没入の境地!自然薯掘り

時間を忘れ、ひたすら掘り進む

初めての天然山掘り・没入のごとし

 田んぼの収穫が終わって一段落つけば、次は芋掘りと相場が決まっていました。芋掘りはサツマイモが多いでしょうか。山芋が好きな人は年末年始用のグルメ食材をと山に入って、秋口から狙い定めていた自然生(自然薯)を掘ります。そして、手があいた時に秋冬野菜の種も蒔いておきます。
一般的な農家のライフスタイルなら、「刈ったぞ 掘ったぞ 蒔いたぞ」という具合なのですが、山頭火におきましては、次のような句になっています。

 刈るより掘るより播いてゐる

「貧農生活」という表題もついてあるところから、まあ、のんびり楽しくしたためた句という訳にはいないのでしょうか。句評にもこうあります。
「稲も刈りました。薩摩芋も掘りました。それをすぐさま口にする余裕はありません。汗をぬぐい水を飲み、直ちに次の作物の種まきにかからなくてはなりません」貧乏暇無しの言葉が切実に響く時代だったのでしょう。「貧しい農夫、農家を案じています」と・・・。

 友人のM君が、初めて天然の山掘りに挑戦いたしました。
何処を掘るかは、それぞれに技や方法があるようですが、ともかく葉が黄化し始めた頃は、遠目でも黄金の滝のように見えますので自然生の群生地は簡単に発見できます。その頃に葉形やツルの太さ、そして零余子(むかご)採りながら良く形状等をチェックしておきます。
葉形は細長いハート型が真芋に近く、横太りのアゴの張ったハート型(トランプのハートに近いもの)は、毒性のあるオニドコロの場合もある。その違いは「野老(ところ)と自然薯」の項目を参照下さい。能面写真の左の葉が自然生(自然薯)で右の葉っぱがオニドコロです。一番、確かな区別は、自然生の葉は対生でトコロは互生です。
 ツルの太さは、太いほど大きな芋が出来ている可能性が高いのは当然です。褐色でこじんまりキュッと艶のあるムカゴを付けているのは美味しそうです。長芋のような大きい艶のない灰色のむかごのツルには、それに相応した山芋が育っていると想像できます。

 山芋掘りは、実に面白いプロセスを体現させてくれます。男性の狩猟(収穫)本能をかき立てるのかも知れません。単に山芋を掘るのでなく、「折らずに穫りたい」というような作業美学も加わってしまうと、数倍の労力を費やして馬鹿でかい穴を何時間もかけて掘り続けます。
子供らと一緒の時は、子らはとっくに飽きて違う遊びをしている中、父さんは黙々と掘るというような事になる。この没入の境地に到るプロセスを見事に体現させてくれるのが山芋掘りです。
 自然薯やむかごをよく詠む高浜虚子に

 鵙高音 自然薯を掘る 音低く

 という句があります。実にそのプロセスをよく描いています。モズが、チチィー!と鳴いている場面を切り取った一瞬と、ズシッという土を削る音との対比からは、静かな山中の穴掘りの長い時間をも感じさせます。

■人物歳時記 関連ログ(2021年追記)
小説「吾輩は猫である」自然薯の値打ち(夏目漱石)
小説「坊ちゃん」の正体・・・(弘中又一)
零余子蔓 滝のごとくにかかりけり(高浜虚子)
貴族・宮廷食「芋粥」って?(芥川龍之介)

■読本・文人たちに見る〝遊歩〟(2021年追記)
解くすべもない戸惑いを背負う行乞流転の歩き(種田山頭火)
何時までも歩いていたいよう!(中原中也)
世界と通じ合うための一歩一歩(アルチュール・ランボオ
バックパッカー芭蕉・おくのほそ道にみる〝遊歩〟(松尾芭蕉)

