〓 明日への胎動が始まる2〔No.15〕

ボランティアとは?日本中の多くの人たちに問いかけた。
写真は日用品を供出した灘区の某組長宅に並ぶ人たち。
日時は不明だが地震後間もない頃と思う。

 状況に振り回されるより、状況を創っていこう。もう材料は、一杯身の回りにゴロゴロと転がっている。テンションも上がっていく一方だ。何でもありの何でもこい! とは言っても闇雲に突っ走っていく訳にはいかない。

 千人居れば、千の試練がある。万在れば、万の想いがある。マスコミは、このエリアの人たちの個々の体験を「被災者」という言葉で括ってしまう。そして、惨事の総称として「阪神大震災」という冠をつけたがるが、そうではなく「阪神大震災」とは、幾万という個々の貴重な体験の総体と見つめなければいけない。私たちは、このことを肝に銘じた。

一、政治的・宗教的・営利的なものは御遠慮してもらう。
一、誰も批難しない、しいては反省をしよう。
一、行政批判や責任のなすり付けは他の機関に任せよう。
一、「被災地」「被災者」という言葉に決して甘んじない。この言葉も極力使わない。
一、エリア内にも地震を体験化でき得なかった人がいたように、このエリア外にも地震を体験化・共有化ができ得た人々がいたことを忘れないでおこう。

 この五項目を、原則に「1995.1.17兵庫県南部地震」に関する写真・エッセー・レポート・絵画・イラスト・詩・情報・提案などを一斉に募集した。もう、後へは引けない。ついに「ガレキからの発信」が始まることになった。事務所が不定なので、宛先・連絡先は「神戸中央郵便局」とし、電話は当時まだ普及していなかった携帯を使うことにした。いまでこそ携帯など珍しくもないが、神戸では震災を契機に携帯が普及したと思われます。

 そして、同時に「人」を求めた。
気概としては、ボランティアは不要。資金は欲しいが、支援金や義援金は遠慮するというのもあった。
これは決してボランティアを否定したものではありませんでした。

 明日へ向かって歩き出した人
 昨日には戻らないと決め人
 心の活断層を見つけた人
 地震体験をしっかり自分のものにしようという人

 こういう人たちを肩を組んで歩んでいきたい。ボランティアする方、される方という両極からしか視点を持てない人を排したのです。当然ながら、当時ボランティアと呼ばれた方々の中にも明確な指針を得られないまま徒労感にみまわれた人もいたでしょう。
どちらの側というのでなく、明日へ向かって歩き出そうという人と共に雑誌を創っていくことを心より願っていただけです。

 この時期、ある若い僧に出会いました。腰の重い本山の対応に苛立って(確かに従来仏教団の動きは鈍かったかも)居ても立ってもおられず一人高野山を飛び出してきたと言うのですが「救う」という意識が強すぎて、やや閉口した記憶があります。
そういう救いは、実は復興が進んだもっと先(心のガレキが満杯になる頃)に必要になってくるのですが・・・

【1995.1.29/震災13日目のメモ】

○会社/
営業部の仕事は出来ても、工場が何一つメドがない。
明石移転は不可になった。傾いた別館を補習する方向で。

○実家/
両親と長兄一家が避難した京都から母親の愚痴が届く。
避難した先でもストレスが溜まっているよう。

○明石へ
友人の家まで足を伸ばす。明石は別世界だ。
神戸に勤務の彼の会社は給与4割カットで自宅待機。
  〔略〕

【1995.1.30/震災14日目のメモ】


○会社/
一時金支給。
離職、一時離職が相次ぐ、後輩同輩が去る。
  〔略〕

○六甲/
第一回編集会議。
「ネバー カンバック ツー イエスタデー」が決定する。


(続く)

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。
(*このコメントは震災の12年後である2007年当時の旧ブログのものです。現在(2021年2月)、誤字などを訂正しつつ、本ブログへデータ移行しています)

〓 明日への胎動が始まる〔No.14〕

昭和13年の阪神大水害にも耐えた阪急三宮駅だったが・・・
懐かしの神戸の顔がまた一つ消えた。
(1月30日/撮影Y)

