○資料01:〝遊歩〟とは ? (2) アート? 禅? 旅行?

山口県山口市・東鳳翩山 ( 743m) 愛犬クッキーと登頂
山口県山口市・東鳳翩山 ( 743m) 愛犬クッキーと登頂

■遊歩は動的な『禅』かもしれない?


 ここで話は千年以上昔に遡ります。中国やインドではさらに千年、二千年も古の時代なのでしょう。密教行者、修験者が自然(宇宙)の神秘を自らの身体に体得すべく、ひたすら山野を、峰々を、岩場を歩き巡りました。「瞑想」と共に重要とされたこの行は「抖そう行」と呼ばれたらしいのですが、自然の摂理、宇宙の哲理を頭だけで勉強するのではなく、険しい山林を自分の足で歩き回り、身体全体で自然や宇宙を掴みとろうとしたようです。比叡山の千日回峰、吉野山の奥駆けなどは代表的な「歩き」による修行です。
 後の禅宗では、「歩き」より「座禅」という瞑想的な方法での修行が盛んになりました。禅を勉強したわけでないので、的外れかも知れませんが、「渓声山色」自然の中を歩かなくても、我が身をして自然と悟れば、己が何処にあろうが、渓谷の音を聞き、山の色を見ることができるといいます。「歩く」という行為をも「座る」という行いの中に取り込んでしまう。この禅的修行の代表的な境地が「無心」とするならば、慌ただしい都会で、日々生活に追われている私たち凡人にはなかなか手の届かない境地だといえます。やはり、私たちに合ったそれなりのフィールドが先ず必要となるのでしょう。
 私自身たまに、いや「一人歩き」の場合には、往々にして「無心」を体験することがあります。疲れに喘いでいたり、ルートを必死で探していたり、風景に圧倒されたり、「無心」というより、「夢中」に近いかも知れませんが、全く自分が真っ白になって、自然のフィールドで踊っているような、踊らされてるような、心地のよい状態になることがあります。考えごとをしているようで、何も考えていない。何も考えていないようで、充実している。自然に対して素直で、柔軟な自分になっている時、それも「無心」の一つというなら、遊歩は立派な「動的な禅」とも言えます。

■遊歩は「アート」なのだ!?


 次にアートという切り口で「遊歩」を紹介してみましょう。
「パフォーマンスアート」という言葉がありますが、最近では、思わせぶりな行為をさして世俗的に使う場合が多いですが、本来は一つの芸術思潮で60年~70年アメリカのアーティストを中心に流行しました。簡単に言えば「アートとは作品そのものでなく、作品にいたるまでの行為こそアートなのだ」と言うことです。
 初期の遊歩会では、私を含めモダンダンスをやっていたメンバーが数人いたこともあって、「歩き」をダンス表現の一つとして考えてみようという試みがありました。まさに再現不能の一回性アート、六甲山という巨大なステージで、観客は不在のパフォーマンスでした。とは言っても踊りながら歩いた訳ではなく、草原状の東お多福山々頂でストレッチをしただけで、見かけはごく普通のハイキングとさほど変わりないものでした。しかし、これを期に「歩き」における自己の表出の可能性を深く考えることとなりました。
 1986年に「近所登山パフォーマンス」と冠して13回の遊歩を、公募でメンバーを集め実施いたしました。現在の中心的なメンバーですが、彼らのほとんどが「アートとしての歩き?」「自己の表出?」「なんのこっちゃ?」と思いつつ、戸惑いつつも六甲ハイクを楽しんでいました。
 こういう彼らに「山へ行けば、必ず自然があるとは限らない。ひらいた風景の中で、子供のように素直に心がひらかれなければ、自然と出会えないのだ…」「そして自然と出会うとき、まだ見ぬ自分を発見するだろう。自分との出会いが遊歩なのだ。」というメッセージを会誌「ぶんぶん」の中で送りつづけました。  巨大なステージの中では、作為的な個人の行いなど微々たるものでしかありません。それよりもよりステージの中に自然に、素直に溶け込み、自分を委ねてしまうことの方がいかに自分らしくなれるか。アートとは自己の表出に他ならない。そこには普通の感性や想いだけではなく、屈折したり、密かに押し込められたものもあるだろう。枠にはめられ、あふれた情報に混乱して、自分自身や自らの進む道を見失いがちな現代社会に暮らす私たちにとって、見知らぬ自分、隠された己と出会うことは大切な事です。それも「テレビ」「麻薬」「株」という現代のバブル的ツールに拠らない方法で…。
 舞踏の創始者といわれる土方 巽の言葉にも数多く「遊歩」連なるものがあります。
「舞踏とは自らの肉体と出会うことだ」「我が肉体に降りていく」
 遊歩もまさしくそうありたいものです。

