●読本3:孤高の人・加藤文太郎を追いかけて

 昭和60年、ひょんなキッカケから六甲山に取り憑かれて(憑いて)おぼつかない足取りで、慣れない私の山歩きが始まりました。それは35歳の時でした。最初の一年足らずは、それに関する経験なり知識、装備グッズも乏しいままの、今思えば、場違いで、滑稽な〝歩き〟だったと自分でも失笑しながら思い出しています。いきなり高級レストランに作業着で入ってしまったような気不味さとでもいうのでしょうか。そう自分でも感じながらも、本人はセオリーや見栄えは二の次で、とにかく勇む足に引きずられながら、私は山へ山へと向かっていたようです。
 まずは有り合わせのモノ、手元にあるモノからはじめようと、リュックも小学校か中学校で使っていたモノを引っ張り出してみた。旧陸軍の兵隊さんが担いでいたようなラクダ色のキャンバス生地のリュックサックでした。靴も帽子もとりあえず今あるモノを使った。雨の日は、ゴムガッパと長靴という出で立ちでハイキングに出かけた。さすがに半時間も歩けば、外から濡れるよりも、内側からの蒸れの方が大変だと気づく有様だった。まあ、それなりの道具から趣味に入っていく人は、ビシッと揃えてから満を期して行動するのでしょうが、私の場合は、とにかく〝歩け〟と追い立てられるようなスタートでしたから、グッズの方はあとでボチボチと必要に応じて取り揃えていくことになりました。しかしながら、やはり靴だけは無頓着ではおれないと、山歩き用のシューズを探して、キャラバンシューズを買うことになりました。

キャラバンスタンダード
キャラバンスタンダード

登山靴ならキャラバン!

「山へ行くならキャラバンでしょう」という時代がありました。日本山岳会のマナスル登頂(S.31年)の成功から、大衆登山ブームに火がついて、植村直己らのエベレスト初登頂(S.45年)の頃には、私ら団塊の世代をはじめとする多くのアウトドア派が、野山に足を踏み入れるようになっていました。この山派の多くが、キャラバンシューズを履いていました。私の長兄や姉もこの靴を履いて、夏山登山やハイキングをしていた記憶があって、「山=キャラバン」のイメージがしっかりと焼き付いていました。マナスル登頂のベースキャンプまでのアプローチ用シューズ(軽登山靴)として、キャラバン社の創設者(佐藤久一朗)によって開発されたこのシューズですが、戦後、まだまだ娯楽の少なかった時代のレジャーシーンを華々しく彩った象徴的なアイテムといえます。
 それまでには登山靴って無かった? 日本人は一体何をはいて山登りをしていたのか?と、ふと考えさせるほどの一択品だったように記憶しています。「地下足袋の加藤」で知られる伝説的な登山家・加藤文太郎は言わずもがな、無積雪では地下足袋を使っていました。幕末の英人外交官アーネスト・サトーも登山好きで、革製釘靴で六甲山を登ったといういう記録があります。明治〜大正期では、外国人が使った鋲打ちの革靴は、重いとかオーダーメイドで高価なこともあり、日本人の多くは慣れ親しんだ草履を登山でも使っていたようですが、すぐに履き潰れることもあって、長い縦走などでは何十足もの草鞋(わらじ)が必要だったようです。俳人の河東碧梧桐ら文人たちによる日本アルプス縦走(針ノ木峠〜槍が岳)では150足もの草鞋を人夫に担がせたという紀行文も残っています。やはり、キャラバンの登場まで、専門登山家以外の一般ハイカーなどにとっては、山専用の靴はやや縁遠いものだったかもしれません。
 私がキャラバンを初めて手に入れたのが、キャラバン誕生から、時代が30年ほど下った頃で、すでにこの辺りなると、国内外のいくつかのブランド品が、目的や多様なニーズに合わせたシューズが出始めていました。現在に至っては、アルパイン、マウンテニアリング、バックパッキング、トレッキング、ライトトレッキング、ハイキング用と百花繚乱、さらには通勤用トレッキングシューズなるものも平然と並んでいる。モノへのこだわりの薄い私は、通勤用であろうと、散歩用であろうと試履でピッタリくればそれでOK。おかげで靴箱は山用シューズで溢れてれていましたが思い入れの深いシューズは、はやりキャラバンスタンダードでしょうか。

長い稜線が続く
長い稜線が果てしなく続く

●六甲全山縦走(レジェンドの足跡)

 話を元に戻して、キャラバンは履いたものの、麦わら帽やゴムガッパで、六甲山を歩いていた私の最大の目標は、この山系の西の端から東端までの尾根を歩き続ける〝全山縦走〟でした。ここに気が向いたのは、この年の初めに何気なく読んだ新田次郎作の「孤高の人」がキッカケとなりました。この小説の主人公が先にふれた地下足袋の青年・文太郎です。兵庫県北部・浜坂町から技術者になるべく神戸にやってきた彼が、地図遊びをはじめ、山歩きというものに目覚めて、一人で歩き出しのが、まず、裏山であった高取山(長田区)でした。そして、その足先が六甲の峰々へと広がって、とり憑かれたように山々や道々をかけ歩くようになりました。
 この山系の縦走路(50数km)、西の塩谷から東の宝塚までは、一日で歩き通すことも大変な距離ですが、それをさりげなく完走したのち、そのまま市街地を徒歩で自宅まで(計100km超)帰っていったという伝説を残しています。その歩きの速さの凄さもそうですが、私が惹かれたところはその〝歩き〟の独自性です。普及品の少ない大正時代にウエアや靴、装備品、携行食などを様々な工夫で機能性を追求していったその手作り感にあふれる歩く様が何とも心地よく私に共振しました。初めての北アルプスで、作業着、地下足袋、古ズボンにゲートルの文太郎は、洋風アルピニスト風の関東学生登山者に笑われるシーンがあります。アルピニズムの萌芽期の大正時代、日本にも勢いよく西洋の技術や装備を導入されていましたが、そういった流行や風潮にも振り回されることなく、自分の体感と経験を土台にして、山に立ち向かっていきました。その自己流を貫いた独創的な〝一人歩き〟に私はたまらなく惹かれました。文太郎は、山という自然に立ち向かうと同時に、彼の深く裡に向かって〝歩き〟を生み出そうとしているように思われました。私も当初は、訳も何も分からない状態で歩きだしましたが、この〝歩き〟が自分への内に向かっていくものだろうという予感がありました。そういう意味でも、自分の足で文太郎の足跡を〝トレースしたい〟と無性に希求するようになりました。

●なぜ山へ登るのか?

人はなぜ歩くのか?llustration by 四万十川洞安
    llustration by 四万十川洞安

 当時の学生登山会や社会人登山会でも、天狗と称された彼の〝速さ〟には付いていける者はいなかっただろうと言い伝えられています。ましてや、中年にさしかかった俄かハイカーの私の脚力では、到底のところ届くはずもなかったし、冬山への扉を叩くまでも至りませんでした。しかし、六甲山における彼の足跡とその気配を追っかけることで、一から自分の歩きを作り出していくという単独行者(アラインゲンガー) の気概は、十分に学ぶことはできました。
 小さな沢筋を辿って、そこそこの滝に出くわす、「さて、岩に取り付いてそのまま登るか」または「サイドを巻いて滝上にでるか」いっそ「尾根に逃げるか」文太郎だったらどうしたのだろう。ここでどんな行動食を取ったのだろうか。冬のノーテントキャンプでも、雪洞で眠る文太郎をイメージしたりした。全山縦走にも文太郎のような周到な計算を立てた。まずは、下見を兼ねて全縦走路を三つに分けて歩いてみた。その都度に、レモンや蜂蜜を入れた水の工夫や炊き込みの握り飯、野菜サンドなどの行動食も工夫したり、雨具や装備、ウェアなども選分していきました。
 30数年もこの六甲の山麓で暮らしておきながら、子供の頃から見上げていたほとんどのピーク名を言えなかったことが情け無かった。小説に登場してきた須磨アルプス? 鍋蓋山? 石の宝殿? 水無山? 塩尾寺? 六甲の山々は、母のような慈愛の眼差しを、麓の住人たちにそそいできたはずだろうに・・・。私は申し訳ない、気恥ずかしい思いをいっぱい抱えながら、その峰々をつたない歩きで探し求め、ひとつひとつのピークに後追いの足跡を重ねていきました。
 そして、半年後に何とか六甲全山縦走に挑戦、なんとか完走する(所用時間16時間40分)こととなり、文太郎の足跡トレースは一段落することになりました。しかしながら、一人悶々と「なぜこんな風に〝歩き〟に魅入られているのだろうか?」という自らの内に向かう思いだけは、ますます膨らんでいくばかりでした。小説の文太郎においても、いく度も「なぜ、山へ登るのか?」と自問は繰り返されます。

 なんのために山に登るのかという疑問のために、山に登り、その疑問のほんの一部が分かりかけたような気がして山をおりて来ては、そこには空虚以外のなにものもないのに気がついて、また、山に行く・・・この深いかなしみが、お前には分からないだろう〈新田二郎・孤高の人より引用〉

 私においての〝歩き〟も全く同様でした。「なぜ歩くのか? その答えを求めるためには、ただ歩く他に術はなかった」〈遊歩人日誌より〉

神戸市・須磨アルプスに残る旧全山縦走路(文太郎道)
     神戸市・須磨アルプスに残る旧全山縦走路(文太郎道)

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●読本2:幸せは〝歩き〟の距離に比例する?