●わが裏庭にもホタル舞う

表六甲山のホタル調査
上の画像は寄せ集めたイメージです。


 山口県はホタルに恵まれています。周南市の里地里山にもたくさんホタルの生息地があって、シーズンともなれば各所で「ホタル祭り」が開催されます。まあ極端に言えばどこの渓流にも川辺にもこの愛らしい生物は居るようです。拙宅の庭にもたくさん訪れてくれます。
 窓越しに可憐な輝きの軌跡を楽しむことなど、神戸で暮らしていた頃には考えもつかないことです。阪神大震災前の数年間、六甲遊歩会のメンバーが趣味を兼ねて、六甲山系の渓流の水質調査を行っていました。ホタルも水環境の一つの指標なので「この際、絶滅したと言われる天然のホタルがこの表六甲山(南面)にて生き残っているものか?」という興味も手伝って、数シーズンにわたってホタル調査を行いました。
(※なお、裏六甲の山麓には、まだ里山が広がっており、ホタルの生息地は各所に残っています。この調査の前年に、兵庫県自然保護協会のホタル調査で参加いたしました。まだまだホタルの群生を見ることができます)

 神戸という町は、切り立った山岳が、ある地点から急に都会(大概は住宅地)となります。中間となる緩衝帯が無いのです。この里地・里山的な中間点がないところが、六甲山系と向き合う時のポイントで、都市と山岳が直に向き合うという希少な関係は、他に余り類を見ないでしょう。布引渓谷をみればよく分かるでしょう。摩耶山系の多くの沢から集まった水流が、北側から回り込むようにゆったりと蛇行して、布引谷へと流れていきます。この長い渓流沿いの山道は、六甲でも有数の沢歩きが楽しめるルートとなっています。このコースのラスト部分が有名な布引滝の瀑布になっています。しかし、山の中という気分で自然を楽しむことができるのはここまでで、この滝の数十メートル先には新幹線・新神戸駅がこの渓流をまたぐように駅舎をかまえ、あの多様な姿を見せていた渓流も完全にコンクリートで整備された大きな用水路へとあっという間に変身してしまいます。
 途中に、田んぼや畑もなく、里山へと分かれていく水路もないので、水生生物の生息場所は失われてしまいます。このように都市部の河川はほぼ完全にコンクリで護岸されていますから、ホタル生息可能な場所は、山系の沢の入り口周辺に限られます。六甲山系の渓流の多くは基本的に急流で、ヘイケボタルヒメボタルの生息にはむいていませんが、砂防ダムで土砂が堆積して流れが緩む周辺でしたら、沢の上流にも生息地はあると考えられます。
 という訳で、4年間程、天然のホタルを探して、週末は夜間遊歩と称して山仲間を集め、時にはキャンプをしながら、ワイワイとホタル酒などを味わいつつ、平日は、仕事帰りに、そのまま六甲山の沢へ直行したり、5~7月はすっかり夜行性タヌキのような暗闇遊歩にハマっておりました。

 下水処理の水質の一つ指標として、神戸市の下水道局でホタルを試験育成している試験所があって、この事が話題となり、この養殖ホタルを活用して神戸の河川でのホタル復活を実現させようという活動が、盛んになった頃です。ホタルの生育環境を整えて後に、カワニナ(ホタルの幼虫の餌になる貝)と幼虫を放流すというような正攻法から、イベントの出し物で「ぱーっと」千匹近い成虫を川辺に放つというよな邪道まで、いろいろあったようです。こんな思いつきのイベントであっても(以前より環境が改善されていれば)稀にその環境で繁殖して、定着する可能性もあります。
 こういう事情もあって、ホタルを見つけ出すことと、苦労して発見したホタルが昔からの天然ホタルなのか、放流によるものなのかを見定めることも調査の一環となりました。どこまでを天然だと言えるのか? 人工繁殖したものなのか?・・なにやら虚しいアリバイ(不在証明)をしているようでした。元々は〝自分探し〟のために始めた六甲遊歩のようなものですから、これはこれで、天然のホタル(在るべきホタル)を探しつつ、その正体を見極める作業は、二重の焼き込みのようで、自分を掘り起こしていく上には、良いテーマだったと思っています。(調査の結果報告に関してはカテゴリー「遊歩資料アーカイブへ)

