・崩落の山岳(伯耆大山〜足立美術館)

 上:北からの大山連峰、右下:西から眺めた大山(弥山 1.729m)

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 恒例・春の連休遊歩、三瓶山〜出雲大社(h29年)、宇佐神宮〜湯布岳(h30年)と続き、令和元年は伯耆大山〜大神山神社(プラス足立美術館)と相成りました。麓にある「森の国」にて単身キャンプ(カーサイドテントで、平日とあって小生一人っきり)早朝、登山口にてY夫妻と合流。
 ヘッド右中の写真※1が西の米子方面から眺めた大山(これが私のイメージでもありました)別名・伯耆富士と呼ばれているのもうなずける端正な姿ですが、ちょっと北側に回り込んで元谷の方から見上げたのがメイン写真。ナイヤガラの瀑布を連想するような幾重もの砂走り(石走り?)が荒々しい風景です。これを早朝、スキー場のリフト越しに見上げた時には、「ええ?嘘、こんな山だったの?」美形の仮面の裏はこんなものかと新たにテンションをリセットし直しました。

伯耆大山

 昔は事細かに地形やルートを調べてから、山に取り付くようにしていましたが、近年は大雑把にルートを確認するか、登り口の案内看板の地図を見る程度で登ってしまうことが多い。一人の時は特にそうだ。映画を見るときに絶対レビューや評論を見ないのと同じで、余計な予備知識で心ゆさぶる眺望との出会いのインパクトや新鮮さが薄れるのが嫌なので、なるべく白紙で入り込むようにしている。逆にこういう情報を知っていたのなら、それをもっと意識しながら歩いた方が良かったのかな?というマイナス面もあるものの、まずは行き当たりばったりにいろんなものと遭遇しながら歩くというのがスタイルになりつつある。(面倒くさいこともあるけれど)
 今回は、久しぶりに同道者がいて現地集合ということもあって、登山口までのドライブルートはG地図のストリートビューで幾度もPCでトレースした。最近は、山道までグーグルのカメラが入っていて、たいがいの山ならバーチャルで登山道を辿れるようになっている。富士山頂のお鉢巡りなども360度のフルビューで楽々と絶景を味わえるが、調査ならいら知らず、そんなものを見てからリアルで後追いしても新鮮な喜びや楽しみが半減するだけでつまらない。
 ということで「大山(伯耆富士)」という山も一般的な印象と知識だけで挑むことにした。まあ〝標高1700mで、最高峰への縦走路は危険で事故も多い。冬季も雪が厳しい。崩落が進んでいるので登山者は石を運び上げる〟この程度が事前の予備知識だった。それと、一昨年に歩いた石見と出雲の国境にある「男三瓶山」で知った神話・国引き神話。八束水臣津野命が島根半島を海の彼方より大きな綱で引き寄せ三瓶山を西の杭として、東の杭を大山(大神山)として結びつけたというお話。そんな事などを下敷きに謎多き神々の出雲国の眺めを頂上から俯瞰できればという趣向の大山詣であった。

山上の木道、大山(弥山)山頂 1709m
山上の木道、大山(弥山)山頂 1709m

 西側の夏山コースは、ほとんどピーク(現在は弥山1709mが頂上)に向けての直登ルート、3km少しの行程で1000mほどの標高を稼がなくてはいけない。3m歩いて1m登るので斜度はきつい。登り口から崩落を少しでも防ぐために丸太の階段が敷設されている。一般的な山では斜度が緩んでいるあたりで自然のままの山道になるところが何箇所かあるのだが、ここでは結局、8合目あたりまでこの丸太階段が続いた。6合目の避難小屋あたりからは、植生も低木となり日陰がなくなった。夏場は辛いだろう。(この日も5月と思えない気温だったが)
 8合目からは、丸太階段が延々と山頂へ続く木道に変わった。木立の上を空中回廊のように地面を踏みしめることなく、浮き上がったように歩く、この足元のおぼつかない遊歩感覚は初めての体験だ。考えれば、登り始めから山頂まで、幅員2mほどのルートには、沢へ下るような脇道やお花を摘みに行くようなめぼしい踏み跡もなかった。その2mからはみ出すことが許されない不自由きわまりない山道だったと気づく。弥山の山頂碑から剣ガ峰(本来のピーク)への縦走路の稜線も立入禁止(2014年より)になっている。裏山や六甲山では、自由気ままにいろんな踏み跡を追ったり、ショートカットしたりすることもよくある。山歩きとは目的のルートを追っかけることと、そんな恣意的な判断でルートを選んでいく絡みが醍醐味なのだが、ここでは丸太階段と木道以外を歩くことは許されない。決められたルートを強いられる。だからと言ってこの山の魅力が減じるものではないが、この山体の地肌を直接に踏みしめられないのは寂しい。
 地殻の隆起や噴火で生まれた高い山が、風化によって崩落していくのは自然の摂理なのだが、山上の緑化をめざした「一木一石運動」が始まった昭和60年以前の山頂の写真をググってみると出てきた。これを見て納得、大勢の登山客に踏み荒らされたまったくの禿山状態で驚いた。現在の緑あふれる風景とは雲泥の差だ。これは自然の摂理というより人災に近い。
 裸地化して風化が激しい山頂環境をどう保全するのか、入山規制や入山禁止が手っ取り早いが、この山では崩れた石を登る者がまた持ち上げ、木を植えていくというシンプルで原理的な方法をとった訳です。時間と根気のいる活動です。お陰で山上一帯にキャラボクの群生する現在があるので「山体を直接に踏みしめられないのは寂しい」というのは的外れな所感で、ここではその活動に感謝すべきことです。
 それでも崩落は進行していて、山頂碑が東斜面へ崩れるものと予想され、現在、碑の移転も計画されて、縦走路以外にも立入禁止区域が広がっていくことも考えられます。