■放浪、遍歴の旅~『私に向かう旅』


「遊歩とは、限りなき自己への旅立ち」…。少しずつ「遊歩」の核心に近づいてきましたが、その前に少し「遊歩」と旅、それも「放浪の」とか「遍歴の」と形容される「旅」とのかかわりを考えてみたいと思います。こういう旅に身を置いた方々は数えきれません。古から、学問にしろ、武術にしろ、宗教上の修行にしろ、また、ごく些細なきっかけにしろ、とにかくもあてどなく「歩き」始めた人のそれぞれの軌跡を追ってみるのも「遊歩」を深める大きなヒントになるかもしれません。
 現代を含めて、どの時代にも数多ある放浪の軌跡のうち「山頭火の旅」は私にはきわめて身近な軌跡に感じてなりません。
 「分け入っても分け入っても青い山」この遍歴を告げる句の前書きには「解くすべもない戸惑いを背負うて。行乞流転の旅にでた」と記されています。お堂で悠然と禅をむすんでいるだけでは己を掴まえきれなかった。とにもかくにも己を探すべく山頭火は歩き始めたのでしょう。彼にとっては確かな成算があって歩き出したのではなく、背負った戸惑いを解くために、つまり、我執にからまれ動きのとれない心を動かすために、とにかくは「歩き巡り」しかなかったのでしょう。
 「心があることにしがみついて動こうにも動けない。動けない心を動かすためには、体をうごかさなければならない。歩き続けるしかなかった。」こうゆう個的で切実で重い「歩き」をも遊歩と呼べるのだろうか、それにはためらいを感じます。あくまでも私たちにおける「遊歩」とは、個としての軌跡(単遊歩)と多くの仲間と共に描く軌跡(復遊歩)の両立を前提に考えているからです。
 しかし、個としての歩き(単遊歩)を深めて考えるなら、こういう流浪、遍歴の「歩き」が遊歩の核として

「遊歩」とは「私自身に向かう旅立ち」
 という一つのイメージが浮かんできました。こういう事をはっきりと意識できるようになったのは、私が歩きを始めてから、かなりの月日が経ってからのことです。友人には「ちょっと六甲山狂いをしています」と茶化していたものの、私自身、何故、六甲の山々に魅了されているのか、彷徨いに近いような歩き、何かに引きずられているような歩きを続けているのか、しばらくの間は不明でした。
 長い遊歩の明け暮れの中で、うっすらと私は六甲のある頂きから峰々に長く長く伸びた、自らの影を追い掛けていることに気がつきはじめました。「失われた私の影との出会い」これは、もちろん神秘的な現象ではありませんし、ことさら詩的に飾って言っている訳でもありません。
 〔中略〕
 余暇の遊歩だけでなく、仕事上にも、人間関係の上でも年相応の色々な出来事を積み重ね、私自身が、不確かではありますが、自分自身が何たる存在かを少しづつ掴め始めています。それも三十路半ばから始まった遊歩で様々な体験、都市社会だけでは味わえない、自然のフィールドの中で体験できたことが、「見失っていた私と再会」に大いに役立ちました。まだまだ。旅は続く訳ですが、迷いはもうありません。
 〔この項、長くなりそうなので、またの機会にアップデートします〕

■再び遊歩とは…


 「遊歩」の簡単な定義とすれば…アルピニズムほどフィールドが苛酷でなく、競歩のように平易でない。多くは日帰りで、たまにはキャンプ道具をかつぎ数日間、自然の起伏の中を自然からのリスクを背負って歩き廻る…こういう感じでしょうか。しかし、このカテゴリーにあてはまるものとして、低山ハイキングやワンダーフォーゲル、バックパック、トレッキングとか言われるジャンルが既にあります。しかし、確かにそれぞれは立派な「遊歩」には違いないのですが、どれをとっても私たちの「歩き」を表し尽くしている心地がしません。何かしら物足りないのです。
 私たちは有能なスポーツ選手でもなければ、アーティストでもなければ、ましてや山岳修行者でもありません。「歩き」を通して、己の恣意性を弾ましたり、自分の内の何かを表現したり、神秘的なものと出会ったりすることができます。また複数で歩くことによって、日常の社会や人間関係では整理しづらいことが、よく見えてきます。
 冒頭のC.フレッチャーは自称バックパッカーですが、著作の「遊歩大全」のサブタイトルには「Conpreted Walk」と附け加えられています。

 〔以下 略/続きは今しばらく!!〕
 以上の拙文は、機関誌「ぶんぶん」および別冊「遊歩」、入会案内の「遊歩の手引き」そして現代遊歩研究会の資料などに使ったものをまとめ直したものです。後少しでその作業も終わりそうなので、ご期待ください。(2000年12月/再掲) 
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○資料01:〝遊歩〟とは?(1)散歩? 登山? 冒険?

山口市・湯野観音岳 408m 平成30年 元日
山口市・湯野観音岳 408m 平成30年 元日

●このカテゴリーは、私が六甲遊歩会時代(1984-1995年頃)にまとめた遊歩の資料をアーカイブとして掲載しました。
(1984-1994年の間に記述・編集されたもので、ブログの日付けは収録日に過ぎません)
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■ウォーキングは健全なる狂気?

