○資料03:引き裂かれた六甲山(わがウィルダネス)

六甲山最高峰 931.25 m・山頂標識
六甲山最高峰 931.25 m・山頂標識

★このカテゴリーは、私が六甲遊歩会時代(1984-1995年頃)の間に記述・編集されたものを、本ブログに加筆の上、再収録したものです。ブログの日付けは収録日に過ぎません)
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●自然とは何か

六甲山が抱えている現実的な環境問題はここでは紹介いたしません。この遊歩会とは別な形で取り組まなければいけないでしょう。 「私たちが六甲山に入ることで六甲山を傷つけている」という前提を胸に刻みながら、ここでは遊歩と自然との関わり合いを紹介したいと思います。 まずは、「神秘のフィールド/ウィルダネス」を紹介したばかりに、多くのバックパッカーを引き入れてしまったことに関して、C.フレッチャーが次のように語っています。

 バックパッカーの数が次第に増え、自然そのものの存在が危機に瀕しているとすれば、私のやった仕事(ガイドの著作など)は、そうした侵略を促進させる役割を果たしているのではないかと思えてきて、(遊歩大全の)改訂版を出すことに躊躇を感じていたのだ。 そのとき、ある人が言ってくれた。「問題はウィルダネスに入り込む人の数の多さにあるのではなく、本当の生活、最も正しい生き方を知らずにいる人間の多さにあるのだ。われわれには、このような本がもっともっと必要なのだ。」私はこの好意あふれる気持ちが正当なものかどうか確かめることもせず、ひたすら嬉しくなって、すべてを受け入れてしまったわけである。(C.フレッチャー著「遊歩大全」より)

 太字部分の本当の生活、最も正しい生き方とは価値観の問題で、その多様な中味は一言で云々できませんが、とりあえず一般的なナチュラリスト的な言葉として考えておきましょう。私個人からは、一体何が「本当」何が「正しい」のかを断言するつもりは毛頭ありませんし、その勇気もありません。
 今、言えることは、都会的な生活が間違いで、ナチュラリスト的な生活が正しいという単純な理屈は不毛だということです。私は、週末は自然の静寂の中に身をおいても、それ以外では都会の喧噪の中で暮らしています。どちらが是か非かの問題ではなく、その両極を自由に行き来できる自在さを「遊歩」に求めることが大切なことと考えています。 自然というものは、自然と呼ばれるエリアがあって、そこへ行けば必ず自然と出会えるというものではありません。逆に、カルキ臭い水道水、どんよりした空、埃っぽい風…都会的な環境の中であっても、自然を感じ、掴み取ることもできるのです。要は感性の問題です。そして、天才的なアーティストか悟りを開いた聖人でない限り、この感性はバーチャルな環境では決して磨かれることはありません。われわれ凡人は手足、肌、目、耳、口を使って自然の何であるかを実際に体感し、自らの「内にある自然」と出会っていく以外にはありません。

山口市秋穂・火の山 303.6m

 —-なぜ人は、冷えたシャンペンの方が、マウンティン・クリークから流れ落ちるあの氷のように冷たい水よりも「リアル」なのだと考えるのか。なぜ、ほこりっぽいアスファルトの歩道の方が、あおタンポポのじゅうたんよりも「現実」なのだろうか。ボーイング747
ジャンボジェットは、日の出と一体になって飛翔する純白のペリカンよりも「リアル」だと、なぜ言えるのだろうか。言葉を換えて、もう一度言おう。ウィルダネスの美、沈黙、孤独から生まれ出るものより、シティーライフから生じる行動、感情、価値観の方が、なぜ「リアル」なのだろうか。(中略) こうしたもの(文明的な物)こそ、動物と人間とを別の存在にさせてしまい、私たちの視野を狭いものにしてしまっている原因なのだ。私はこう結論したい。山の清水、砂漠の花、白い鳥の夜明けの飛翔、こうしたものこそ、いっそう激しさを増した現代生活の複雑さの根本にあるリアリティーであり、シャンペン、アスファルト歩道、ジャンボジェットは、その真のリアリティーの延長線上にあるものとして視野に捕らえてこそ、初めて意味を持ち得るのだと。(C.フレッチャー著「遊歩大全」より) 

 広大な〝ウィルダネス〟世俗化、公園化された〝六甲山〟とでは、事情はかなり異なりますが、六甲山域でも都会生活ではなかなか見いだせない「リアル」と数多く出会うことができます。
 神戸市内には六甲山の沢から、大阪湾へ流れ込む数本の小さな川があります。護岸されて環境的にも自然な河川といえない状態ですが、そんな流れを源頭へ向かってどんどん遡っていくと大変、面白い体験ができます。山中にさしかかると護岸もなくなり、自然の沢の有様に戻って、時には渓谷状になったりします。できる限り水際を歩いていきますと、生活ゴミが浮いていた淀んだ流れが、清流に変わり水中の生物などもたくさん現れ、変化し、所によってはそのまま飲めるようになります。砂防柵や堰堤に度々遮れますが、なんとかそれも乗り越えて遡っていきます。谷の核心部分ではその沢がまるで自己主張しているような特色ある滝がいくつか姿を見せくれます。その滝の飛沫を浴びながら、急場を巻きこんで乗り越えていきます。いくつかの支谷を過ぎやり、本流と思える沢の急斜面をつめると徐々に流れは細くなります。そして、いよいよ源頭に辿りつくと、岩の間からポタポタと湧き出る水滴を、または地中からしみ出る小さな湧き水を発見することでしょう。これは感動です。(感動せん奴も居るかも?)ここまでが、短い沢で半日、長い沢でもまる一日あれば六甲山では充分です。時間があれば沢の中で孤独なキャンプを楽しむのもいいかもしれません。6月中旬頃なら、もしかして天然のホタルなんかと出会うかもしれません。
 私は、自宅の蛇口から流れる水道水に「哀れさ」を感じると同時に「大いなる自然の営み」も同時に感じることができます。その「二つのリアリティ」を持ち得ることができます。それも、その水が何所でうまれ、何処から湧き出てきたのか、源流のあの水滴をこの目で見て、この手ですくい、この口で味わっているからです。そういう本来的な水と出会った感動があるからです。風や雨もしかり、木々や日ざしも然りです。
 禅から生まれた茶道の茶室には、よく一輪の花が飾られます。それだけで大自然の多くをそこに凝縮させている訳ですが、禅の達人でなくとも、遊歩を積み重ねた体験があれば、一輪の花から、一陣の風から、小さな木漏れ日から、「リアル」を感じ、心を動かすことができます。