麓の大神山神社奥宮
大神山神社奥宮

大神山神社奥宮

大神山と大神山神社奥宮

 元谷を下ってすぐに下山路が開け、突然のように大神山神社奥宮が現れた。
 権現造りで日本最大級とも言われる社殿は、想像外の立派さで圧倒された。まあ、これほどの迫力がないと、背景の御神体である大山(大神山)と釣り合わないのだろう。しかしながら、出雲大社ばかりに気に取られて、この宮を見過ごしていたのは不覚だった。やはり事前にもっとリサーチしておくべきだったか。
 大国主大神が押し込められた出雲神社も仏教の大黒天と習合し、広く出雲信仰として民間に浸透していきましたが、ここ大己貴神を御神体とした大山でも、修験道や仏教の影響を受けて権現さんや地蔵菩薩に変容していき、大山おかげ参りとして民間の習俗となっています。もひとり神事は山頂近くの池より採られた神水で五穀豊穣を祈るものです。
 山に暮らす古代人にとって、生きていくために不可欠な水、火をおこす木、そして生命をつなぐ食べ物としての木の実、果樹や山菜、獲物などこういった自然の恵みを生み出す「山」は生命の源泉そのものなのでしょう。国造りに邁進した大己貴神(大国主大神)はその象徴として崇められました。「山」とは日本人にとって、切っても切れないものです。国土の殆どを占める山岳風土、山々こそ古くから日本人の生活を支え、私たちの精神を培ってきたと言えます。稲作が伝来したのちは、平地を求めて山を下り、里の水田で稲を作るようになったものの、山への畏敬と崇拝は衰えるどころか、山そのものを神と崇め、自らの根源を投影してきたのでしょう。まあ、そういう理屈以前に、現代人の私たちであってもこの雄大で荘厳な山容を前にしたら、はやり神々しさを感じざるを得ません。
 大山寺〜白鳳の里・ゆめの湯で露天風呂をいただいた後、米子駅へ同道者を見送ってから単身ひたすら9号線を山口へ(帰宅まで7時間半かかった)。

足立美術館

 登山の前日「庭は一幅の絵画」昨今、人気急上昇の足立美術館を訪れた。ここは、とりわけ外国人からの注視度が高いとのこと。
 一般客の入れない日の出から開館までの時間は、庭師たちのみが目撃できる息を飲むほどの幻の瞬間があるとのこと。それを記録したNHKドキュメンタリーが来館の動機。遥か彼方の山なみの自然をキープするために、ここから見える山々すべて買い取ったという壮大な日本庭園、一日ではなかなか味わいきれない。紅葉期と積雪時に再訪してみたい。日本画(大観)と陶器(魯山人)の作品も多くて、館内巡りも大変だった。ここでも決められた順路があったが、大山登山と違って、時折スルーしたり、ショートカットしながら好みのものを中心に鑑賞した。

安来市・足立美術館
安来市・足立美術館

※1-冠雪した伯耆大山の写真は「ブログ・山猿の思うこと」より拝借しました。

※この記事は2019年06月01日に投稿したものを再収録しました。

・シビックプライドとしての背山(由布岳)

やまな大分県・やまなみハイウェイから由布岳(1,583m)を望む
 大分県・やまなみハイウェイから由布岳(1,583m)を望む 

宇佐神宮〜志高湖〜由布岳

 九州の山を歩こうと思いついて、いろいろと山名が浮かんだが、やはり「由布岳」が最後に残ってしまう。「由布院温泉」とセットで頭にこびりついていたのは、やはり、NHK連ドラ「風のハルカ」の影響が大だと思う。山を守り神として住人たちは山を見上げ、山は母親のような慈愛でもって麓の人々を見つめている。そんな里と背山の際立った関係がすっぽりと印象に焼き付いていたのだろう。シビックプライドではないが、背後に聳える山を大いに誇ることができる、そういう意識が共有できる地域は本当に幸せという思いがあります。山を祀る、山の神を奉じるなど「山」への思いは、太古の昔より〝山と人〟との関係で繋がれてきた日本風土・文化の大きな柱の一つとも言えるものです。いや日本に限らず世界中どこであっても、山と人間、自然とのかかわりの根元にあるように思います。
 そんな山から恵まれている潤いを、日々の暮らしの中でいっぱいに享受している人々がくらす里を訪ねてみたい。由布岳とそれを御神体として創建された由布院の宇奈岐日女神社にはぜひ参拝してみたい。と、まずは由布岳を横目にスルーして、やまなみハイウェイで湯布院に直行した訳ですが、すんなりとは町へと入らせてもらえませんでした。考えればGWの連休中、おまけに外国人観光客も急増中の昨今、車と人ごみにあふれ、車を停めるところさえ見つかりません。街ナカから逃れ、コンビニで今晩のキャンプ夕飯と朝食及び山上での昼飯の3食分の食料を買い出して早々に退散することになりました。この地の魅力をじっくり味わうには、もっとオフシーズンを狙うべきでした。