 『テレビ、ヘロイン、株。ひたすらのめり込み、常習患者になりがちなこれらの楽しみに、ウォーキング、すなわち「歩く」という行為にもつながっているような気がする。だが、精神的な偏執に陥りかねないこれらの狂気の中で、「歩く」だけは少し異質だなと感じられるのは、その狂気が快いものであり、精神の健全さにつながっているからであろう。』
   (C.フレッチャー著「遊歩大全」より)

 狂ったように六甲山を歩いていた時期があった。何故、私はこの様に歩いているのか、というより何故、このように歩かされているのか?自身でもよく分からない。その不明さを解き明かすにはやはり、歩く他に手立てが無かった。というような私の初期の「ウォーキング中毒」にかかっていた時代に、上記のフレッチャーの言葉に出会った。
 すでに「歩いている」方には、何も説明もなくても、充分に理解されると思いますが、未だ「歩くことを知らない」方には、ピンとこない、実感のつかめないものだと思います。「なぜ、そんなしんどい事を?」と仰る方が大半でしょう。そういう「歩き」を放棄された方に、遊歩の素晴らしさ、愉快さ、爽快さを説明するほど厄介なことはありません。しかし、そういう方にこそ「歩き」の楽しみを素晴らしさを一番知って欲しいのです。


■散歩なのか?

「遊歩」というものをいかなる角度で切り取っても、それらの断面からはユニークな発見が期待されます。目的に縛られた移動手段の「歩行」や生活に埋没した「歩き」から少し外れたところに『散歩』というものがあります。いつの時代からかそれが、日常の歩きといささか違うものと意識されたものか、私には不明ですが、それはきっと太古の時代、人類が二足での歩行を始めた頃までさかのぼれるかも知れません。いや四足歩行の時代、つまり、犬やネコのような生活をしていた時代、彼らも、もしかしたらそうかも知れませんが、餌の収集やテリトリーの確認という目的で歩き回っているだけではなく、たまには無目的にぶらり歩いてみたいと、気ままな散歩を楽しんでいたかも知れません。
 「散歩」を遊歩の一つの断面だと見ると、果たしていつの頃から「生活歩行」と「遊的歩行」の違いを意識するようになったのだろうか?何を契機に人類は目的のための歩きではない、歩きそのものが目的の歩きをするようになったのだろうか?おそらくこの点が遊歩を解き明かす大きなファクターとなるかもしれません。
 私の勝手な想像ですが、その契機は人類が「私」というものの周囲に存在している風景なり気配なりに、大いなる畏敬を感じたところから、何かが始まっているのかも知れません。言い換えれば、「私」と「私の周囲」のバランスが微妙に崩れ始め、純な欲求のみで日々を暮らすことが許されなくなった時代から「遊歩的な歩き」が生まれたと思われます。

瀬戸内から見た山口県の山(柳井・岩国)
瀬戸内から見た山口県の山(柳井・岩国)

■競歩は歩きか?

 話はいきなり近代へ飛びますが、ヨーロッパの産業革命以降、急速な近代化の中の一つにスポーツの発展があります。スポーツから見た遊歩の断面をいくつかみ見てみましょう。日常に埋もれやすい「歩き」をもっとも単純にスポーツ化したものに『競歩』というのがあります。古代オリンピックにはたして、この種目は存在していたのかどうか調べてはいませんが、近代五輪では歩行の「スピード」を競う立派な種目として採用されていています。  ただし、「走り」との区別を明確にするために、同時に両足が地面から離れてはいけない。一瞬でも膝が伸びなければいけないという二つの原則を設けました。そのおかげであの奇妙な歩行フォームが生まれた訳ですが、競歩における「歩き」とは全く「遊歩」とは無縁なものとなりました。単に「走り」の奇形というしかありません。「遊歩」にとっては「スピード」とは全く不要なファクターです。

■オリエンテーリングに見る「遊歩」

 「歩く」ことをスポーツ化する困難さには、「スピード」以外にもいくつかファクターがあります。速度を競うのみではなく、フィールドの地形や状況を正確に読みながら歩くという「ルートファインディング」を「歩き」に絡ませてスポーツ化したものに『オリエンテーリング』というものがあります。もともとは北欧の雪中の軍事教練から生まれたものですが、20世紀初めにスポーツ化されました。
 私個人における「遊歩」では、「ルートを探す」楽しみは欠かせないものになっています。地図と磁石、時には「勘」のみでルートを探す。逆に、道を探すのではなく、自分が歩くところが道なのだと開き直り、地形の起伏にまかせて迷い歩き、その後、どんなルートを歩いたかを地図上でその軌跡を確認しながら楽しむ…など、このルート遊びの愉快さは、初期の遊歩から現在にいたるまで変わらない遊歩の重要条件になっています。
 しかし、目的地に至るスピードやルート選択の正確さを競うことは本来的な「遊歩」とは無縁のことです。そういう枠やルールを作った瞬間に歩きは、遊歩という輝きを失ってしまいます。しかし、競歩のように自然のフィールドを無視した「歩き」と比べると、オリエンテーリングでは自然の起伏というフィールドのおかげで「本来的」なスポーツに一歩近づいているとも言えます。


■登山(アルピニズム)と遊歩

 スポーツ登山というものがヨーロッパ市民層に芽生えるまでは、古くは宗教的な儀式・修行か、または交易や獲物を求めて険しい山に登る(軍事的必要性もあったか)そんなことが登山の主な目的だったと思われます。『アルピニズム』も近代の産物です。かつての登山はスポーツというより『冒険』そのもので、より高く、より険しいピーク、未踏の頂きを目指すようになりました。その為に高度な技術や厳しい訓練、ルール、チームワークなどを習得しなければなりません。
 『アルピニズム』はあくまでも頂上をきわめることを目標としがちで、その目的に向かって技術や方法が集約される場合が多くなります。「歩き」と「フィールド」の関係でいえば、圧倒的に「フィールド」の方が苛酷な状況になっており、その場合「歩く」という行為は「登る」(または下る)という言葉に置き換えられ、その一歩一歩が頂上を獲得するための手段となりがちで、制約された「歩き」に縛られることが多くなります。 
 遊歩では山頂や目標地点に辿り着くことだけが目的ではなく、「歩き」の一歩一歩がどれだけ自分らしくあるか、自由であるか、という問いかけを大事にします。極論すれば、今、踏み出した一歩そのものが全目的だとも言えます。