 夕刻、有馬温泉側から沢に入り、山越えをして、深夜の表側の沢を下って帰る。暗闇の中、ワイワイと複数で歩くのは楽しいものですが、これが一人になると途端に心細くなってしまいます。じめついた足元の不気味な沢で、蜘蛛の巣を払いながらの足取りは、怖さですくむこともあります。泉鏡花の「高野聖」のような気分です。四方八方に妖怪の気配を抱えて進んでいく訳ですから、どこかでドラマのような霊的な出来事が起きるのではないかとか、沢に転がり落ち下山できなくなるとか、戦々恐々です。それも、今となっては楽しい思い出となっていますが・・・。

★今まで眠らせている六甲遊歩の記録や資料類を、これを機にこのブログへ引っ越しさせようと思います。資料的には古くて価値も消耗しているものと思いますが、関心のある方は、カテゴリー「遊歩資料アーカイブ(11月に引っ越し)から訪れて下さいませ。

田植唄もうたはず植ゑてゐる

娘たちとの田植え

移住風景断片
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 土曜日、娘たちと一緒にじいちゃんちの田植えを手伝った。
本当はもう少し前に、植え終えてしまいたかったらしい。私の休日に合わせて、小生がへこたれない程、一反弱のたんぼを残してくれていたというのが正しく、手伝いというよりは小生のこの時期の田舎暮らしのステージをわざわざしつらえてくれたのが実態のようです。
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 土や泥にまみれて生きることを体験しながら育っていない小生には「田植え」という風景に、のめり込むような憧憬を感じます。大げさにいえば本邦の文化の根底ある風景のように感じています。美しく、豊かなイメージです。テレビや古い映画に出てくるような大勢の百姓さんや田植え唄に彩られた楽しい情景なのです。
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 今どき、早乙女や田植え唄に出会うことなど希有ですが、時折、ワイワイと10数人で田植えしているグループを見かけます。昼時などは、田んぼの横でピクニックのような楽しげな食事風景を見るとほのぼのしてきます。田植えはこうじゃなければ・・・と。
残念ながら、近所で見かける田植え風景は、寂しいものばかりです。多くても夫婦二人(それも高齢の方)で、大概は一人で黙々と作業していいます。賑やかなものとは縁遠いものになっています。

種田山頭火行乞記で・・・・
このあたりも、ぼつ/\田植がはじまつた、二三人で唄もうたはないで植ゑてゐる、田植は農家の年中行事のうちで、最も日本的であり、田園趣味を発揮するものであるが、此頃の田植は何といふさびしいことだらう、私は少年の頃、田植の御馳走――煮〆や小豆飯や――を思ひだして、少々センチにならざるを得なかつた、早乙女のよさも永久に見られないのだらうか。

と記して、
「一人で黙つて植ゑてゐる」「田植唄もうたはず植ゑてゐる」などという句を残していますが、小生も全く共感します。
 山頭火の時代から半世紀以上経って、現代では田植え唄はエンジン音に取り代わって、黙々と田植機を走らすだけの作業と変貌していますが、出来る限り、じいちゃん・ばあちゃん・息子・娘・孫など総出の楽しいイベントで在り続けたいものです。
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■人物歳時記 関連ログ(2021年追記)
小説「坊ちゃん」の正体・・・(弘中又一)
零余子蔓 滝のごとくにかかりけり(高浜虚子)
貴族・宮廷食「芋粥」って?(芥川龍之介)

■読本・文人たちに見る〝遊歩〟(2021年追記)
解くすべもない戸惑いを背負う行乞流転の歩き(種田山頭火)
何時までも歩いていたいよう!(中原中也)
世界と通じ合うための一歩一歩(アルチュール・ランボオ
バックパッカー芭蕉・おくのほそ道にみる〝遊歩〟(松尾芭蕉)

この道しかない春の雪ふる〜放浪の遊歩

この道しかない春の雪ふる 山頭火

この道しかない春の雪ふる 種田山頭火

 雪にあまり縁のない神戸に育った私には、たまに校庭等にうっすら積もった雪景色をみては、心躍らせて走り回った少年時代の記憶があります。雪には凛としたモノトーンの世界に引き込まれていく何とも魅惑的な緊張感があります。
 少年期の追想・追走でもあった「六甲山遊歩」においても、雪景色は憧憬そのものでした。たまの大雪で、背山が白く染まったのを市街地から見上げ、確かめるとそわそわと登山準備を始め、尾根道に足を向けていました。雪道にかかり、シャキシャキと雪を踏みしめ、見渡す限りの白い世界に紛れ込んでいく感覚。弛緩とは真逆のこの緊張感の奥の方で、日頃では感じ得ない心が躍り、弛み、ほぐれていく様、そのコントラストと落差が何とも楽しいものでした。