左:宇佐神宮 右:由布院
左:宇佐神宮 右:由布院

興味をそそる〝死拍手説〟

 話が前後しますが、途中10号線を南下中に「宇佐神宮」を発見、じっくりと見学・参拝させていただきました。全国4万社余りの八幡さんの総本宮とあって、思っていた以上に品格ある大きな宮でした。この宮も昨年訪れた出雲大社(島根)と同じく参拝方式が「二礼四拍手」でした。例の大社の「死拍手説」と何やら深いつながりでもあれば面白い展開だなと、帰宅後、少しワクワクしながら調べてみた。新潟県の弥彦神社も、同じく「四拍手」だそうだ。宇佐〜出雲〜弥彦、これらを結ぶラインは「八拍手」の伊勢神宮(大和)を守る非大和系の神社による結界だ!という説もあって、これまた面白い。「拍手」一つでいくらでもお話を掘り下げ、拡げられる歴史好きの面々には敬服せざるを得ないです。(謎多多き神々の出雲国を参照ください)

 買出しを終えて混雑の由布院を脱出、明朝に登る由布岳を、またも横目にスルーしキャンプができる志高湖があるというので別府方面へ戻る。湖畔で落日を楽しみながらと目論んだが、ここも人気スポットのようで案の定、湖畔は芋の子を洗う如きのオートキャンパー(数100台)で溢れていました。仕方なく湖畔から離れて山裾の斜面にテントを張ることに。

由布岳山頂から湯布院へ通じるやまなみハイウェイを望む
 由布岳・東峰山頂から湯布院へ通じるやまなみハイウェイを望む

一味ちがう九州の山々

 翌早朝、登山口から見上げる「由布岳(豊後富士)」の威容に気合いを入れてもらって遊歩開始。噴火当時をリアルに想像させる麓のどでかい噴石群には目を見張る。まさに噴石ミュージアムといった感が伝わってきて、この何か生々しい感じが気持ちを高ぶらせます。プレート圧縮型の高い山々が連なった中央アルプスとはまた一味違った山容がある。噴火型による山岳が多い九州の山は、平地を突き破って、マグマを盛り上げたような山容(富士山のような)で独立性が高い。 この先には九重連山や阿蘇山などを擁する「火の国」が待ち構えているのですから、個性たっぷりの〝火の山〟という趣きも当然です。
 1時間余で標高1000mを越えたか、樹林帯を抜け森林限界のような感じに。高木が消えて足下に由布院の眺望がパーンと広がり、東の遠くには別府の湯けむり、西には九重連峰、さらに阿蘇までが望める。昨日、別府側から見た大平山や鶴見岳も、多くは草原の山肌で樹林が少なかった。本州ではあまり見慣れない山肌の風景であった。火山地質もあるが、山焼きをしながら牧草地として管理しているらしい。
 由布岳も上半分には樹林が無く、眺望は申し分ない。夏場はさぞ暑いだろうけど。多くのハーカーに追い抜かれながら黙々と喘いで、10時頃マタエと呼ばれる西峰と東峰の鞍部に到着。険しい鎖場がある西峰をパスして、東峰へアタック開始。それを娘にライブで写メ実況するが全く返信がない。昨夜のキャンプ場ではガンガン返信がきたが・・・(朝寝中だったようだ)
 山頂(東峰)周辺は登山客で鈴なり、登山道で行き交う人もそうだが、何とまあ〜ウェアやグッズの華やかなこと。我が身を振り返ると古〜いリュックとシューズ、Gパン・Gシャツに釣用ベストの裏山散歩スタイルで肩身が狭い。日頃は、一人遊歩でしかもハイカーと出会うことの少ない低山専門なので、流行りモノに触発されるチャンスがなかったのですが・・・。やっぱり機能性云々は別にしても、オシャレには気を使わないとそろそろ徘徊老人と勘違いされそうだ。(まあ、それで間違いはないのだが)
 定番の下山後の温泉、別府であちこち探したがあまりの混雑で断念。
 門司、下関、宇部といろいろ探して走ってみたものの、結局は自宅近くのスーパー銭湯になっちゃいました。
ということで、まだ何とか山歩きしておりますのでご報告まで。