 ここのガレキを片づけよう。いやあっちが先だ。というような身近なことから、会社がこうなるああなると言うような先のことまで、日々いや、刻々に状況が変化して、目が舞う如く振り回されている。

 「ああ、昨日へは戻らない」という気負いと、「えい、どうでもよいから早く昔に戻れ」という両極の衝動に揺すぶられながら、情報誌出版の手がかりを模索し続けていた。
 具体的な手続きについてはその大半が分からない。Wからの紹介で、とある出版社の方に相談することができた、昨今でこそ大きく出版界は変ぼうして、様々の出版形態なり方法が考えられるようになりましたが、当時では、まだまだ前近代的と言うか偏屈・偏狭なシステムでした。そういう話をわんさか聞かされ、「隔月刊、一万冊、全国配本の情報誌」という当初の目論見には、遥かほど遠いことを知らされました。
 「誠に申し訳ないが、現実はこんなのです」「だから自費出版する方が、本来の意味に近いものが出せるかも」とも言われた。 
 確かにそうだ「元にも戻らない」とは、そう言った旧態依然としたものに寄っかからないことなのだ。自力でやりたいものだが、一冊の本を悠長に時間をかけて売り伸ばしていくという訳にはいかない。どう考えても、この一年が勝負だと思う。右往左往しているものの、原型復帰への巨大なエネルギーがギシギシと動き始めているのは確かなのだ。一刻も早くこの明日へ胎動している神戸の生々しい姿や想いを発信したい。
 けれど、資金は?事務所は?スタッフは?・・・
 え~い!何もかもが見切り発車となる。
この辺りの事情は創刊号の「編集後記」が雰囲気をよく伝えている。

【編集後記(創刊号)】

 発行に当てってその拠点となる編集部が宿無しである。
もちろん制作スペースも電話もFAXもない。編集部の体裁を整えるまで取りあえず「編集対策本部」とだけ名前を付けておこう。スタッフにしても、この時期こんなことに専念できる奴は余程の人物だ。東京から応援に駆けつけてくれたPさんも、まずは寝る所と職を探さなければならない。私たちもガレキ整理の合間や知人のハード(機器)を借りながらの作業。パソコンだって公衆電話から盗電して打っている状態。(1月30日には電気回復)
 原稿の募集が始まれば、そろそろ定まった編集室が必要。とりあえずは某社にお願いして、仮事務所としてのスペースを確保。それに頼るしかないが、居候の身で電話なども思う存分使えない。当座は郵便とFAXに活躍してもらおう。
 地震以来、風呂なし、着たきり雀は珍しくもない。防寒着、軍手、リュック、首の白いタオルなどが定番だが、何と言っても、不便者ルックの象徴はこの髭づら。この髭をなんとかしようと思い始めたのも余裕が出てきた証か。結局悩んだ末、口髭は地震記念で残し、あご髭は編集開始を機に気分転換の為に剃ってしまう。口髭まで剃ってしまうのは何時の日になるだろう。

 この記念の口髭は、11年後に剃ることになりました。

【1995.1.27/震災11日目のメモ】

○朝、地震以来、初めて新聞に目を通した。
目を通す気になったと言う方が正確か。

○会社/
明石移転の話が急浮上。プレバフ建設の話も出てきている。
どちらにしても解体が何時になることか。

○実家/
Pと創刊号のコンセプトを話し合う。
局外の情報収集を依頼する。
Wより出版社のIさんを紹介される。
地震関連のビジュアル収集も依頼する。

【1995.1.28/震災12日目のメモ】

○出版社/
貴重なアドバイスを受ける。定期出版の難しさ。
少し、いやかなりの落胆。
出版業界の歪みを聞く。自費出版を薦められる。
今晩ゆっくり考えよう。

○自宅/
山の会の臨時会報を見る。(安否と連絡先を確認)
大阪からNが突然訪れた。ボンベと酒の差し入れ。
青木駅から歩いてきたらしい。
現場に入って、やっと現場たるものが分かったとのこと。

実家を片付ける。
初めての洗濯。
ポリタン10数杯、6階まで運ぶ。バタンキュウー。

(続く)

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。
(*このコメントは震災の12年後である2007年当時の旧ブログのものです。現在(2021年2月)、誤字などを訂正しつつ、本ブログへデータ移行しています)

