしまった。なんて空々しい処なのだ」ここは、私たちの中では既に消え去った空虚な都会そのものなのだろう。
それでもめげてはいられない。歩き回って、やっとA書店のSさんと出会うことができました「ごくろう様でした」と、人間らしい言葉に出会えホッと一息つきました。それもその筈、彼も尼崎で厳しい体験をされたとのこと。出版界と書店のこれからの有り様の貴重な考えもいただきました。(そのあたりの原稿も依頼いたしました)その頃すでに始まっていた書店の大型化が、小さな書店を淘汰し、街の文化的なあり方自体を変えていこうとしていることに大きな懸念を持たれていたのです。
実際、時代はそういう方向に加速し、一方ではネット書店の直販・再販が際立ち、下町の小さな本屋さんはすっかり姿を消してしまいました。

 第二号の発行までに、一般書店、テント村、大学生協など京阪神に33か所の販売拠点を確保することが出来ました。そして、号を重ねるにつれ、それは全国的に広がって最終的には90カ所になりました。広がることは有難いのですが、同時に、配本、回収、決済という作業の煩雑さに音を上げてしまうことになっていくのです。

【1995.2.2/震災17日目のメモ】

とにかく寒い朝。
○会社/
ぼちぼちと仕事の引き合いが。
コーヒーブレイクが多くなった。煙草が倍ほどに増えた。
激しい揺れ。(震度3だったが痛んだビルはよく揺れる。みんな飛び出す)
9時まで原稿を書く。

○実家/
水汲みの後、すき焼き弁当。
ワープロ打つ元気がない。
WよりFAX。資料と原稿をいただく。

【1995.2.3/震災18日目のメモ】

○会社/
カメラ、ロッカーなどを搬出。
向かいの避難所で福豆を配る。カイロ、下着なども。
後輩たちとオフィスで焼肉パーティーを。久々の新鮮なタンパク質。
ギターを弾く。懐かしのフォークソング大会で盛り上げる。

○自宅/
ラーメンとローソンのごはん。
テレビを見てしまう。
連れ合いに電話、帰神を要請する。

(続く)

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。震災直後から手元にあったノートに、走り書きのように書き留めていたメモがありました。このメモは、21日目後の2月6日に途絶えていました。はっきりとはその理由は覚えてはいませんが、その時点で「何かが終わった」のだろうと思います。〈前夜その1〉

〓 明日への胎動が始まる3〔No.16〕

私たちの周囲に「昨日」へは、もう
帰らないと決めた人が集まり出した。
(U氏撮影/日時不明)

 編集部は元気に旗揚げした。それから12年も経っているが、この雑誌の実名は匿名のブログという場でもあり、ここでは伏せておきたい。「R誌」と呼んででおこう。私が書いた文章以外は極力、引用しないように努力していますが、はみ出して借用した文なり写真があれば平に御容赦願いたい。(※著作権範囲が不明)

 「R誌」の原本1号から6号までを手にとって、12年振りに読みかえした。今でも込み上げる興奮で身震いがする。これは、とうてい私たちが作り上げた本ではないような気がする。こんな凄いパワーがあったはずがないだろう。
何かが、たまたま私たちに乗り移って、あれよあれよと私たちを操って創り上げたとしか思えない。実際のところ、編集が始まって、印刷所から届いた創刊号1万冊を目の前にするまでの間、記憶が定かでなく、メモを見てもよく思い出されない。

 とにかく創刊に向けて、五つのコンセプトを詰め込んだガイド版を手に、口コミ、手コミ、コネコミ、ポスター、チラシ、パソコン通信、マスメディアも利用しつつ西奔東走して、原稿や情報を募った。そして「R神戸」ではなく「R西宮」「R尼崎」「R大阪」「R東京」が生まれますよう心から訴えた。
 特にインターネットの前身であった〝パソ通(パソコン通信)〟がその速さ、情報処理の軽快さで力を発揮した。私たちもこのR誌専用のHPを立ち上げ(HPと言ってもホームページではなく、NIFTYのホームパーティですが)より広く、より多くの情報交換を可能にすることができました。
 人の輪はみるみる内に広がり、様々な情報や原稿が集まりはじめ、いろんな形の活動・共同事業の芽となるような提案や企画が持ち込まれるようになりました。たしかNIFTYで震災(情報)ボランティアフォーラムが立ち上がったのもこの頃だった覚えている。
パソ通大手3社(NIFTY、PC-VAN、People)をはじめ、インターネットのニュースグループを介してBBSが同じ会議室を参照できたということも起きた。閉じていたサーバがオープンに繋がっていく。時代がそういう時代であったのだが、震災の経験がインターネットを急速に現実化へと引っ張っていったことも事実だと思います。