引き裂かれた私

 よく現代人は「引き裂かれている」と言われることがあります。この引き裂かれた状態とは、バーチャルな環境(生活)においての自分と本来的な自分(これが何かは難しいが)とのギャップをさすと思います。「自然」というテーマに絞れば、上手な言葉ではありませんが、「私たちが今、定義している自然」(頭で考えている自然)と「あるべき自然」(感性で実体験した自然)のギャップがあって、その「二つの自然」に引き裂かれている状態を感じてしまいます。
 俗化した六甲山なんかに本当の自然はあるのか? と毒づく方がたまに居ます。また、六甲山の自然を守れ!とか叫ばれる方も多いです。しかし、そう言う前に「豊かな自然、守るべき自然」とは何なのかを、まずは深く突きつめなければいけないと思います。その問いかけは「傷つき続ける六甲山」自体から発せられているように感じます。その問いかけに応えるためには、「私」がハッキリと感じえた「リアル」を積み重ねていくしかありません。これこそが「内なる六甲山」と言えるのではないでしょうか。 自らの内に六甲山を見い出すことが、内なる自然との出会いへと通じています。ここに至れば私たちの「二重の現実」をよく見渡すことができます。その上で環境問題や自然保護の課題を考えてみてください。そして、自分の生活も…。そこから先は貴方次第です。

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○資料02:遊歩の舞台としての六甲山とは

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山の山並みと岩国周東町の山影を合成
六甲山の山並みと岩国周東町の山影を合成

平凡な?裏山…六甲山

六甲山系は、日本各地のどこにでもあるごく普通の山塊です。日本アルプスなど内陸地帯にある山系に比べれば、標高、スケールなどでは到底およばない小規模で、しかもかなり観光化、はっきり言ってかなり俗化された山域だといえます。ドライブウェイを始め、ケーブル(3系統)、ロープウェイ(3系統)などによる山上へのアクセスも整備され、植物園、牧場、スキー場、ホテル、レストラン、博物館、ゴルフ場(日本最古)住宅地、別荘群、郵便局、小学校などの行政施設も整った都市機能があるというか、もう都市そのものでもあります。
 東西約30km~南北約10km、100余りのピークがあり、931.3mの最高峰をもつこの山塊は、数十万年前から始まった大阪湾からのプレートの圧迫で準平原が隆起でできあがったと言われています。火山活動や氷河作用をあまり受けていないので、単独峰や尖鋒が少なく、山上は大きな平たんな高原部分をもっています。
 1,000メートルに満たない標高ですが、南山麓は急な斜面が多く、アプローチがほとんど海抜20~50mといった地点から始まることを考えれば、内陸地の1500~2000m級に準じる実標高差をもっているともいえます。気象的には瀬戸内海の温暖な気候域に含まれ、さほど厳しさ・険しさはなく、降雪時のみ積雪する程度で冬期の登山も特に問題ありません。

満身創痍のステージ

 さて、我が裏山もこのような紹介であれば、何も遊歩においてもさほど際立つ特色があるとは言えないステージですが、「遊歩」がより遊歩のステージとして鮮明に浮き上がる重要な条件で、他の山域にはあまり類のない条件が六甲山にあります。  それは山麓に拡がる「巨大な都市圏」というものの存在です。東西南北から圧倒的な都市化の波を受け、また山頂もドライブウェイ沿いに観光化が戦前より進んでおり、自然の保全という点では、ほとんど六甲山系は満身創痍といえます。この点では日本各地の都市近郊の山系は大なり小なり似たようなものです。しかし、山麓に数百万という人口(ほとんどが都市生活者)を抱え、都市化の脅威と侵食を受けつつも、なおかつこの山系が 独自の自然の秩序…父親のような凛々しい威風と母親のような優しい慈愛を持ちつづけている のは不思議と言うほかありません。そう感じるのは私だけでしょうか。  「六甲山に一体、本来の自然がどれだけ残っているのか?」と問われることがあります。答えに窮する場合が多いのですが、未開のジャングルや未踏の深山のような状態を自然というなら、そういう自然は残念ながら、このエリアにはほとんど無いと言えるでしょう。近代に至るまでに平安の源平合戦、戦国時代の戦火でほとんどの樹木は伐採されていました。現在の植生の多くは明治以降の植林事業によるものだし、沢のほとんどが都市を守る名目で進んでいる堰堤(砂防ダム)100年計画で、無傷な谷はなく、都市化のあおりで猿、鹿などの野生の動物も消え去り、保護されているイノシシ(というより猟の危険から都会人を守るためか)は野生を忘れ料金所で餌をねだっています。はたしてこの地に自然なるものがあるのか?私たちのウィルダネスになりうるのだろうかという疑問はぬぐえません。

摩耶山(702m)から望む神戸の市街地
  摩耶山(702m)から望む神戸の市街地

内なる六甲山とは?

 「六甲山は巨大な公園だよ」とか「でっかいおもちゃ箱だろう」と断言する人もいたりする。それも確かに立派な言い草なのだけれども、もっと大切なことは、そこに望むべき自然があるかどうかということよりも、自分の内に向かって「自然とは何か?」という問いかけを続けることと思います。 ヒマラヤやアマゾンでこれが自然だと頭を垂れる人もいれば、そんな場所に立ち会ったところで、文明だけを妄信する人なら素直に目の前の自然を受容できない人もいる。アウトドアと称しながら、室内道具を満載して学校の校庭のようなオートキャンプ場でキャンプ張る。これでは日常のドアから少しも足を踏み出していない。アウトドアの振りをしたインドアと言わざるを得ません。要は、自然とは何かを問う前に、自身の中に自然を感じる感性がどれだけあるか、その問題の方が重要なのです。  茶人や花人のように、高層マンションの鉄筋であっても、部屋の中で飾られた一輪の花に無限の自然を感じることができる人ならば、その部屋には自然があり、カルキ臭い水道水であっても、その源流を知る者、沢を登り詰め岩の間からわずかに滴る水を一度でもノドに通したことがある者にとっては、自然の何であるかを、また不自然の何であるかを 十分に思い知ることができます。ビルの屋根にかかるどす黒い雨雲も、それを山上から雲海として眺めたことのあるのにとっては、また愛しい雲の仕業だと受け入れることができます。風であれ雨であれ然り。わが内にある自然がどれだけリアルなのかが問題なのです。  私たちは自分の足で〝歩く〟ことによって、そういう体感を得て、感性を身につけていくことができます。そういう意味で六甲山は私の裡に形作られていき、私にとってのウィルダネスとなっていくように思えます。  話は少し逸れましたが(詳しくは「自然とは何か?環境問題と六甲山」の項目を読んで下さい)自然と不自然が圧倒的にせめぎあっている状態がこのエリアにあらゆる場所で感じられるのです。 

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○資料01:〝遊歩〟とは ? (2) アート? 禅? 旅行?