左:由布岳マタエから西峰を望む、右:志高湖のソロキャンプ
左:由布岳マタエから西峰を望む、右:志高湖のソロキャンプ

※この記事は2018年5月8日に投稿したものを再収録しました。

■遊歩調査関連記事
 遊歩資料館アーカイブ(2010年収録)に目次があります。
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・謎多き神々の出雲国(三瓶山〜出雲大社)

男三瓶山(1,126 m)からの落日
男三瓶山(1,126 m)からの落日

三瓶山編

 GWで家族旅行を!と思いきや、家内も娘たちも相手にしてくれない。しかたなくワンちゃんを連れての出雲大社詣りを思い立ったが、山中でテントを張れば、犬連れも問題ないのだが、出雲の神巡りには少々、犬連れは無理がありそうなので今回は一人旅と相成りました。
 創世の出雲は、小さく狭いというので、八束水臣津野命は新羅より「国来、国来」と土地を引っ張ってこられ、島根半島を付け足したそうだ。(のちの国譲りと併せ、これまた意味深げなお話ですな)その国引きの時に、杭として綱を引っ掛けた山が現在の「三瓶山」と言われています。(大山は東側の杭)その神話の世界をビジュアルで俯瞰しようという訳で、三瓶山の麓でキャンプというポイントだけを決めて、あとは行き当たりばったりで出立した。
ひたすら9号線を北上する。ここはGWだというのに渋滞もなくスイスイと全く走り良い。Wi-Fiを求めてコンビニと道の駅のハシゴとなり、いささか旅の風情は半減したが、250kmほど走行して、ようやく大田市の国立公園エリヤへ、林道ドライブがしばし続いた後にサプライズ。樹林帯が開けて、牛が闊歩する大草原がパッと広がったと思うとラクダのコブ状の三瓶山がぐわ〜ンと眼上にいきなり聳えているではないか。一瞬で別世界へ。このワープ感がとても刺激的で、かつ、他では拝めないユニークな山容に見入ってしまった。
 後で調べると、それもそのはずカルデラ中央の溶岩円頂丘の山だそうで平成13年に活火山に指定されている。
「おいおい、これはじっくり登らなくちゃ!」と本線の大社詣りが脇役になりそうな風向き。15時半頃に麓の三瓶温泉に到着。

西の原から望む三瓶山
西の原から望む三瓶山

 入浴は登山後と思いきや「混雑のため16時まで」とあり、先に湯浴びとなったが、温泉でほっこり緩んだ身体では、なかなか1,100mの山頂を目指す気にならない。とりあえずテントを張ってから予定を立て直そうと思っている内に、陽はすっかり西に傾いている。(16時半)
 早朝の登山の下見を兼ね登り口を探しに・・・、のつもりが「え〜い、行けるところまで行くか」19時日没として、18時過ぎに登頂できればと、ナンとかなるだろうと温泉で緩んだ足腰のエンジンをフル稼働モードへ切り替える。
かつてのホタル調査で夜間遊歩はお手の物だが、初めての山ではいささか心もとない。ハイピッチでゼイゼイ喘ぎながら、18時10分登頂、これまた頂上すぐ下の樹林を抜けるといきなりの山頂で、 ババ〜ンと360度のパノラマが広がるという理想的なサプライズ登頂。カルデラを取り囲む外輪山の峰々から、遠くは島根半島、国引きで神様が引っ張られたその西の岬からの綱の跡である「薗の長浜」も夕日に映えている。時間的にも山頂には誰も居ない。この垂涎たらしむ眺望を独り占めしている感がまた贅沢極まりない。(動画参照
 黄昏の中を下山、暗闇でのテント設営が明け方の悲劇を。フラットな場所を選んだつもりだが、ここが周囲より窪地であったことを確認できなかったのは不覚。未明の土砂降りであっという間に水浸し。ロクに雨仕舞もしないまま寝込んでおかげで、シュラフをはじめ、テント内で脱ぎっぱなしの着替えや雑貨がびちゃびちゃに・・・
大急ぎで撤収!そのおかげもあって早朝には出雲大社に到着、大混雑に巻き込まれることもなく、心配していた駐車場もすんなり確保。
 さあ、いよいよ謎多き神々の国を遊歩開始だ!
(出雲大社編へ続く)

出雲大社編

島根県・出雲大社
島根県・出雲大社

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家宗は◯◯だが、私は無信仰」とこたえる人が極めて多いと聞く。
私もそうだった。
私の場合は、祖父が高野山の大僧正だったので、家宗がどうのこうのいう前にずっぷり真言宗に絡まった生活を送っていた・・・はずだったが、父が寺から離れたこともあって、たまの帰郷以外には宗教の匂いに触れることなく育ってしまった。
信心のようなことをさせられた事もないし、もちろんお教なども唱えた記憶もない。成人してからも無信仰を装っていたが、それは家宗に対しての抵抗感があった訳でもないし、仏様を軽んじていた訳でもない。最長や道元・親鸞なども賢人として尊敬していたし、空海に至ってはその超人さに憧れてもいた。

