〓 原型復帰という恐怖1〔No.12〕

事務所も電話もFAXもない。
どうやって我らのアリバイを確かめるや?
(創刊号の表紙)

 ここ数日、なにやら疲れて書けませんでした。取り急ぎ3日分のメモを掲載しておきます。

【1995.1.21/震災5日目のメモ】

○会社/
社員全員の消息が確認できたらしい。
ようやくデスクの周辺を片付ける。
同僚へ「ただ元の社会へ戻ることの抵抗感」を伝える。
神戸駅の方に空き事務所が借りれることになった。
社長の元気が回復。
しかし、これからの指針が見えない。説明もない。
社員の中に離職・転職への動きが・・・
動揺する後輩に、今こそ周囲に振り回されないで
自分のしっかりした考えを持つように言う。

○避難所/
Dさん母娘にやっと会える。
「食べ物はいらない。コーヒーやタバコが欲しい」とのこと。
逆に弁当や缶詰をもらう。
Gがいるという避難所へ。会えなかった。

○実家/
避難先の連れ合いへ電話して、ついしんどさを愚痴ってしまう。
Kより電話、バイクが尼崎で手に入ったとの知らせ。
Rへ連絡、Mはまだ不明だ。
Wへ電話、「このチャンスを生かしたい」と相談。
出版ルートの探索を依頼する。
頼りの編集スタッフPが東京より大阪へ、明日神戸に入るとの連絡。
雑誌の名、命名案を考える。
テレビで相撲のニュースを見る。
地震報道以外では初めての画像。
今日も眠れない。酒を飲む。

【1995.1.22/震災6日目のメモ】

○会社/
時折激しい雨の中で器材を運び出す。
歪んだスタジオからカメラ資材を運び出す。
月曜日に全社員が集合するよう連絡。
仮事務所(仮設本社)へ資材の搬送を開始する。

○実家/
連れ合いに送金を頼む。
両親と長兄一家が京都へ避難する案が浮上する。
次兄も、徒歩~バス~タクシー~大阪、という通勤が限界か?
(勤め先が被害エリア外と言うもの辛いのかも?)
Pより電話、六甲のR宅で落ちあう。
六甲も駅をはじめ、酷い状態だ。
会社の優柔不断な態度にキレたWより電話が、
周囲のことよりまず、己の進むべき道が大切と忠告するのが精一杯だった。
未明まで眠れず。

夜明け前に、パソコンをセッティング。
動いてくれた。
とにかく打ち始めた。
怒濤のように次から次へと頭を思いが駆け巡るが、
なかなか文章にはならない。(取りあえずメモ書きに)

テレビの一般放送が増える。(見る気がしない)
大相撲の結果をおやじに聞く。
おやじの頭の包帯を外して怪我の様子を見たが、
どうやら大丈夫そうな感じだ。

【1995.1.23/震災7日目のメモ】

○会社/
遠方からも社員が出社するようになった。
昼過ぎには60名ほどがそろう。
一斉に片づけを始める。
重い自販機も人海作戦で起こす。各フロアを整理。
Aさんの母上のダビがやっと明日に決まる。
(後日談:犠牲者の弔いが出来ない、火葬場が足りないことがこの頃の深刻な問題として在った。
雑誌の中でも、この事を取り上げて、作家のH氏が「死者たちの周章狼狽記」というレポートをしてくれた)
○実家/
両親と長兄一家が京都へ避難していった。
連絡が取れず、鍵もないのでマンションに入れず。
K小学校の避難所で食事をもらい、階段の端で仮眠する。
数十年前、この学び舎で過ごした思い出があれこれよみがえった。

(続く)

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。
(*このコメントは震災の12年後である2007年当時の旧ブログのものです。現在(2021年2月)、誤字などを訂正しつつ、本ブログへデータ移行しています)

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