〓 原型復帰という恐怖2〔No.13〕

地震直後、ある公衆電話には誰でも緊急にかけれるよう
小銭が積まれてあった。最近はその小銭を持っていく
奴がいる。ああ、復興が始まっているのだな・・・


 ここ数日の遅れを取り戻すべく昨日と今日とで約1週間分のメモを取り急ぎ掲載しました。
これで、実日と12年前との日付けが合うのですが、メモを読み返していると、時間の流れやテンションの上下動などが、密度が全然違うのが再認識できました。
 8日目に風呂に入ったと改めて知りましたが、記憶ではこの間が1ヶ月以上もあったように感じていました。

【1995.1.24/震災8日目のメモ】

○会社/
社長へ退職を直訴するが、承諾を得られなかった。
コンピュータ室の器材を搬出。
空き倉庫を探しながら高速道路が落下している2号線添いに帰宅。

○尼崎へ/
バイクを引き取りに尼崎の友人宅へ。
自転車で知人宅を巡りながら大石~御影~本山と。
自転車でも通れない所がまだ多い。
(長田ほどの大火がなかったが、倒壊がひどく死傷者が多い地区だ)
幸いに行く先々では、家屋は壊れているものの入り口に消息の
メモがあってまずは一安心で西宮に抜ける。
ATMへ寄って出金。

武庫川を越えると穏やかで別世界のようだ。
4時間かかって尼崎のK宅へたどり着く。

○K宅/
夕食と風呂をいただく。
地震後、初めての風呂が恐かった。このっま緊張感が抜けてしまうような気がして。
芦屋のS一家も訪れていた。頭をかなり負傷していた。
帰路、慣れぬバイクで踏切で転倒する。
幸いパトカーが通りかかって助けてもらう。
(ろっ骨が痛んだみたい)

自転車は温かいけれど、バイクは凍える。
折々、コンビニによって身体を温める。
惨状の深江地区へ入る。
大阪の平穏さに何やら落ち着かなかったが
ここでは妙に、落ち着いてしまう

【1995.1.25/震災9日目のメモ】

○会社/
電気が欲しい。マシンをチェックするために道路の公衆電話から電気を取る。
ありったけの延長コードをかき集め、何十メールもの長さにして3階まで引っ張ってくる。
マイMacは無事に起動した。
早速「危険!元気を出そう!」とポスターを作成する。
周囲の危ない所に貼っていく。
被害リストや地震メモもデータに。
FAXの回線が一つ生きていた。それに電話機をつけてかけてみる。
これもOKだった。

○避難所/
Dさん母娘の様子を見に。自転車が欲しいとのこと。
地震以来、奮闘してきたマイ自転車を進呈することに。
途中、炊き出しの中華丼をいただく。
(注:宗教団体の震災への対応の違いはなかなか興味ひくものがある)

○実家/
自転車の手配を依頼。Wに再度、出版ルートの探索を依頼する。
明石川から武庫川の間の阪神間は、大きなバリケードに囲まれているようだ。
アナーキーな空間だが、無法地帯ではない。
自分たちのルールと秩序がある。
N氏と電話中に、今までで一番大きな余震。

【1995.1.26/震災10日目】

○会社など/
会社から初めての公式な今後の説明が。
1月給与が2日遅れる。
希望退職者を募る。各部署にて話し合う。
社員連絡用リストを作り直す。
同僚のW、Kへ出版の計画を告げる。

SとYへ今日の状況を電話で伝える。
会社に残るかどうか不透明なまま出版への具体的準備が進んでいく。

(続く)

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〓 原型復帰という恐怖1〔No.12〕

事務所も電話もFAXもない。
どうやって我らのアリバイを確かめるや?
(創刊号の表紙)

 ここ数日、なにやら疲れて書けませんでした。取り急ぎ3日分のメモを掲載しておきます。

【1995.1.21/震災5日目のメモ】

○会社/
社員全員の消息が確認できたらしい。
ようやくデスクの周辺を片付ける。
同僚へ「ただ元の社会へ戻ることの抵抗感」を伝える。
神戸駅の方に空き事務所が借りれることになった。
社長の元気が回復。
しかし、これからの指針が見えない。説明もない。
社員の中に離職・転職への動きが・・・
動揺する後輩に、今こそ周囲に振り回されないで
自分のしっかりした考えを持つように言う。