 今朝の散歩で、この感覚を久しぶりに思い起こしました。この地で田舎暮らしを始めて、霜や雪はさほど珍しいものではなく、生活の中のひとつの風景となっていましたが、昨日からの季節外れの大雪、あぜ道の雑草の上に覆い積もったシャーベットのような春雪を、シャキシャキと長靴で踏みしめていると…、そのリズムにつられて犬共々に躍るように夢中に走り出してしまいました。

 タイトルの句は、この少年のような小生の躍るような気持ちとは違ってピリピリと切羽詰まっている。おそらく、私が山頭火の「歩き」の中で見たもので、「雪」ほどエモーションが遠く隔たった風景はないでしょう。

生死の中の雪ふりしきる
安か安か寒か寒か雪雪

 安住と乞食の旅の迫間に広がる雪景色、「解くすべもない戸惑いを背負い、旅そのものが彼の生でありまた死であった」彼には、受難のモノトーンの世界でしかないようです。
幸か不幸か、戸惑いをほぐすことが出来るこの地に巡り会えた小生には、それは<原郷>という錯覚であっても、雪は雪です。多彩なリズムと色に彩られた魅惑的な景色であり続けているようです。

■山頭火の〝解くすべもない惑ひ〟を打ち払うために、やむなく己を放り出すような乞食流浪の〝歩き〟を辿ってみました。→[先人たちにみる〝遊歩〟]

ひとアイコン
 ●あてのない行乞流転の歩き「種田山頭火」
 ●どこまでも散歩大好き「中原中也」
 ●謎めいた大歩行「アルチュール・ランボオ」
 ●覚悟のバックパッカー「松尾芭蕉」
 ●傑出したご長寿百歳遊歩「葛飾北斎」
 ●バイブル遊歩大全「コリン・フレッチャー」
 ●孤高の人を追って・・・「加藤文太郎」

■人物歳時記 関連ログ(2021年追記)
 ・小説「坊ちゃん」の正体・・・(弘中又一)
 ・零余子蔓 滝のごとくにかかりけり(高浜虚子)
 ・貴族・宮廷食「芋粥」って?(芥川龍之介)

「ストップ温暖化!一村一品大作戦」特別賞!

ストップ温暖化 一村一品 大作戦(於:東京竹芝ニューピアホール)

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「太古の友が兆す私たちの未来…」というテーマで参加させていただきました全国大会の結果報告です。
やりました!トロフィー付きの大きな賞は逃しましたが、「サステナ」代表のマエキタミヤコさん(写真左端)より、もっとも自然生山芋には相応しい「生物多様性賞」を推薦いただき授与されました。
応援をいただきました皆様には御礼申し上げます。

さっそくのところ、いろいろと反響をいただき対応に右往左往しています。
この取組みを含め、1000を越える団体から選ばれた各県代表のプレゼン、取組み内容には本当に関心する集めるような取組みばかりですが、この全部、47代表のプレゼンを半日かけて、見続けることはかなりの難行、疲れ果てることは必至だろうと、どこかでご免して、中座をさせていただく予定でしたが、涙有り、笑い有り、驚き仰天、心を動かしてくれるプレゼンが次から次へ、何とあっという間に終わってしまいましました。
「疲れるどころか元気をもらった」という声は、審査委員からも多数出ましたが、私たちも同感でうなづくばかりでした。
週の前半「スーパートレイドショー」に参加していた同行者の一人は、欲の渦巻く見本市とは、疲れ方が雲泥の差と、この大会の心地よさを振り返っていました。
いろいろご紹介したい話がありますが、それはおって報告いたします。

