幕末の緊急バイパス・幻の道「徳川道」(六甲山)

徳川道起点標識(神戸市・阪神石屋川駅北側)前方に六甲山系を望む

 六甲山には、カタカナ名のポイントやコース名が多い。幕末、開港された兵庫の港に居留した外国人たちによって名付けられたものだが、そのうちカスケードバレイ(和名:杣谷)という名の沢筋がある。阪急六甲駅・西側の都賀川を遡行していく摩耶山と長峰山に挟まれた、カスケードという名の通りいくつかの小滝を登り、流れをまたぎながら杣谷峠へと至る谷コースだ。峠を越えるとすぐに可愛らしい新穂高(648m)やシェール槍(643m)をバックにした穂高湖に出会う。新穂高の北側を回りこむ沢を〝シェール道〟南側の沢筋を〝徳川道〟と呼んでいる。この度は、この洋名にあふれた六甲山において、和名でそれも山径としては異端とも言える〝徳川〟と冠せられた由来を少し紹介してみたいと思います。

神戸事件・幕末維新の荒波が六甲山中に押し寄せる

 徳川道の正式名は「西国往還付替道」、つまり神戸の海岸に沿って整備されていた西国街道(山陽道)のバイパスとして作られたルートなのです。緊張が高まる幕末、兵庫の開港(12月)をひかえて、外国人と街道を往来する大名行列との危うい接触を避けるために、徳川幕府が命じた(9月から)3ヶ月ほどの突貫工事で整備された迂回路です。(現在の明石市大蔵谷から、阪神石屋川駅付近までの全長33km)東側半分は六甲の山中で、特にカスケードバレイは滝や堰堤の巻道が険しい岩場となっているところあって、「ここを、大名行列が? マジ?」と言いたくなるようなルートです。この急な工事を2万両(2億円くらいか)で幕府から請け負って必死に完成させた庄屋・谷勘兵衛は、完成後に勃発した戊辰戦争で勝勢となった長州軍に、この工事費を略奪されてしまうという目にも合います。このあたりの詳しい事情と顛末は『山田村郷土史』を中心に調べておられるサイトにも紹介されていますので徳川道 ~幻の西国街道のバイパス~を参照ください。
 なんとか12月の兵庫の開港に間に合ったバイパスですが、その数日後には王政復古の号令が下って「このバイパスを使え!」という通達も各地には伝わらず、明けて翌1月11日、新政府から西宮の警備を命じられた備前藩(岡山藩)の軍勢が西から進軍してきましたが、付替道(バイパス)の存在を知ることもなく、海岸沿いの西国街道を直進して、現在の三宮神社のあたりで、この備前藩の先発隊の隊列を横切ろうとしたフランス水兵と衝突します。世にいう〝神戸事件〟の勃発です。英兵や米兵も合わさって撃ち合い(威嚇射撃?)が始まり混乱します。
 衝突後、退却した先発隊と後方にいた本隊は、ようやくバイパスが開通していたことを知らされ、敗残兵のような体で六甲の山越えに向かいます。麓の小さな山田村に600人を超える兵士たちが宿を求める大騒ぎぶりも前述の郷土史に残されています。世はたちまち急転直下、明治の時代となってしまったことで、この時の行軍が〝西国往還付替道〟の唯一の使用例となりました。さらに時代が下って、現代では〝徳川道〟という名でハイキングコースとしてその名残りを伝えることになります。
 神戸事件の方は、明治政府・新進気鋭の伊藤博文の奔走で大事に至らず収まりますが、その陰で詰腹を切らされた〝滝善三郎〟の悲劇が起こっています。神戸事件は、一般にはアーネスト・サトウなど外国公使の回顧録をもとに語られることが多いのですが、もう一方の当事者であった岡山藩の資料を含め、広範囲な情報を収集している神戸事件を考える」というサイトでいくつかの推論が検証されていますので興味のある方は訪れてください。

神戸事件発生地(三宮神社境内)  Photo by S. Douan
カスケードバレーの入り口・杣谷堰堤
徳川道

 徳川道と神戸事件の顛末は、何ともいえない皮肉な因縁ですが、劇的に世が揺らぎ変化した幕末ならではの出来事です。六甲山は本当に不思議というか、面白いというか、無数の引き出しのあるおもちゃ箱のようです。
 シュラインロードや山上磐座群では、平安の世の修験者の打ち鳴らす錫杖の響きや法螺貝の音、山中各所にある源平合戦や戦国時代古戦場では武者たちの苦闘の足音も感じることができます。この徳川道でも歩くたびに、ゲーベル銃かミニエー銃を担いで六甲の山中を行軍した兵士、それも幕末の風雲に飛び込んだ若い農民兵たちの息遣いを聞くようなこともあります。私が踏みしめている一歩一歩、百数十年前には確かに彼らもこの道を踏みしめていたのです。何とも言えない思いと想いが交差して奇妙な共有感をいだくことができます。

 単なる資料ではなく、そんな〝歩き〟の体感を表したく、徳川道にちなんだ短い小説を書いてブログにもあげたことがありました。ちょうど神戸を離れ、六甲山とお別れして山口県の山あいに移住してきた直後のことです。夜逃げのような田舎暮らしで、ほぼ無計画状態で暮らし始めていた頃の不安な自分の尻を叩くよう作品でもあり、当時の生活の一端も思い出す感慨深いものです。このブログでも、以下に再掲させていただきます。読んでいただければ幸甚のきわまりです。
(右写真:上は穂高湖、下3連が徳川道と呼ばれる小径、出処は最下段に記載)

神戸事件の概要を紹介する銅版(瀧善三郎の切腹のシーン)  Photo by S. Douan

アキラの徳川道(ショートショート)

 「ようし!徳川道、歩いてみるか」
 突然思い立ったように、アキラはハイキングマップとお気に入りの椎茸おにぎり三っつをデーバックに放り込んで下宿を出た。郷里の岡山を出て、神戸の大学へ入って以来、すっかり山歩きにご無沙汰であった。身体の芯がなにかぴりっとしない。それが何に因っているのかアキラは薄々と感じていた。入学以来、同輩との遊興やアルバイトに追われ続けたこの一年間、羽を伸ばすのは良いとしても、目的感の薄れた俗な暮らしに飽きて、いささか気が滅入りはじめていたのだ。そんな鬱々とした気分を晴らすには身体を苛めるのが手っ取り早いと、通学用のバスも使わず、アプローチから全て徒歩で歩き通すことにした。 
 下宿のすぐ側にある阪神石屋川駅、JR六甲道駅そして阪急六甲駅と辿り、さらに北へ閑静な住宅街の急坂を登ると、眼の前に古い石積みの杣谷ダムが姿を現わした。堰堤の脇から広い河原に下り立つ。杣谷入り口は、砂場も多く渓流も澄んで、デーキャンプにもってこいの河原になっている。六甲山上へのいくつかのハイキングコースの起点にもなっており、この日も初夏の休日とあって多くのハイカーやファミリーで賑わっていた。
 アキラは額の汗をひと拭きしただけで、休憩も取らずに、人込みを避けて杣谷への沢筋のルートに分け入った。ことのほか鬱蒼と草木が茂る沢道で、両脇の尾根の傾斜も険しく見えた。たちまち深山に迷い込んだような気にさせた。先ほどまでの都会の相貌やら喧噪が嘘のように思えた。
 「う~ん六甲山。案外侮れんな」
 気合いを入れ直すため、シューズの紐をぎゅっと締め上げた。すぐに二基連なったビルのような高さの砂防ダムが現れた。その脇を巻いて登る岩場は、滝の登攀を思わすほどの急勾配だった。それが一息つくと、今度は肩幅ほどの岩棚を這うような所もあって、
 「おいおい本当に、これが徳川道かよ」
 大名行列がのんびりと行進する林道ような古道を想像していたアキラは、のっけからイメージを突き崩されてしまった。
 一時間余で、やっと杣谷峠へ登り詰めた。高校時代はワンダーフォーゲル部、歩きに歩いたその頃の自信は見事に吹っ飛んだ。この急な沢筋になまった足腰は音を上げてしまい、峠のすぐ先にある穂高湖でへたり込んでしまった。

 昼ごはんの椎茸にぎりを頬張りながら、
 「そう言やあ、このおにぎりだ。こいつのお陰で、俺さまはへとへとじゃあ」
 思わずぷっと吹き出してしまった。祖母の作る椎茸一杯のおにぎりが子供の頃からの好物だった。祖母の味に近いコンビニにぎりが販売されてからは、これが夕餉の定番となっていた。昨夜のことである、馴染みのコンビニでは手に入らず、もう一つ先のコンビニへ行こうと、ふらりと下宿を出た。国道2号線を石屋川まで辿りそれから南へ折れたところに小さな公園があった。そこで古ぼけた一枚の案内板と出会った。何気なく足を止め目を通してみた。
 『ここは幻の道として知られる徳川道の起点である・・・』
 「なに、幻の道?」
 まず、この文言がアキラの気をそそった。続いて、
 『徳川道は江戸時代末期(慶応三年)に幕府が兵庫港を開港するにあたって開港場付近の外国人と西国街道を往来する諸大名や武士との衝突を避けるために作られた迂回路である』
 「なに、なに? 海岸沿いの西国街道を、六甲山系をぶち抜いて山沿いに付け替えた?それも34キロメートル」
 慶応三年と言えば、維新回天の加速がピークを迎えた年。幕末小説に凝って目下、乱読の日々が続いているアキラにとって、騒立つ幕末の匂いがぷんぷんするこの案内板は、アキラの好奇心に火を付けてしまった。早速下宿に戻り、いつか友人に借り受けていたままのハイキングマップを引っぱり出して、徳川道なるもののルートを探した。確かに山中に数キロばかりだが、その名を冠した道があった。
 しばらく地図を睨んでいる内に、なにやら体の芯がもぞもぞとしてきた。
 「う~ん、歩いてみようか」
 単なる思いつきではあったが、そうとも言えない何かしら既往感のようなものをうっすら感じた。何かに誘われているような気もした。この時、この誘いがある人物との出会いの端緒となるとは、アキラは露にも思わなかった
 