愛用のソロキャンプ用のグッズ

〝歩き〟の二つの顔

「成功は、移動距離と比例する」という惹句と出会うことがあります。〝幸せ〟の部分を、成長・発想・運気とかいう言葉にも置き換えても使われます。どれも、尤もだと納得してしまいます。その人が持っていた意欲とか努力とかを単純に〝移動距離〟という言葉で置き換えたものでなく、実際に自分の身体を体感をもって移動させることの重要性を示していると思います。
 現代のビジネスシーンにこの言葉を当てはめてみましょう。インターネットや通信機器を使えば、仕事場や部屋に閉じこもったまま、情報を収集・操作・発信ができますし、人との交流や交信に困ることはありません。そういう風に移動距離が限りなくゼロに近い方法で、成功したり、成果を得ている人も数多く居られるでしょう。こういうスマートでクールな仕事のやり方ができるのに、わざわざ自分の身体を〝移動〟させることにどんな意味や価値があるのでしょうか? わざわざ汗をかいてまで、あちこちへと前時代的なスタイルであちこち動き回るアクティビティの必要性は何なのでしょう?
 そこには多くの体験者が語っているように、部屋でパソコンやスマホ相手にじっとして動かずにする仕事では、得られない何か重要で貴重な要素がたくさんあります。 飛行機や新幹線で(バスや電車でもいいですが)飛び回って、移動距離が増えれば、その分リアルな情報や、現在進行中のあるがままの環境とも数多く触れ合うことができるでしょうし、生々しい刺激や活き活きとした交流も増え、様々なチャンスやモチベーションが芽生えます。また、風景が変わっていくことで体感そのものもリフレッシュされて、感性を開放したり、発想を転換したりする自由さも得ることができるでしょう。と言っている点です。つまり、動き回ることによって、自分がやろうとすることと、外の世界をすり合せていくことで、今という時代と、それに触れ合っている〝生の自分〟を体感できるところに、イノベーションが生まれ、それが成功への強いモチベーションとなっていくのでしょうか。ひとり自分のお尻にムチ打つのではなく、世界の変化、社会の動き、人々の流れなどを巻き込んで、その勢いで突き進んでいくという力強さでしょうか。

 逆に「リスクは、移動距離と比例する」とも言えます。当然ながら部屋でじっとしているより、外に出て、車や飛行機に乗って動き回れば、事故や事件、環境への不適合など多くのリスクが待ち構えています。最悪の場合は、幸せや成功とは真逆な結果もあり得ます。移動距離は不幸とも比例しているのです。しかし、「じっと家に居れば、事故に遭わずに済んだのに」と言ったり、「あれだけ動き回ったったから、今の成功があるのだ」とか言うのも、共に結果を見てからの台詞です。
 その前に考えておきたいことは〝結果〟そのものではなく〝移動〟そのものにあります。この読本では〝歩きという移動〟がテーマになっていますので、ビジネスシーンと違って、成功とか成果に直接に至るものではありませんが、個人の〝生き方や幸せ〟ライフスタイルに、深く関わっていることは間違いありません。今まで、さんざ頭を悩ませ、考えさせられた〝生き方や幸せ〟に比べて、とんと見向きもされなかった〝歩き〟ですが、この〝歩き〟が本来的に持っている魅惑的な力は、人生を彩るものとして大きな要素となります。

幸せは、歩きの距離に比例するのか?

illustration by 四万十川洞安

 ちょっと禅問答のようで、理路整然とうまく説明ができないですが、ここから皆さん騙されたと思ってまずは〝歩いて〟みましょう。
 まずは、閉じこもっていた家から、一歩を踏み出してみましょう。玄関の扉を開けて表に出ると、部屋では感じなかった空気の流れと出会います。冷ややかさに肌が反応して、凛と身体が構えることもありますし、爽やかな温かさで気が和らぐこともあります。または、花粉ぽい風や臭い排気ガスで気を削がれるかもしれません。そこでちょっと空を見上げて見ましょう。もう朝日が高いところまで登っていて、ジリジリと陽光が降り注いでいれば日傘を、重い雲が下がっていたなら雨傘を手にして出発です。ぶらりとあてどもなく散歩をはじめても良いですし、お買い物や図書館など、目的地を設定してそこへ向かってもかまいません。仕事のある方は、いつものように職場への出発でも良いでしょう。私もサラリーマン勤めが長かったので、それを例にして平日の一日の足跡を追いかけてみましょう。
 大抵は、バスや電車の時間に追われてバタバタと停留所や駅まで歩いて行きます。車内では押し合い圧し合いの有様をじっと見つめるか、車窓から流れる風景をぼんやりと眺めているかです。窓際なのか、人ゴミの真ん中なのか、車内のポジションででそれは決定してしまいます。下車した後は職場まで、またまた早足で歩いていくのですが、勤務現場に近づいてくると、少しずつ緊張感が高まってきて、自然に気合が入ってきます。さながら、戦場に向かう兵士の歩みのように戦闘モードに突入するのです。この気持ちの作り方は特に意識したものでなく、日々の繰り返しの中でルーチン化されたものです。職場ではデスクワークでしたが、それであっても、雑事を処理するために職場内をウロウロ歩き回ります。何れにしても、昼食に出かけたり、喫煙場所を探すために動く以外は、勤務上・作業上の必要なアクティビティです。
 仕事が終わり、やっとさ解放された帰路は、朝とは逆に気持ちをクールダウンしながら駅に向かいます。緊張もほぐれて足取りは極めて自由です。ちょっと屋台で一杯という気分の時は〝歩き〟にはちょっとした充足を感じたりします。道草した後、電車・バスを乗り継いで、もう少しの家路をほろ酔い気分で歩いて帰ります。同道してくれる夜空の大きな月を見上げると、あれこれ思い出が湧き上がって感傷的なったり、犬に吠えら慌てたり、近づく我が家の灯りが気になったりしながら玄関にたどり着きます。
 職務内容は様々でしょうが、多くの勤労者の一日は、こんなものでしょう。仕事場に向かって歩く、作業のために歩く、帰宅のために歩く、ごくごく日常的な歩きに支えられた一日です。その中の一歩に、自分と外界を結んで、何かしら自分らしいものを体感できた一歩があったかも知れませんが、それを意識して丁寧に取り出して見ることができません。幸せにつながっていくような〝歩き〟はついつい日常の中に埋もれてしまいがちです。

山口市佐波川流域
 私自身を踏みしめるような一歩がどこかにある・・・

 では、仕事ではない休日に歩いてみましょう。平日には出来ない趣味や習い事、旅行、ショッピング、ライブや映画というような楽しみに向かいます。内容は百人百様ですが、平日とは違う世界に身を置いて、違う時間の流れの中で過ごそうというリラクゼーションには違いがありません。しかし、日頃とは違う世界に向かおうという移動であっても、その歩きは、やはり手段としての歩きになりがちです。多少はウキウキ、ワクワクしたりするものの、平日の勤労者としてのセカセカ、イライラした歩きと同様で、目的としての歩き、自身の裡に響いてくるような歩きにはなりません。歩きそのものを楽しもうという無目的でシンプルな〝歩き〟をイメージしてください。
 まず〝散歩〟が一番手に浮かんできます。〝散歩〟にも、気分転換、屋内とは違う空気を吸いたいとか、区切りのルーチン、健康増進の運動のためとか、ワンちゃんのお世話だとか、いろんな内容のものがありますが、それらにもまだ生活感が匂います。それよりもっと目的感の希薄な歩き、何の目的もなく、ブラブラとさまようように歩く〝そぞろ歩き〟があります。あてのない、これといった目的のない、漫然した〝歩き〟です。といえば良くイメージが伝わるでしょう。 「あれ、私いま歩いていたんだ・・・」「何処へ行こうとしてたのかしら」何かに誘われるようにふらふらと歩き出していたというような歩きを、誰しもが一度は経験している筈です。このような一歩には、日常的な生活の足である〝歩き〟とは違う、自分の中にあるもう一つの魅惑的な世界に踏み込んでいくキッカケとなる〝歩き〟の別の顔、〝幸せ〟に繋がっていく〝歩き〟の顔があるのです。
 では、そんな顔の一つ一つを私の体験を通じて覗いていきたいと思います。

田んぼに大雪が積もった(2017年)
この道しかない春の雪ふる 山頭火 (田んぼに大雪が積もった2017年)

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●読本1:遊歩のススメ(なぜ歩くのか?)