■冒険とは?
 宇宙に飛び出す以外にもう冒険は成立しないのでしょうか。その冒険にしろ、もう個人の領域では考えられません。国家とか企業の単位に組み込まれた冒険です。
 地上においてほぼ「未踏の地」が失われた現代では、冒険のあり方も変わらずにはいません。よりスポーツ化され、極寒時のアタックとか、無酸素登頂とか、単独横断とか、無帰港渡航とか、なにかしら条件付加が必要になってきました。その内に裸体で登頂とか、竹馬で横断とか、少しマンガチックな光景になりそうです。
 数年前、読売テレビのイベントで「チョモランマからの生中継」とかいう番組がありましたが、スポーツがそうであったように、猛々しいチャレンジ精神や自らの全存在をかけた行為としてあった冒険が、いとも簡単に「金」で置き換えられました。膨大な資金、装備さえあれば、何処へでもいけるのです。これからの「冒険」とはもっと内的な部分で語られ、行われることだろうと想像します。
 遊歩のひとつの断面には「冒険」はかかせない条件です。険しさを冒す、あえてリスクを背負う、冒険家でなくても誰でもこういう欲求にかられることがあります。その欲求が何処から沸き上ってくるのか?リスクとは何か? 現代社会の中に満ち溢れている個人的リスクから、もっともっと大きな領域で背負っているリスク、人類が何万年も背負ってきたリスクを考えてみるのも一つの冒険のそして、遊歩のヒントかもしれません。


■遊歩は最高の健康法!

 とは言っても、専門家ではない私は科学的、医学的な裏づけがどれほどできるのか分かりません。体験的な現象を2~3紹介できるだけです。
 激しい運動よりも、低エネルギー運動を持続する方が健康維持に効果があるという点は医学的にも認められています。ニューヨークなどで流行している「徒歩通勤」なども交通機関や革靴、ハイヒールからのストレスを避ける目的を含めて、トリムやフィットネスの感覚で「歩き」を健康維持や増進に大いに利用しようというものでしょう。
 さらにこれが自然のフィールドでの森林浴と重なれば、都会的なストレスの発散にも大きな効果はあります。樹木から発散するフィトンチッドは身体に作用すると言われますが、どれほどの効果をもつのか私には不明です。個人的に感じることは、身体のいろんな機能が自然と向き合うというところで、都会的環境にはない刺激をたくさん受けることが快適です。辺一面のみずみずしい緑、爽やかな風、又は猛暑や極寒であってもここでは快い刺激となります。起伏に富んだフィールドは、日常にはないスタンスや歩幅を経験させてくれます。  こういう刺激の積み重ねが私の場合、腰痛がなくなった、胃の調子がいい、風邪をひかなくなった、というような現象に結びついていると信じています。と言っても、月一回程度のものでは効果は少ないでしょう。できるだけ多くの機会をもつ必要はあります。(全盛期では年間100回を越えていました。最近は月2回程度で、身体は少し不調です)


NEXT▶︎〝遊歩〟とは何なのか? その(2) へつづく

・シビックプライドとしての背山(由布岳)

やまな大分県・やまなみハイウェイから由布岳(1,583m)を望む
 大分県・やまなみハイウェイから由布岳(1,583m)を望む 

宇佐神宮〜志高湖〜由布岳

 九州の山を歩こうと思いついて、いろいろと山名が浮かんだが、やはり「由布岳」が最後に残ってしまう。「由布院温泉」とセットで頭にこびりついていたのは、やはり、NHK連ドラ「風のハルカ」の影響が大だと思う。山を守り神として住人たちは山を見上げ、山は母親のような慈愛でもって麓の人々を見つめている。そんな里と背山の際立った関係がすっぽりと印象に焼き付いていたのだろう。シビックプライドではないが、背後に聳える山を大いに誇ることができる、そういう意識が共有できる地域は本当に幸せという思いがあります。山を祀る、山の神を奉じるなど「山」への思いは、太古の昔より〝山と人〟との関係で繋がれてきた日本風土・文化の大きな柱の一つとも言えるものです。いや日本に限らず世界中どこであっても、山と人間、自然とのかかわりの根元にあるように思います。
 そんな山から恵まれている潤いを、日々の暮らしの中でいっぱいに享受している人々がくらす里を訪ねてみたい。由布岳とそれを御神体として創建された由布院の宇奈岐日女神社にはぜひ参拝してみたい。と、まずは由布岳を横目にスルーして、やまなみハイウェイで湯布院に直行した訳ですが、すんなりとは町へと入らせてもらえませんでした。考えればGWの連休中、おまけに外国人観光客も急増中の昨今、車と人ごみにあふれ、車を停めるところさえ見つかりません。街ナカから逃れ、コンビニで今晩のキャンプ夕飯と朝食及び山上での昼飯の3食分の食料を買い出して早々に退散することになりました。この地の魅力をじっくり味わうには、もっとオフシーズンを狙うべきでした。