 弁当を食べ終え穂高湖を後にした。
 ここから布引谷に流れ込む渓流沿いの小径をハイカーたちは「徳川道」と呼んでいるらしく、地図にも明記されいる。この辺りは当時の面影を十分に偲ぶことができた。足下にせせらぎを聞き、杉の木立の間を陽がさす。そのまま時代劇のロケにも使えそうだと思った。
 「ここなら、行列が通ってもおかしくはないな」
 アキラはあれこれ想像してみた。
 「幕末であったなら、こんな感じかな」
 次々にイメージは膨らみ、あっと言う間に百数十年の時を飛び超えていった。
 「ザッ、ザッ、ザッ、」
 鼓動のような足音を立てながら、ミニエー銃を胸に抱え、隊士らが二列縦隊で小走りに街道を次から次へと通り過ぎていく。なんと砲兵までがやってくる。大砲の車列が横を駆け抜ける時、轍の泥が、
 「バアーッ!」
 とアキラのシューズに跳ねた。
 「うっ!」
 と、我に返った。湿地に足をとられて転けそうになった。靴は泥で汚れていたが、もちもん周囲は誰も居なかった。たわいな空想のつもりだったが、幻影のような妙に生々しい人気を感じた。
 
 翌日、大学の図書室で「徳川道」のいくつかの文献を調べてみた。ほとんどの資料は神戸事件との絡みで紹介されていた。 
 「神戸事件?」
 どこかでうっすらと聞きかじったような気がしたが、この事件の詳細については全く知らなかった。
 さらに資料を漁った。
 『幕府では、諸外国の要請に圧され、1868年1月1日に兵庫開港を決定する。これに対応する居留地や税関等の設定にかかったが、もっとも恐れたのは外国人との衝突であった。生麦事件の二の舞いを避けるために、幕府は市街地を貫通する西国街道を廃止し、遠く背後の山地を迂回する「西国往還付替道」の工事を緊急に決定し、着工の命をだした。これが七月末。ルートの確定が九月。わずか三ヶ月という驚異的な突貫工事であった。工事費は二万両。幕府も決死の覚悟であった。』
 これだけの事なら徳川道は単なる古道として歴史に埋もれたかも知れない。しかし、この道の完成を知らされず、または知らずに旧西国街道を東進した備前藩の一行が外国居留兵と衝突した神戸事件、これこそ幕府の一番危惧したトラブルであった。しかもその備前藩の敗走に使われたのが、唯一の使用例だと皮肉混じりに紹介する資料もあった。お陰でこの道は、幕末という歴史の光彩をことのほか際立たせることとなった。
 「ふ~ん、備前藩か・・・」
 備前はアキラの郷里であった。
 アキラの脳裏にまた新たな空想が膨らんできた。
 「もしや、先祖さまにこの徳川道を通った者がいる?」
 しかし、本家筋は古い農家と聞いている。維新の動乱に活動した人物がいるような話も聞いたことがない。
 「いやいや、この頃は奇兵隊を初め諸隊と呼ばれる農民兵が活躍した時代だ。わからんぞ~」
 沸々と湧き上がってくるものを感じた。
 「昨日、徳川道で出くわした藩兵たちの行進は幻影じゃない。あの中に確かにそいつがいたんじゃあ」
 余りにも唐突な発想も、アキラの中では何一つ違和感はなかった。
 
 盆の帰郷を早めた。七月の内に実家に戻り、家に入るや否や、父母や兄弟たちに、矢継ぎ早に聞きただした。質問というより詰問のような勢いに家中は唖然とした。ついでに本棚から古い書き物を片っ端から引っ張りだした。
 「おえんな~」
 母の悲鳴の横で、
 「ルーツじゃあ。ルーツ発掘!」
 ろくな説明もないまま、
 「じいちゃんちへ行かんとおえん」
 と、捨て台詞を残して、本家の備前に向かった。それっきり三日も戻ってこない。九十近い祖父に、またあれやこれや質問の嵐を浴びせて、
 「家系図か古文書はないか」
 と、土蔵まで荒らす。役場で戸籍謄本を取り寄せ、最後には寺まで押しかけて過去帳を拝見させてもらう。
 真新しかった大学ノートはあっという間に脈絡の定かでないメモで埋め尽くされた。その一つ一つを丹念に繋ぎ合わせ、練り合わせ、そして、漸く一人の人物に浮かび上がってきた。
 「そういやあ、じいさんがが言うとったかな~」
 祖父がぽつりと洩らした。
 「じいさんって、おれの曾々祖父か?」
 「ああ、明治になるかならん頃に、鉄砲傷で死んだ甥がいたと」
 この祖父の言質が本線になった。書き集めたメモを繋ぎ合わせた末に、明治元年に鉄砲傷で死んだ曾々祖父の甥なる人物に辿り着いた。
 「彰次郎か・・・」
 奇しくも我が名と同字が含まれている。もちろんのこと、面影も人柄も知る由もない。何故、農家の次男坊である彰次郎が、戊辰の戦乱へ躍り出て、あっけなく二十二歳という若さで死んでいったのだろうか。彼の死は何か隠ぺいされた節があるようにも思えた。あの動乱の時代、憂国の想いに自ら進んで身を捧げたのだろうか。それとも、無理矢理に時代の濁流に引きずり込まれたのだろうか。彰次郎の足跡をあれこれ想像すればするほど、奇妙な親近感が湧いてきた。
 「よし!アキラ、出発じゃあ!」
 と、すぐ傍で叫び出しそうな、兄貴のような活き活きとした彰次郎像が浮かんでくる。今までの自分に欠けていた躍動感を投影させてようとしたのかも知れない。
 
 アキラは神戸に戻り、早速、事件の碑と備前藩の大砲が置かれている三宮神社に詣った。神社すら都会のビル群に埋もれて、つい見過ごしてしまいそうな佇まいだった。そのわずかな一角を除いて、何一つとして135年前の変事を偲ばせるものはない。南側の旧居留地一帯は大手デパートをはじめ、海岸通りまで巨大なショッピングモールと化している。
 お社の拝殿を静かに深くそして長い時間をかけて拝した。これ程真摯な思いで瞑目したことはなかった。彰次郎の死を昨日のことのように弔った。同時にアキラは『徳川道』の全ルート34キロメートルの走破を決心した。決行日は、
 「はやり1月の11日だな」
 それまでに彰次郎のレポートを書き上げるつもりであった。そして並行して徳川道なる幻の道のルートも綿密に調べた。六甲山以西のルートは、市街化のためほとんどは街路を辿ることになる。迷走しないためにもいくつかの箇所の下見にも出かけた。そのために今までのバイトを断り、友人らとの遊興からも遠ざかっていた。よそよそしいアキラに友人たちは、
 「なんか 隠しとるだろう」
 「いいや、ちょっと勉学に目覚めただけじゃ」
 気の好い彼らを疎遠にするつもりはなかった。ただ、ちょっと先の見通せない自分の学業生活を見つめ直すためには、彼らのペースにはまる訳にはいかなかった。誰にもこの走破決行を知らせなかった。大学入学以来の一年間には見出せなかった己の意志、むくむくと動きだした意欲を誰にも削がれたくない一心からであった。
 
 年が明け、決行日が訪れた。未明、西の起点である明石と神戸の市境・大蔵谷に立った。肌を刺す寒風が思いっきり気を奮い立たせる。アキラがかき集めたルーツ探索の資料からは、はっきりと彰次郎という青年の生き様と、彼の歩いた足跡が浮かび上がっていた。それを確かめるべき一歩を踏み出した瞬間に、めくるめく時が逆流したように彰次郎の一歩と折り重なった。
 「いざ出発じゃあ〜」
 
 朝廷よりの勅命を受け、備前藩は家老日置帯刀率いる総勢六百余人の部隊を西宮の警備に差し向けた。西国街道を東進、1月11日昼過ぎ、神戸村の三宮神社前に差しかかった。彰次郎は耕戦隊と称される農民兵で構成された第三砲隊に居た。
 「さてさて、これより先どこまで進むものやら」
 出陣の命を受けて以来、昂る気持ちは今も鎮まってはいない。西宮の次は京へ上るやもしれない。もしやして討幕の戦は江戸まで続くかもしれない。それは彰次郎が、進んで選んだ道であった。幼い頃から目をかけて、その才覚を可愛がってくれた遠縁の下士の影響が大きかった。農家の出であったにも関わらず一端の尊王攘夷を志す青年へと育っていた。耕戦隊の前身、農兵隊が結成された時もまっ先に志願した。不惜身命の思いで激動の時代を突き進むことに何の衒いもなかった。