★終活をかねて、過去の記録・記述をマガジンとして書き直しています。ホームに投稿予定の目次がありますので、全体像はそこでお察しくださいませ。
伯耆・大山山頂付近の木道 photo by 四万十川洞安

突然に歩き出した・・・

 35歳の時、突然のように私は〝歩き〟始めました。それも狂ったように遮二無二にあちらこちらを歩き出したのです。まあ、週末の山歩きが中心でしたが、平日は市街地でも、時間があれば一駅や二駅位ならテクテクと徒歩移動、エスカレータやエベレータも使わず、極力自分の足で階段を上り下りするようになりました。
 それまではというと、ヨガとかダンスという趣味体験もあって、運動自体はさほど苦ではなく、身体はよく動かしていた方でしたが、淡々とジョギングしたり、移動のために黙々と歩き続けるような反復運動は苦手で、その効能なり、やすらぎの妙趣にも関心はさほどありませんでした。性格がものぐさというかセッカチだったといった方が正直なところです。
 日常的な生活の中で〝歩き〟は必要性にかられた行動でしかないと思っていました。というよりほとんど意識すらしていませんでした。私たちは何かをするためにいつも身体を動かさなければいけませんが、それも面倒で、部屋の中でも中央に座ったまま、何にでも手が届くようにしてなるべく動かず済むようにしたり、お出かけの時も、近場であってもテクテクと歩いて行くよりは、自転車や車を使うほうが合理的だろうと〝歩き〟をできる限りスルーする。たまには自分の足で階段を使うのも健康にはいいのだろうと思いつつも、エスカレーターやエレベーターがあればやはりそれを拒否することはあまりない。やはり歩くことを、不合理なことと考えていたのかもしれません。
 その私が、三十半ばになって突然のように六甲山を歩き始めました。それも家族や友人がいぶかるような変貌ぶりで、二十数年も見向くこともなかった裏山に分け入って、ズブリとのめり込むように〝歩き〟だしたのです。こうなった訳には何か原因はあったのでしょう。何モノかが私の心の裡あった遊び心に、何らかの切っ掛けで火を点けて、私を歩きの世界へと焚きつけたのでしょうが、そういった了解をよく呑み込めていなかった当の本人が一番に面食らいました。誰かに、何かに〝歩け〟と追い立てられるような、〝もっと歩かなくては〟と焦燥感に苛まれるような歩き、とにかく何かを背負わされ謎解きの旅にでたような歩き方で、とても趣味とかレクリェーションとは言えない代物でした。
 何故そのようになったのかは追々に説明できると思いますが、当時の私といえば、休日という休日は、体調や天候にかかわらず山に向かいました。家から徒歩でアプローチできる裏山をはじめ、電車やバスを使って、市内各所にある登り口から六甲山や摩耶山、再度山、須磨の山々のピークや沢や見知らぬ尾根を手当たり次第に巡り始めました。平日は平日で、仕事の合間に山からの眺望をイメージしたり、歩きのコースを頭の中でトレースしたり、山を眺めることできる時には、食い入るように山肌や山の端を見つめ、そこを喘ぎながら歩いている自分を思い浮かべて疑似体験にふけったりしていました。どんな条件にも耐え、どんなコースでも挫けることのないよう、時間があれば、電車に乗らず、徒歩で移動したり、ビルの階段が目に入れば、用もないのに登り降りを繰り返すようにたりました。そしていつの間にかに、それもトレーニングというより、それ自体も〝歩き〟なのだ、と思うようになりました。

何が、私をかり立てているのだろう?

なぜ歩くのか?イラストby 四万十川洞安
 イラストby 四万十川洞安

 日々、度を越すような〝歩き〟にのめり込む自分に対しての面妖な謎は頭を離れませんでした。誰でも、今まで何の関心もなかった趣味を突然に始めたとか、まるで縁のなかったようなモノに取り憑かれたということはあるでしょう。「ビビッときた」自分の心を触発させるモノとの出会いというやつです。その出会いの衝撃が大きいものであれば、転職したり出奔したり生活を変え、人生の転機なってしまう場合もあります。アマチュアのロックグループを楽しんでいた知人が、ある日フラメンコギターに出会って、のめり込むように練習を始め、遂には退職してスペインへ音楽留学してしまったことがありました。
 何故だと聞いたところで、やはり〝出会い〟だろうという答えが返ってきます。その出会いに一体何モノが導いたのだろうと詮索しても、その何モノかの正体が分かるまでには時間がかかります。私においても、〝何ゆえ歩くのだろう?〟という疑問を理に沿って説明できるようになるまでそれなりの月日を必要としました。それまでは周囲にも〝かくかくしかじかで歩いている〟と言い訳できるよう、あれこれ登山やアウトドア関連の書籍も漁っては〝人はこうやって歩き出すのだ〟というような理由づけを探しましたが、なかなか納得いくものには出会えませんでした。結局は、そのヒントを求めてまた歩きつづけるしかないのです。それでしか自身の奥底に潜んでいる解答に近づくことができないのです。
 そう思いながら必死に歩いている間にも、山々は前にも増して、私を歩きの迷路に誘いつづけ〝六甲山とは何だ?〟〝自然とはどこにある?〟〝一人で歩くのか?〟と新たな問いを次から次へと投げかけ迷宮を彷徨うようになり、歩きに掻き立てる正体不明な何モノかと併せていくつかの大切なテーマと数年にわたって悶々と向き合うことになりました。

自宅から見た虹
自宅から見た虹 photo by jiro

迷路からの脱出

 これは無明と言えば大仰ですが、出口の見えない負のスパイラルにはまり込んでしまったようで、決して趣味・道楽といえるような呑気な心持ちではありませんでした。しかし一方では、この迷宮・迷路をウロウロしていることを楽しんでいる自分も居たのも確かです。それならば、そこへ大勢を引き込んで愉しんでやれと、身近な知人や見ず知らずの人たちにも声をかけて仲間を集め出しました。結局のところこれが迷宮からの脱出には、一番の処方箋のようでした。
 一人で悶々と歩きつつも、同時に集まった仲間たちとワイワイ賑やかにも歩いている内に、少しづつもつれた糸が解れるように自分の〝歩き〟が見えてきました。仲間たちの一人一人もそれぞれの迷路を抱えていたのでしょう。六甲山という自然を共に体感しすることで、人にも自分にも素直になれて互いにそれをさらけ出し、共有していく中で迷路の全体像が見え出してきました。のちにこれを〝みんな歩き〟と称して、全く自然と一人で対峙する〝ひとり歩き〟として〝歩き〟の両輪と考えるようになりました。
 ひとりで歩くことができる者は、みんなとも歩くことができる。ひとりで歩くことのできない者は、みんなとも歩くことができない。自立と共生がサークルの柱となり、1986年に近所登山パフォーマンスというイベントをしてスタートさせました。そんな〝みんな歩き〟を積み重ねにつれ、私の個としてのもつれた〝ひとり歩き〟にも光があたって、うっすらと私を歩きの世界に引きずりこんだ何者かの正体もぼんやり浮かび上がってきました。
 この頃にはまだ〝遊歩〟という言葉はなく、自然と出会い、それを体感し、自己を表出するという意味でパフォーマンスという当時の流行の言葉を使っていましたが、それでも、自分たちのめざす〝歩き〟を表すにはまだ何か違う、まだ言い足りないという思いがありました。そんな時に、ひょんなことで目にした一冊の書物に〝遊〟という文言を発見して「これだろう!」「これしかない!」と歩きに〝遊〟の文字を被せ、〝遊歩〟と名付けた。
 ここで、はたとホモ・ルーデンス(=遊ぶ人)に立ち返ってみた。遊びは文化よりも古いのだった。人は創る前に、遊んでいたのだ!