左:宇佐神宮 右:由布院
左:宇佐神宮 右:由布院

興味をそそる〝死拍手説〟

 話が前後しますが、途中10号線を南下中に「宇佐神宮」を発見、じっくりと見学・参拝させていただきました。全国4万社余りの八幡さんの総本宮とあって、思っていた以上に品格ある大きな宮でした。この宮も昨年訪れた出雲大社(島根)と同じく参拝方式が「二礼四拍手」でした。例の大社の「死拍手説」と何やら深いつながりでもあれば面白い展開だなと、帰宅後、少しワクワクしながら調べてみた。新潟県の弥彦神社も、同じく「四拍手」だそうだ。宇佐〜出雲〜弥彦、これらを結ぶラインは「八拍手」の伊勢神宮(大和)を守る非大和系の神社による結界だ!という説もあって、これまた面白い。「拍手」一つでいくらでもお話を掘り下げ、拡げられる歴史好きの面々には敬服せざるを得ないです。(謎多多き神々の出雲国を参照ください)

 買出しを終えて混雑の由布院を脱出、明朝に登る由布岳を、またも横目にスルーしキャンプができる志高湖があるというので別府方面へ戻る。湖畔で落日を楽しみながらと目論んだが、ここも人気スポットのようで案の定、湖畔は芋の子を洗う如きのオートキャンパー(数100台)で溢れていました。仕方なく湖畔から離れて山裾の斜面にテントを張ることに。

由布岳山頂から湯布院へ通じるやまなみハイウェイを望む
 由布岳・東峰山頂から湯布院へ通じるやまなみハイウェイを望む

一味ちがう九州の山々

 翌早朝、登山口から見上げる「由布岳(豊後富士)」の威容に気合いを入れてもらって遊歩開始。噴火当時をリアルに想像させる麓のどでかい噴石群には目を見張る。まさに噴石ミュージアムといった感が伝わってきて、この何か生々しい感じが気持ちを高ぶらせます。プレート圧縮型の高い山々が連なった中央アルプスとはまた一味違った山容がある。噴火型による山岳が多い九州の山は、平地を突き破って、マグマを盛り上げたような山容(富士山のような)で独立性が高い。 この先には九重連山や阿蘇山などを擁する「火の国」が待ち構えているのですから、個性たっぷりの〝火の山〟という趣きも当然です。
 1時間余で標高1000mを越えたか、樹林帯を抜け森林限界のような感じに。高木が消えて足下に由布院の眺望がパーンと広がり、東の遠くには別府の湯けむり、西には九重連峰、さらに阿蘇までが望める。昨日、別府側から見た大平山や鶴見岳も、多くは草原の山肌で樹林が少なかった。本州ではあまり見慣れない山肌の風景であった。火山地質もあるが、山焼きをしながら牧草地として管理しているらしい。
 由布岳も上半分には樹林が無く、眺望は申し分ない。夏場はさぞ暑いだろうけど。多くのハーカーに追い抜かれながら黙々と喘いで、10時頃マタエと呼ばれる西峰と東峰の鞍部に到着。険しい鎖場がある西峰をパスして、東峰へアタック開始。それを娘にライブで写メ実況するが全く返信がない。昨夜のキャンプ場ではガンガン返信がきたが・・・(朝寝中だったようだ)
 山頂(東峰)周辺は登山客で鈴なり、登山道で行き交う人もそうだが、何とまあ〜ウェアやグッズの華やかなこと。我が身を振り返ると古〜いリュックとシューズ、Gパン・Gシャツに釣用ベストの裏山散歩スタイルで肩身が狭い。日頃は、一人遊歩でしかもハイカーと出会うことの少ない低山専門なので、流行りモノに触発されるチャンスがなかったのですが・・・。やっぱり機能性云々は別にしても、オシャレには気を使わないとそろそろ徘徊老人と勘違いされそうだ。(まあ、それで間違いはないのだが)
 定番の下山後の温泉、別府であちこち探したがあまりの混雑で断念。
 門司、下関、宇部といろいろ探して走ってみたものの、結局は自宅近くのスーパー銭湯になっちゃいました。
ということで、まだ何とか山歩きしておりますのでご報告まで。

左:由布岳マタエから西峰を望む、右:志高湖のソロキャンプ
左:由布岳マタエから西峰を望む、右:志高湖のソロキャンプ

※この記事は2018年5月8日に投稿したものを再収録しました。

■遊歩調査関連記事
 遊歩資料館アーカイブ(2010年収録)に目次があります。
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○資料目次:遊歩資料館アーカイブ

再度山・洞川林道の樹林
再度山・洞川林道の樹林

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★本カテゴリーは、私が六甲遊歩会時代(1984-1995年頃)の間に記述・編集されたものを、本ブログに再収録したものです。ブログの日付けは収録日に過ぎません)

目次は下記の通りです。(資料が増えた次第、順次リンクを貼っていきます)

 ■「遊歩とは何なのか?」
   狂気? 散歩? スポーツ? 登山? 冒険? 健康? 禅? アート? 放浪?