 街道を挟んで北側に神社、南側は拓かれたばかりの諸外国の居留地がある。社の森を過ぎようかという辺りで、先を行く第二砲隊との狭間が開いた。その時、神社側から数人の居留地警備の数名の外国兵が隊列を横切ろうとした。
 「止まれ!止まれ!」
 怒号のような隊士の制止を声に、一旦足を止めたかに見えたが、そのまま押し切って隊列の間を通り抜けた。押し止めようと第三砲隊の令士・瀧善三郎は槍をかかげた隊士と共に外国兵の前に立ちふさがった。その時、反射的に外国兵は瀧にピストルを向けた。
 「鉄砲である!」
 瀧は注意を促すために叫んだつもりであったが、隊列を乱された隊士達は、交戦命令と思い隊士らが銃を構え、槍をかかげた。それを見てひるんだ外国兵が居留地へと逃げ込もうと、空に向け数回、威嚇の発砲をしながら駆け出した。
 「空~!」
 瀧の号令が彰次郎の耳に飛び込んできた。鉄砲隊は射撃の体勢に構えた。続いて、
 「空~!打て~!」
 威嚇射撃の号令を聞いた。彰次郎は夢中で引き金の指に力を込めた。上空への発砲であったが身体は震えた。先方からも数発の銃声が返ってきた。一帯は混乱した。双方が睨むあう一時の間に、この混乱を聞きつけた居留地の諸外国の兵士らが、海岸添いにぞくぞくと集結し始めた。
 家老日置は、交戦の意志など毛頭なかった。一旦、須磨の浦辺りまで退いて様子をうかがった。
 「当方に落度なし」
 全く偶発的な些事と捨て置いて、一刻も早く勅命である西宮への東進を慮った。幸い双方に死傷者が出なかったが、事態は急激に悪化、神戸村は居留地兵によって占拠され行く手を塞がれていた。やむをえなく日置隊は神戸を迂回する東進の道を探した。彰次郎は発砲の直後、何やら当ったか擦ったかで、二の腕を痛めていた。出発までの休息の間にそれを思い出し、傷の手当てをした。
 「かすり傷じゃあ、大丈夫じゃあ」
 出血も止まっていたし、興奮状態が続いているのだろう、痛みもさほどではなかった。
   
 「西国往還付替道あり」
 との報を受けた家老日置は、
 「ええい 早々の出立じゃあ」
 と、東進の道が開かれた安堵感よりも、この付替道を知らされなかった仕打ちにほぞを噛んだ。勤王派と佐幕派の綱引きで一転二転三転と勢力地図は推移していた。しかし大政奉還という期におよんでは、幕府には付替道の完成を各藩に広報する余裕などあったとは考えられない。ましてや勅命で討幕の軍となるやもしれない備前藩に、その情報が錯綜し滞ったもの当然かもしれない。無理もない話であった。
  急遽、明石までもどり、新道なる付替道を抜け神戸を迂回するルートをとった。しかしこのまま強行軍を続けると、険しい六甲の山中で夜を迎えることになる。小部村(現神戸市北区)での宿営となった。
 「何ごとか、戦が始まるのか」
 村人の不安と恐怖は一通りではなかった。夜半、彰次郎の腕が丸太のように腫れ上がり激しい痛みに襲われた。傷は鉄砲玉によるものであった。玉のかけらを取り出し当てを施すと少しは痛みがやわらいだ。
 翌日、険しい六甲の山中を抜け、夜半やっとの思いで西宮に辿り着いた。西宮到着後の七日目あたりから、彰次郎の腕に異変が起きた。いや腕だけでなく指や足までもが、他人のように感じられる。口や舌も思うように動かない。日々容態は悪化して、駐屯地近くの療養場に運び込まれた。
 その頃、隊では東征の先鋒に、この耕戦隊が選ばれるとの風評が盛んであった。
 「俺も、連れてってくれや」
 と、もつれた声で見舞いに訪れた同輩たちに懇願した。誰もがその口惜しさが分かるだけに無視した。
 たまらず一人の隊士が
 「国で養生せいや、それから追っかけても遅うない」
 と声をかけた。

 国元は神戸での事変の処理で右往左往であった。神戸はまだ諸外国に占領されたままで、新政府も諸外国の多大な請求にどう対処するか苦慮していた。事態は急速に動いた。新政府は開国和親のため一方的に落ち度のない備前藩へ責任を押しつけた結果となった。翌2月初め、実行責任者として令士・瀧善三郎の処断の沙汰が下り、同月七日神戸永福寺で各国公使立会いの下、瀧の処刑が執行された。古式に則った潔い割腹であった。
 彰次郎はその報を耕戦隊の仲間から密やかに告げられた。自分を弟のように育んでくれた恩人の死を聞いて激しく泣いた。その頃、頬も痙攣も激しく、泣き顔は苦悶の容貌に歪んだ。
 草莽の士とも言える彼はその三日後に他界した。死因は定かではないが、舌のもつれ、顔がゆがむとの事から破傷風だと思われる。享年二十二歳。混沌の幕末、維新後の新日本を見ることもなく散っていった数多くの若者の一人であった。 杣谷を下り、谷道が終わろうとする頃、陽は落ちて、周囲はすっかり闇となっていた。谷が開け、杣谷ダムの河原に下り立ったアキラの眼前には、神戸の夜景が綺羅びやかに拡がっていた。その都会の光彩に身を埋めるように、重い足をひずりながら黙々と街路を歩いた。やがて、今日の自分へと誘ってくれたあの徳川道起点の案内板にたどり着いた。その前でしばし立ち尽くした。重い足とは反して、胸の裡は清々しく軽快であった。彼の中にあった安穏たる日々の憂鬱ははるか遠く消え去っていた。
(完)

【参考文献】 
「徳川道 西国往還付替道」(徳川道調査委員会編集 神戸市市民局発行) 
 神戸事件に関する一考察 「その性格と歴史的意義」(文責:前田結城)
 
【使用画像】
■徳川道起点と杣谷堰堤のヨコ長の画像は、Googleストリートビューから拝借。
■穂高のタテ長画像は、ウィクペディアより拝借。
■3連の徳川道の画像は、いそしずのライナーノートより拝借しました。
■ラストの写真は現在能福寺の境内にある31歳で切腹した滝善三郎の墓碑です。
能福寺と兵庫大仏[神戸観光壁紙写真集]より拝借しました。


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冬の長門峡・中原中也(長門峡入り口の詩碑)
 冬の長門峡・中原中也(長門峡入り口の詩碑)

 前回は〝動けない心を動かすためには、体をうごかさなければならない。歩き続けるしかなかった〟という山頭火の放浪の〝遊歩〟を取り上げましたが、今回は地元・山口県にゆかりのある文人として、コアなファンも多い中原中也の〝歩き〟を覗いてみたいと思います。ちょうどこの10月22日が〝中也忌〟にあたります。それまでには投稿をと思いつつ、畑違いの〝詩歌〟の中に遊歩を見出すことに手こずって間に合いませんでした。ご容赦を。
 山頭火が小郡の「其中庵」を離れ最終ステージに選んだ松山にいたるまでの一年足らず、仮に身をよせていたのが、山口市の市街地にある湯田温泉近く龍泉寺となりの「風来居」でした。ここで俳友を通じて、縁を得て中也の生家であった「中原医院」に出入りするようになり、中也の弟や家族らと交流を温めています。その中原医院の跡地に現在の「中原中也記念館」が平成6年に建てられています。
 山口県へ移住後、山頭火の句碑めぐりなどはしたものの、中也記念館へ足を運んだのは、本年の1月、この地に移ってから実に16年も経ってのことでした。山頭火の記念館の方は、不思議なことに全国的な人気を誇る山頭火にしては遅く、平成29年になって、やっと生家近くの防府天満宮下に「山頭火ふるさと館」がオープンしたばかりです。私の個人的感想ですが、様々な不幸が重なった種田家、自身も身持ちが悪く、生活破綻者のような山頭火に対しては、地元では、身近者への反感のようなものがあったのでしょうか、何かしらウケが悪いような印象があります。「風来居」などは未だ記念碑はおろか、目印になる標柱もないようです。(各所に句碑はたくさんありますが)句友以外には厄介者でかしかないような山頭火が中也の実家に出入りするようになった一年前、昭和12年に中也は、鎌倉の病院において30歳で夭折しています。(結核性の脳膜炎といわれています)
 俳句もそうでしたが、詩歌にも全く造詣がうすく、中也の詩を語ろうにもその資格は全くありませんが、かろうじて次のフレーズだけが、感受性に振り回されて、ダダイズムにも酔っていた若き頃の私の胸の奥底に焼き付いています。

  汚れつちまつた悲しみに
  今日も小雪の降りかかる
  汚れつちまつた悲しみに
  今日も風さへ吹きすぎる


 詩集(山羊の歌)で読んだわけでもなく、この詩の全文を覚えているわけでもない〝汚れつちまつた悲しみに〟というフレーズが丸々、私が吐きだしたような言葉のように感じられ、そのまま心の奥深くに刺し込まれていたのでしょうか。この詩以外は、ほとんど中也との接点はありませんでしたが、一昨年の真夏遊歩が、中也の生き様の中にあった彼の〝遊歩〟に導いてくれましたので、しばし、その前段の話にお付き合いください。

長門峡
長門峡(山口県・阿武川)

「山高きが故に貴からず」中也との出会いの伏線?