「遊びは、本気でそうしているのではないもの、日常生活の外にあると感じられるものだが、それにもかかわらず、遊んでいる者を心の底まですっかり捉えてしまうことも可能なひとつの自由な活動である」(ヨハン・ホイジンガ・松岡正剛)

 これでようやく腑に落ちた。私は全くのところ遊びに飢えていたのでした。もやもやと抱えていた違和感も霧が吹き飛ぶように晴れて、見事に〝歩き〟の世界がパッと広がっていきました。
 サークル名を「六甲遊歩会」として、本格的な遊びの活動を六甲山を舞台にして邁進することになりました。(2003年にて退会)この読本では、私自身を突然に襲った不明な〝歩き〟が〝遊歩〟と変身していく謎解き、および、六甲山に突きつけられた数々のテーマに対する考察、そして、〝歩き〟にまつわるエピソードや、遍歴・放浪といった〝歩き〟と格闘した先人たちの足跡なども通して、私たちの生活や人生においての〝歩き〟の意味などを、自らの経験を通しての勝手な私見を紹介していきたいと思います。脈絡の定まらないままの列挙という形ですが〝遊歩〟なるものの一端を感じていただきければと思います。
 すでに歩かれておられる方には、〝遊歩〟の魅惑を紹介するまでもないでしょうが、未だ踏み出されていない方には、是非ともその第一歩の契機になれば嬉しい限りです。文筆家とか評論家なら、すらすらと〝遊歩〟の本来の姿(本質)を押さえつつ、そこに新たな価値を生き生きと吹き込むような文章で語れるのでしょうが、なに分ブログの一文にも悪戦苦闘する文章力のなさ、語彙の乏しい私にあって、どれだけのものがお伝えることができるおぼつきませんが、よろしく拙文にお付き合いくだされば仕合わせます。

イラスト by 四万十川洞安
イラスト by 四万十川洞安




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・デジャヴの遊歩・かさなる私(布引の滝〜市ケ原)

布引渓谷からツエンティクロス
布引渓谷からツエンティクロス

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 久しぶりに六甲山を歩きました。
 六甲山系には、北側には神戸電鉄が、南麓に近いところには阪急電車、山陽電車などが通じていますが、その駅のほとんどに背山への登山口が通じています。芦屋川駅からは、表銀座コースといわれるロックガーデンや魚屋道(ととやみち)を辿って最高峰から有馬という人気コースが有名。六甲駅駅からは摩耶山周辺の尾根道や谷道へと足をのばすことができます。長田や須磨の方からの登り口も、それこそ山の数に合わせたほどあるでしょう。もう一つ人気ルートを束ねる登山口が、新幹線・新神戸駅の直下にあります。ホームを降りてコンコースを出るとすぐに、布引の滝で有名な渓谷の入口があって、ここからいきなり沢歩きや尾根歩きコースが楽しめます。
 那智の滝、華厳の滝と比べると少し知名度が低いですが、布引の滝は〝三大神滝〟の一つに選ばれています。この滝に打たれ、六甲の峰々を斗藪(修行)の舞台とした修験者・役小角(えんのおづね)が開いという滝勝寺(現・徳光院)が滝のすぐ東にあります。
 この滝を左に見ながら、渓谷を詰めてくと、谷が少し開けて中世のヨーロッパ風の要塞を思わすような石積みのダムが目の前に現れます。日本最古の大型コンクリートダムで、明治から大正期には、世界中の船乗りたちが垂涎したというKOBEウォーターを湛えています。さらにダムを登ってダム湖のふちを辿っていくと、市ケ原に到着します。ここには朝から早朝登山の愛好家が集ういくつかの茶店があって、朝食をとったり輪投げに興じたりしています。再度山からの沢も合流しており河原も広がり、シーズンは飯盒炊さんやキャンプで賑わいます。この辺りまで滝から1時間足らず数キロの山径は、子供の頃から親しんだなじみの深い沢道です。
 六甲遊歩会で遊歩を始めてからも、このルートを起点に摩耶山や再度山、森林植物園へとよく足を伸ばしました。そのルートを辿っていく時に、たびたび不思議な既視感に見舞われることが多々ありました。デジャブっていうやつでしょうか。今までの遊歩体験の中にも節目節目・折々に現れてくる現象です。現象としては、まま日常的にも良くあるような軽い錯覚のようなものなのですが、六甲遊歩においては重要なキーワードとなる現象です。大仰な言い方をすれば、この既視感に私の六甲遊歩の原点のひとつがあるといって過言ではありません。

かつての私と これからの私

 子供の頃から歩き続けきたルートといっても、夏休みや春休みに近所の遊び友達や家族と今でいうデイキャンプを楽しんだ程度で、早朝登山のように毎日のように歩いていたという訳ではないのですが、この布引道は目をつぶっていても歩けるような感覚があります。自分の身体のリズムや感覚と周囲の情景が、何の違和感もなく一体化したお気に入りのルートなのです。
段差にある岩や河原の飛び石の、その形や表情もひとつひとつを記憶しているような感覚があります。ぐっと次の一歩を出してその足が着く直前に、そいつの表情をもう見知っていて「おおっ、お前か」ってな感じで、その岩を踏みしめるのです。枝を払ってカーブを切るときも、曲がった先の目に入ってくる風景は、予想通りの見知った景色で、今まで見ていたような感覚がダブります。汗をぬぐおうと頭を上げた時に目に入ってくる稜線や、ドーンと立ち構えている堰堤も、何度も繰り返すフォトフレームの画像のように自分が写した映像のように目の前に現れてきます。
 これはまるで、私が歩いているドキュメント映画を、自分で見ながら歩いているようで、何とも言えない臨場感で不思議な感覚に包まれます。それはデジャブというより、過去に刷り込まれた体験がフラッシュバックしているに過ぎないのだろうと思われるかも知れません。いや、そう考えるのが自然なのでしょうが、やはり、この既視感は過去の体験から来るモノだけではないのです。どうしても未来の自分を、自らの歩きを見ているようなトリッピーな感覚がつきまとわっているのです。
オカルトっぽい現象ではありませんが、そういう世界に私を誘い込んでくれる何か、時の流れという波紋を、ざわめかす何モノかがどこかに居るような気がします。「こいつは一体何者なのか?」その正体を求めて六甲中をさまようように歩き探し始めたのが、六甲遊歩・自分探しの旅そのものだったのです。今の自分というものが、それだけで在るではなく、かつての私と、これからの私が微妙に重なり合って〝命風〟をはらませながら歩みを進めているのではないでしょうか。そんな私の遊歩の出発点に導いてくれたこの布引道は、数ある多くの山野ルートの中でもなかなか巡り会えない不思議な縁のある小径だったです。
 私に限らず、誰もが必ずやこのような経験が何処かにあるのではないでしょうか。それは慌ただしい日常についつい埋没しがちですが・・・。もしそんなデジャヴな感覚におそわれた時には、ふーと一息ついて、過去から眺めている自分、遠い未来から振り返っている私とで、静かに語らうのも良いでしょうね。

市ケ原からツエンティクロスの河原

この連休、古い山仲間3人と久しぶりにテントなどを詰めたリュックを担いで、市が原まで歩きました。例のごとくデジャブ感覚も体験しました。これから先も重い荷物を背負って生きていく未来の自分の姿を垣間見た訳です。まだまだ捨てたものではありません。アゴを出しつつも、生きる力をたっぷりと彼らから注入してもらいました。
 夕闇が訪れる頃に、もう一人の後輩も遅れて到着。この面子でのキャンプは十数年ぶりになるのでしょうか?遊歩会の創立時には、大学生や、就職直後の五月病気味の彼らでしたが、今ではもうすっかり社会の中堅オジさんに・・・。こんなオジさんばかりの違和感ただようキャンプの酒盛りが始まりました。
 娯楽も少なく、レジャーといえば、海水浴か山登りの子供時代、この河原には、テントが立ちならび、子供づれのファミリーや学生、カップルの歓声で賑わっていた。そんな輝くような情景が半世紀ほど経って、今では見る影も無くすっかり寂れて、ただの山草がおおい繁る河原となっていました。でも、大都市のすぐ裏に、古い仲間と旧交をあたためることのできるこんな場があるのは感謝です。これこそ六甲山の慈愛でなくしてなんでしょうか。疲れのせいか、歳のせいかほとんど話しの内容は覚えておりませんが、気持ちよく心の洗濯が出来たことは間違いありません。お家族と大阪で合流のため未明、後輩たちを残して早立ちしました。

千の手をもつ菩薩

 翌日は一転して京都。
 幕末の志士がゴロゴロしていたような安宿にお世話になって、学生下宿時代以来の清水寺などの寺巡り。三十三間堂にも寄ってみましたが、心底から驚嘆いたしました。初めて訪れた三十三間堂でしたがいくどもいくどもデジャヴ感におそわれました。千体もの千手観音を目にして、これほどの慈悲・慈愛を形におきとどめさせようとした人々の願いも、いっそ現世では叶わないものかと・・・。この度の震災の情景が強烈によぎりました・・・