しかしながら、兄弟内で宗教論争が勃発したら、「私は無信仰だから・・・」と自分から蚊帳の外へ。まあ、直線的に突き詰めるのが面倒くさいから、意識的に無関心を宣言していたのだが。「そういう世界は理屈じゃないんじゃない」とファジーな取り扱いでこの歳まで済ましてきた。

「無信仰」で生活するのは不便かつ不都合なこともある。
神戸からの移住後、いよいよ現在地に居を構えるに当たって、仏壇も神棚も十字架もない住居というのは、何かしら締まりがなく心もとなかった。まだ幼かった娘たちにもスピリチュアルなものを意識させるスペースや儀式が必要だろう。へっついさん(かまど神)でもあればと思って、手作りで神棚を設えたが、ここはやはりみじかな氏神様をお祀りするのが自然かと、近くの出雲大社の分社よりお札をいただき、これを我が家の守り神とすることにした。安寧を祈ることを第一義と、難しい教義や氏子付合い無しのシンプルものに。(祝詞をすこしアレンジさせていただいた。恐縮!)
それより、毎朝の二礼四拍手一礼が我が家の日課となった。
 子供らには「出雲さん以外の神社は拍手は2回でいいんよ」とダメだしはしておいたが、「あれれ?」その理由?なんなんだろうと思いつつ長い年月が経っていた。お陰で(?)大過なく今日まで生き延びてきました。その安寧に感謝を捧げるべく出雲の本社詣でを思い立った次第。  最近、古い大柱が発見され、8丈(48m)の高層社が存在したか?いや16丈(96m)か?とのミステリアスな論争が沸騰したとのこと、平成の大遷宮や天皇家とのご縁結びを併せ、ますます古代ロマン・出雲大社が熱いではないか。

 二礼四拍手一礼をはじめ、
 しめ縄が逆向き
 ご本尊が横向き(西向き)

 などと言う謎めいた異様さを、この眼と心肝で体感すべくパワースポットのるつぼ出雲国へ。
謎解きは、井沢元彦の「逆説の日本史」などや反論異論の諸説紛々へ譲るとして、この謎の本質らしきものをピッタリ体感できるスポットがあったので、それだけをご紹介します。
 大社は広い。大阪のUSJと同じほどの広さらしい。拝殿奥の本殿を取り囲む玉垣があって、さらに外周に端垣があって、多くの神様を祀る社が点在している。このスケールさすがは神様のテーマパークと言えば不敬か。その端垣沿いに巡っていると、西側に小さな拝殿があり、長蛇の列ができている。
 ここからは本殿の西の壁を伺うことができる。つまり、横(西)向きの御本尊オオクニヌシノミコトと正面から対面できる場所なのだそうだ。(正式な拝殿では大国主命とは正対出来ず別天津神5神を拝むというトリッキーな形になる。怨霊たる大国主を天津神5神が監視しているというのが、井沢説のようだが・・)

 ここで柏手を打つときに、背筋がビビッと。「なるほどな〜、ここが被征服者を祀る死の神殿なのか〜」遥か彼方の時間を超えてひととき古代の修羅場と繋がったような感覚。古代社会も大変だったのだ。神道・神社信仰もここから更に営々と時の権力や時代のうねりの中、仏教と繋がったり、離れたりしながら信仰の様式・形式を変えながら現代に至っている。
 かつての征服者のモニュメントが生みだした信仰が、今では「豊饒と交流の聖地」として、私たちの身近な生活文化までに浸透している。日本の神様はホントに不思議ですな〜。
「健全と安寧、縁を結ぶ」それ以外の何物でもないような表情で杜が鎮まっている。これをあらためて体感できて大いに元気をいただくことになった。パワースポットとは斯くあるものでしょうね。

キララ多伎・道の駅ゆうひパーク浜田よりの日本海
キララ多伎・道の駅ゆうひパーク浜田よりの日本海

 古代出雲博物館から、長〜い参道をブラブラ見学しているうちに、昼もすっかり過ぎている。帰路へ。キララ多伎・ゆうひパーク浜田など道の駅で土産を物色しながら西下、日本海の海岸が美しい。
(願成寺温泉で入浴、20時帰宅。)

※この記事は2017年05月13日に投稿したものを再収録しました。

■遊歩調査関連記事
 遊歩資料館アーカイブ(2010年収録)に目次があります。

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・憧れの56.4km-六甲全山縦走路

★この記事は、2015年11月18日に投稿されたものです。(再編集)

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全山縦走 長年の謎

 22年前、当時会長をつとめていた六甲遊歩会での縦走路実測の話題が神戸新聞(6/25夕刊)のトップ一面9段抜きの記事の中で紹介されました。「全山縦走 長年の謎」と銘打った六甲山を縦断する市民大会のコースに関する特集記事です。
 今年の1月頃からメールや電話を使った神戸新聞記者とのやり取りがありましたが、掲載の気配がないのでてっきり没になったのだろうと思っていましたが・・・。どちらにしろこんなマニアっぽい話題なんぞは、てっきり小さなコラム記事で紹介されるものと思っていただけに一面トップは驚き桃の木です。
 六甲山とか神戸とかに馴染みが無い方には、「何のこっちゃ?」と首をひねるような話題でしょうが、神戸市民や関西の六甲山フアンにとっては、秋の全山縦走は、市民レベルの恒例イベントで、登山家やハイカーの枠を越えて、老若男女、多くの市民が長い間、親しんでいる関心の高い行事です。