○避難所/
Dさん母娘にやっと会える。
「食べ物はいらない。コーヒーやタバコが欲しい」とのこと。
逆に弁当や缶詰をもらう。
Gがいるという避難所へ。会えなかった。

○実家/
避難先の連れ合いへ電話して、ついしんどさを愚痴ってしまう。
Kより電話、バイクが尼崎で手に入ったとの知らせ。
Rへ連絡、Mはまだ不明だ。
Wへ電話、「このチャンスを生かしたい」と相談。
出版ルートの探索を依頼する。
頼りの編集スタッフPが東京より大阪へ、明日神戸に入るとの連絡。
雑誌の名、命名案を考える。
テレビで相撲のニュースを見る。
地震報道以外では初めての画像。
今日も眠れない。酒を飲む。

【1995.1.22/震災6日目のメモ】

○会社/
時折激しい雨の中で器材を運び出す。
歪んだスタジオからカメラ資材を運び出す。
月曜日に全社員が集合するよう連絡。
仮事務所(仮設本社)へ資材の搬送を開始する。

○実家/
連れ合いに送金を頼む。
両親と長兄一家が京都へ避難する案が浮上する。
次兄も、徒歩~バス~タクシー~大阪、という通勤が限界か?
(勤め先が被害エリア外と言うもの辛いのかも?)
Pより電話、六甲のR宅で落ちあう。
六甲も駅をはじめ、酷い状態だ。
会社の優柔不断な態度にキレたWより電話が、
周囲のことよりまず、己の進むべき道が大切と忠告するのが精一杯だった。
未明まで眠れず。

夜明け前に、パソコンをセッティング。
動いてくれた。
とにかく打ち始めた。
怒濤のように次から次へと頭を思いが駆け巡るが、
なかなか文章にはならない。(取りあえずメモ書きに)

テレビの一般放送が増える。(見る気がしない)
大相撲の結果をおやじに聞く。
おやじの頭の包帯を外して怪我の様子を見たが、
どうやら大丈夫そうな感じだ。

【1995.1.23/震災7日目のメモ】

○会社/
遠方からも社員が出社するようになった。
昼過ぎには60名ほどがそろう。
一斉に片づけを始める。
重い自販機も人海作戦で起こす。各フロアを整理。
Aさんの母上のダビがやっと明日に決まる。
(後日談:犠牲者の弔いが出来ない、火葬場が足りないことがこの頃の深刻な問題として在った。
雑誌の中でも、この事を取り上げて、作家のH氏が「死者たちの周章狼狽記」というレポートをしてくれた)
○実家/
両親と長兄一家が京都へ避難していった。
連絡が取れず、鍵もないのでマンションに入れず。
K小学校の避難所で食事をもらい、階段の端で仮眠する。
数十年前、この学び舎で過ごした思い出があれこれよみがえった。

(続く)

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。
(*このコメントは震災の12年後である2007年当時の旧ブログのものです。現在(2021年2月)、誤字などを訂正しつつ、本ブログへデータ移行しています)

〓 内なる活断層のざわめき4〔No.11〕

ものすごい勢いで原型復帰が始まった
しかし、ココロのガレキは増え続けていく
(編集部作成のビジュアルです)

 1月20日、崩壊した本社社屋の中から恐る恐る書類を運び出した。この社屋に代わって、かろうじて倒壊をまぬがれた隣の4階建て別館に社の機能を全て集めて再起を図ろうとしていたが、その別館に〝赤紙〟が貼られ、立入禁止になってしまった。先程まで元気にガレキを片付けはじめていた社長や社員たちは一様に肩を落とす。(4日目のメモを参照して下さい)