 低山派ハイカーの決まり文句だけれど、ついつい嵩のない山を侮って酷い目に会うこともままあります。「せっかくの夏季休暇、九州まで足を伸ばすか・・・」とテント、シュラフを車に押し込んで、行き先未定のまま取り合えず出発する予定が、早朝のスコールのような雨に腰を折られて、遠出の意欲はくじかれ、どこか近場の低山、楽チンコースは無いものかとシフトを切り替えました。しかし、この安易な転向、低き山を侮ったことが失敗の元、火の山(268.2 m)のアタックもカンカン照りの太陽と、ベトっと湿気が肌にとりつくような暑さに見舞われて、案の定リタイヤすることになってしましました。(遊歩の達人への道はまだまだ)
 このフラストレーションを晴らすために、次の日、納涼をかねて訪れたのが阿武川上流にある長門峡。道の駅・長門峡側から渓谷に入りましたが、起点が川上となっており、ほぼ水平かと思うほどのなだらかな流れに沿って谷を下っていくコースです。下山路ではなく歩き始めから谷を下りはじめるのは、何か違和感がありました。(反対側の起点から入れば良いことですが・・・)コースは整備されていて、のんびり渓谷を楽しむには文句はありませんでしたが、如何せん昨日からの高温多湿、おまけに風もなく、身体中に湿気がへばりつき、企んだ納涼とは、ほど遠い蒸した谷歩きとなりました。折り返し復路、歩き始めには気を止めなかった渓谷の入口横の廃屋のトビラに、今にも朽ち落ちそうな看板に「洗心館は閉鎖・・」との文字が目に留まりました。そして、そのすぐ先の橋のたもとで中原中也の詩碑「冬の長門峡」と出会うことになりました。(冒頭の画像)

 長門峡に、水は流れてありにけり。
  寒い寒い日なりき。
 われは料亭にありぬ。
  酒酌みてありぬ。
 われのほか別に、
  客とてもなかりけり。
 水は、恰も魂あるものの如く、
  流れ流れてありにけり。
 やがても密柑の如き夕陽、
  欄干にこぼれたり。
 ああ! そのような時もありき、
  寒い寒い 日なりき。

 50年ほどの時間が逆流するかのように〝汚れつちまつた悲しみに〟のフレーズがクロスオーバー。まだ、陽も高く、季節も真夏でこの詩の情景とは違っていたものの、何やら悲しい寂然さを感じずにはおられませんでした。料亭で酒を飲みながら夕日を眺めていたのでしょうか。先ほどの廃屋がその料亭のようです。さっそく帰宅後にググってみると、やはり、中也はこの長門峡でよく遊んだようで、あの廃屋は中也が友人たちを誘って訪れていた「洗心館」という料亭でした。この詩を書いた前月に、2歳になる長男の文也を亡くしていることを知って〝水は、恰も魂あるものの如く、流れ流れてありにけり〟というところの寂然さに思い当たりました。
 この長門峡がキッカケとなって、その秋、中也記念館を訪れることになりました。奇しくもテーマ展示は「中也の散歩生活」という彼の身体性を主題に、〝歩き〟の中から生み出されていったポエムの数々、そして、中也が日常生活において、「歩く」といことをどのように思っていたのかがよくうかがえる展示がありました。

詩人・中原中也

散歩というよりは徘徊というべき〝歩き〟のボリューム

大正十二年より昭和八年十月迄、毎日々々歩き通す。読書は夜中、朝寝て正午頃起きて、それより夜の十二時頃迄歩くなり」(中原中也・詩的履歴書より)

 この記述を真に受けると、実家を離れて詩作を始めた十六歳から結婚するまでの十年程の間、毎日、1日の半分12時間は歩いていたことになる。これは〝散歩〟とか〝散策〟というような言葉では当てはまらないだろうとツッコミたくなる程の歩きっぷりです。アスリートなら〝訓練・修練〟であり、求道者なら〝修行〟そのものと言ってもよいレベルかと思います。まずは、この生活の中で占める圧倒的な〝歩行〟のボリュームに驚きました。それは、詩人が気分転換にぶらっと出歩くというような、ましては私の毎朝夕、半時間程の〝犬連れ散歩〟や低山ハイクとは比べようもないボリュームです。中也が強く影響を受けたといわれる天才詩人アルチュール・ランボオも〝歩行三昧〟もすごいものがあります。ヨーロッパや北アフリカを歩き回って〝放浪〟の詩人とも称されていますが、中也の場合は、京都や東京の巷をウロついている感があって、その歩きっぷりは〝放浪〟というよりは〝徘徊〟に近いものがあります。私個人では〝徘徊の詩人〟と認識を新たにするものでした。

 歩きといっても、酒場に通ったり、文人仲間の家を訪れ、情報交換をしたり、論戦したり、車や電車のインフラが乏しい頃で、そのために、あちこちを徒歩で歩き回っていたこともあったでしょう。実際〝歩く〟という言葉をそういう意味で使っていたようですが、京都や東京の街中で出くわす風景のそれぞれを点検するようにほっつき廻っている姿を、作品や書簡の中からも窺い知ることができます。

僕はねえ、やっぱり毎日お歩きです」(友人への手紙)
近頃の夜歩きは好い。月が出ていたりすると僕は何時まででも歩いていたい。実にゆっくり、何時までも歩いていたいよう!」(友人への手紙)

 兎にも角にも、中也は、己の命と鋭い感性を、数行の言葉に押し込めるために、張り付いた壁紙のような下宿部屋から抜け出して、日々、川沿いの土手や街中を歩き廻ったと思います。自分が移動した分、草木や月と出会い、建物や街灯が映り、違った風景が次々と現れ、歩行のリズムの中で五感が触発され、そぎ落とされた詩句が体感として沸き上げってきたのかもしれません。空気や風の微妙な違いにも、自分の命や存在を投影していったのかもしれません。そういう〝歩き〟は、私のような凡人が見ることもない異界を覗き込むための〝徘徊〟といえるような〝歩き〟だったと勝手に想像します。そしてそれは、〝本来の愚に帰ろう、そしてその愚を守ろうと〟遊化の道につき進んだ種田山頭火に通じているように思えます。「我が生活」という散文の中で、歌舞伎を観たくなって、本を売り見料と電車代をひねり出して明治座まで出かけるが、昼飯代が無い。観劇の途中、空腹に耐えかねて退散し、家まで歩いて帰る途中・・・

歩き出すと案外に平気だつた。初夏の夜空の中に、電気広告の様々なのが、消えたり点つたりする下を、足を投げ出すやうな心持に、歩いてゆくことは、まるで亡命者のやうな私の心を慰める

と銀座の風景を語りながら、自分の性格や生き方など心境も語りはじめます。そして、生活者としての不便さ(不甲斐なさ)も嘆きながらも、夢見る自分を次のように語っているところに私の目がいって、あの愚の道を歩んだ山頭火を思い起こしたところです。

然し人生には、どんな荒んだ社会にもなお小唄があるやうに、詩人といふものは在るものなのである。その詩人なるものに、多分は生れついてゐる、否、それ以外ではツブシも利かないのが、私といふものだつたのである

主な略歴
1933年(昭和8年)
『ランボオ詩集(学校時代の詩)』を三笠書房より刊行。上野孝子と結婚。
1934年(昭和9年)
長男文也(ふみや)が誕生。『山羊の歌』を刊行。
1935年(昭和10年)
5月 『歴程』が創刊され同人となる。「青い瞳」を『四季』に発表。
1936年(昭和11年)
文也死去。精神が不安定になる。次男愛雅が誕生。
1937年(昭和12年)
『ランボオ詩集』(野田書店)を刊行。『在りし日の歌』原稿を小林秀雄に託す。
10月22日、結核性脳膜炎を発症し死去。墓所は山口市吉敷。
1938年(昭和13年)
愛雅死去。創元社より『在りし日の歌』を刊行。
1994年(平成6年)
山口市湯田温泉の生家跡地に中原中也記念館が開館。
1996年(平成8年)
山口市等が新たに中原中也賞を創設。


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風の中声はりあげて南無観世音
 長沼隆代作の和紙人形(山頭火ふるさと館

解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た

 種田山頭火との出会いは、いつ頃だったのかよく覚えていない。俳句といえば、芭蕉蕪村一茶ぐらいですか、それも有名な数句が思い浮かぶ程度で、ましてや自由律詩などというものには、ほとんど触れたことがありませんでした。しかし、いつか、何処かで〝山頭火〟という名がうっすらと気にはかかっていたのでしょう(テレビの金八先生か?)うすい文庫本一冊を買いおきしていたようで、本棚に紛れていたその本を手にして開いたのが、加藤文太郎を描いた「孤高の人(新田次郎)」「遊歩大全コリン・フレッチャー)」と並んで、私の〝歩き〟に大きく波紋を与えるに絶妙なタイミングとなりました。
 直接的に六甲山という舞台へ私を誘ってくれた加藤文太郎、その六甲山彷徨の〝歩き〟に、精一杯に自分を解放、寛がせることの楽しさを教えてくれたコリン・フレッチャーとの出会いの間に、現れたのが山頭火でした。文太郎の足跡を追っかけるように歩き出したは良いが、いざ、歩き出した後は自分でもコントロールの効かない、赤子の泣きながらの道迷いのような足取り。〝なぜ歩いているのか?〟〝それとも歩かされているのか?〟と自問自答しながら、さまようように歩いていた頃合いだったのです。偶々だったのか、何かに導かれたのか、手に取ったその文庫本をめくってみると、目に入ってきたのが・・・

 [大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た]という一文に釘付けになりました。「分け入っても分け入っても青い山」この有名な句の前書きです。

 母の自殺、酒造場の経営・破綻、夜逃げ、離散、被災、作句に情熱をそそぎつつも、家族を捨て自儘な酩酊の生活に堕ちてのあげくに、42歳の時に熊本・報恩禅寺で得度する。ここから仏道に導かれて、穏やかに作句の余生をと思いきや、翌年、この味取観音堂の堂守を捨てて、本格的な行乞放浪の旅が始まるのでした。この旅立ちにあたって書かれていた〝解くすべもない惑ひ〟とは何なのか? 放浪の末に世を捨て、出家した彼がなおも抱えつづけていた〝惑い〟を軽々に推しはかるつもりはありませんが、慣用的な〝煩悩〟という言葉だけで説納得しきれない何かを感じます。心があることにしがみついて動こうにも動けない。こびりついている感じですか、動けない心を動かすためには、体をうごかさなければならない。歩き続けるしかなかった。そんな感じでしょうか。彼の行乞流転の旅をそういう風に勝手に受けとってみると、当時の私の〝戸惑いの歩き〟とピッタリと折りかさなって、強烈なシンパシーを覚えました。
 人は、いつも自分自身の絵を描いていて、その「描かれた私」と常に向き合いながら生きざるを得ません。そして、或る日、その〝描いた私〟と〝描かれた私〟とがブレはじめ、かすんで正体不明になってしまうことがあります。彼の人においても、お堂で悠然と禅をむすんでいるだけでは己を掴まえきれなかったのかもしれません。とにもかくにも己を探すべく山頭火は歩き始めたのでしょう。彼にとっては確かな成算があって歩き出したのではなく、背負った惑いを解くために、つまり、我執にからまれ動きのとれない心を動かすために、とにかくは「歩きだす」しかなかったのでしょう。重苦しい〝独り歩き〟が始まりました。