 ■「遊歩の舞台としての六甲山とは?」(編集中)
   せめぎあう都市と山岳の最前線、遊歩の舞台としての成立条件。

 ■「自然とは何か?」(編集中)
   「引き裂かれた私」の発見、
   「内なる六甲山」「内なる自然」との出会いを求めて・・・

 ■「調べる遊歩?」
   ホタル? 56.4km? 水? 自らの内に潜んだ「赤テープ」を剥がす・・・

※注:ログのアップ日時はソート的処理(収録日時)で記述日時とは関係ありません。
その他、当時のママで生じる不確定な記事があるかも知れません。ご了承下さい。
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本カテゴリーは、私が六甲遊歩会時代(1984-1995年頃)の間に記述・編集されたものを、本ブログに再収録したものです。

・謎多き神々の出雲国(三瓶山〜出雲大社)

男三瓶山(1,126 m)からの落日
男三瓶山(1,126 m)からの落日

三瓶山編

 GWで家族旅行を!と思いきや、家内も娘たちも相手にしてくれない。しかたなくワンちゃんを連れての出雲大社詣りを思い立ったが、山中でテントを張れば、犬連れも問題ないのだが、出雲の神巡りには少々、犬連れは無理がありそうなので今回は一人旅と相成りました。
 創世の出雲は、小さく狭いというので、八束水臣津野命は新羅より「国来、国来」と土地を引っ張ってこられ、島根半島を付け足したそうだ。(のちの国譲りと併せ、これまた意味深げなお話ですな)その国引きの時に、杭として綱を引っ掛けた山が現在の「三瓶山」と言われています。(大山は東側の杭)その神話の世界をビジュアルで俯瞰しようという訳で、三瓶山の麓でキャンプというポイントだけを決めて、あとは行き当たりばったりで出立した。
ひたすら9号線を北上する。ここはGWだというのに渋滞もなくスイスイと全く走り良い。Wi-Fiを求めてコンビニと道の駅のハシゴとなり、いささか旅の風情は半減したが、250kmほど走行して、ようやく大田市の国立公園エリヤへ、林道ドライブがしばし続いた後にサプライズ。樹林帯が開けて、牛が闊歩する大草原がパッと広がったと思うとラクダのコブ状の三瓶山がぐわ〜ンと眼上にいきなり聳えているではないか。一瞬で別世界へ。このワープ感がとても刺激的で、かつ、他では拝めないユニークな山容に見入ってしまった。
 後で調べると、それもそのはずカルデラ中央の溶岩円頂丘の山だそうで平成13年に活火山に指定されている。
「おいおい、これはじっくり登らなくちゃ!」と本線の大社詣りが脇役になりそうな風向き。15時半頃に麓の三瓶温泉に到着。

西の原から望む三瓶山
西の原から望む三瓶山

 入浴は登山後と思いきや「混雑のため16時まで」とあり、先に湯浴びとなったが、温泉でほっこり緩んだ身体では、なかなか1,100mの山頂を目指す気にならない。とりあえずテントを張ってから予定を立て直そうと思っている内に、陽はすっかり西に傾いている。(16時半)
 早朝の登山の下見を兼ね登り口を探しに・・・、のつもりが「え〜い、行けるところまで行くか」19時日没として、18時過ぎに登頂できればと、ナンとかなるだろうと温泉で緩んだ足腰のエンジンをフル稼働モードへ切り替える。
かつてのホタル調査で夜間遊歩はお手の物だが、初めての山ではいささか心もとない。ハイピッチでゼイゼイ喘ぎながら、18時10分登頂、これまた頂上すぐ下の樹林を抜けるといきなりの山頂で、 ババ〜ンと360度のパノラマが広がるという理想的なサプライズ登頂。カルデラを取り囲む外輪山の峰々から、遠くは島根半島、国引きで神様が引っ張られたその西の岬からの綱の跡である「薗の長浜」も夕日に映えている。時間的にも山頂には誰も居ない。この垂涎たらしむ眺望を独り占めしている感がまた贅沢極まりない。(動画参照
 黄昏の中を下山、暗闇でのテント設営が明け方の悲劇を。フラットな場所を選んだつもりだが、ここが周囲より窪地であったことを確認できなかったのは不覚。未明の土砂降りであっという間に水浸し。ロクに雨仕舞もしないまま寝込んでおかげで、シュラフをはじめ、テント内で脱ぎっぱなしの着替えや雑貨がびちゃびちゃに・・・
大急ぎで撤収!そのおかげもあって早朝には出雲大社に到着、大混雑に巻き込まれることもなく、心配していた駐車場もすんなり確保。
 さあ、いよいよ謎多き神々の国を遊歩開始だ!
(出雲大社編へ続く)

出雲大社編

島根県・出雲大社
島根県・出雲大社

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家宗は◯◯だが、私は無信仰」とこたえる人が極めて多いと聞く。
私もそうだった。
私の場合は、祖父が高野山の大僧正だったので、家宗がどうのこうのいう前にずっぷり真言宗に絡まった生活を送っていた・・・はずだったが、父が寺から離れたこともあって、たまの帰郷以外には宗教の匂いに触れることなく育ってしまった。
信心のようなことをさせられた事もないし、もちろんお教なども唱えた記憶もない。成人してからも無信仰を装っていたが、それは家宗に対しての抵抗感があった訳でもないし、仏様を軽んじていた訳でもない。最長や道元・親鸞なども賢人として尊敬していたし、空海に至ってはその超人さに憧れてもいた。