 私が六甲山での狂気のような遊歩を始めた頃、この山塊の背骨となる縦走路のコースは、55kmという表示をする資料もありましたが、多くの資料や書籍では全長56.4kmと紹介され、公式距離として広く認められていました。
 普通のハイキングはおおよそ一日10~15km程ですから、4回分ほどのハイキング距離を一日で歩き通すという非常にタイトで、標高差の計が3000m余(富士登山の2回分)のアップダウンの激しい苛酷なルートです。死者がでた年も何度かあるようで、山歩きに縁の薄いビギナーがいきなりチャレンジという訳にもいきません。 中には、全容をよく知らぬままイベントとして参加した児童・学生などが、半ば泣きながら歩き続けている光景もよく見ます。それらを横目にマイペースで完走するのは山歩きに手慣れた中高年ハイカー達で、例年参加の常連たちは、11時間を切ったとか、10時間で完走したとかタイムトライアル的な楽しみも加わっているようです。リタイアポイントが限られているので、自分の体力や仲間の体調をどう見きわめるかも難しく、炊き出し、応援、夜間遊歩、チームワークなど悲喜交々、様々なドラマに彩られながら展開するイベントです。
 混雑してマイペースで歩けない市主催の「市民縦走大会」には参加した事がありませんが、個人的には、幾度かトライしました。また、遊歩会の新人研修を兼ねた縦走大会を開催したこともあります。

六甲全山縦走路の実測数値をまとめた報告書
六甲全山縦走路の実測数値をまとめた報告書(1990年4月発行)

 自身の初めての挑戦では16時間45分での縦走でした。完走後、夜遅い阪急電車の中で、沸き上がる充足感を必死に抑えながら、棒のように固くなった太ももをさすっていたのを昨日のように覚えています。
 オーバーな話ですが「もう昨日までの俺じゃないのだ」という呟きでしょうか。一皮も二皮も剥けた自分をヒッシと抱きしめている感じです。これに至ったのも、ひとえに加藤文太郎との出会いがあったお陰なのですが、その文太郎は、ここからまたスタスタと歩いてスタート地点近くの自宅まで歩いて帰って行ったという超人的な健脚でした。
 最近になってやっと脚光を浴び始めたこの文太郎ですが(映画「劔岳」の木村監督が次回作でのモデルにするらしい→追記※つぶれたみたい)「知る人ぞ知る」地下足袋の加藤、単独行の文太郎、その後の日本アルピニズム史の一角を華々しく飾り、あっという間に槍ケ岳北鎌尾根で逝ってしまった文太郎はとうてい自分の足下にも及ばない遥か先をいく遊歩の達人でした。

歩くとは何か?」という理屈っぽい疑問が顕在してくるまで、私の初期の六甲遊歩は、ひたすら文太郎の足跡を追っていたものです。そして彼が疾走した縦走路を主脈として持つこの裏山・六甲山という山塊そのものの魅力に虜になって、一層狂ったような遊歩三昧にハマって行く訳ですが、その意味では「56.4km」という数字は憧憬そのものでした。
 この数字への自分の思い入れ、縦走へのこだわりは何ら変わりませんが、技術的な点でこの「56.4km」に疑念を持ったことは自然な経緯です。歩き慣れてくると身体で体感的に山中の距離や時間が測れるようになります。
 技術的な問題では、56km余りを何時間で歩けたという、体力的なデータを他の山系などで、そのまま応用してしまうことでしょうか。六甲山では歩けた筈なのに・・・ということになれば、リスクの大きい山行でしたら危険なマイナスデータになりかねません。
ということで遊歩会独自の調査「巻き尺で実測しよう!」という事になりました。(今ならGPSを使ったアプリがいろいろありますが)
 実測自体は、5回に分けて行いましたので、のべ5日間ですが、調査ルートをはじめ調査方法の設定から、集計・報告まで一年をかけて取組みました。地図上の計測や万歩計を使った計測など、他資料との比較検討を含めての検証。詳細を『六甲山を見つめ直すシリーズ/その2』BUN-BUN別冊4号として発行。(上記写真 )

実測調査の結果

 実測の調査結果は、機関紙ぶんぶん別冊第4号にて発表させていただきました。結果は「45.1km」でした。(最近、実測が行われるとも聞きますが、多少ルートは違っていても、おそらくはこの距離に準じるものと確信します)
 この数字をどう受け止めるかは、それぞれあって然るべきです。ルートの変遷をふくめ、縦走路を深く見つめ直してみると、それは自然の災禍や人為(開発)の傷跡であったり、受難の六甲山の歴史を痛感することでもありました。私における「内なる六甲山」は永遠に『56.4km』であることは、今にしても疑う余地はありません。(続く)


追記★かつての眠っている六甲遊歩の記録ならびに資料類を、これを機にこのブログへ引っ越しさせております。資料的には古くて価値も消耗しているものと思いますが、関心のある方は、カテゴリー「資料:遊歩アーカイブの方も訪れて下さい。
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○資料目次:遊歩資料館アーカイブ

再度山・洞川林道の樹林
再度山・洞川林道の樹林

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★本カテゴリーは、私が六甲遊歩会時代(1984-1995年頃)の間に記述・編集されたものを、本ブログに再収録したものです。ブログの日付けは収録日に過ぎません)

目次は下記の通りです。(資料が増えた次第、順次リンクを貼っていきます)

 ■「遊歩とは何なのか?」
   狂気? 散歩? スポーツ? 登山? 冒険? 健康? 禅? アート? 放浪?