★この記事は2011年05月の投稿に追記、再編集したものです。

かつての眠っている六甲遊歩の記録ならびに資料類を、これを機にこのブログへ引っ越しさせております。資料的には古くて価値も消耗しているものと思いますが、関心のある方は、カテゴリー「資料:遊歩アーカイブの方も訪れて下さい。
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・崩落の山岳(伯耆大山〜足立美術館)

 上:北からの大山連峰、右下:西から眺めた大山(弥山 1.729m)

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 恒例・春の連休遊歩、三瓶山〜出雲大社(h29年)、宇佐神宮〜湯布岳(h30年)と続き、令和元年は伯耆大山〜大神山神社(プラス足立美術館)と相成りました。麓にある「森の国」にて単身キャンプ(カーサイドテントで、平日とあって小生一人っきり)早朝、登山口にてY夫妻と合流。
 ヘッド右中の写真※1が西の米子方面から眺めた大山(これが私のイメージでもありました)別名・伯耆富士と呼ばれているのもうなずける端正な姿ですが、ちょっと北側に回り込んで元谷の方から見上げたのがメイン写真。ナイヤガラの瀑布を連想するような幾重もの砂走り(石走り?)が荒々しい風景です。これを早朝、スキー場のリフト越しに見上げた時には、「ええ?嘘、こんな山だったの?」美形の仮面の裏はこんなものかと新たにテンションをリセットし直しました。

伯耆大山

 昔は事細かに地形やルートを調べてから、山に取り付くようにしていましたが、近年は大雑把にルートを確認するか、登り口の案内看板の地図を見る程度で登ってしまうことが多い。一人の時は特にそうだ。映画を見るときに絶対レビューや評論を見ないのと同じで、余計な予備知識で心ゆさぶる眺望との出会いのインパクトや新鮮さが薄れるのが嫌なので、なるべく白紙で入り込むようにしている。逆にこういう情報を知っていたのなら、それをもっと意識しながら歩いた方が良かったのかな?というマイナス面もあるものの、まずは行き当たりばったりにいろんなものと遭遇しながら歩くというのがスタイルになりつつある。(面倒くさいこともあるけれど)
 今回は、久しぶりに同道者がいて現地集合ということもあって、登山口までのドライブルートはG地図のストリートビューで幾度もPCでトレースした。最近は、山道までグーグルのカメラが入っていて、たいがいの山ならバーチャルで登山道を辿れるようになっている。富士山頂のお鉢巡りなども360度のフルビューで楽々と絶景を味わえるが、調査ならいら知らず、そんなものを見てからリアルで後追いしても新鮮な喜びや楽しみが半減するだけでつまらない。
 ということで「大山(伯耆富士)」という山も一般的な印象と知識だけで挑むことにした。まあ〝標高1700mで、最高峰への縦走路は危険で事故も多い。冬季も雪が厳しい。崩落が進んでいるので登山者は石を運び上げる〟この程度が事前の予備知識だった。それと、一昨年に歩いた石見と出雲の国境にある「男三瓶山」で知った神話・国引き神話。八束水臣津野命が島根半島を海の彼方より大きな綱で引き寄せ三瓶山を西の杭として、東の杭を大山(大神山)として結びつけたというお話。そんな事などを下敷きに謎多き神々の出雲国の眺めを頂上から俯瞰できればという趣向の大山詣であった。

山上の木道、大山(弥山)山頂 1709m
山上の木道、大山(弥山)山頂 1709m

 西側の夏山コースは、ほとんどピーク(現在は弥山1709mが頂上)に向けての直登ルート、3km少しの行程で1000mほどの標高を稼がなくてはいけない。3m歩いて1m登るので斜度はきつい。登り口から崩落を少しでも防ぐために丸太の階段が敷設されている。一般的な山では斜度が緩んでいるあたりで自然のままの山道になるところが何箇所かあるのだが、ここでは結局、8合目あたりまでこの丸太階段が続いた。6合目の避難小屋あたりからは、植生も低木となり日陰がなくなった。夏場は辛いだろう。(この日も5月と思えない気温だったが)
 8合目からは、丸太階段が延々と山頂へ続く木道に変わった。木立の上を空中回廊のように地面を踏みしめることなく、浮き上がったように歩く、この足元のおぼつかない遊歩感覚は初めての体験だ。考えれば、登り始めから山頂まで、幅員2mほどのルートには、沢へ下るような脇道やお花を摘みに行くようなめぼしい踏み跡もなかった。その2mからはみ出すことが許されない不自由きわまりない山道だったと気づく。弥山の山頂碑から剣ガ峰(本来のピーク)への縦走路の稜線も立入禁止(2014年より)になっている。裏山や六甲山では、自由気ままにいろんな踏み跡を追ったり、ショートカットしたりすることもよくある。山歩きとは目的のルートを追っかけることと、そんな恣意的な判断でルートを選んでいく絡みが醍醐味なのだが、ここでは丸太階段と木道以外を歩くことは許されない。決められたルートを強いられる。だからと言ってこの山の魅力が減じるものではないが、この山体の地肌を直接に踏みしめられないのは寂しい。
 地殻の隆起や噴火で生まれた高い山が、風化によって崩落していくのは自然の摂理なのだが、山上の緑化をめざした「一木一石運動」が始まった昭和60年以前の山頂の写真をググってみると出てきた。これを見て納得、大勢の登山客に踏み荒らされたまったくの禿山状態で驚いた。現在の緑あふれる風景とは雲泥の差だ。これは自然の摂理というより人災に近い。
 裸地化して風化が激しい山頂環境をどう保全するのか、入山規制や入山禁止が手っ取り早いが、この山では崩れた石を登る者がまた持ち上げ、木を植えていくというシンプルで原理的な方法をとった訳です。時間と根気のいる活動です。お陰で山上一帯にキャラボクの群生する現在があるので「山体を直接に踏みしめられないのは寂しい」というのは的外れな所感で、ここではその活動に感謝すべきことです。
 それでも崩落は進行していて、山頂碑が東斜面へ崩れるものと予想され、現在、碑の移転も計画されて、縦走路以外にも立入禁止区域が広がっていくことも考えられます。

麓の大神山神社奥宮
大神山神社奥宮

大神山神社奥宮

大神山と大神山神社奥宮

 元谷を下ってすぐに下山路が開け、突然のように大神山神社奥宮が現れた。
 権現造りで日本最大級とも言われる社殿は、想像外の立派さで圧倒された。まあ、これほどの迫力がないと、背景の御神体である大山(大神山)と釣り合わないのだろう。しかしながら、出雲大社ばかりに気に取られて、この宮を見過ごしていたのは不覚だった。やはり事前にもっとリサーチしておくべきだったか。
 大国主大神が押し込められた出雲神社も仏教の大黒天と習合し、広く出雲信仰として民間に浸透していきましたが、ここ大己貴神を御神体とした大山でも、修験道や仏教の影響を受けて権現さんや地蔵菩薩に変容していき、大山おかげ参りとして民間の習俗となっています。もひとり神事は山頂近くの池より採られた神水で五穀豊穣を祈るものです。
 山に暮らす古代人にとって、生きていくために不可欠な水、火をおこす木、そして生命をつなぐ食べ物としての木の実、果樹や山菜、獲物などこういった自然の恵みを生み出す「山」は生命の源泉そのものなのでしょう。国造りに邁進した大己貴神(大国主大神)はその象徴として崇められました。「山」とは日本人にとって、切っても切れないものです。国土の殆どを占める山岳風土、山々こそ古くから日本人の生活を支え、私たちの精神を培ってきたと言えます。稲作が伝来したのちは、平地を求めて山を下り、里の水田で稲を作るようになったものの、山への畏敬と崇拝は衰えるどころか、山そのものを神と崇め、自らの根源を投影してきたのでしょう。まあ、そういう理屈以前に、現代人の私たちであってもこの雄大で荘厳な山容を前にしたら、はやり神々しさを感じざるを得ません。
 大山寺〜白鳳の里・ゆめの湯で露天風呂をいただいた後、米子駅へ同道者を見送ってから単身ひたすら9号線を山口へ(帰宅まで7時間半かかった)。

足立美術館

 登山の前日「庭は一幅の絵画」昨今、人気急上昇の足立美術館を訪れた。ここは、とりわけ外国人からの注視度が高いとのこと。
 一般客の入れない日の出から開館までの時間は、庭師たちのみが目撃できる息を飲むほどの幻の瞬間があるとのこと。それを記録したNHKドキュメンタリーが来館の動機。遥か彼方の山なみの自然をキープするために、ここから見える山々すべて買い取ったという壮大な日本庭園、一日ではなかなか味わいきれない。紅葉期と積雪時に再訪してみたい。日本画(大観)と陶器(魯山人)の作品も多くて、館内巡りも大変だった。ここでも決められた順路があったが、大山登山と違って、時折スルーしたり、ショートカットしながら好みのものを中心に鑑賞した。