しかしながら、兄弟内で宗教論争が勃発したら、「私は無信仰だから・・・」と自分から蚊帳の外へ。まあ、直線的に突き詰めるのが面倒くさいから、意識的に無関心を宣言していたのだが。「そういう世界は理屈じゃないんじゃない」とファジーな取り扱いでこの歳まで済ましてきた。

「無信仰」で生活するのは不便かつ不都合なこともある。
神戸からの移住後、いよいよ現在地に居を構えるに当たって、仏壇も神棚も十字架もない住居というのは、何かしら締まりがなく心もとなかった。まだ幼かった娘たちにもスピリチュアルなものを意識させるスペースや儀式が必要だろう。へっついさん(かまど神)でもあればと思って、手作りで神棚を設えたが、ここはやはりみじかな氏神様をお祀りするのが自然かと、近くの出雲大社の分社よりお札をいただき、これを我が家の守り神とすることにした。安寧を祈ることを第一義と、難しい教義や氏子付合い無しのシンプルものに。(祝詞をすこしアレンジさせていただいた。恐縮!)
それより、毎朝の二礼四拍手一礼が我が家の日課となった。
 子供らには「出雲さん以外の神社は拍手は2回でいいんよ」とダメだしはしておいたが、「あれれ?」その理由?なんなんだろうと思いつつ長い年月が経っていた。お陰で(?)大過なく今日まで生き延びてきました。その安寧に感謝を捧げるべく出雲の本社詣でを思い立った次第。  最近、古い大柱が発見され、8丈(48m)の高層社が存在したか?いや16丈(96m)か?とのミステリアスな論争が沸騰したとのこと、平成の大遷宮や天皇家とのご縁結びを併せ、ますます古代ロマン・出雲大社が熱いではないか。

 二礼四拍手一礼をはじめ、
 しめ縄が逆向き
 ご本尊が横向き(西向き)

 などと言う謎めいた異様さを、この眼と心肝で体感すべくパワースポットのるつぼ出雲国へ。
謎解きは、井沢元彦の「逆説の日本史」などや反論異論の諸説紛々へ譲るとして、この謎の本質らしきものをピッタリ体感できるスポットがあったので、それだけをご紹介します。
 大社は広い。大阪のUSJと同じほどの広さらしい。拝殿奥の本殿を取り囲む玉垣があって、さらに外周に端垣があって、多くの神様を祀る社が点在している。このスケールさすがは神様のテーマパークと言えば不敬か。その端垣沿いに巡っていると、西側に小さな拝殿があり、長蛇の列ができている。
 ここからは本殿の西の壁を伺うことができる。つまり、横(西)向きの御本尊オオクニヌシノミコトと正面から対面できる場所なのだそうだ。(正式な拝殿では大国主命とは正対出来ず別天津神5神を拝むというトリッキーな形になる。怨霊たる大国主を天津神5神が監視しているというのが、井沢説のようだが・・)

 ここで柏手を打つときに、背筋がビビッと。「なるほどな〜、ここが被征服者を祀る死の神殿なのか〜」遥か彼方の時間を超えてひととき古代の修羅場と繋がったような感覚。古代社会も大変だったのだ。神道・神社信仰もここから更に営々と時の権力や時代のうねりの中、仏教と繋がったり、離れたりしながら信仰の様式・形式を変えながら現代に至っている。
 かつての征服者のモニュメントが生みだした信仰が、今では「豊饒と交流の聖地」として、私たちの身近な生活文化までに浸透している。日本の神様はホントに不思議ですな〜。
「健全と安寧、縁を結ぶ」それ以外の何物でもないような表情で杜が鎮まっている。これをあらためて体感できて大いに元気をいただくことになった。パワースポットとは斯くあるものでしょうね。

キララ多伎・道の駅ゆうひパーク浜田よりの日本海
キララ多伎・道の駅ゆうひパーク浜田よりの日本海

 古代出雲博物館から、長〜い参道をブラブラ見学しているうちに、昼もすっかり過ぎている。帰路へ。キララ多伎・ゆうひパーク浜田など道の駅で土産を物色しながら西下、日本海の海岸が美しい。
(願成寺温泉で入浴、20時帰宅。)

※この記事は2017年05月13日に投稿したものを再収録しました。

■遊歩調査関連記事
 遊歩資料館アーカイブ(2010年収録)に目次があります。

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・憧れの56.4km-六甲全山縦走路

★この記事は、2015年11月18日に投稿されたものです。(再編集)

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全山縦走 長年の謎

 22年前、当時会長をつとめていた六甲遊歩会での縦走路実測の話題が神戸新聞(6/25夕刊)のトップ一面9段抜きの記事の中で紹介されました。「全山縦走 長年の謎」と銘打った六甲山を縦断する市民大会のコースに関する特集記事です。
 今年の1月頃からメールや電話を使った神戸新聞記者とのやり取りがありましたが、掲載の気配がないのでてっきり没になったのだろうと思っていましたが・・・。どちらにしろこんなマニアっぽい話題なんぞは、てっきり小さなコラム記事で紹介されるものと思っていただけに一面トップは驚き桃の木です。
 六甲山とか神戸とかに馴染みが無い方には、「何のこっちゃ?」と首をひねるような話題でしょうが、神戸市民や関西の六甲山フアンにとっては、秋の全山縦走は、市民レベルの恒例イベントで、登山家やハイカーの枠を越えて、老若男女、多くの市民が長い間、親しんでいる関心の高い行事です。