復興は線引きから始まった・・・

 震災後、倒れず残った建物が「果たして安全なのか、どうなのか」を峻別する専門的な判断が早急に必要になった。次の余震で倒れるかもしれない、地盤が崩れかけている、柱の亀裂がひどい、倒壊をまぬがれた人たちも多くは二次の災害を怖れて避難所へ移った。また、逆に崩壊の恐れがある建物にも関わらず、そこにこだわり続け退出しない人たちも多くいる。
どちらにしても「これは安全、これは危険」という専門的(公的)な線引きが必要になってくる。
 突然の、それこそ想定外の出来事でしたから、そういった認定のシステムがどれほど整備されていたか知りませんが、まず、専門家の数が圧倒的に不足している状態は確かでしょう。震災エリアの全家屋を調べるのにどれだけ時間がかかるか想像も出来ません。とりあえずは行政に対して凄い要請があったとも思います。行政も動きたくても動けないのが実情で(この辺りの話は、よく調べたものでないので感想に過ぎませんが)建築物の安否の判断を急ぐものは、私的に専門家を探し調査を依頼することになります。

 日時が過ぎるにつれ、公的、私的入り交じって調査が進み、赤紙=全壊、黄紙=半壊、青紙=安全というおおまかな線引きがなされていきました。最終的にそれが公的な保障の基礎となってしまいました。
当時、どんな基準があったのかわかりませんが、調査と言っても機器を駆使して、何日も費やしてやる余裕などありません。壁と柱をパパっと見て、「おそらく駄目でしょう」とか「なんとか補修で持つでしょう」と言う程度のものです。
でも、やはり専門家に「ダメ」と言われれば、もう気分は「駄目」です。
先が見通せない状態というのは、戦場や雪山遭難と一緒で、理屈ではありません。誰か勢いのある、覇気のある人の声で動くものです。叱咤、鼓舞する声が萎えてしまえば、個々の力は空しいものになります。

えもいえぬ開放感が訪れた・・・


 「再起不能」だろうという刻印を押された別館の3階に一人で上がっていった。
自分のチームがあったフロア。以前の姿が思い出せないほど散乱した風景だ。天板が畳一枚ほどある大きな、お気に入りの自分の木製デスクも片足が折れて、パソコンや周辺機器がずり落ちている。(昔のPCの)堅固なケーブルのお蔭で、ぶら下がって大破を免れているが、これらが生きているかどうか電気がない以上調べようがない。
疲れが、どっとあふれて柱に寄りかかるように座り込み、漫然とぼーっとした焦点の定まらないような視線でそれらを長い時間眺めていました。いや、ウトウトとしていたのかも知れません。
 われもわれもとワイワイ猛進していたバブルが弾けて、抜け出しようのない底なしの不況が襲い、その中で勝ち組・負け組を決める厳しい競争の足跡は、各々のデスクの上にも十分染み込んでいました。好きだったから続けられたもので、職場は戦場のように毎日毎日が目紛しく過酷なものでした。何のために働いているのか? 一日の大半をここで何のために費やしていたのだろうか?

 今は見る影もありません。そして、これからこの風景がどう変わっていくのかも分かりません。恐らくは、どんな形にしろ、誰かが片付け、立て直し、仕事を復活させ、何時の日にか、以前のようなサラリーマン戦士に立ち戻って、早朝から夜遅くまで、自分というものを忘れるように忙しく立ち回って、一瞬でも気を逸らしてしまうとたちまち第一線から落ちこぼれていくような緊張感に喘ぎながらも、会社というものに引き摺られて生きていく自分が、その風景の中に居るのかも知れない・・・。
 と思った瞬間、背筋あたりに何かざわめきが起こりました。その身震いの前兆のようなざわめきは、ゆっくりと全身に拡がり、そして、わっと発熱するように昂った。

「今、私は解放されている」

「昨日へは 戻りたくない」「否、戻してはいけない」
 こんな大きな犠牲や試練の果てに、地震前の同じ自分、同じ会社、同じ社会が、以前のようにただ再現されるなんてあり得ないことだ。復興を叫ぶ前に、まず戻すべき自分とは、戻すべき会社とは、戻すべき社会とは何なのかをしっかり見つめておきたい。これは今しか出来ない。悲しみで前など見れないという方々も多いでしょうが、出来ればその方々も含めて、この先をこの暗闇の向こうを考えていきたい。