 ■「遊歩の舞台としての六甲山とは?」(編集中)
   せめぎあう都市と山岳の最前線、遊歩の舞台としての成立条件。

 ■「自然とは何か?」(編集中)
   「引き裂かれた私」の発見、
   「内なる六甲山」「内なる自然」との出会いを求めて・・・

 ■「調べる遊歩?」
   ホタル? 56.4km? 水? 自らの内に潜んだ「赤テープ」を剥がす・・・

※注:ログのアップ日時はソート的処理(収録日時)で記述日時とは関係ありません。
その他、当時のママで生じる不確定な記事があるかも知れません。ご了承下さい。
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本カテゴリーは、私が六甲遊歩会時代(1984-1995年頃)の間に記述・編集されたものを、本ブログに再収録したものです。

○資料04:調査遊歩レポート

紫陽花の葉の間から、山芋のツルが伸びる
神戸市立高山植物園・アジサイ園 Photo by jiro

★このカテゴリーは、私が六甲遊歩会時代(1984-1995年頃)の間に記述・編集されたものを、本ブログに加筆のうえ再収録したものです。ブログの日付けは収録日に過ぎません)
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■『六甲山における赤テープ問題』

………………1985年………………

 「ルート表示用の赤テープは一体何を意味するのか?」という疑問から、六甲山をフィールドにした各山岳会、大学サークル、官公庁、団体・個人へのアンケート調査と赤テープ表示の特集記事をまとめ、BUN-BUN別冊2号として発行(9月)。
……「え~と、右は◯◯か」「左が◯◯か」 道標(社会通念)をついつい追って歩いてしまう。こんな歩きは周囲の地形(社会)を自らの内にイメージできていないから、道標がなくなった時(迷った時)に進むべき方向を失う。…… このような意味合いのことをエリアマップ「六甲山」の著者・赤松滋氏が書かれていました。この言葉がこの調査のきっかけであったことは間違いありません。 確かに山中のルート(社会)は複雑で、とくにビギナー(年少者)が迷わず歩く(生きていく)には、折々の分岐点には、正確な道標(目的の確かな選択肢)を用意しておかなければ不安です。その内に地形(社会)そのものが頭の中でイメージできるようになれば、自分が選んだ目的に向かって、遠回りであろうが、近道であろうが、自分に合ったルートを自由に選んで、歩けるようになります。これは凄い!ことです。つまりルートを失った時や迷った時(挫折した時)にもパニックにならず、進むべき方向(再出発~復興とも言いますか)を自身の中から(社会通念に惑わされず)見い出すことができるのです。
 赤テープも一つの道標です。六甲山の支尾根、支谷いたる所で、まるでゴミのように巻き付けられている赤テープ、これが奥深い雪山なら生命を救う目印となるかも知れませんが、六甲山ではただ私たちを煩わせ惑わせるだけです。安易で過剰な赤テープ(過保護)は結局、ルートの選択力(人生に立ち向かう力)を育むことを疎外します。冷たい言い草ですが自然のフィールドとは厳しいものです。そういう厳しさを保全するために私たちは過剰な赤テープを撤去したいと考えます。同時に自らの内にある『赤テープ』も剥がしていきたい。

(※当時は、息巻いて赤テープを剥がしていたようで、共感より反感を買っていたようです。2010年9月)

■六甲山を見つめ直すシリーズ╱その1
 六甲山に於けるテープ表示に関してのアンケート集計結果報告(昭和63年度)
 当時の兵庫県山岳会、自然保護協会の関係者や六甲山ガイドブックの著者の方々などからも「赤テープ類によるルート表示」に関しまして貴重なご意見をいただきました。
の内容につきましてはPDF化が滞っていますので、とりあえず画像を掲載しておきます。しかしながら、当時の昭文社エアリアマップ「六甲山」(六甲山のハイカーが愛用するルート地図)の著者・赤松滋さんより編集部にいただいた寄稿文は含蓄ある噛みしめたい一文ですのでテキストに起こしてみました。ぜひ、一読ください。
(2019年8月:追記)