  鴉啼いてわたしも一人
  捨てきれない荷物の重さまへうしろ
  どうしようもないわたしが歩いている
  風の中おのれを責めつつ歩く

 
 松岡正剛が千夜千冊「山頭火句集」の中で・・・

 修行僧としては当然の行脚だが、どうも山頭火のそれは一途な行脚とちがっていた。味取観音堂でじっとしていられない。寂しくて寂しくて、それで旅に出る。そうすると寂しいことが動いていく。その動きが見える。いや、見えるときがある。寂しさというものが山や道のどこかで、ふうっと動く。それを句に仕立て、また行乞をする。
 山頭火はそこで「途上、がくねんとして我にかえる」ということを知った。そうであれば、それが最善だとおもうようになっていった。山頭火はそこを「空に飛ぶ」とも言っていた。「空」は色即是空の「空」で、「飛ぶ」はおそらくは「遊化」であろう。


と評しています。

 長沼隆代作の和紙人形(山頭火ふるさと館)

遊化 (ゆけ) は遊行教化という仏語。心にまかせて自由自在に振る舞うこと、遊戯 (ゆげ) に通じる。

 「遊化三昧」とは、楽しい事、苦しい事、嬉しい事、悲しい事、迷う、悩む、出来上がる、壊れる、成功した、失敗した・・・ 世の中に起こる全ての出来事を遊んでしまいましょう、という意味でポジティブ教化に使われます。〝遊〟の字が垣間見えたあたりで少し〝遊歩〟にも近づいてきたでしょうか。
 俳句は、言葉というより映像です。私にとって山頭火の自由律句は、体感のビジュアル化そのものです。彼の想いや意味とは違っていたとしても、私の身体が感じていることを私の一歩に上手くのっかってくれます。本当は行く先をちゃんと指し示してくれる一本道が歩きやすいのですが、敢えて山あり谷あり、曲がりくねったルートファインディングをついつい選んで不安な一人歩きに四苦八苦することが往々にしてあります。そんな時にポッと目の前に長い一本道が現れて先を見通すことができると・・・
  まつすぐな道でさみしい 
 などと、本当はホッとしているのだが、強がってそういう句を当てはめる。ホタル調査で夜通し歩いて、沢で飛び石に足をかけようとしたとき・・・
  うしろから月のかげする水をわたる
 少し肌寒いが、木漏れ陽の草むらで横になって休憩する・・・
  石を枕に秋の空ゆく
 尾根を伝っていると突然しぐれて、雨に打たれた・・・
  あの雲がおとした雨にぬれてゐる
 浮石や枯葉に足をすくわれて転倒したとき・・・
  すべつてころんで山がひつそり
 などなど、私の〝歩き〟一歩一歩の肌触りを見事にビジュアルにしてくれます。

   水音といつしよに里へ下りて来た
  山から山がのぞいて梅雨晴れ
  人生即遍路
  このみちをたどるほかない草のふかくも 
  道がなくなり落葉しようとしてゐる

 厳しい漂泊の旅を一段落させようと、50歳の時、小郡(現山口市)にて其中庵をむすんで、自足の生活へ入り「孤高自ら持して、寂然として独死する」と願い庵居生活を始めます。が、独坐も長くつづかず、寂しさのゆえか、動かぬ心を動かすためなのか、また旅に出ることとなり、旅先で病を得てその旅にも頓挫してしまいます。気が塞いだのでしょうか、庵居にてカルモチン(睡眠薬)による自殺未遂。
 ついにはこの庵居を捨てて、死に場所を求めるような流浪の旅に出ていきます。やはり、山頭火を生き生きさせるのは、やはり旅なのでしょう。自分らしい句を追い求め、コロリと逝くことを願いながら面目躍如たる〝歩き〟の中に身を置きます。57歳の時、近代俳句のメッカといわれていた四国・松山を訪れ、その地で最後の庵をむすび、終活というべき一代句集「草木塔」を出版します。「若うして死をいそぎたまへる╱母上の霊前に╱本書を供へまつる」との扉書きには、山頭火が抱え続けていたウィルダネスともいえる母の存在を偲んでいるような印象をいだきます。

  歩かない日はさみしい
 飲まない日はさみしい
 作らない日はさみしい
 ひとりでゐることはさみしいけれど、
 ひとりであるき、ひとりで飲み、ひとりで作ってゐることはさみしくない。

 本来の愚に帰ろう、そしてその愚を守ろうと、遊化三昧の果てに山頭火は、昭和15年(58歳)松山の一草庵にてコロリ往生を遂げました。辞世の句とされるのが・・・

 もりもり盛りあがる雲へあゆむ

うまれた家はあとかたもないほうたる(生家跡の碑に置かれた酒)
うまれた家はあとかたもないほうたる(生家跡の碑に置かれた酒・分け入っても分け入っても青い山)

〝遊歩〟とは〝私自身に向かう旅立ち〟なのだろうと、そんな風に素直に了解できるようになるまでは、そこそこの時間が必要でした。その間、私は〝なぜ狂わしく六甲の山々に魅了されているのか〟〝なぜ漂うような徘徊に明け暮れているのか〟いく先も定かでない不明な歩きを只々繰り返す日々でした。そういう時に出会った山頭火の流浪の歩き様は〝独り歩き〟〝不明の歩き〟の何たるかを良しにつけ悪しきにつけ教えてくれるものでした。

 分け入っても分け入っても青い山(草木塔より)

 青い山とは自然そのもの本質であり、この世の根源のようなものです。そうだと了解したところでも、また次々と青い山は目の前に現れてきます。そんな古今東西で言い尽くされたような摂理を、山頭火は句にしたかった訳ではないでしょう。ただ、その〝青い山〟が見えていることそのもの、震えるような肉感を句(ことば)に替えてビジュアル化したに過ぎません。〝青い山〟が見えている、見ることができることが、生きていることの証、永遠との触れ合いそのものだったのではないでしょうか。
 この句は、やはり〝私の遊歩〟においても全てを言い尽くしているような気がします。特別な説明も不要です。文字通りそのまんまです。目の前でうねる連山の滴るさまを全身で感じている自分がそこに在る。それだけのことですが、生きることの何たるかを見事に知らしめてくれます。この句を私が体感として味わえたことは実に幸せなことだとも言えます。途方にくれたまま尾根や沢に分け入って、さ迷い人のように歩いていた私を〝青い山〟に出会わせ、歩みべき道を標してくれた六甲の山々に心から感謝するところです。
 そして、そんな遊歩の明け暮れの中で、うっすらと峰々の頂きから長く伸びた、自らの影をに気がついたのです。〝私の影〟とは、もちろん神秘的な現象ではありませんし、ことさら詩的に飾ろうとしている訳でもありません。それは私にとっての〝解くすべのない戸惑い〟から解き放たれた自分自身だったのでしょう。
 六甲山というステージに立って、もつれた足取りでその影を追いかけて続けているうちに、少しずつ〝描く私〟と〝描かれた私〟のズレた波紋が折り重なり、それ以前にあった筈の〝見失った私〟の影に光があたりはじめ、右往左往の〝さまよい歩き〟からようやく抜け出すことと相成りましたが、人の命はいつ曇るかもしれません。今を大切に感じるためにも〝青い山〟に分け入る旅は、まだまだ続くものと思います。これからもしっかりと〝遊化〟の一歩を一歩を刻んでいくばかりです。



※種田山頭火の略歴・足跡は「山頭火アルバム」(春陽堂:発行、村上護:責任編集)を参照させていただきました。
※写真の長沼隆代氏作の和紙人形は「山頭火ふるさと館」にて展示中のものです。機会がございましたらお立ち寄りの上、ぜひ実物をご覧ください。漂泊の俳人が見事に和紙の中によみがえっておりました。

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長沼隆代作の和紙人形(山頭火ふるさと館)「雨ふるふるさとははだしであるく」
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スマホとGPS機器
GPSが歩きを変質させていくのか?