安来市・足立美術館
安来市・足立美術館

※1-冠雪した伯耆大山の写真は「ブログ・山猿の思うこと」より拝借しました。

※この記事は2019年06月01日に投稿したものを再収録しました。

・シビックプライドとしての背山(由布岳)

やまな大分県・やまなみハイウェイから由布岳(1,583m)を望む
 大分県・やまなみハイウェイから由布岳(1,583m)を望む 

宇佐神宮〜志高湖〜由布岳

 九州の山を歩こうと思いついて、いろいろと山名が浮かんだが、やはり「由布岳」が最後に残ってしまう。「由布院温泉」とセットで頭にこびりついていたのは、やはり、NHK連ドラ「風のハルカ」の影響が大だと思う。山を守り神として住人たちは山を見上げ、山は母親のような慈愛でもって麓の人々を見つめている。そんな里と背山の際立った関係がすっぽりと印象に焼き付いていたのだろう。シビックプライドではないが、背後に聳える山を大いに誇ることができる、そういう意識が共有できる地域は本当に幸せという思いがあります。山を祀る、山の神を奉じるなど「山」への思いは、太古の昔より〝山と人〟との関係で繋がれてきた日本風土・文化の大きな柱の一つとも言えるものです。いや日本に限らず世界中どこであっても、山と人間、自然とのかかわりの根元にあるように思います。
 そんな山から恵まれている潤いを、日々の暮らしの中でいっぱいに享受している人々がくらす里を訪ねてみたい。由布岳とそれを御神体として創建された由布院の宇奈岐日女神社にはぜひ参拝してみたい。と、まずは由布岳を横目にスルーして、やまなみハイウェイで湯布院に直行した訳ですが、すんなりとは町へと入らせてもらえませんでした。考えればGWの連休中、おまけに外国人観光客も急増中の昨今、車と人ごみにあふれ、車を停めるところさえ見つかりません。街ナカから逃れ、コンビニで今晩のキャンプ夕飯と朝食及び山上での昼飯の3食分の食料を買い出して早々に退散することになりました。この地の魅力をじっくり味わうには、もっとオフシーズンを狙うべきでした。

左:宇佐神宮 右:由布院
左:宇佐神宮 右:由布院

興味をそそる〝死拍手説〟

 話が前後しますが、途中10号線を南下中に「宇佐神宮」を発見、じっくりと見学・参拝させていただきました。全国4万社余りの八幡さんの総本宮とあって、思っていた以上に品格ある大きな宮でした。この宮も昨年訪れた出雲大社(島根)と同じく参拝方式が「二礼四拍手」でした。例の大社の「死拍手説」と何やら深いつながりでもあれば面白い展開だなと、帰宅後、少しワクワクしながら調べてみた。新潟県の弥彦神社も、同じく「四拍手」だそうだ。宇佐〜出雲〜弥彦、これらを結ぶラインは「八拍手」の伊勢神宮(大和)を守る非大和系の神社による結界だ!という説もあって、これまた面白い。「拍手」一つでいくらでもお話を掘り下げ、拡げられる歴史好きの面々には敬服せざるを得ないです。(謎多多き神々の出雲国を参照ください)

 買出しを終えて混雑の由布院を脱出、明朝に登る由布岳を、またも横目にスルーしキャンプができる志高湖があるというので別府方面へ戻る。湖畔で落日を楽しみながらと目論んだが、ここも人気スポットのようで案の定、湖畔は芋の子を洗う如きのオートキャンパー(数100台)で溢れていました。仕方なく湖畔から離れて山裾の斜面にテントを張ることに。

由布岳山頂から湯布院へ通じるやまなみハイウェイを望む
 由布岳・東峰山頂から湯布院へ通じるやまなみハイウェイを望む

一味ちがう九州の山々

 翌早朝、登山口から見上げる「由布岳(豊後富士)」の威容に気合いを入れてもらって遊歩開始。噴火当時をリアルに想像させる麓のどでかい噴石群には目を見張る。まさに噴石ミュージアムといった感が伝わってきて、この何か生々しい感じが気持ちを高ぶらせます。プレート圧縮型の高い山々が連なった中央アルプスとはまた一味違った山容がある。噴火型による山岳が多い九州の山は、平地を突き破って、マグマを盛り上げたような山容(富士山のような)で独立性が高い。 この先には九重連山や阿蘇山などを擁する「火の国」が待ち構えているのですから、個性たっぷりの〝火の山〟という趣きも当然です。
 1時間余で標高1000mを越えたか、樹林帯を抜け森林限界のような感じに。高木が消えて足下に由布院の眺望がパーンと広がり、東の遠くには別府の湯けむり、西には九重連峰、さらに阿蘇までが望める。昨日、別府側から見た大平山や鶴見岳も、多くは草原の山肌で樹林が少なかった。本州ではあまり見慣れない山肌の風景であった。火山地質もあるが、山焼きをしながら牧草地として管理しているらしい。
 由布岳も上半分には樹林が無く、眺望は申し分ない。夏場はさぞ暑いだろうけど。多くのハーカーに追い抜かれながら黙々と喘いで、10時頃マタエと呼ばれる西峰と東峰の鞍部に到着。険しい鎖場がある西峰をパスして、東峰へアタック開始。それを娘にライブで写メ実況するが全く返信がない。昨夜のキャンプ場ではガンガン返信がきたが・・・(朝寝中だったようだ)
 山頂(東峰)周辺は登山客で鈴なり、登山道で行き交う人もそうだが、何とまあ〜ウェアやグッズの華やかなこと。我が身を振り返ると古〜いリュックとシューズ、Gパン・Gシャツに釣用ベストの裏山散歩スタイルで肩身が狭い。日頃は、一人遊歩でしかもハイカーと出会うことの少ない低山専門なので、流行りモノに触発されるチャンスがなかったのですが・・・。やっぱり機能性云々は別にしても、オシャレには気を使わないとそろそろ徘徊老人と勘違いされそうだ。(まあ、それで間違いはないのだが)
 定番の下山後の温泉、別府であちこち探したがあまりの混雑で断念。
 門司、下関、宇部といろいろ探して走ってみたものの、結局は自宅近くのスーパー銭湯になっちゃいました。
ということで、まだ何とか山歩きしておりますのでご報告まで。

左:由布岳マタエから西峰を望む、右:志高湖のソロキャンプ
左:由布岳マタエから西峰を望む、右:志高湖のソロキャンプ

※この記事は2018年5月8日に投稿したものを再収録しました。

■遊歩調査関連記事
 遊歩資料館アーカイブ(2010年収録)に目次があります。
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・謎多き神々の出雲国(三瓶山〜出雲大社)

男三瓶山(1,126 m)からの落日
男三瓶山(1,126 m)からの落日

三瓶山編

 GWで家族旅行を!と思いきや、家内も娘たちも相手にしてくれない。しかたなくワンちゃんを連れての出雲大社詣りを思い立ったが、山中でテントを張れば、犬連れも問題ないのだが、出雲の神巡りには少々、犬連れは無理がありそうなので今回は一人旅と相成りました。
 創世の出雲は、小さく狭いというので、八束水臣津野命は新羅より「国来、国来」と土地を引っ張ってこられ、島根半島を付け足したそうだ。(のちの国譲りと併せ、これまた意味深げなお話ですな)その国引きの時に、杭として綱を引っ掛けた山が現在の「三瓶山」と言われています。(大山は東側の杭)その神話の世界をビジュアルで俯瞰しようという訳で、三瓶山の麓でキャンプというポイントだけを決めて、あとは行き当たりばったりで出立した。
ひたすら9号線を北上する。ここはGWだというのに渋滞もなくスイスイと全く走り良い。Wi-Fiを求めてコンビニと道の駅のハシゴとなり、いささか旅の風情は半減したが、250kmほど走行して、ようやく大田市の国立公園エリヤへ、林道ドライブがしばし続いた後にサプライズ。樹林帯が開けて、牛が闊歩する大草原がパッと広がったと思うとラクダのコブ状の三瓶山がぐわ〜ンと眼上にいきなり聳えているではないか。一瞬で別世界へ。このワープ感がとても刺激的で、かつ、他では拝めないユニークな山容に見入ってしまった。
 後で調べると、それもそのはずカルデラ中央の溶岩円頂丘の山だそうで平成13年に活火山に指定されている。
「おいおい、これはじっくり登らなくちゃ!」と本線の大社詣りが脇役になりそうな風向き。15時半頃に麓の三瓶温泉に到着。