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夏目漱石「坊ちゃん」の正体…

▲湯野温泉郷に流れる夜市川のほとりに建てられた坊ちゃん先生の像

 早くも来週は12月(師走)。12月にふさわしい人物歳時記の題材を探しているとき不図、思いついたのが〝師走〟の走り回っている〝師〟とは誰・・・? 今月はひとつ〝師〟で真っ先に思い浮かぶ〝先生〟に因んだ話題をと思い、周南市の湯野温泉郷出身の「坊ちゃん先生」こと明治の教育者「弘中又一」を取り上げることにしました。

 自然生山芋の生産地の一つでもあり、古くから湯治で名の知れた温泉郷「湯野」、癒しの湯と健康食材の自然生山芋がよくマッチして現在特産・地域ブランド化が進んでいます。この集落の傍を流れる夜市川のほとりに、温泉街とは少し拍子(トーン)の異なった「釣りをする坊ちゃんの像(上の写真)」なるものがあります。この像が、湯野出身で「教育は王道なり」の言葉をのこし、近年、教育者としての生涯に評価を高めている「弘中又一」の少年時代の姿だそうで、彼を顕彰するために作られたモニュメントの一つです。やや山手の高台には、彼がのびのびと少年時代を過ごした生家と、没後、故郷での供養のために設けられた墓所があり、その近くに記念公園も作られています。

 弘中又一は、同志社を卒業後、明治二十八年愛媛県の松山尋常中学校に教師として赴任しました。その日の夜に同じく同年に赴任した夏目金之助(漱石)の訪問を受け、その後の長い交流がはじまったといわれます。
 当時の生徒からは、童顔からの印象なのでしょうか、「ボンチ先生」(ボンチとは松山地方でぼっちゃんという意味)と呼ばれていたそうです。互いに一年で松山中学校を去りますが、当時の学生達の数え歌に残るような個性的な名物先生ぶりだったようです。

 「一つや!一つ弘中シッポクさん」
 「七つとや!七つ夏目の鬼瓦」


 シッポクを四杯も平らげ、それを教室で生徒からからかわれた騒動を皮肉られたものらしい。その他「赤シャツ」や「鈴ちゃん」など小説「坊ちゃん」に登場するモデル達もこの数え唄の中で歌われています。

 よく「坊ちゃんのモデルは誰であるか、夏目自身なのか?」と取り沙汰されますが、今では弘中又一説が一般的です。
 弘中自身も後年の手記に「主人公の坊ちゃんにしても、夏目自身のこともあり、僕のこともある。夏目と僕とは、毎日の出来事やら失策を互いに話しあって笑い興じることが多かったので、自然に二つが一緒になって一つの坊ちゃんが作り上げられているように思う。ただ、渡辺君(山嵐のモデルといわれる)は夏目とあまり交際がなかったので、山嵐相手の坊ちゃんは、僕である」と記している。

 松山中学から西条中学、そして徳島の富岡中学へ。小説家の羽里昌氏の「その後の坊ちゃん」によると、時の総理大臣・山県有朋の養子であった徳島県知事・山県伊三郎の激励のエピソードも紹介されています。
徳島でもよく生徒に慕われ、一目置かれる存在のようだった。当時の生徒の回想を綴った「小説『坊っちゃん』の其後」と題した記事の中で当時の名物先生ぶりがよく紹介されています。(次回に続く)
※主な経歴などは、月間「まるごと周南」2009年2月号から抜粋させていただきました。

 12月7日は『大雪』、22日は「日南の限りを行て、日の短きの至りなれば也」の『冬至』、冬の気配が現れてくる頃です。旧暦の『師走』の「師」は俗説の「恩師」でなく本来的には「御師」(神社の参拝を世話する人)のことのようです。


■人物歳時記 関連ログ(2021年追記)
小説「吾輩は猫である」自然薯の値打ち(夏目漱石)
零余子蔓 滝のごとくにかかりけり(高浜虚子)
貴族・宮廷食「芋粥」って?(芥川龍之介)

■読本・文人たちに見る〝遊歩〟(2021年追記)
解くすべもない戸惑いを背負う行乞流転の歩き(種田山頭火)
何時までも歩いていたいよう!(中原中也)
世界と通じ合うための一歩一歩(アルチュール・ランボオ
バックパッカー芭蕉・おくのほそ道にみる〝遊歩〟(松尾芭蕉)
傑出した〝ご長寿百歳遊歩〟(葛飾北斎