山口県山口市・東鳳翩山 ( 743m) 愛犬クッキーと登頂
山口県山口市・東鳳翩山 ( 743m) 愛犬クッキーと登頂

■遊歩は動的な『禅』かもしれない?


 ここで話は千年以上昔に遡ります。中国やインドではさらに千年、二千年も古の時代なのでしょう。密教行者、修験者が自然(宇宙)の神秘を自らの身体に体得すべく、ひたすら山野を、峰々を、岩場を歩き巡りました。「瞑想」と共に重要とされたこの行は「抖そう行」と呼ばれたらしいのですが、自然の摂理、宇宙の哲理を頭だけで勉強するのではなく、険しい山林を自分の足で歩き回り、身体全体で自然や宇宙を掴みとろうとしたようです。比叡山の千日回峰、吉野山の奥駆けなどは代表的な「歩き」による修行です。
 後の禅宗では、「歩き」より「座禅」という瞑想的な方法での修行が盛んになりました。禅を勉強したわけでないので、的外れかも知れませんが、「渓声山色」自然の中を歩かなくても、我が身をして自然と悟れば、己が何処にあろうが、渓谷の音を聞き、山の色を見ることができるといいます。「歩く」という行為をも「座る」という行いの中に取り込んでしまう。この禅的修行の代表的な境地が「無心」とするならば、慌ただしい都会で、日々生活に追われている私たち凡人にはなかなか手の届かない境地だといえます。やはり、私たちに合ったそれなりのフィールドが先ず必要となるのでしょう。
 私自身たまに、いや「一人歩き」の場合には、往々にして「無心」を体験することがあります。疲れに喘いでいたり、ルートを必死で探していたり、風景に圧倒されたり、「無心」というより、「夢中」に近いかも知れませんが、全く自分が真っ白になって、自然のフィールドで踊っているような、踊らされてるような、心地のよい状態になることがあります。考えごとをしているようで、何も考えていない。何も考えていないようで、充実している。自然に対して素直で、柔軟な自分になっている時、それも「無心」の一つというなら、遊歩は立派な「動的な禅」とも言えます。

■遊歩は「アート」なのだ!?


 次にアートという切り口で「遊歩」を紹介してみましょう。
「パフォーマンスアート」という言葉がありますが、最近では、思わせぶりな行為をさして世俗的に使う場合が多いですが、本来は一つの芸術思潮で60年~70年アメリカのアーティストを中心に流行しました。簡単に言えば「アートとは作品そのものでなく、作品にいたるまでの行為こそアートなのだ」と言うことです。
 初期の遊歩会では、私を含めモダンダンスをやっていたメンバーが数人いたこともあって、「歩き」をダンス表現の一つとして考えてみようという試みがありました。まさに再現不能の一回性アート、六甲山という巨大なステージで、観客は不在のパフォーマンスでした。とは言っても踊りながら歩いた訳ではなく、草原状の東お多福山々頂でストレッチをしただけで、見かけはごく普通のハイキングとさほど変わりないものでした。しかし、これを期に「歩き」における自己の表出の可能性を深く考えることとなりました。
 1986年に「近所登山パフォーマンス」と冠して13回の遊歩を、公募でメンバーを集め実施いたしました。現在の中心的なメンバーですが、彼らのほとんどが「アートとしての歩き?」「自己の表出?」「なんのこっちゃ?」と思いつつ、戸惑いつつも六甲ハイクを楽しんでいました。
 こういう彼らに「山へ行けば、必ず自然があるとは限らない。ひらいた風景の中で、子供のように素直に心がひらかれなければ、自然と出会えないのだ…」「そして自然と出会うとき、まだ見ぬ自分を発見するだろう。自分との出会いが遊歩なのだ。」というメッセージを会誌「ぶんぶん」の中で送りつづけました。  巨大なステージの中では、作為的な個人の行いなど微々たるものでしかありません。それよりもよりステージの中に自然に、素直に溶け込み、自分を委ねてしまうことの方がいかに自分らしくなれるか。アートとは自己の表出に他ならない。そこには普通の感性や想いだけではなく、屈折したり、密かに押し込められたものもあるだろう。枠にはめられ、あふれた情報に混乱して、自分自身や自らの進む道を見失いがちな現代社会に暮らす私たちにとって、見知らぬ自分、隠された己と出会うことは大切な事です。それも「テレビ」「麻薬」「株」という現代のバブル的ツールに拠らない方法で…。
 舞踏の創始者といわれる土方 巽の言葉にも数多く「遊歩」連なるものがあります。
「舞踏とは自らの肉体と出会うことだ」「我が肉体に降りていく」
 遊歩もまさしくそうありたいものです。

■放浪、遍歴の旅~『私に向かう旅』


「遊歩とは、限りなき自己への旅立ち」…。少しずつ「遊歩」の核心に近づいてきましたが、その前に少し「遊歩」と旅、それも「放浪の」とか「遍歴の」と形容される「旅」とのかかわりを考えてみたいと思います。こういう旅に身を置いた方々は数えきれません。古から、学問にしろ、武術にしろ、宗教上の修行にしろ、また、ごく些細なきっかけにしろ、とにかくもあてどなく「歩き」始めた人のそれぞれの軌跡を追ってみるのも「遊歩」を深める大きなヒントになるかもしれません。
 現代を含めて、どの時代にも数多ある放浪の軌跡のうち「山頭火の旅」は私にはきわめて身近な軌跡に感じてなりません。
 「分け入っても分け入っても青い山」この遍歴を告げる句の前書きには「解くすべもない戸惑いを背負うて。行乞流転の旅にでた」と記されています。お堂で悠然と禅をむすんでいるだけでは己を掴まえきれなかった。とにもかくにも己を探すべく山頭火は歩き始めたのでしょう。彼にとっては確かな成算があって歩き出したのではなく、背負った戸惑いを解くために、つまり、我執にからまれ動きのとれない心を動かすために、とにかくは「歩き巡り」しかなかったのでしょう。
 「心があることにしがみついて動こうにも動けない。動けない心を動かすためには、体をうごかさなければならない。歩き続けるしかなかった。」こうゆう個的で切実で重い「歩き」をも遊歩と呼べるのだろうか、それにはためらいを感じます。あくまでも私たちにおける「遊歩」とは、個としての軌跡(単遊歩)と多くの仲間と共に描く軌跡(復遊歩)の両立を前提に考えているからです。
 しかし、個としての歩き(単遊歩)を深めて考えるなら、こういう流浪、遍歴の「歩き」が遊歩の核として