西の原から望む三瓶山
西の原から望む三瓶山

 入浴は登山後と思いきや「混雑のため16時まで」とあり、先に湯浴びとなったが、温泉でほっこり緩んだ身体では、なかなか1,100mの山頂を目指す気にならない。とりあえずテントを張ってから予定を立て直そうと思っている内に、陽はすっかり西に傾いている。(16時半)
 早朝の登山の下見を兼ね登り口を探しに・・・、のつもりが「え〜い、行けるところまで行くか」19時日没として、18時過ぎに登頂できればと、ナンとかなるだろうと温泉で緩んだ足腰のエンジンをフル稼働モードへ切り替える。
かつてのホタル調査で夜間遊歩はお手の物だが、初めての山ではいささか心もとない。ハイピッチでゼイゼイ喘ぎながら、18時10分登頂、これまた頂上すぐ下の樹林を抜けるといきなりの山頂で、 ババ〜ンと360度のパノラマが広がるという理想的なサプライズ登頂。カルデラを取り囲む外輪山の峰々から、遠くは島根半島、国引きで神様が引っ張られたその西の岬からの綱の跡である「薗の長浜」も夕日に映えている。時間的にも山頂には誰も居ない。この垂涎たらしむ眺望を独り占めしている感がまた贅沢極まりない。(動画参照
 黄昏の中を下山、暗闇でのテント設営が明け方の悲劇を。フラットな場所を選んだつもりだが、ここが周囲より窪地であったことを確認できなかったのは不覚。未明の土砂降りであっという間に水浸し。ロクに雨仕舞もしないまま寝込んでおかげで、シュラフをはじめ、テント内で脱ぎっぱなしの着替えや雑貨がびちゃびちゃに・・・
大急ぎで撤収!そのおかげもあって早朝には出雲大社に到着、大混雑に巻き込まれることもなく、心配していた駐車場もすんなり確保。
 さあ、いよいよ謎多き神々の国を遊歩開始だ!
(出雲大社編へ続く)

出雲大社編

島根県・出雲大社
島根県・出雲大社

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家宗は◯◯だが、私は無信仰」とこたえる人が極めて多いと聞く。
私もそうだった。
私の場合は、祖父が高野山の大僧正だったので、家宗がどうのこうのいう前にずっぷり真言宗に絡まった生活を送っていた・・・はずだったが、父が寺から離れたこともあって、たまの帰郷以外には宗教の匂いに触れることなく育ってしまった。
信心のようなことをさせられた事もないし、もちろんお教なども唱えた記憶もない。成人してからも無信仰を装っていたが、それは家宗に対しての抵抗感があった訳でもないし、仏様を軽んじていた訳でもない。最長や道元・親鸞なども賢人として尊敬していたし、空海に至ってはその超人さに憧れてもいた。

しかしながら、兄弟内で宗教論争が勃発したら、「私は無信仰だから・・・」と自分から蚊帳の外へ。まあ、直線的に突き詰めるのが面倒くさいから、意識的に無関心を宣言していたのだが。「そういう世界は理屈じゃないんじゃない」とファジーな取り扱いでこの歳まで済ましてきた。

「無信仰」で生活するのは不便かつ不都合なこともある。
神戸からの移住後、いよいよ現在地に居を構えるに当たって、仏壇も神棚も十字架もない住居というのは、何かしら締まりがなく心もとなかった。まだ幼かった娘たちにもスピリチュアルなものを意識させるスペースや儀式が必要だろう。へっついさん(かまど神)でもあればと思って、手作りで神棚を設えたが、ここはやはりみじかな氏神様をお祀りするのが自然かと、近くの出雲大社の分社よりお札をいただき、これを我が家の守り神とすることにした。安寧を祈ることを第一義と、難しい教義や氏子付合い無しのシンプルものに。(祝詞をすこしアレンジさせていただいた。恐縮!)
それより、毎朝の二礼四拍手一礼が我が家の日課となった。
 子供らには「出雲さん以外の神社は拍手は2回でいいんよ」とダメだしはしておいたが、「あれれ?」その理由?なんなんだろうと思いつつ長い年月が経っていた。お陰で(?)大過なく今日まで生き延びてきました。その安寧に感謝を捧げるべく出雲の本社詣でを思い立った次第。  最近、古い大柱が発見され、8丈(48m)の高層社が存在したか?いや16丈(96m)か?とのミステリアスな論争が沸騰したとのこと、平成の大遷宮や天皇家とのご縁結びを併せ、ますます古代ロマン・出雲大社が熱いではないか。

 二礼四拍手一礼をはじめ、
 しめ縄が逆向き
 ご本尊が横向き(西向き)

 などと言う謎めいた異様さを、この眼と心肝で体感すべくパワースポットのるつぼ出雲国へ。
謎解きは、井沢元彦の「逆説の日本史」などや反論異論の諸説紛々へ譲るとして、この謎の本質らしきものをピッタリ体感できるスポットがあったので、それだけをご紹介します。
 大社は広い。大阪のUSJと同じほどの広さらしい。拝殿奥の本殿を取り囲む玉垣があって、さらに外周に端垣があって、多くの神様を祀る社が点在している。このスケールさすがは神様のテーマパークと言えば不敬か。その端垣沿いに巡っていると、西側に小さな拝殿があり、長蛇の列ができている。
 ここからは本殿の西の壁を伺うことができる。つまり、横(西)向きの御祭神・オオクニヌシノミコトと正面から対面できる場所なのだそうだ。(正式な拝殿では大国主命とは正対出来ず別天津神5神を拝むというトリッキーな形になる。怨霊たる大国主を天津神5神が監視しているというのが、井沢説のようだが・・)

 ここで柏手を打つときに、背筋がビビッと。「なるほどな〜、ここが被征服者を祀る死の神殿なのか〜」遥か彼方の時間を超えてひととき古代の修羅場と繋がったような感覚。古代社会も大変だったのだ。神道・神社信仰もここから更に営々と時の権力や時代のうねりの中、仏教と繋がったり、離れたりしながら信仰の様式・形式を変えながら現代に至っている。
 かつての征服者のモニュメントが生みだした信仰が、今では「豊饒と交流の聖地」として、私たちの身近な生活文化までに浸透している。日本の神様はホントに不思議ですな〜。
「健全と安寧、縁を結ぶ」それ以外の何物でもないような表情で杜が鎮まっている。これをあらためて体感できて大いに元気をいただくことになった。パワースポットとは斯くあるものでしょうね。

キララ多伎・道の駅ゆうひパーク浜田よりの日本海
キララ多伎・道の駅ゆうひパーク浜田よりの日本海

 古代出雲博物館から、長〜い参道をブラブラ見学しているうちに、昼もすっかり過ぎている。帰路へ。キララ多伎・ゆうひパーク浜田など道の駅で土産を物色しながら西下、日本海の海岸が美しい。
(願成寺温泉で入浴、20時帰宅。)

※この記事は2017年05月13日に投稿したものを再収録しました。

■遊歩調査関連記事
 遊歩資料館アーカイブ(2010年収録)に目次があります。

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・憧れの56.4km-六甲全山縦走路

★この記事は、2015年11月18日に投稿されたものです。(再編集)

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全山縦走 長年の謎

 22年前、当時会長をつとめていた六甲遊歩会での縦走路実測の話題が神戸新聞(6/25夕刊)のトップ一面9段抜きの記事の中で紹介されました。「全山縦走 長年の謎」と銘打った六甲山を縦断する市民大会のコースに関する特集記事です。
 今年の1月頃からメールや電話を使った神戸新聞記者とのやり取りがありましたが、掲載の気配がないのでてっきり没になったのだろうと思っていましたが・・・。どちらにしろこんなマニアっぽい話題なんぞは、てっきり小さなコラム記事で紹介されるものと思っていただけに一面トップは驚き桃の木です。
 六甲山とか神戸とかに馴染みが無い方には、「何のこっちゃ?」と首をひねるような話題でしょうが、神戸市民や関西の六甲山フアンにとっては、秋の全山縦走は、市民レベルの恒例イベントで、登山家やハイカーの枠を越えて、老若男女、多くの市民が長い間、親しんでいる関心の高い行事です。

 私が六甲山での狂気のような遊歩を始めた頃、この山塊の背骨となる縦走路のコースは、55kmという表示をする資料もありましたが、多くの資料や書籍では全長56.4kmと紹介され、公式距離として広く認められていました。
 普通のハイキングはおおよそ一日10~15km程ですから、4回分ほどのハイキング距離を一日で歩き通すという非常にタイトで、標高差の計が3000m余(富士登山の2回分)のアップダウンの激しい苛酷なルートです。死者がでた年も何度かあるようで、山歩きに縁の薄いビギナーがいきなりチャレンジという訳にもいきません。 中には、全容をよく知らぬままイベントとして参加した児童・学生などが、半ば泣きながら歩き続けている光景もよく見ます。それらを横目にマイペースで完走するのは山歩きに手慣れた中高年ハイカー達で、例年参加の常連たちは、11時間を切ったとか、10時間で完走したとかタイムトライアル的な楽しみも加わっているようです。リタイアポイントが限られているので、自分の体力や仲間の体調をどう見きわめるかも難しく、炊き出し、応援、夜間遊歩、チームワークなど悲喜交々、様々なドラマに彩られながら展開するイベントです。
 混雑してマイペースで歩けない市主催の「市民縦走大会」には参加した事がありませんが、個人的には、幾度かトライしました。また、遊歩会の新人研修を兼ねた縦走大会を開催したこともあります。