 私が六甲山での狂気のような遊歩を始めた頃、この山塊の背骨となる縦走路のコースは、55kmという表示をする資料もありましたが、多くの資料や書籍では全長56.4kmと紹介され、公式距離として広く認められていました。
 普通のハイキングはおおよそ一日10~15km程ですから、4回分ほどのハイキング距離を一日で歩き通すという非常にタイトで、標高差の計が3000m余(富士登山の2回分)のアップダウンの激しい苛酷なルートです。死者がでた年も何度かあるようで、山歩きに縁の薄いビギナーがいきなりチャレンジという訳にもいきません。 中には、全容をよく知らぬままイベントとして参加した児童・学生などが、半ば泣きながら歩き続けている光景もよく見ます。それらを横目にマイペースで完走するのは山歩きに手慣れた中高年ハイカー達で、例年参加の常連たちは、11時間を切ったとか、10時間で完走したとかタイムトライアル的な楽しみも加わっているようです。リタイアポイントが限られているので、自分の体力や仲間の体調をどう見きわめるかも難しく、炊き出し、応援、夜間遊歩、チームワークなど悲喜交々、様々なドラマに彩られながら展開するイベントです。
 混雑してマイペースで歩けない市主催の「市民縦走大会」には参加した事がありませんが、個人的には、幾度かトライしました。また、遊歩会の新人研修を兼ねた縦走大会を開催したこともあります。

六甲全山縦走路の実測数値をまとめた報告書
六甲全山縦走路の実測数値をまとめた報告書(1990年4月発行)

 自身の初めての挑戦では16時間45分での縦走でした。完走後、夜遅い阪急電車の中で、沸き上がる充足感を必死に抑えながら、棒のように固くなった太ももをさすっていたのを昨日のように覚えています。
 オーバーな話ですが「もう昨日までの俺じゃないのだ」という呟きでしょうか。一皮も二皮も剥けた自分をヒッシと抱きしめている感じです。これに至ったのも、ひとえに加藤文太郎との出会いがあったお陰なのですが、その文太郎は、ここからまたスタスタと歩いてスタート地点近くの自宅まで歩いて帰って行ったという超人的な健脚でした。
 最近になってやっと脚光を浴び始めたこの文太郎ですが(映画「劔岳」の木村監督が次回作でのモデルにするらしい→追記※つぶれたみたい)「知る人ぞ知る」地下足袋の加藤、単独行の文太郎、その後の日本アルピニズム史の一角を華々しく飾り、あっという間に槍ケ岳北鎌尾根で逝ってしまった文太郎はとうてい自分の足下にも及ばない遥か先をいく遊歩の達人でした。

歩くとは何か?」という理屈っぽい疑問が顕在してくるまで、私の初期の六甲遊歩は、ひたすら文太郎の足跡を追っていたものです。そして彼が疾走した縦走路を主脈として持つこの裏山・六甲山という山塊そのものの魅力に虜になって、一層狂ったような遊歩三昧にハマって行く訳ですが、その意味では「56.4km」という数字は憧憬そのものでした。
 この数字への自分の思い入れ、縦走へのこだわりは何ら変わりませんが、技術的な点でこの「56.4km」に疑念を持ったことは自然な経緯です。歩き慣れてくると身体で体感的に山中の距離や時間が測れるようになります。
 技術的な問題では、56km余りを何時間で歩けたという、体力的なデータを他の山系などで、そのまま応用してしまうことでしょうか。六甲山では歩けた筈なのに・・・ということになれば、リスクの大きい山行でしたら危険なマイナスデータになりかねません。
ということで遊歩会独自の調査「巻き尺で実測しよう!」という事になりました。(今ならGPSを使ったアプリがいろいろありますが)
 実測自体は、5回に分けて行いましたので、のべ5日間ですが、調査ルートをはじめ調査方法の設定から、集計・報告まで一年をかけて取組みました。地図上の計測や万歩計を使った計測など、他資料との比較検討を含めての検証。詳細を『六甲山を見つめ直すシリーズ/その2』BUN-BUN別冊4号として発行。(上記写真 )

実測の調査結果


 実測の調査結果は「45.1km」でした。(最近、実測が行われるとも聞きますが、多少ルートは違っていても、おそらくはこの距離に準じるものと確信します)
 この数字をどう受け止めるかは、それぞれあって然るべきです。ルートの変遷をふくめ、縦走路を深く見つめ直してみると、それは自然の災禍や人為(開発)の傷跡であったり、受難の六甲山の歴史を痛感することでもありました。私における「内なる六甲山」は永遠に『56.4km』であることは、今にしても疑う余地はありません。(続く)


追記★かつての眠っている六甲遊歩の記録ならびに資料類を、これを機にこのブログへ引っ越しさせております。資料的には古くて価値も消耗しているものと思いますが、関心のある方は、カテゴリー「資料:遊歩アーカイブの方も訪れて下さい。
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