人物歳時記・高浜虚子(零余子蔓 滝の如くにかかりけり)

▲黄葉が始まった山中の自然生は、黄金の滝のように目に映ります。丸い子実が零余子(むかご)

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 現在、NHKで製作中のスペシャル大河ドラマ「坂の上の雲」(原作:司馬遼太郎)は、近代日本の勃興期に陸海軍へ身を転じた秋山兄弟と、近代文学に大きな影響を与えた正岡子規の旧制松山中学出身の三人の人物を縦糸に、その他に登場する多くの青春群像を横糸に描いたものですが、子規に係わって夏目漱石尾崎紅葉、そして弟子の俳人高浜虚子河東碧梧桐などの文人らも多く登場します。「柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺」という句で有名な正岡子規ですが、「ほろほろと ぬかご(むかご)こぼるる 垣根かな」という自然生にまつわる句を一つ残しています。(むかごはジネンジョの子実・10月の季語)
 この子規に兄事し俳句を学び、後に俳誌「ホトトギス」で俳壇を確立した高浜虚子においては、冒頭の句をはじめ、ジネンジョにまつわる句がいくつか残されています。きっと少年期から、山芋掘りに興じて、ジネンジョ(自然薯・自然生)や零余子(むかご)に親しむ体験があったのでしょう。

 零余子蔓 滝の如くに 懸りけり 
 黄葉して 隠れ現る 零余子蔓 
 零余子蔓 流るる如く かかりをり
 鵙(モズ)高音 自然薯を掘る 音低く

生涯、二十万句

 明治二十一年、伊予尋常中学に入学。一歳年上の河東碧梧桐と同級になり、彼を介して正岡子規に兄事し俳句を教わり、子規より虚子の号を受け、明治二十六年、碧梧桐と共に京都の第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)に進学。この当時の虚子と碧梧桐は非常に仲が良く、寝食を共にしその下宿を「虚桐庵」と名付けるほどでした。共に仙台の第二高等学校を経て上京、東京都の根岸にあった子規庵に転がり込みます。
 明治三〇年、柳原極堂が松山で創刊した俳誌「ほとゝぎす」に参加。翌年、虚子がこれを引き継いで東京に移転し俳句だけでなく、和歌、散文などを加えて俳句文芸誌として再出発させました。
 子規の没後、五七五調に囚われない新傾向俳句(山頭火はこちらの系譜)を唱えた碧梧桐に対して、虚子は大正二年の俳壇復帰の理由として、俳句は伝統的な五七五調で詠まれるべきであると唱え、季語を重んじ平明で余韻があるべきだとし、客観写生を旨とすることを主張し、「守旧派」として碧梧桐と激しく対立しましたが、碧梧桐の死にあたっては、嘗ての親友であり激論を交わしたライバルの死を悼む句も詠んでいます。俳壇に復帰したのち虚子つまり「ホトトギス」は大きく勢力を伸ばし、大正、昭和期(特に戦前)は、俳壇に君臨する存在になりました。
 昭和三十四年四月八日、八十五歳で長寿を全うされ、その生涯に二十万句を超える俳句を残しました。
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■人物歳時記 関連ログ(2021年追記)
小説「坊ちゃん」の正体・・・(弘中又一)
小説「吾輩は猫である」自然薯の値打ち(夏目漱石)
零余子蔓 滝のごとくにかかりけり(高浜虚子)
貴族・宮廷食「芋粥」って?(芥川龍之介)

■読本・文人たちに見る〝遊歩〟(2021年追記)
解くすべもない戸惑いを背負う行乞流転の歩き(種田山頭火)
何時までも歩いていたいよう!(中原中也)
世界と通じ合うための一歩一歩(アルチュール・ランボオ
バックパッカー芭蕉・おくのほそ道にみる〝遊歩〟(松尾芭蕉)

ふるさとは遠きにありて思ふもの?