 この思いが芽生えたことから私たちの情報誌づくり・出版活動は始まることになるのです。そして、2月末に発行予定の創刊号、編集コンセプトは「ネバー・カンバック・イエスタデー」に決定。単に、昨日あった世界に立ち戻ることを拒み、新たな世界への旅立ちの旗を掲げました。

 裏表紙に、編集メンバーのそれぞれの思いを込めて短いコメントを載せた。

■正しいリ・セットボタンの押しかた

基本的にはもう一度、やり直すためのボタンがリ・セットボタンであるが、
今回のリセットは、もとにもどらない。
今までの神戸は消えたが嘆くことはない。
これからは、もっとすばらしい神戸が待っている。
今の神戸は他の人には、ひどい有り様に見えるに違いないが、
中にいる私達は、なにか温かいものも感じたはずだ。
このまま、やみくもに復興に走りだしたら、
いままでの神戸では感じられなかった大事な何かが、
無くなってしまうのは目にみえている。
それを無くさないようにして復興するのが僕らの仕事だと思う。

お父さん、お母さん、胸を張って子供に言えますか。
「やるだけのことはやった。」と・・・。

今、やらなくちゃ。
いま、戻したい社会をしっかり見つめないと・・・。
次の地震じゃ遅すぎる・・・。

(続く)

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。
(*このコメントは震災の12年後である2007年当時の旧ブログのものです。現在(2021年2月)、誤字などを訂正しつつ、本ブログへデータ移行しています)

内なる活断層のざわめき3〔No.10〕

仕事がしたくても仕事ができない
おもわずこんな張り紙にも目がいってしまう
(編集部撮影)

こんなブログにも「いかにも共感した」というような顔をして、災害用のグッズの宣伝TB(トラックバック)を付けていく無神経な奴がいる。気分は良くないが、このご時世少しは大目にみてあげよう。
しかし震災時、復旧が進んできた頃、ボランティアの顔して近づいてきた人が、ある時期から「火事場でひともうけ」とビジネスを始めた。挙げ句にあれこれ見返りを要求してくる。こういう類いの連中には本当、心を挫かされた。この時期で一番辛いことのひとつであった。

商売で乗り込んできているなら最初から堂々とビジネスをすれば筋は通るのだ。現に「いくらでやりまっせ!」「こんだけで売りまっせ!」などと色々な交渉ごとは一杯あったのだ。それはたくましい性根と言っていいだろうが、ボランティアの皮をかぶった卑しい性根はどれだけ人を傷つけたか、いま思い起こしても憤然としてしまう。本日は何やら筆が進まない。

【1995.1.20/震災4日目メモのメモ】

会社/社長がいたって元気。陣頭指揮をとっている。
崩壊した本社社屋から書類を回収する。
背中をかがめて潜り込む。思わず足がすくむ。おかしなものですぐに慣れた。
でないと神戸では何も出来ない。
専門家が、別館ビルは崩壊の危険性が高いと「赤紙」
このビルでの再起にかけていた社長は肩を落とす。
社員に動揺が走る。だれがどう取りまとめるのか。
刻々と状況が変化する。その度に振り回される。

避難所/Dさん母娘は風呂へいったそうだ。近くの風呂屋が再開したらしい。
銭湯の周囲に百人を超える人が並んでいる。一体何時間待つのか。

実家/姉から両親の避難の要請がうるさい。
車も動けず、足腰の弱い二人をどうやって避難させるのか。
つながる限りに電話をかけ続けた。お蔭でほぼ近しい知人は大過ないことが分かった。
妙に、興奮している。頭の中が昂っている。
(これはメモではないが/今日の昼頃、会社で感じた興奮がさらに高まってきたと思う)
「どこかが焦げ臭い」と母が言い出す。マンションの周囲を幾度も回る。
興奮がおさまらず朝まで眠れなかった。
母も眠れなかったようだ。

(続く)

十二支が巡り、亥がまたやってきました。しばらくはスローライフ自然薯や遊歩のブログは休憩して、震災関連の回想ブログになります。重い話で恐縮します。自然薯の植え付け頃には土臭い話に戻れると思います。
(*このコメントは震災の12年後である2007年当時の旧ブログのものです。現在(2021年2月)、誤字などを訂正しつつ、本ブログへデータ移行しています)