「遊歩」とは「私自身に向かう旅立ち」
 という一つのイメージが浮かんできました。こういう事をはっきりと意識できるようになったのは、私が歩きを始めてから、かなりの月日が経ってからのことです。友人には「ちょっと六甲山狂いをしています」と茶化していたものの、私自身、何故、六甲の山々に魅了されているのか、彷徨いに近いような歩き、何かに引きずられているような歩きを続けているのか、しばらくの間は不明でした。
 長い遊歩の明け暮れの中で、うっすらと私は六甲のある頂きから峰々に長く長く伸びた、自らの影を追い掛けていることに気がつきはじめました。「失われた私の影との出会い」これは、もちろん神秘的な現象ではありませんし、ことさら詩的に飾って言っている訳でもありません。
 〔中略〕
 余暇の遊歩だけでなく、仕事上にも、人間関係の上でも年相応の色々な出来事を積み重ね、私自身が、不確かではありますが、自分自身が何たる存在かを少しづつ掴め始めています。それも三十路半ばから始まった遊歩で様々な体験、都市社会だけでは味わえない、自然のフィールドの中で体験できたことが、「見失っていた私と再会」に大いに役立ちました。まだまだ。旅は続く訳ですが、迷いはもうありません。
 〔この項、長くなりそうなので、またの機会にアップデートします〕

■再び遊歩とは…


 「遊歩」の簡単な定義とすれば…アルピニズムほどフィールドが苛酷でなく、競歩のように平易でない。多くは日帰りで、たまにはキャンプ道具をかつぎ数日間、自然の起伏の中を自然からのリスクを背負って歩き廻る…こういう感じでしょうか。しかし、このカテゴリーにあてはまるものとして、低山ハイキングやワンダーフォーゲル、バックパック、トレッキングとか言われるジャンルが既にあります。しかし、確かにそれぞれは立派な「遊歩」には違いないのですが、どれをとっても私たちの「歩き」を表し尽くしている心地がしません。何かしら物足りないのです。
 私たちは有能なスポーツ選手でもなければ、アーティストでもなければ、ましてや山岳修行者でもありません。「歩き」を通して、己の恣意性を弾ましたり、自分の内の何かを表現したり、神秘的なものと出会ったりすることができます。また複数で歩くことによって、日常の社会や人間関係では整理しづらいことが、よく見えてきます。
 冒頭のC.フレッチャーは自称バックパッカーですが、著作の「遊歩大全」のサブタイトルには「Conpreted Walk」と附け加えられています。

 〔以下 略/続きは今しばらく!!〕
 以上の拙文は、機関誌「ぶんぶん」および別冊「遊歩」、入会案内の「遊歩の手引き」そして現代遊歩研究会の資料などに使ったものをまとめ直したものです。後少しでその作業も終わりそうなので、ご期待ください。(2000年12月/再掲) 
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○資料01:〝遊歩〟とは?(1)散歩? 登山? 冒険?

山口市・湯野観音岳 408m 平成30年 元日
山口市・湯野観音岳 408m 平成30年 元日

●このカテゴリーは、私が六甲遊歩会時代(1984-1995年頃)にまとめた遊歩の資料をアーカイブとして掲載しました。
(1984-1994年の間に記述・編集されたもので、ブログの日付けは収録日に過ぎません)
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■ウォーキングは健全なる狂気?

 『テレビ、ヘロイン、株。ひたすらのめり込み、常習患者になりがちなこれらの楽しみに、ウォーキング、すなわち「歩く」という行為にもつながっているような気がする。だが、精神的な偏執に陥りかねないこれらの狂気の中で、「歩く」だけは少し異質だなと感じられるのは、その狂気が快いものであり、精神の健全さにつながっているからであろう。』
   (C.フレッチャー著「遊歩大全」より)

 狂ったように六甲山を歩いていた時期があった。何故、私はこの様に歩いているのか、というより何故、このように歩かされているのか?自身でもよく分からない。その不明さを解き明かすにはやはり、歩く他に手立てが無かった。というような私の初期の「ウォーキング中毒」にかかっていた時代に、上記のフレッチャーの言葉に出会った。
 すでに「歩いている」方には、何も説明もなくても、充分に理解されると思いますが、未だ「歩くことを知らない」方には、ピンとこない、実感のつかめないものだと思います。「なぜ、そんなしんどい事を?」と仰る方が大半でしょう。そういう「歩き」を放棄された方に、遊歩の素晴らしさ、愉快さ、爽快さを説明するほど厄介なことはありません。しかし、そういう方にこそ「歩き」の楽しみを素晴らしさを一番知って欲しいのです。


■散歩なのか?

「遊歩」というものをいかなる角度で切り取っても、それらの断面からはユニークな発見が期待されます。目的に縛られた移動手段の「歩行」や生活に埋没した「歩き」から少し外れたところに『散歩』というものがあります。いつの時代からかそれが、日常の歩きといささか違うものと意識されたものか、私には不明ですが、それはきっと太古の時代、人類が二足での歩行を始めた頃までさかのぼれるかも知れません。いや四足歩行の時代、つまり、犬やネコのような生活をしていた時代、彼らも、もしかしたらそうかも知れませんが、餌の収集やテリトリーの確認という目的で歩き回っているだけではなく、たまには無目的にぶらり歩いてみたいと、気ままな散歩を楽しんでいたかも知れません。
 「散歩」を遊歩の一つの断面だと見ると、果たしていつの頃から「生活歩行」と「遊的歩行」の違いを意識するようになったのだろうか?何を契機に人類は目的のための歩きではない、歩きそのものが目的の歩きをするようになったのだろうか?おそらくこの点が遊歩を解き明かす大きなファクターとなるかもしれません。
 私の勝手な想像ですが、その契機は人類が「私」というものの周囲に存在している風景なり気配なりに、大いなる畏敬を感じたところから、何かが始まっているのかも知れません。言い換えれば、「私」と「私の周囲」のバランスが微妙に崩れ始め、純な欲求のみで日々を暮らすことが許されなくなった時代から「遊歩的な歩き」が生まれたと思われます。

瀬戸内から見た山口県の山(柳井・岩国)
瀬戸内から見た山口県の山(柳井・岩国)

■競歩は歩きか?