室生犀星の愛したふるさとの犀川(フォトショで加工)

 先だって福田総理が食料自給率のアップに真剣に取り組むとの重大決意を発表いたしましたが、何やらサミット向けの宣伝臭い感もなきにしもあらずで、今ひとつピンとしない。というより、遠い将来の大切な事を見定めないまま、その場限りの施策でお茶を濁してきた日本の”農政”の負の部分を引きずるような気がします。もっと人の生き方までを突き詰めた理念ある農政を提唱しなければいけないのですが・・・。
東大教授の神野直彦氏の「ふるさと存続運動」の記事(日本農業新聞/論点)に共感しました。紹介したいと思います。

 「ふるさとは遠きにありて思ふもの」(室生犀星)この詩の一節が日本の近代化を象徴しているともいう。「ふるさと納税」にしても、仕送りはするが「ふるさと」を見捨てて、遠くで懐かしもうとしているものだ。と切り捨てている。
 今、あくまでも「ふるさとは近くにありて愛するもの」「近くにありて守るもの」という発想から着実に展開している北欧の「ふるさと存続運動」、特にノーマライゼーション(高齢者・障害者と健常者が助け合って暮らせる社会作り)や、クオリティ・オブ ライフ(人間的尊厳を保つ生活)が、掛け声もなくと静かに広がるスウェーデンでの「ふるさと存続運動」の本質的な理念を紹介しています。核心部分は原文にて・・・

 『運動を支える背後理念は地域が人間の生存に必要な資源を、いつも提供してくれているという信念である。それは人間の生存という営みが、生きている自然に働きかける農業を基本としていることをも前提にしている。つまり地域には人間の生存に必要な”生命の蓄積”としての自然資源が十分にあることを意味している。
農業は、地域の自然が語る言葉を理解する文化的行為である。文化(culture)とは大地を耕す(cultivate)ことである。農業では、地域の自然全体を体系的に理解しなければならない。
農業を通じて人間は自然を全体として学び、全体として世界がいかに機能しているかを考えようとする。そのため地域の自然とのかかわりが、人間の感性や人間の思考の在り方を形成する。』

 ちょっと抽象的で分かり辛いかも知れませんが、これを子育てにおいて説明したところは、我が身に置き換えやすいので目を通して下さい。

 『それだからこそ「ふるさと存続運動」を展開する北欧では、子どもたちが「人生のための教育」を学ぶことができる。とことろが、「ふるさと」を見捨てている日本では、子どもたちが森に足を踏み入れ、生命の誕生に感動することもなく、生きる川を目にすることもなく育っていく。もちろん、大地に種を蒔くこともない。
 自然が自然に異変が起きていることを語ってきても、日本の子どもたちはそれを理解することができない。地域の自然とのかかわりを通して、自分の生きている世界を全体として理解し、生きていく上で遭遇する問題を解決していく人間的能力は身に付かない。
「ふるさと」を存続することは、子どもたちを育てていくことでもある。北欧が子どもたちの教育に成功し、知識社会を築いているのは「ふるさと」を存続し、子どもたちが自然との会話が出来るからである』


 遠きにありて思ふ「ふるさと」そのものを持ち得なかった都市遊民の自分にとっては、お腹をえぐられるような痛みを覚えます。自らの「ふるさと」再生を含め、今生活を始めたこの地域の自然をもっと体験・体感でき得るよう頑張らなくてはとあらためて感じる次第です。

野老(ところ)と自然薯

左はヤマノイモ(自然生・自然薯)右がオニドコロの蔓葉と

 農業新聞の連載コーナー「やまけんの舌好調」にトコロ(野老)を食べた話が書いてあった。自然薯に似たトコロは苦くて食えない。イノシシも嫌がる山芋と言われ、一般的には「有毒なので食べるべからず」と記された資料が多い。中にはこの芋の根を細かく砕いて川に流し、魚を麻痺させて捕えるという漁法もあるとか。
 果たして、有毒といわれるトコロ(野老)にレシピなるものなどがあるかどうか気になって調べてみた。

 〝エビ〟を海老と書くのことに何の躊躇はないが、野老と書いて〝トコロ〟と読むのは非常に奇異で困惑する。エビもトコロも長いヒゲがあって、それを老人に見立てた、との故らしい。海老に比べ野老は馴染みが少ない。漢字変換にも顔を出さない。
 地方によって、古来からヒゲ根を正月の床に飾って長寿を願う風習があって「野老飾る」は季語にもなっているとのことだ。現代では専門語のような扱いで一般的に使われなくなったのは、海老は美味くてどんどん食べ、野老は不味くて食卓から遠く離れていったからだろう。