 地図(マップ)を取り上げるのは、「遊歩ハイキング必携グッズ10選」の中で、と思っていましたが、やはりこのテーマは、単なる技術話しでは終わらないようですので、読本として取り上げてみたいと思います。

迷い歩きとルートファインディング・読図

 インスタやツイッターで#登山#山歩きの流し読みをしてみると、まあ何と!写真もそうですが、スマートでクールな遊歩ファッション、グッズで身を包んだ山男・山ガールが次から次へ出てきますね。初心者の集まりで街中ファッションのジーンズやスタジャンで山歩きしていた初期の遊歩会などの時代と比べると隔世の感があります。同様に、GPS時代に突入した現代では、地図読みに関しても大きく様変わりしています。
 活動が始まった頃は、当然ながらGPSやスマホなどはありませんでしたから、地図とコンパスによる何百年もの続いてきた伝統的なアナログ方式による〝読図〟地図読みを会得することになりました。こればかりは、ラフなファッションのようにおざなりにはできません。〝一人で歩けないものは、皆とも歩けない〟というセオリーが出来つつあった頃で、山中にて一人なったとしても行動できるようにと、皆さんには真剣に取り組むようお願いしました。実はこの〝地図を読む〟というスキルには、遊歩を支える基本的な技術であると同時に、人としての〝歩き〟の姿勢を決定する大切なものが反映されることにもなります。
 もともと地図遊びが好きだった私は、この〝ルートファインディング〟にのめり込みました。「アレレ、どこを歩いていいるのだろう?」「こんな所に着いてしまった」などという〝迷い歩き〟が好きでした。その迷いの不思議感と、それを解き明かしていくプロセスが、何ともいえないミステリー感覚にあふれてて興奮するところです。会でも、ルートファインディングそのものを楽しむという企画をよく催しました。目的地を決める。それが頂き(ピーク)なら、そこに通じるいくつかの尾根や沢があります。その中から自分たちのルートを決めて辿っていきます。ピークに突き上げる本谷ルートの沢筋を使う場合ならば、途中いくつもの支谷に遭遇します。そこで読図力が試されることになりますし、迷って枝谷にもぐり込んだ時のルート回復もその力が活きてきます。そうやって読図ができるようになって、さまよい歩きにも慣れると白地図でも、自由にルートファインディングを楽しむことができます。

 当初は初心者ばかりでしたので、地図に一般的なルートが赤い線で描かれたルート地図(昭文社・山と高原地図 No.51)を使うことにしました。六甲山エアリアマップは、赤松滋さん(当時)が調査執筆されていました。後にご縁をいただいて、遊歩に関するさまざまな助言をいただいたり、一緒に歩く機会などもいただきました。氏の著書からも、多くの含蓄あるお言葉を拝借することになります。その一つに、
迷うことを潔しとし、道を見ず、地形を見てそこから道を案ずることを試みている」続けて、
この道は谷へ通じていく、尾根へ上って行きそうだと、先に思いを巡らせて足もとの道を選ぶようになった。単に道標を目安に右へ左へと分岐を選ぶのではなく、遠くまで視野を広げ、地形を意識していれば、たとえ道をはずれてかけても気がつくのが早い。また、どこで何故はずれたかが分かる」 
〝迷い歩き〟から始まった私には、この的を得た一文に大納得。さっそく「迷うことを潔しとす」が座右の銘になりました。この文脈をよく頭に留めいただいて、〝読図・ルートファインディング〟の話を先に進めましょう。

山頂近い山並み風景

アナログ地図とGPSアプリ

 読図の基本は〝目的地と自分現在地を知る〟というとてもシンプルなものです。しかし、これが案外と難しい。アナログなら、地図とコンパスで、方位角を探りながら、また、等高線の微妙なつまり具合やカーブを、3次元の頭の中でイメージに再生・再現させながら、周囲の地形と照らし合わせて自分の現在地と目的地を探っていきます。特にガスなどで視界を失うと情報量は激減します。これらの経験を幾度も積みかさねて、地形を読み取る感覚を養っていくしかありません。根気のいる作業でもあります。渡り鳥や野生のケモノが持っているような方向感覚を本能的に目覚めさせていくような作業なのかもしれません。私たち人間にもそういう本来的な力に迫っていくような体験をすることも、遊歩ではとても貴重なものになります。
 しかし、GPS・スマホ時代になると一変します。ポンッとタップすると「予定ルートから何メートル○方向に外れています」と一瞬に教えてくれます。最近のスマホは耐寒性にもさほど問題がないようです。アプリの性能は米軍レベル並みの機能性をもっているようです。以下は、GPS推奨派のサイトから引用させていただいたコメントです。

■GPSなんか使うから読図が身に付かないのだ
 という反GPS派の意見に対して、
それは逆だと、GPS推奨派はこう答えています。
「読図できない人が紙の地図なんか見たって自分の位置は分からないでしょう。地形を読むのも慣れていないと難しい。GPSは『地形と地図に慣れるまでの先生』になってくれ、読図の先生がいないと出来なかったことが人間以上の精度で可能になる」 

■GPSなんかに頼ったら登山がつまらなくなる。という指摘には、
 紙の地図を読んで地形を味わいながら歩くのは、それはそれで楽しいものです。でも山の楽しみは一つだけではありません。読図は普通、手段であり目的ではありません。読図が目的の登山があってもいいでしょうが、そうでない登山もあります。読図が趣味の人が道迷い遭難なんてなかなか起こさないのでしょうが、万一があります。万一のために保険としてGPSやスマホを持ち、正しい使い方を覚えるのはリスクヘッジとしては必要なことだと考えています。道に迷って遭難した時に『GPSを持たずに山に入るなんて非常識です!』と言われる時代が必ず来ます。と、スマホにGPSアプリを詰めて山へ行くのがマナーになると断言されています。

 私からはこのご意見を、一つの提言として受け止めておきましょうとしか言えません。しかし、何かしっくりしない。違和感を感じるのも確かです。この提言に賛同した人の「紙情報と有視界に拘っているのは、日本の山屋ぐらいでは無いかと思います」というコメントもあった。この人の言によれば、私もやはり、日本のアナログ派の山屋の部類に入ってしまうのかなと思ったりします。
 道迷いが死に直結しやすい高山や冬山には縁のうすい低山派の私においては、ほぼほぼGPSアプリ使うことはないのですし、道迷いが一つの楽しみ、味わいになっている六甲山エリアでは、全く無用のものです。(最近は地図も持っていかない)もちろん迷うのが嫌!という方も多いでしょうし、GPSアプリをどのように有効利用するのかは、各人の対応に任せれば良いと思いますが、『GPSを持たずに山に入るなんて非常識です!』と面と向って言われれば、とても困惑してしまいます。

木に巻かれた赤テープ
匿名的な存在のような赤いテープ

救われる?惑わされる? 赤テープは道しるべ?

 もう一つルートファインディングに関していえば、山道の木々に巻きつけられた〝赤テープ〟に言及しなければいけないでしょう。
 背を超えるヤブの中で、大海原の漂流者のごとく方向を失ったものにとって、パッと目に入った赤テープは、救世主の導くともしびのように映るだろうし、いく先々にこれ見よがしにベタベタ貼り付けられたテープは、でしゃばり者の余計なお節介モノのように映る。
 六甲山を歩き始めた頃、この赤テープに惑わされて、こっぴどい目にあったことが度々あります。テープを追っていくと、とんでもないところに連れていかれたのです。通常のルートではない、どこかのサークルが自分たちのイベント用のルートに設置して、そのまま外さずに放置していたのかもしれませんが、それならせめてテープに使用目的を書き込んでおけよと、妙に腹立たしくなりましたが、同時に「なぜ、自分で判断しなかったのか」と、それを追っかけていた自分の不甲斐なさに対しても呆れてしまう。
 この〝赤テープ表示〟コース上にある道標とちがって、意味も目的も不明なものが多く、煩わしく感じ始めて、ついにはこれは〝単なるゴミ〟ではないのか?と、不要なテープを剥がしていくようになった。しかし、それはそれで、独断でしょうと会内でも異論がでて、それならばと、阪神間の六甲山をフィールドにしていると思われる各山岳会、大学サークル、官公庁、団体・個人の岳人などへアンケート調査をお願いして、その意見をいただくことになりました。この〝赤テープ問題〟の詳細はここでは割愛させてください。(この調査の集計・結果報告はPDF化できれば、掲載させていただきます)
 先の赤松滋氏にも「テーピング」と題した一文を報告書にいただきましたが、これも次回の報告書にて紹介させてください。報告書のまとめにある次の一文にて、全体的な論調をご推察くださいませ。
「現在、六甲山におけるルート表示は煩雑で、見苦しい状態であり、本来の意味も失われているものが多い。部分的に必要なテープを除いて、現存している一時的意味合いのテープ表示は、撤去すべきだろう」

赤テープなるもの、実は六甲山以上に、僕たち社会のまわりにもベタべタ貼られている

 同じく報告書にある私の投稿に・・・、
「山での出来事を山で、都会での生活はそこで済ましてしまうと言うのでは、何故、人は山と都会を行き来するのかという問いに答えることができなくなる。(中略)ベタベタと貼られたそのお節介な赤テープのおかげで、行く道を惑わされることもある。しかし、考えてみると赤テープなるもの、実は六甲山以上に、僕たちの社会のまわりにもベタべタ貼られていることに気付くだろう。幼少期は何の疑念もなく、親たちが付けてくれた赤テープを頼りにヨタヨタと辿っていき、反抗期ともなると、それらを無視して逆の方向へと進んだしたりする。思春期に入ると、周囲の煩雑たる赤テープの氾濫に頭を悩ませることになる。「大学?」「就職?」「ああしろ」「こうだろう」あまりのプレッシャーで社会への適応に自信を失うこともある。しかし、ややもすると自分を見失いがちになる時に、「こう考えたら? そう生きたら?」と生活や人生の指針となるべき赤テープとも出会うことも大いにあるのだ。
 このように僕たちの人生にとっても赤テープ(情報)の選択が大事でもあるのだが、テープの正体をよく掴まないまま、それを追っかけて進む悪癖が身についてしまうと、それを順に辿って、自分がどこに居て、どこを歩いているのかが不明のまま、次の赤テープだけを探すような生き方・歩き方に陥ってしまうこともあるだろう。

 ここでもう一度、赤松滋氏の「迷うことを潔しとす」という文脈を思い出しながら、GPSアプリの話に戻ります。氏の一文を、

「迷うことを潔しとし、与えられた指針を見ず、広く社会を見てそこから進路を考えよう。この生き方はこうなるだろう。このやり方はあのようになるだろうと、先に思いを巡らせて足もとから進路を選ぶようになった。目の前の規範だけを目安に右か左かと選択するのではなく、遠くまで視野を広げ、社会や人間関係を意識していれば、たとえ進む道をはずれてかけても気がつくのが早い。また、どこで何故はずれたかが分かるはずだ」というように読み直すことができます。