 話はいきなり近代へ飛びますが、ヨーロッパの産業革命以降、急速な近代化の中の一つにスポーツの発展があります。スポーツから見た遊歩の断面をいくつかみ見てみましょう。日常に埋もれやすい「歩き」をもっとも単純にスポーツ化したものに『競歩』というのがあります。古代オリンピックにはたして、この種目は存在していたのかどうか調べてはいませんが、近代五輪では歩行の「スピード」を競う立派な種目として採用されていています。  ただし、「走り」との区別を明確にするために、同時に両足が地面から離れてはいけない。一瞬でも膝が伸びなければいけないという二つの原則を設けました。そのおかげであの奇妙な歩行フォームが生まれた訳ですが、競歩における「歩き」とは全く「遊歩」とは無縁なものとなりました。単に「走り」の奇形というしかありません。「遊歩」にとっては「スピード」とは全く不要なファクターです。

■オリエンテーリングに見る「遊歩」

 「歩く」ことをスポーツ化する困難さには、「スピード」以外にもいくつかファクターがあります。速度を競うのみではなく、フィールドの地形や状況を正確に読みながら歩くという「ルートファインディング」を「歩き」に絡ませてスポーツ化したものに『オリエンテーリング』というものがあります。もともとは北欧の雪中の軍事教練から生まれたものですが、20世紀初めにスポーツ化されました。
 私個人における「遊歩」では、「ルートを探す」楽しみは欠かせないものになっています。地図と磁石、時には「勘」のみでルートを探す。逆に、道を探すのではなく、自分が歩くところが道なのだと開き直り、地形の起伏にまかせて迷い歩き、その後、どんなルートを歩いたかを地図上でその軌跡を確認しながら楽しむ…など、このルート遊びの愉快さは、初期の遊歩から現在にいたるまで変わらない遊歩の重要条件になっています。
 しかし、目的地に至るスピードやルート選択の正確さを競うことは本来的な「遊歩」とは無縁のことです。そういう枠やルールを作った瞬間に歩きは、遊歩という輝きを失ってしまいます。しかし、競歩のように自然のフィールドを無視した「歩き」と比べると、オリエンテーリングでは自然の起伏というフィールドのおかげで「本来的」なスポーツに一歩近づいているとも言えます。


■登山(アルピニズム)と遊歩

 スポーツ登山というものがヨーロッパ市民層に芽生えるまでは、古くは宗教的な儀式・修行か、または交易や獲物を求めて険しい山に登る(軍事的必要性もあったか)そんなことが登山の主な目的だったと思われます。『アルピニズム』も近代の産物です。かつての登山はスポーツというより『冒険』そのもので、より高く、より険しいピーク、未踏の頂きを目指すようになりました。その為に高度な技術や厳しい訓練、ルール、チームワークなどを習得しなければなりません。
 『アルピニズム』はあくまでも頂上をきわめることを目標としがちで、その目的に向かって技術や方法が集約される場合が多くなります。「歩き」と「フィールド」の関係でいえば、圧倒的に「フィールド」の方が苛酷な状況になっており、その場合「歩く」という行為は「登る」(または下る)という言葉に置き換えられ、その一歩一歩が頂上を獲得するための手段となりがちで、制約された「歩き」に縛られることが多くなります。 
 遊歩では山頂や目標地点に辿り着くことだけが目的ではなく、「歩き」の一歩一歩がどれだけ自分らしくあるか、自由であるか、という問いかけを大事にします。極論すれば、今、踏み出した一歩そのものが全目的だとも言えます。


■冒険とは?
 宇宙に飛び出す以外にもう冒険は成立しないのでしょうか。その冒険にしろ、もう個人の領域では考えられません。国家とか企業の単位に組み込まれた冒険です。
 地上においてほぼ「未踏の地」が失われた現代では、冒険のあり方も変わらずにはいません。よりスポーツ化され、極寒時のアタックとか、無酸素登頂とか、単独横断とか、無帰港渡航とか、なにかしら条件付加が必要になってきました。その内に裸体で登頂とか、竹馬で横断とか、少しマンガチックな光景になりそうです。
 数年前、読売テレビのイベントで「チョモランマからの生中継」とかいう番組がありましたが、スポーツがそうであったように、猛々しいチャレンジ精神や自らの全存在をかけた行為としてあった冒険が、いとも簡単に「金」で置き換えられました。膨大な資金、装備さえあれば、何処へでもいけるのです。これからの「冒険」とはもっと内的な部分で語られ、行われることだろうと想像します。
 遊歩のひとつの断面には「冒険」はかかせない条件です。険しさを冒す、あえてリスクを背負う、冒険家でなくても誰でもこういう欲求にかられることがあります。その欲求が何処から沸き上ってくるのか?リスクとは何か? 現代社会の中に満ち溢れている個人的リスクから、もっともっと大きな領域で背負っているリスク、人類が何万年も背負ってきたリスクを考えてみるのも一つの冒険のそして、遊歩のヒントかもしれません。


■遊歩は最高の健康法!

 とは言っても、専門家ではない私は科学的、医学的な裏づけがどれほどできるのか分かりません。体験的な現象を2~3紹介できるだけです。
 激しい運動よりも、低エネルギー運動を持続する方が健康維持に効果があるという点は医学的にも認められています。ニューヨークなどで流行している「徒歩通勤」なども交通機関や革靴、ハイヒールからのストレスを避ける目的を含めて、トリムやフィットネスの感覚で「歩き」を健康維持や増進に大いに利用しようというものでしょう。
 さらにこれが自然のフィールドでの森林浴と重なれば、都会的なストレスの発散にも大きな効果はあります。樹木から発散するフィトンチッドは身体に作用すると言われますが、どれほどの効果をもつのか私には不明です。個人的に感じることは、身体のいろんな機能が自然と向き合うというところで、都会的環境にはない刺激をたくさん受けることが快適です。辺一面のみずみずしい緑、爽やかな風、又は猛暑や極寒であってもここでは快い刺激となります。起伏に富んだフィールドは、日常にはないスタンスや歩幅を経験させてくれます。  こういう刺激の積み重ねが私の場合、腰痛がなくなった、胃の調子がいい、風邪をひかなくなった、というような現象に結びついていると信じています。と言っても、月一回程度のものでは効果は少ないでしょう。できるだけ多くの機会をもつ必要はあります。(全盛期では年間100回を越えていました。最近は月2回程度で、身体は少し不調です)


NEXT▶︎〝遊歩〟とは何なのか? その(2) へつづく

○表六甲山ホタル調査概要とその調査報告書(平成2年度)