■『六甲全山縦走路測量』

………………1989年3月~1989年8月…………

 ・計5回の巻尺を使った実測と万歩計やコンピュータ分析での距離測定。
 ・調査結果は『六甲山を見つめ直すシリーズ/その2』BUN-BUN別冊4号として発行。
 これは大変な調査でした。この年の神戸市が主催する「市民縦走大会」の公式マップのルートを50mメジャーで実測したのですが、この馬鹿げた測量遊歩を見つめる一般ハイカーの視線を気にしつつ、50mのメジャーで1000回に近い尺取りをしたものですから…。調査結果が神戸新聞に発表されたもので、各方面から賛否両論の大反響を頂きました。
  従来から六甲全山縦走路の距離は「56.4km」と記されたのが多い。(「55.0km」とか「55.4km」と紹介するガイドもある)この『56.4km』は私たちの憧憬の数字でした。そしてその数字自体に何も不満や不信感もありません。しかしながら、実測結果の距離は「45.1km」でした。 いまさら、この数字をどう私たちが受け入れるのか?この数字に一体どんな意味があるのか? その辺りは調査報告の中でも触れていますが、確かなことはここでも受難の六甲山の姿を深く痛感したことです。私たちの「内なる六甲山は永遠に『56.4km』であることは疑う余地はありません。

神戸新聞の第一面

■六甲山を見つめ直すシリーズ╱その3
 六甲全山縦走路の距離実測報告(平成2年)
全山縦走路の距離に関しての調査報告書は、機関紙「ぶんぶん」別冊として発行し、協力いただきました関係行政機関や六甲山の各施設・関係者に配布させていただきました。
 PDF化されていません。写真にだけは撮ってみましたので、見にくいですが、関心のある方はご覧ください。

■『表六甲山におけるホタル調査』

………………1990年より開始…………現在も単発的に調査続行
表六甲山のホタル調査

 ・平成2年度の調査結果はBUN-BUN別冊5号として発行。(調査は5年計画でした)
 六甲山系の渓流における水質調査のケミカル調査と並行した水棲生物調査の一環として企画されたものですが、きっかけは、都会の生活からほとんど無縁になってしまった『ホタル』が果たして六甲山麓、山中に生息しているだろうか?という単純な疑問から出発したものです。しかし、短い羽化期間のホタルを広い六甲山で実際に追跡する調査は大変なことでした。
 6月1日~7月21日の間、21回、計32ケ所、延べ85名での作業。暗闇の六甲山中を、居るか居ないか分からぬホタルを追い求めるのは、実に探検・冒険のようでワクワク感が先行しましたが、頭で描いていたような光の乱舞どころか、一匹の成虫をなかなかに見つけることもできず、イライラと焦る気持ちがつのっていく遊歩となりました。調査を始めて8回目に初めて「天然ホタル」を山中の河原で発見した時は、言葉にならない感動で長い時間立ちすくんでいました。それからは闇の六甲山中で点滅するか細い輝きにすっかり魅了されることになりました。
 しかしながら、その見つけた「ホタル」が天然なのか、人為に放流されたものかを、合わせて調べることとなり、特殊な自然環境を形成する六甲山特有の二重の「アリバイ」調査でもありました。

■六甲山を見つめ直すシリーズ╱その3
表六甲山ホタル調査概要(計画書)とその調査報告書(平成2年度)

★ホタル調査概要(計画書)とその調査報告書は、機関紙「ぶんぶん」別冊として発行し、協力いただきました関係行政機関や六甲山の各施設・関係者に配布させていただきました。
 そのデジタル(PDF)化には未だ手をつけていません。写真にだけは撮ってみましたので、見にくいですが、関心のある方はご覧ください。

■『六甲山の水質調査』

………………1990年6月~1991年4月…………
六甲山の水質調査
西山谷にて水質調査(ケミカル及び水棲生物)1990年5月20日

・計6回、14ヶ所、延べ66名で簡単なケミカル調査(6要素)と水棲生物の観察
・各回の調査結果は会報BUN-BUNにて、その都度発表。
 調査の発想は、六甲の水は美味しいか?名水はどれだけ山中に存在しているか? という単純なものでした。しかし、いままで何も気にせず飲んでいた沢の水が「ちょっと心配」になるような結果も出て、残念ながら六甲の傷の深さを痛感。

六甲名水探偵団
住吉谷の水質調査・1990年3月11日

■『現代遊歩研究会の調査遊歩』

…1992年度のテーマを『六甲山における密教的風景』に選定して4回にわたる実践遊歩を実施…

・Vol.1「幻の密教伽藍をさがす~裏六甲・古寺山」……1992年2月
・Vol.2「天狗たちの姿を求めて~古の抖そう行のルートを歩く・鷲林寺~石ノ宝殿」……同年5月
・Vol.3「空海の足跡を追う~再度山・大竜寺」……同年9月
・Vol.4「山上の密教的風景を訪ねて~巨岩伝説と山岳信仰」……同年11月
このテーマはちょっと!のめり込んでしまいそうになる!ハイカーの守備範囲を大きく超えてしまいそうなので1993年に予定していた『六甲山における超古代文明』は個人的な仕事におきかえることになりました。

★以上の調査報告書は、まだデジタル化されておりません。
折々にテキストに起こしますのでそれまでお待ちください。
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