東京にも震災情報誌・R社が誕生した

 救急車や消防車、自衛隊よりも早く現場へやってきたのは、マスコミのヘリでした。それも半端な数ではありません。飛ばせるヘリを総動員して各社合わせて何十機やってきたのでしょうか。私たちも下から見ていて、消化剤を撒くなり、物資を落とすなりできないものかと苛ついたものでした。
 しかし、現実はこのヘリからの映像と情報をTVでモニターするしかなかったのが行政(国や地方)であり自衛隊でした。(何と情けないことですがテレビで状況判断していたのです)そういう意味では震災の第一次報道は大きな意味がありました。この反省をもとに様々な施策が講じられました。インターネットもその目玉でしたが、その成長・発展は凄まじく、今日のスマホ社会を見れば隔世の感があります。

 話が逸れてしまいましたが、私たちへの共鳴者が増える中に、東京で出版事業を営むKさんより全面支援の申し出がありました。ちょうどその日、解体工事のゴミが目に入り病院をさがしてウロウロしている時、たまたま避難所の看護室に眼科の先生がいるとのことで手当てしてもらった直後でした。のちに彼女が「R東京」を立ち上げることになるのですが、その経緯を第二号の「R東京」へ寄稿した文で紹介したい。

「遊歩大全」のC・フレッチャーが自著で紹介したばかりに、神秘の地「ウィルダネス」は多くの人に踏み込まれ、環境汚染を産んでしまう。果たしてそれで良かったのだろうか?と彼は悩む。しかし、親しい友人の助言で彼は思いきることが出来るのだ。その助言とは・・「神秘の地」に足を踏みいれた者でしかウィルダネスの素晴らしさは分かり得ない。そして、それを実感したものだけが、本当にウィルダネスを守ることが出来るのだ・・・。
 という引用文を以って「何かしたいが、神戸に行くと迷惑になるから」と神戸に足を踏み入れるのを躊躇している友人にメールを送った。

 「そんな馬鹿な!あなた自身のために神戸へ来るべきだ」と。

 〔中略〕外から何が出来るのか? 内からは外へ何を望むのか? 戸惑いがひろがりつつある頃、東京のKさんより初めての電話をいただいた。おりしも眼を痛めてウロウロしている時だった。道路にしゃがみ込んで、ヒシヒシと伝わる温かい励ましの言葉に、感激なのか眼のゴミの痛みなのかとにかく目頭が熱くなった。
 それまでにも知らない方々から幾度か励ましのお言葉を数多くいただいた。その度に雑誌を抱え先行き不安な私たちは、大きな元気をいただいた。本当に感謝いたします。しかし、ついでにごう慢な本音を言わせていただくなら、私たちのためにリセットボタンを押すのではなく、あなた自身のためにそのボタンを押していただきたい。

 それをKさんにも伝えた。その思いが通じて、数日後「R東京」の誕生を聞いた。第二号よりこちらの編集にも参加していただけることとなった。こちらと同様「R東京」と言っても彼女の個人的な作業となる。大変なお荷物を背負わせてしまったようで申し訳ない。とにかく東京発信でけっこうですからと殆ど向こう任せにしてしまった。

 東京と神戸のズレはしかたない。ステレオのように両方から違うトーンの音色が流れてくるかもしれない。しかし、それで各々が聞こえなかったこと、見えなかったことが、はっきり浮かび上がってくるかもしれない。

 東京では3月に大きな事件が起きることとなる。  

【1995.1.31/震災15日目のメモ】

とにかく寒い朝。
○会社/
電気が回復。社長の顔が元気だ。
多くの同僚がいた別館のワンフロアを2人で使う。
スタッフ会議、原稿の分担、資料の収集。
原稿がそろい始めた。

○実家/
コンビニが回復しつつある。まだ御飯類、牛乳が少ない。
避難先の京都に電話がつく。罹災届などの連絡を。
Cから大量のFAX。編集案をいただく。
  〔略〕

【1995.2.1/震災16日目のメモ】

○会社/
パソコン通信のIDを申請。
会社より離職者への職場紹介の話が。
インタビューを開始する。

○避難所/
Dの娘が倒れる。ストレス性の貧血。
おにぎりとサケ缶をもらう。コーヒーを差し入れる。

○自宅/
シーフードカレーと野菜ジュース。
ワープロを打とうと思うが寒気で布団に入る。
深夜まで考えるが3行しか打てない。概要だけをメモ。
もう少し文章力があればと嘆く。
Cよりまた大量のFAX。
髭をそりたくなった。


(続く)

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。
(*このコメントは震災の12年後である2007年当時の旧ブログのものです。現在(2021年2月)、誤字などを訂正しつつ、本ブログへデータ移行しています)