 スマホをタップしたら、地図の上にすでに予定のルートが既に表示されており、自分の人形がそのコースに乗っている。線上ならOK。外れていればコースに戻れば良いだけです。まさに簡単!わが現在地がバーチャルに表示されます。しかしながら、この赤テープを追っかけているような作業の中で、何かしら大切なものが欠けているような気がするのは私だけでしょうか?
 GPSはリスク回避には最適なグッズです。山の歩き方、楽しみ方も様々ですが、同時にリスクに対する考え方も多様だと思います。安全が第一だとは思いません。安全第一を求める人は山に入らないことが一番です。私は、読図によって自身の一歩が深化していくものと信じています。その自分を支えている一歩一歩を確かめるために山を歩きます。道とは〝身〟〝地〟だと聞いたことがあります。己と大地のコンタクトの場所です。踏み出した一歩に自分を感じて、わが居場所を確かめます。その連続が〝遊歩〟だと銘じています。その大切な一歩と現在地を、GPSに委ねてしまうのはもったいない限りです。個人的には、二次的装備に留めておきたいと思います。(スマホは持っていないけど)

 ちなみにバックパッカーのコリン・フレッチャー師、遊歩大全〝ルートファイディング〟の項目で、「ルートファイディングをするために、地図なしで出かけたり、概略図だけしか持たずに行くことがある」と記している。地図は、あればとても便利だ。というスタンスのようだ。さすが〝遊歩の達人〟ただしコンパスは必携にしている。

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キンドル出版におきまして、
山端ぼう:著つたなき遊歩・ブラインドウォーカー」が出版されました。定価¥500

遊歩大全をバイブルとして六甲山を巡り歩いた老いた遊歩人とブラインドサイト(盲視)という不思議な能力をもつ全盲の青年とが、巻き起こすミステリアスな物語です。 続きは・・・
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遊歩のススメ・第1話(なぜ歩くのか?)はこちらから

※歩かない人のための歩きレクチャー読本
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〝遊歩〟ハイキンググッズ10選・トイレ編

※その2、出したものは全て持ち帰る?

・ミステリー小説「つたなき遊歩」出版までの道のり

自分の影を追うようなストーリー
 自分の影を追っかけたような人生ストーリー

すいません、まずお詫びからです。今回は〝遊歩〟以前のお話しで、愚痴とそれが高じた、とんでもない愚案?妙案?を語ることになります。〝え?遊歩〟じゃないのならと思われた方は、速攻スルーしてください。

70歳を越えてからの仕事探しは、困難極まりない。平凡なスキルや前歴は大した役には立たない。

 ハローワークで70歳と入力して「バイト・パート」で求人を検索すると、返ってくる求人票の多くは、よくて60歳か5年延長雇用がある企業だ。60、65歳以上はダメですとはっきりと書けない建前があるゆえに、条件欄は「年齢不問」となっている。10社余ほどに応募をしてみたが全て不採用になった。(もちろん歳だけのことではないだろうが、多くは年齢的にはじかれた)
 そんな中でも、期間限定や時間制限のあるパートで70歳以上OKの求人がたまにある。「健康な方なら年齢不問」これぞ本当のシニア活力、人材再発掘の国の施策に沿うものなのだろうが、在住する地域(10〜15万の地方都市)では、職種が、警備・交通整理か清掃か、もしくは悪名高い介護に限られがちです。(悪名とは腰痛という職業病である)別にそういう仕事が嫌いではないが「高齢者にはキツイですよ」といわれ、すでに腰痛・膝痛のある私の選択肢から消えた。他の職種においても大なり小なりだろう。実際に今、勤めているバイトでは、一見、体力はなくても勤まるように思えたが、炎天下、風雨、極寒となれば、自分の体力で果たして継続していけるだろうかと自信がもてない。まあ、ぜいたくは言っておれないがこれが「人生100歳時代」の現実なのです。

定年前後の〝やってはいけない〟」(郡山史郎氏・著)の本帯にあったキャッチコピーは納得するものです。
・雇用延長で働く
・資格・勉強に時間とお金をつかう
・過去の人脈を探す


 これらみんなに バツがつけられている。ご本人もソニーの取締役を退任後の再就職の苦労したことから、自信のあったビジネススキルや前職のキャリヤが役に立たなかったこととをつづられている。そんなエリートビジネスマンでも苦労する70歳からの就職ですが、よほど希少な、特殊なスキルでない限りは、思惑通りには進まないようです。
 私の場合も同様で、凡庸な経験とスキルだけではハードルを超えられませんでした。はやり自分の中にある商品性を見つけ出すことしかありません。それが、そこそこの価値を持つコンテンツになるまで、何とかバイトで食いつなぐというのが目下の残されたか細い道筋と観念しています。DTP技術や画像処理という自負できていたスキルでも、進化スピードの速いこの時代にあっては、もう若い人には勝てるものではありません。ここはやはり、馬鹿みたいになって六甲山を歩き回っていた頃から、今に至るまで自分を支え続けてくれた〝遊歩〟というものに特化して、それをコンテンツ化するしかないだろうと思ってのチャレンジです。

第三の青春から第四の青春へ、前を向いた終活。


 自分自身にある、また、あったストーリーをコンテンツ化するために、新しいブログを立ち上げ、自伝的小説の執筆にもかかりました。この作業は、就活と同時に終活でもあります。人生の終わりを飾るものであり、終焉をソフトランディングさせるための作業と折り重なるものです。まず手をつけたのが、私自身の足跡を子ども達に残しておく。それも具体的な事実をつなげたものでなく、今まで生きてきた心気やプライド、拙くはあってもその想いを何らか分かってもらえるようにしておきたい。そして、自分を亡くした後の事後処理も混乱しないようエンディングメッセージとして、そこに書き込んでおくことにしました。
 旧ブログのタイトルが〝第三の青春〟でしたので、新ブログ「遊歩のススメ」も、〝第四の青春〟という位置つけで、決して後ろ向きな終活だけにはならないよう戒めている次第です。
 書き起こした自伝をミステリー仕立てにして一本の小説にまとめてみました。出来上がった後、すぐに、すばる新人賞の応募が目についたので〝もしかして〟と期待を込めて投稿しましましたが、案の定、第一次審査で見事に落選、いわゆる下読みで落とされた訳です。これが自分のもつコンテンツの現実的な価値なんだろうと、恨む前に現状認識を改めることになりました。小説家になる気はありませんが、確かにスキル的には無理があったようです。ブログ記事は数をこなしましたが、小説となれば別物です。書いている途中でも自分の表現能力の低さ、語彙の劣化や時代遅れのキーワードにイラつきました。齢70の限界なのでしょう。
 どの世界でもトップレベルなると、そのコンテンツに関わるところで非常に価値が急上昇します。世のムーブメントを起こすようなものでは、驚異的な価値を持つ訳です。「パイナップル アッポー」などがそんな極端な例です。そこまでいくと〝山を当てる〟ギャンブル的世界ですが、自分の落選を機に(実はもっと以前から)考えていたことがメラメラと、ふつふつと湧き上がってきました。

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キンドル出版にて、
山端ぼう:著つたなき遊歩・ブラインドウォーカー」を出版いたしました。定価¥500

遊歩大全をバイブルとして六甲山を巡り歩いた老いた遊歩人とブラインドサイト(盲視)という不思議な能力をもつ全盲の青年とが、巻き起こすミステリアスな物語です。 全山縦走路、旧摩耶観光ホテル、徳川道、ツエンティクロスなど六甲山系の各所から、穂高岳連峰を舞台に目の離させない遊歩が展開します。 続きは・・・

自分のコンテンツ化、自身に商品化できるものがあるか?

 その〝アイデア〟というのは、「自身が持ちえているコンテンツの最適化」というものです。これが何モノかと言えば、前述した、ちょっとした芸が数億円の価値を産んだり、確かに素晴らしい芸術や人に無い才能に対して、数十億円とかの価値が付加されることがあります。現在の商業システムでは当然なことでしょうが、その反面「逆もあるでしょう?」という訴えです。
 世に出ていない多くの市井の人たち、その人々の中にもコンテンツとして売れるものがあるんじゃないだろうか。いや全ての人にあるはずです。特に焦点を当てたいのは、日々の生活に困っている人たち、心理・精神面で追い詰められているとかでなく、単純にお金の問題で苦労している人です。一番みぢかで見る・聞くパターンは、年金が少なく、なおかつ働けない高齢者です。(私の場合も近い)行政的な支援を受けるまでのことはないが、生活はギリギリ(本当は足りない)というカテゴリーで、あと数万円、2〜3万円でもあれば、どれだけ暮らしに一息つけるのに、という人や所帯が多くある。
 若い人なら働く場は、その気になって探せばガンバれる。働いても、まだ苦しいという人たちにも、自分たちが作ったものや見つけたものをコンテンツ化する手立て、フリマやネット販売などの手立てを使うこともできるが、そういうスキルや環境をもたない高齢者には、なかなか売れるようなコンテンツを自分の周りから探し出して商品化するのは難しい。

 ここでちょっと極端な例で誤解をうむのを承知で、例として〝自伝〟というもので考えてみましょう。これは誰もが必ず一つ持っている人生というストーリーです。これをコンテンツ化して価値をつけ売買するシステムがあれば、どうでしょうか? 但し、誤解がないように念をおしますが、その人が必死になって生きてきた人生そのものを評価しようという不遜なものではありません。それは、全く意味のないことです。ここでは、自分が生きてきたことを事実関係などにあまりとらわれずに、自分が生きてきた想いやプライドをストーリーにするだけです。波乱万丈もあれば、通り一遍の人生もあるでしょう。そんなことは問題ではありません。(見かけはどうあろうと、各自の中ではそれぞれに様々なものがうず巻いていたことを他人が推し量れるものではありません)結果的にそれがフィクションであっても良い訳です。そのお話しというコンテンツに価値をつけるだけです。