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 六甲山でのホタル調査にいたった経緯は前記事(調査遊歩アーカイブ)を参照してください。この表六甲山ホタル調査概要(計画書)とその調査報告書は六甲山を見つめ直すシリーズの3、機関紙「ぶんぶん」別冊として発行され、協力いただきました関係行政機関や六甲山の各施設に配布させていただきました。
 そのデジタル(PDF)化には未だ手をつけていません。写真にだけは撮ってみましたので、見にくいですが、関心のある方はご覧ください。もう30年以上も前の調査なので、現状の六甲山との比較は難しいでしょうが、何かしらの参考にでもなれば仕合わせます。

■表六甲ホタル調査概要(計画書)

●調査対象水系とポイント
●50箇所の調査ポイント

■表六甲山ホタル調査報告(平成2年度)

●目次
●はじめに
●調査結果
●確認場所
●天然か放流かの判別
●推論的まとめ
《付録》ホタル日記より・・・
●自然論議の前提
自然論議の前提2
自然論議の前提3

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○六甲全山縦走路の距離実測報告

★この調査は、私が六甲遊歩会時代の平成元年、会にご協力をいただいて行った個人的な実測調査です。それを、本ブログに画像として再収録したものです。(ブログの日付けは収録日に過ぎません)
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 この実測調査にいたった経緯は、記事「憧れの56.4km-六甲全山縦走路」を参照してください。この距離実測調査報告書は六甲山を見つめ直すシリーズの2、機関紙「ぶんぶん」別冊として発行され、協力いただきました関係行政機関や六甲山の各施設に配布させていただきました。
 最近のGPS機器の精密化によって、歩いた距離は即座に計測・集計される時代となっています。最近になっても「45kmでした」「45kmちょっとでした」とお便りをいただきます。もう30年以上も前の調査なので、現状の六甲全縦ルート違っている箇所も多いでしょうし、この調査のもつ数字的な意味合いは希薄なものとなっていましょうが、それ以上に六甲山に対する向き合い方の何かしらの参考にでもなれば仕合わせます。


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○六甲山に於けるテープ表示に関してのアンケート集計・結果報告

★このカテゴリーは、私が六甲遊歩会時代(1984-1995年頃)の間に記述・編集されたものを、本ブログに加筆のうえ再収録したものです。ブログの日付けは収録日に過ぎません)
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 六甲山でのテープ表示に関してのアンケート調査にいたった経緯は前記事(調査遊歩アーカイブ)を参照してください。

 当時の兵庫県山岳会、自然保護協会の関係者や六甲山ガイドブックの著者の方々などからも「赤テープ類によるルート表示」に関しまして貴重なご意見をいただきました。
 内容につきましてはPDF化が滞っていますので、とりあえず画像を掲載しておきます。しかしながら、当時の昭文社エアリアマップ「六甲山」(六甲山のハイカーが愛用するルート地図)の著者・赤松滋さんより編集部にいただいた含蓄ある寄稿文はテキストに起こして、文末に紹介させていただきました。ぜひ、一読ください。管理人の責任にて独断で転載の件、ご容赦くださいませ。(2019年8月:追記)

●アンケート依頼先一覧
●集計に関しての経緯と御礼
●アンケート集計
●アンケート集計
●ルート表示に於けるテープに関するご意見
●ルート表示に於けるテープに関するご意見
●集計結果の数字的な考察とまとめ
●集計結果の数字的な考察とまとめ
●遊歩会会員よりの意見投稿

INGS.4(機関紙ぶんぶんに投稿いただいたコラム記事)

テーピング

赤松 滋  

 山の道が細くなると、樹に赤や黄色のビニールテープが目に映える。六甲連山では、この種のテーピングが過剰気味である。力んで出掛けて来たのに、迷わず苦労なしにスーっと通り抜けてしまう。拍子抜けする。テープを追うだけの一日だったのが、無性にむなしい。そこで考えさせられてしまった。
 「テーピングの怪」がハイキングコースの標識と同じに、道の案内として設けられ、誘導が必要だと感じたからに違いない。
 ところが、対象がことなる。ハイキングコースは、山を歩き慣れていない人が対象の標識。一方、山の小道は、不安気味に歩くことで楽しむを善とする人が対象。テーピングは必要を、同じ安全の思想で同化してしまっては、歩きの魅力半減だと嘆く考えの一面もある。
 人様のためにテーピングがなされたとて、そこには無言の親切はあっても、責任のない面だって存在している。仮にそのテーピングが当事者個人が迷った時の退却用目印であって、終わりまで面倒をみずに途絶えてしまっていたらならば、後でやってきた山慣れしていない者がたどれば、事故防止の筈が、事故誘発、迷路突入の逆作用に成りかねない。そう成ってはと「テープを充分に付けてある」のも、また事実であろう。
 定か成らない小径では、ケルンを置いたり、ナタ目を付けるのが古くからの方法、小枝を折って進行方向に向けて置くなども用いられてきた。迷った時に退却するための目印であった。ところが目印に赤い布片が使われ始めたのは、本番のために下見の覚えに目印された工夫。自己防衛が主題だった。次いでビニールテープの登場、色あせたり朽ちることがなく持続出来る。それならばと事故防止の手段に使われ、私設案内を買って出た。荷造り用のビニール紐さえ使われる。テープに比べて「巻く手間が省け、結えるだけで事足りる」からだという。これら様々、色とりどりをお互いの目印の区別に用いられる。目立たなければ用をなさないだけに、多くなればなおに始末が悪い。風情がないのは実用優先、仕方が無い。商店街のセール期間の満艦飾さながらの賑わいだから、眉をひそめる。
 もっと大切なことを気遣う。テープを頼って山を歩く我々の心が、他人に依存して行くことである。
 「多分、テープが有るだろう」と安直に山に入る。
 「テープの付け方が悪いのだ」と責任を転嫁する。
 当世の処世術、山に持ち込まれかねない。

 道の「み・ち」は、歩みの《み》の【】と、大地の《ち》の【】からなり、だから、道は「心身で大地を歩くものだ」との説がある。一方、道は「未だ知らざる」の「未知(道)だ」とも言える。特に、山を歩む者が道に託す考えである。それで育ってこそ【歩く好奇心】を「価値有るもの」としてきた。次のテープが見えないと心細くなり、気付かないうちにテープだけを追う。「テーピングのルート」をトレースしただけでは無念である。
 テーピングの「ある必要」と「無い意義」は、真っ正面から異なる。有って「助かる」ことと、「困る」ことは、「有るべき必要」から出た考え。「無い意義」は、無いことを自体から端を発し、本来の姿を保ち、精一杯の技量を発揮してその道に対処する。生半可な者を寄せ付けてはならない考え。警告で有っていたい。
 確かに迷ったときの事故の防止に対した策では有る。先に踏破した人が、次に来る人を迷わせない親切である。努力にたいして感謝こそせよ、恩を仇で返すつもりは無い。だけれども、「もう少し、ソッとしておいてよ」との気持ち、正直に言って残ってしまう。
 