 この有毒とも言われるトコロですが、(まあ実際は強力な苦み、アクでお腹をこわすという程度のものだろうと想像しますが)この不味い(正確には苦い)トコロを食べる地方がある。前述のやまけんさんが食したのは岩手県で、東北地方にはトコロをじっくり灰汁で煮て水にさらし調理したものを愛食する方が多いらしい。苦みを楽しむ、味わう、やまけんさんも「美味しくない美味しさ」がとても大切だと言っておられます。
 この「美味しくない美味しさ」の重要性が何なのかは次回(食育編)にて触れるとして、「野老ばなし」あと二つだけ。

 此山のかなしさ告よ野老掘  芭蕉
(「真蹟懐紙」には「山寺の悲しさ告げよ野老掘り」とある)

 俳句の才がないので上手に味わうことができませんが、芭蕉が句に使うぐらいですから「トコロ掘り」はごく日常的な風景だったのでしょう。

 在原業平が野老(ところ)が多く生えているのを見て「この地は野老(ところ)の沢か?」と言った事が由来で「所沢」という地名が残ったという話はわかりやすい。(所沢市情報サイトより

 ★写真の左はヤマノイモ(自然生・自然薯)の写真です。
 簡単な見分け方→自然薯は葉が対生で、トコロ(野老)の類は互生です。
分類学上、日本には18種のヤマノイモ属の植物があってトコロと名がつく種もいくつかありますが、オニドコロ(学名;tokoro)がヤマノイモ種(学名:japonica 通称:自然生・自然薯)に葉の形が一番似ています。気をつけて観察して下さい。

■人物歳時記 関連ログ(2021年追記)
小説「坊ちゃん」の正体・・・(弘中又一)
小説「吾輩は猫である」自然薯の値打ち(夏目漱石)
零余子蔓 滝のごとくにかかりけり(高浜虚子)
貴族・宮廷食「芋粥」って?(芥川龍之介)

■読本・文人たちに見る〝遊歩〟(2021年追記)
解くすべもない戸惑いを背負う行乞流転の歩き(種田山頭火)
何時までも歩いていたいよう!(中原中也)
世界と通じ合うための一歩一歩(アルチュール・ランボオ
バックパッカー芭蕉・おくのほそ道にみる〝遊歩〟(松尾芭蕉)

卯月ノ壱/縄文・古代ハンバーグ?

縄文人の知恵??

 ハンバーグがならんだ食卓の前では、子供たちが「ハンバーグ(ぐ~と親指をたてる)パンにはさんでハンバーガー(が~!とライオンのまね)」芸人ギャグでふざけています・・・
 今では、世界中で愛されて食文化のグローバリゼーションの一つの指標ともなったハンバーガーですが、マクドナルド兄弟が始めた第二次大戦中の頃は、低所得者向けのステーキの代用品(もどき料理)として生まれた低級で不健康な食物と言われていました。
 ハンバーグ自体も、ドイツのハンブルグで流行ったからだ!とか、タタール人の生肉料理が原型だ!とか、大航海時代の帆船の中で生み出された調理方法だ!などなど起源が云々されていますが、まあ、一種のレトルト的な「もどき料理」だったかも知れません。ミートローフ、ミートボール、メンチカツへの自在の変身もOK!この軽快さも魅力の一つです。

 初期のハンバーガーに類似した保存食が、実は古代日本・縄文時代に作られていた!?という面白い話があります。考古遺跡から出土するものの中に「縄文クッキー」と呼ばれるハンバーグ状の炭化物が発見されることがあります。クッキーというよりハンバーグに近しいものような気がします。お肉は多分、イノシシまたはシカ?トリ? つなぎには当然ながら山芋が想像できます。実際にはどのような材料を使ったのか現在ではまだ特定されていません。という訳で今回ご紹介の「ヘルシーハンバーグ」は、もしかしたら古の”縄文クッキー”に限りなく近いものかもしれませんゾ。