札束舞う山頂
何かコンテンツ化できるものがあるはずだ。

富の差を縮め コンテンツの価値の分散を

 素晴らしい文章で、感動や共感を生むようなものであれば、価値が上がりますし、ヘタな文章で平凡なものであれば価値は下がります。それは、そういう仕組みだと割り切りましょう。ここで何百万円というような価値を得られた方は、今ある現実のシステムでも十分評価されるでしょう。このシステムで大切なことは、現状でのシステムで「ゼロ」と評価されるものに、「ゼロでないプラスα」を見いだすことです。
「このおばあちゃんのストーリー、平凡でヘタくそだけど、20円で買っちゃう」的なプラスαです。実際、現状世界では、おそらく「ゼロ」でしかないものが「20円」になるとこです。あとは、このように評価した人たちが、100人、200人と「いいね!」するように集積されれば、それなりの金額がおばあちゃんに入ってくることになります。インスタグラムの〝人生ストーリー版〟みたいなものです。現実の商業システムでも価値がつきそうなものは、すぐに卒業してもらいます。おばあちゃんに良い書き手のお孫さんでもいれば、もっと高い値がつくかもしれません。人が持っているものをコンテンツ化するサポートシステムも構築していかなければなりません。
 これは、絵でも、書でも、手芸でも、生花でも何でも良い訳で、自分がもてるスキルを使ってできたもの。その作品にだれもが気軽に値をつけていくのです。売りたいけれど売れないし、売る場がない。自分の作品を大切に手元に置いておきたいという人も多いでしょうが、日々の暮らしのために糧に替えたいと思われている方もいるでしょう。困窮者の救いにもなれば言うことはありません。
 FBのマーク・ザッカーバーグみたいなイノベーターを待つか、各方面の賛同者を探してコツコツ拡げていくか、夢のようなシステムではありますが、貧富の差もさりながら、極端な〝価値の差〟をもう少し考えるべき時代だと思います。いくら素晴らしく、この世で無二の才能と言っても、たかが一個の人間の仕業です。一人で数百億円とか数百億ドルをもっててどうするものか。その価値を支えている無数の人たちが持っているコンテンツにも価値を分散させていくことが、これからの社会としても、文化としても求められることだと思います。みなさんいかがお考えでしょうか?

 このシステムの実現の前に、自分ストーリーに500円の価値をつけて、キンドル(KDP)システムに乗せてみました。一昔前なら、数百万かけて印刷本で自費出版という手順でしたが、幸いなことに、WEBの凡庸なスキルを持ち合わせていたこともあって、他人のサポート借りることなく、経費ゼロ円で出版することができました。後はどれほど読んでもらえるか、下駄を預けるばかりです。
(作ったが売れない。通り相場なんでしょう。誰かプロモーションできる方、ぜひ、ご協力くださいませ。)

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〝遊歩〟ハイキンググッズ10選・トイレ編

※その2、出したものは全て持ち帰る

●読本8:一人歩くときほど孤独より遠い

真田ケ岳620.7m (山口県)
真田ケ岳620.7m (山口県)

ひとりいる時こそ、もっとも孤独からへだたった世界である。 (エドワード・ギボン)

 この名言も、フレッチャー師の「遊歩大全」より拝借いたしました。
上巻・付録2にある「瞑想的ウォーカーのための名言集」に収録されていたギボンの言葉です。東西の哲学者・文学者・詩人・科学者・政治家・偉人、広範囲にわたる先人たちの言葉から〝ウォーキング〟の根っこに連なっていくような金言・妙言を集めたものですが、どの言葉にも、心に響くような共感があったり、深く納得するものあって「なるほど」と膝をうったりします。この撰集からでも、フレッチャーの〝深化した歩き〟〝解放された歩き〟をたっぷりと感じることができます。
一人いるときほど孤独より遠い」この言葉には、誰しもが思い当たることがある筈です。独り自分だけの時間の中でひたっている時のあの充足感です。一人でコーヒーを飲んでいる、音楽を聴いている、景色を眺めている。何かに心を預けたまま己が解放されている状態でしょうか。それはうら寂しい孤立感とは、ほど遠いものです。逆に、大勢の人に囲まれていても、にぎやかにコミュニケーションをとっているような時でも、フト自分が見えなくなって、時には激しい孤独感に襲われることがあります。
 ギボンは独り歩いているときに感じたのか、それとも書斎で物思いにふけっているときに、このような一人の世界を味わっていたものか不明ですが、コリン・フレッチャーにとっては、広大なウィルダネスの砂漠地帯を粛々と歩いている時に、または、漆黒の闇の中で、チラチラと揺れるキャンプの火を独り見つめている時に、ヒシヒシと感じていた至福の境地であったことは間違いのないことでしょう。
 孤独感とか孤立感は、自立を意識しはじめた思春期において、何かと心を騒めかせ、悩ませるものです。私の場合もそうですが、大勢の人に囲まれて中で感じる孤独感にどう対処していこうかと思い迷うことがありました。いわゆる社会的孤独というやつです。今の時代では「私はどうあれば良いのだろう」とあがきながらSNSの大海をさまよっている人も多いと聞きます。これを上手く乗り越えていけるかどうかで、その人の将来に大きい影響もたらすことになります。次のような(心理学的)対比からみていきましょう。(※青年期における孤独感の構造 落合良行 著を参照)    

1、孤独をどう見るのか(自己の存在の仕方)

ひとりでいることを紛らわしたい孤独とは人間の真の姿だ
ひとりだと思うと不安で怖いひとりということに優越感を感じる
孤独とは悪魔だ孤独とは人間の真の姿だ

2、共感についての感じ方 

他人は私を理解してくれない私を理解する人は何人かいる。
私の悩みを分かる人はいない悩みを分かってくれる人はどこかにいる。
イラスト by 四万十川洞安

 左は、マイナス思考の人、右はプラス思考の人だと考えれば、よく対比が見えます。要は、孤独に苛まれたくない、逆に、孤独愛にも溺れたくないと、考えるなら〝プラス思考〟で生きていけば良いのですが、これがなかなかに難しい。スイッチを切り替えるように簡単にいくものではありません。
 独りでいるときの快い孤独感、頭ではそういうのもアリだな、と思っても若いうちは、それがどんなものかが掴みにくいものです。「私はひとりきりだ〜」体の奥底から湧き上がってくる、その充足感というものをしっかと受け止める、というのは、禅坊主のような一種の悟りの感覚に近いものだから、若い人から〝その感じ、よ〜く分かります〟といわれても、「ホント〜?」と何かしっくりとは納得ができないところがあります。そう言うと年寄りの不遜と思われてしまうかもしれませんが・・・

孤独とは人間の真の姿だ

 言葉を絞ってみると、ひとつは「孤独とは人間の真の姿だ」というところでしょう。決して孤独は悪魔ではなく、それを踏まえて生きていくことが、社会性にもつながっていきます。人は争いや不幸があったり、病気や挫折、トラブルにあったりしながら、少しづつ〝孤独=真の姿〟をかい間みながら歳を経ていきます。中には、若いうちから本能的に〝孤独=真の姿〟を嗅ぎとっているような人もいるでしょう。
もう一つは〝独り〟だということを自分のどこで受け止めているのだろうかという点にあります。小理屈や座学という観念ではなく、身体、目や耳、手足や皮膚など自身の身体で体感できていなかったのか、体幹の芯までとどくような経験に欠けていたのかもしれません。観念的というか感傷的な甘ちゃんのまま、そういうチャンスや体験を齢30半ばまで持ち得なかって、それからの反撥が、突然の山狂いにつながったのでしょう。〝山を歩く〟という身体性を通すことで、しっかりと孤独と向き合うこと中年になってから、せっせとやり直したものと思います。 

防長百名山・大高神山 647.2m(山口県)からの日の出

 生きるということは所詮、自然との格闘です。それを抜きに他人や社会との格闘はありえません。土・水・風・雨・木々・花・草・石・岩・星・虫たちと交感し、自然とトコトンやりあって、それを自分の体でしっかり受け止めていくことが欠けていた、もしくは充分でなかったのでしょう。〝真の姿である孤独〟を求めて、いい大人が、あてどもなく山中をさまよい、ひとり谷奥で蛇やイノシシに怯えながらキャンプし、冬の山上でテントなしで夜をあかしたり、水も食べ物も持たずに樹林にこもったりしながら、子供の時のような体験を通して自然なるものと格闘していた訳です。〝自然に向う〟ことで多くの生きる知恵や元気を授かりました。自然と対決しているのではなく、自然に包まれていることも学びました。そういうところでも六甲山は父であり母だったのだろうと感謝している次第です。
 男の冒険譚? おとこのロマン? 〝孤独〟のおはなしは女性陣からは、「ただのお遊びでしょ」と、冷たくスルーされるのがオチですが、もともと女性の方が本質的に、孤独な存在だと思われます。そうでないとあの深い母性と共生・共感能力は持ちえないのだと、甘ちゃんの私としては、確信しつつ、冒頭の言葉を男性陣にむけて贈りたいと思います。

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キンドル出版におきまして、
山端ぼう:著つたなき遊歩・ブラインドウォーカー」が出版されました。定価¥500

遊歩大全をバイブルとして六甲山を巡り歩いた老いた遊歩人とブラインドサイト(盲視)という不思議な能力をもつ全盲の青年とが、巻き起こすミステリアスな物語です。 続きは・・・

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〝遊歩〟ハイキンググッズ10選・トイレ編

※その2、出したものは全て持ち帰る