 若い頃、岩場のハーケンは、登った者が設置せずに、「抜くべきか、抜かざるべしや」の論議が出た。我が身を相手の気持ちに置き換えて論争した事を思い出す。
 「確かめれば良いじゃないか」とは有効利用の考え。
 いや、
 「問題はない」とは、取り払って無くせの考え。
 今日のテーピングにも相通じる。
 もしも、テーピングの論争を展開するのならば「有り過ぎる不必要」への単なる反動だけではなく、存在を否定してしまってからでないと、考えは成立しない。形としてだけの親切だけはなしに、気の付かないテーピングの徒(いたずら)な所業こそ、整理が必要であろう。丁寧さ・親切さを形だけを追っては人の刹那だけがうかがえる。仕種としてだけの安直なテープセッティングをやってはならない。退却用は後日に取り払う、下見用は本番で取り除く。人助けならば、セットしたルートを戻り、再び確かめてテープを残すぐらいでなければ、人様にへの資産には出来ない。今よりも、有り過ぎる不必要はサッパリ出来ようか。努力してみたいものだ。

 育った樹が、首を絞められた様にビニール紐を食い込ませていた。しかも、もはや紐は解けない。裏六甲は高尾山西側の仏ヶ谷峠からの山道、植林帯に痛々しく今も残っている。
 人の気持ちの擦れ違った無念さに似てもいる。

(※昭和63年9月10発行、機関紙ぶんぶん別冊第2号より転載させていただきました)

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山笑う、山滴る、山装う、山眠る

 このカテゴリーは、日本原産種の山芋・自然薯(自然生)生産団体に携わっていた頃の記事を中心に、折々のイベント、古き文人たちと山芋の関わりなどを歳時記風に記したものを集めています。

春山淡冶にして笑うが如し
夏山蒼翠にして滴るが如し
秋山明浄にして粧ふが如し
冬山惨淡として眠るが如し

春山淡冶にして笑うが如し

 山滴る季節、御縁の皆様方におかれましては・・・、と時候の挨拶にも使われる「山滴る」は俳句の季語でもあります。この言葉は中国、北宋(960年~1127年)の山水画家・郭煕の言葉で、「四時山」という漢詩が原典のようです。
日本では、正岡子規が初めて俳句に用いて夏の季語として使われるようになったとも言われています。因みに「山笑う」「山装う」「山眠る」もそれぞれ春、秋、冬の季語になっています。
 山を巡りその四季の風情を追い求める輩にとって、これほど簡潔でぴったりな言い表しには全く脱帽するところで、山の幸「自然薯(自然生)」にとっても、これはまさしく自らのフィールドを言い得て妙と納得するに違いありません。
 早春、地中で眠っていた山芋も、山面の萌えた感じ、淡冶(たんに)さに微笑んで、地上へ芽を押し上げて来きます。そして、この頃(夏)となれば、草木の瑞々しさが辺り一面に滴り、たっぷりの陽光を求めてツルを精一杯に伸ばし、葉を茂らし始めます。

夏山蒼翠にして滴るが如し


 そして、多くの植物がそうであるように、山芋たちも秋に向けて花を咲かせて実を付けます。その装いの秋になってからようやく地下では、芋部が太ってきます。冬への準備が始まるのです。たっぷり夏秋のエネルギーを栄養として蓄えます。
 太古より、人為的な栄養がない山中の腐葉土で育ってきたじねんじょう山芋は、栽培の畑でも同じく人為的な栄養や、有機でもあってもその栄養過剰を嫌います。水と光と空気というシンプルな三要素で、肥料なしでも逞しく育つのが本来の姿です。その野生の元気さが、外来のひ弱な野菜たちと違う所でしょうか。
 そして、準備を終えた山芋たちは、ツルを自ら切って地中で長い冬を眠って過ごすのですが、この当りで人間様やイノシシが都合良く登場して、その豊かな恵みをいただいてしまう訳です。ところが山掘り人もイノシシも心得たものです。ちゃんと春には芽が出るよう首部を残しておく知恵があります。
 イノシシの食い残し、ガリガリ齧られ傷ついた芋からでも、腐らず春には芽を出します。その元気さこそ、今日よく言われる健康機能性の素がぎっしり凝縮されている由縁なのでしょう。実に有難い植物です。

秋山明浄にして粧ふが如し
冬山惨淡として眠るが如し

 

■山芋人物歳時記 関連ログ(2021年追記)
小説「坊ちゃん」の正体・・・(弘中又一)
小説「吾輩は猫である」自然薯の値打ち(夏目漱石)
零余子蔓 滝のごとくにかかりけり(高浜虚子)
貴族・宮廷食「芋粥」って?(芥川龍之介)

貴族・宮廷食「芋粥」って?芥川龍之介

▲芥川龍之介と再現された「芋粥」

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 じぃさんが高野山の坊主だったせいもあって、「芋粥」と言えば、白粥にサツマイモを入れた粥を宿坊でよく喰わされたのを思い出す。(わたしは大好きやった)
てなこともあって、芥川龍之介「芋粥」って何なん?と、話が出た時も、子供の頃に寺でよく食べた、粗食の象徴のような坊主粥のイメージが真っ先に浮かんだ。

 しかし乍ら、原典となった平安時代の「今昔物語」の某五位(しがない中年役人)と山芋粥にまつわるお話では、いささか事情が違ってくる。この話の舞台は、サツモイモ(唐芋)が、大陸から列島にやってくる何百年も前の時代で、しかも、宮廷の超グルメコースの〆を飾る「珍味・佳味」の代表食・宮廷粥として登場してきますので、坊主の修行食の粥とは〝天と地〟ほど差のある別世界の代物です。

 芋は、大量生産が可能なサツマイモと違い、当時から〝珍味・佳味〟と重用された希少な天然の山芋(自然薯)を使用、それを刻んで、当時においてはこれまた貴重な甘味料であった甘葛(アマヅラ)で煮込んだものが、「万丈の君にも献上された」といわれる超高級スイーツ「イ・モ・ガ・ユ」である。坊主粥とは月とスッポンほどのステイタス差、さもありなん。

 何と!この幻の珍菓を再現した方が居る!?と驚くほどのことでもない。鎌倉時代の料理書『厨事類記』にもレシピが紹介されています。山芋を薄く切って、甘い汁でさっと煮るだけ、天然山芋やアマヅラらしき物もネットで仕入れる事ができる時代だし、腕の立つ調理人でなくても、料理下手の野郎でも雪平鍋さえあれば簡単に作れる代物です。 
 アマチャヅル葉のお茶を煮詰めたり、米飴や蜂蜜を代用したり、メープルシロップを使ったり、アマズラの代りにいろいろと甘味料を使って工夫はできるのものの、やはりそれぞれの甘さのもつ香り・風味は微妙に違うだろうし、自生の山芋がもつ野生的な山の風味とのマッチングを想像するに、やはり本物の「芋粥」を味わうには、これまた「アマヅラ」をその時代のやり方で再現するしかないでしょうがこれがまた大変な作業です。

 アマヅラはツタの樹液を煮詰めてシロップ状にした甘味料だそうだが、カエデの樹皮を傷つけて、そこから流れでる樹液を自然に摂ることが出来るメープルシロップと違って、ツタから「みせん」と呼ばれる樹液を集めるのはそう簡単ではありません。この液を抽出するために棒状に切ったツタの枝の片方を口でくわえ、息を吹き込むと反対側からじわっと液のしずくがこぼれてきます。この樹液を鍋一杯に集めるのに大変な労力が要るのです。一人でフーフー頑張っても何日かかるか分からない大変な作業。そしてこの集めた「みせん」をシロップ状に煮詰めてしまうと、わずか何十分の1の量にちじこんでしまう。(現代では生産性から考えて商品化は無理)
 この古代の貴重な甘味料「アマヅラ」の再現を試みた公開実験(奈良女子大)をネットで発見、大変さの詳細はこちらで

芋粥、食うべきか喰わざるべきか?

 話を小説「芋粥」に戻して・・・。

 才覚もなければ風采もあがらない、しがない中年の下級役人の五位の侍、日ごろ同僚からも馬鹿にされ、道で遊ぶ子供に罵られても笑ってごまかす、情けない日常を送っている。しかし、そんな彼にも、ひそかに持っているある夢がある。それが「芋粥を、いつか飽きるほど食べる!」というもの。
 ある集まりの際にふとその夢をつぶやき、その望みを耳にした藤原利仁が、「ならば私が、あきるほどご馳走しましょう」と申し出る。五位は戸惑いながらその申し出に応じ、利仁の館へ赴き、そこで用意された、大鍋に一杯の大量の芋粥を実際に目にして、五位はなぜか食欲が失せてしまうというストーリー。

 手の届かない時は羨望していたものが、いざ手の届く場所にきてしまうと、とたんに興味が薄れてしまう・・・。芥川によって軽妙に描かれたこの人間心理のカラクリ、現代においてもこの「幸福感・幸福観」はなんか胸をつくものですね。 

◼︎写真拝借/芋粥を作ってみた(アラフォーおひとり様DE漫遊記)

■人物歳時記 関連ログ(2021年追記)
小説「坊ちゃん」の正体・・・(弘中又一)
零余子蔓 滝のごとくにかかりけり(高浜虚子)
小説「吾輩は猫である」自然薯の値打ち(夏目漱石

■新ブログ・文人たちに見る〝遊歩〟(2021年追記)
解くすべもない戸惑いを背負う行乞流転の歩き(種田山頭火)
何時までも歩いていたいよう!(中原中也)
世界と通じ合うための一歩一歩(アルチュール・ランボオ
バックパッカー芭蕉・おくのほそ道にみる〝遊歩〟(松尾芭蕉)

秋山明浄にして粧ふが如し(むかご編)

▲山芋の蔓にぶら下がる子実・零余子(むかご)

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  秋山明浄にして粧ふが如し

 俳句での季語は「むかご」が中秋九月、「山芋」は晩秋十月となっていますが、実際のところは「むかご」は十月、「山芋」では十一月以降が収穫の最盛期となります。今回はこの「零余子(むかご・ぬかご)」についての四方山話を。

 山中だけでなく緑地や公園等などと案外と身近なところでも目にしている「むかご」ですが、風にあおられり、採ろうとするとポロリと落ちて藪や草むらにあっという間にきえてしまうとところから「幻の山菜」とも呼ばれています。本年は、秋が深まってから立て続けに台風が上陸しそうだというので、あたふたと収穫を急いだ農家さんも居たのではないでしょうか。
元々、収穫に手間取るところから作物というより、むかご飯など農家の賄い用に使うのがほとんどで、直売所にチラッと顔を出すことがあっても、一般の市場には出回ることがありませんでした。
 
 最近、料理研究家の枝元なほみさんが「チームむかご」を結成されて、この「むかご」を一般流通食材として、世に送り出そうと農家の方々を巻き込んだプロジェクトを発足。「むかご市場」などのユニークな活動を始められ、最近はやや認知度がアップしてきたようです。この零余子ですが古くから身近な山の幸として親しまれていたようで、多くの俳人・歌人に謳われています。江戸期を代表する俳諧たちの句にも夫々に登場しています。

 きくの露落て拾へばぬかごかな 芭蕉
 うれしさの箕にあまりたるむかご哉 蕪村
 汁鍋にゆさぶり落すぬか子哉 一茶

 明治に入って創作性を追求した正岡子規をはじめ、個人の生き生きした感性を謳歌する近代俳句が隆盛をきわめますが、その子規から門下生、大正・昭和にわたる数多くの俳人や物書き達の句にも表情豊かに「むかご」は登場しています。

 ほろほろとぬかごこぼるる垣根哉 子規
 黄葉して隠れ現る零余子哉 虚子
 野分あとの腹あたためむぬかご汁 石鼎
 零餘子もぐ笠紐ながき風情かな 蛇笏
 瓢箪に先きだち落つる零餘子かな 蛇笏
 笊のそこにすこしたまれる零余子かな 風生
 八千草のあさきにひろふ零余子かな 青畝

 中でも女流俳人の句には女性ならではのきめ細かい情感が感じられます。

 ぬかご拾ふ子よ父の事知る知らず かな女
 拾ひたむ庵の零余子や昨日今日 淡路女
 みがかれて櫃の古さよむかご飯 久女


 また、小説家の句にも顔を出しています。やはり彼の時代には、生活の身近な処に「零余子」が居てごく自然なモノとして親しまれていたようです。

 手一合零余子貰ふや秋の風 龍之介
 雨傘のこぼるる垣のむかごかな 犀星

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■人物歳時記 関連ログ(2021年追記)
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零余子蔓 滝のごとくにかかりけり(高浜虚子)
小説「吾輩は猫である」自然薯の値打ち(夏目漱石

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