六甲全山縦走路の実測数値をまとめた報告書
六甲全山縦走路の実測数値をまとめた報告書(1990年4月発行)

 自身の初めての挑戦では16時間45分での縦走でした。完走後、夜遅い阪急電車の中で、沸き上がる充足感を必死に抑えながら、棒のように固くなった太ももをさすっていたのを昨日のように覚えています。
 オーバーな話ですが「もう昨日までの俺じゃないのだ」という呟きでしょうか。一皮も二皮も剥けた自分をヒッシと抱きしめている感じです。これに至ったのも、ひとえに加藤文太郎との出会いがあったお陰なのですが、その文太郎は、ここからまたスタスタと歩いてスタート地点近くの自宅まで歩いて帰って行ったという超人的な健脚でした。
 最近になってやっと脚光を浴び始めたこの文太郎ですが(映画「劔岳」の木村監督が次回作でのモデルにするらしい→追記※つぶれたみたい)「知る人ぞ知る」地下足袋の加藤、単独行の文太郎、その後の日本アルピニズム史の一角を華々しく飾り、あっという間に槍ケ岳北鎌尾根で逝ってしまった文太郎はとうてい自分の足下にも及ばない遥か先をいく遊歩の達人でした。

歩くとは何か?」という理屈っぽい疑問が顕在してくるまで、私の初期の六甲遊歩は、ひたすら文太郎の足跡を追っていたものです。そして彼が疾走した縦走路を主脈として持つこの裏山・六甲山という山塊そのものの魅力に虜になって、一層狂ったような遊歩三昧にハマって行く訳ですが、その意味では「56.4km」という数字は憧憬そのものでした。
 この数字への自分の思い入れ、縦走へのこだわりは何ら変わりませんが、技術的な点でこの「56.4km」に疑念を持ったことは自然な経緯です。歩き慣れてくると身体で体感的に山中の距離や時間が測れるようになります。
 技術的な問題では、56km余りを何時間で歩けたという、体力的なデータを他の山系などで、そのまま応用してしまうことでしょうか。六甲山では歩けた筈なのに・・・ということになれば、リスクの大きい山行でしたら危険なマイナスデータになりかねません。
ということで遊歩会独自の調査「巻き尺で実測しよう!」という事になりました。(今ならGPSを使ったアプリがいろいろありますが)
 実測自体は、5回に分けて行いましたので、のべ5日間ですが、調査ルートをはじめ調査方法の設定から、集計・報告まで一年をかけて取組みました。地図上の計測や万歩計を使った計測など、他資料との比較検討を含めての検証。詳細を『六甲山を見つめ直すシリーズ/その2』BUN-BUN別冊4号として発行。(上記写真 )

実測調査の結果

 実測の調査結果は、機関紙ぶんぶん別冊第4号にて発表させていただきました。結果は「45.1km」でした。(最近、実測が行われるとも聞きますが、多少ルートは違っていても、おそらくはこの距離に準じるものと確信します)
 この数字をどう受け止めるかは、それぞれあって然るべきです。ルートの変遷をふくめ、縦走路を深く見つめ直してみると、それは自然の災禍や人為(開発)の傷跡であったり、受難の六甲山の歴史を痛感することでもありました。私における「内なる六甲山」は永遠に『56.4km』であることは、今にしても疑う余地はありません。(続く)


追記★かつての眠っている六甲遊歩の記録ならびに資料類を、これを機にこのブログへ引っ越しさせております。資料的には古くて価値も消耗しているものと思いますが、関心のある方は、カテゴリー「資料:遊歩アーカイブの方も訪れて下さい。
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○資料目次:遊歩資料館アーカイブ

再度山・洞川林道の樹林
再度山・洞川林道の樹林

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★本カテゴリーは、私が六甲遊歩会時代(1984-1995年頃)の間に記述・編集されたものを、本ブログに再収録したものです。ブログの日付けは収録日に過ぎません)

目次は下記の通りです。(資料が増えた次第、順次リンクを貼っていきます)

 ■「遊歩とは何なのか?」
   狂気? 散歩? スポーツ? 登山? 冒険? 健康? 禅? アート? 放浪?

 ■「遊歩の舞台としての六甲山とは?」(編集中)
   せめぎあう都市と山岳の最前線、遊歩の舞台としての成立条件。

 ■「自然とは何か?」(編集中)
   「引き裂かれた私」の発見、
   「内なる六甲山」「内なる自然」との出会いを求めて・・・

 ■「調べる遊歩?」
   ホタル? 56.4km? 水? 自らの内に潜んだ「赤テープ」を剥がす・・・

※注:ログのアップ日時はソート的処理(収録日時)で記述日時とは関係ありません。
その他、当時のママで生じる不確定な記事があるかも知れません。ご了承下さい。
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本カテゴリーは、私が六甲遊歩会時代(1984-1995年頃)の間に記述・編集されたものを、本ブログに再収録したものです。

○資料04:調査遊歩レポート

紫陽花の葉の間から、山芋のツルが伸びる
神戸市立高山植物園・アジサイ園 Photo by jiro

★このカテゴリーは、私が六甲遊歩会時代(1984-1995年頃)の間に記述・編集されたものを、本ブログに加筆のうえ再収録したものです。ブログの日付けは収録日に過ぎません)
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■『六甲山における赤テープ問題』

………………1985年………………

 「ルート表示用の赤テープは一体何を意味するのか?」という疑問から、六甲山をフィールドにした各山岳会、大学サークル、官公庁、団体・個人へのアンケート調査と赤テープ表示の特集記事をまとめ、BUN-BUN別冊2号として発行(9月)。
……「え~と、右は◯◯か」「左が◯◯か」 道標(社会通念)をついつい追って歩いてしまう。こんな歩きは周囲の地形(社会)を自らの内にイメージできていないから、道標がなくなった時(迷った時)に進むべき方向を失う。…… このような意味合いのことをエリアマップ「六甲山」の著者・赤松滋氏が書かれていました。この言葉がこの調査のきっかけであったことは間違いありません。 確かに山中のルート(社会)は複雑で、とくにビギナー(年少者)が迷わず歩く(生きていく)には、折々の分岐点には、正確な道標(目的の確かな選択肢)を用意しておかなければ不安です。その内に地形(社会)そのものが頭の中でイメージできるようになれば、自分が選んだ目的に向かって、遠回りであろうが、近道であろうが、自分に合ったルートを自由に選んで、歩けるようになります。これは凄い!ことです。つまりルートを失った時や迷った時(挫折した時)にもパニックにならず、進むべき方向(再出発~復興とも言いますか)を自身の中から(社会通念に惑わされず)見い出すことができるのです。
 赤テープも一つの道標です。六甲山の支尾根、支谷いたる所で、まるでゴミのように巻き付けられている赤テープ、これが奥深い雪山なら生命を救う目印となるかも知れませんが、六甲山ではただ私たちを煩わせ惑わせるだけです。安易で過剰な赤テープ(過保護)は結局、ルートの選択力(人生に立ち向かう力)を育むことを疎外します。冷たい言い草ですが自然のフィールドとは厳しいものです。そういう厳しさを保全するために私たちは過剰な赤テープを撤去したいと考えます。同時に自らの内にある『赤テープ』も剥がしていきたい。

(※当時は、息巻いて赤テープを剥がしていたようで、共感より反感を買っていたようです。2010年9月)

■六甲山を見つめ直すシリーズ╱その1
 六甲山に於けるテープ表示に関してのアンケート集計結果報告(昭和63年度)
 当時の兵庫県山岳会、自然保護協会の関係者や六甲山ガイドブックの著者の方々などからも「赤テープ類によるルート表示」に関しまして貴重なご意見をいただきました。
の内容につきましてはPDF化が滞っていますので、とりあえず画像を掲載しておきます。しかしながら、当時の昭文社エアリアマップ「六甲山」(六甲山のハイカーが愛用するルート地図)の著者・赤松滋さんより編集部にいただいた寄稿文は含蓄ある噛みしめたい一文ですのでテキストに起こしてみました。ぜひ、一読ください。
(2019年8月:追記)


■『六甲全山縦走路測量』

………………1989年3月~1989年8月…………

 ・計5回の巻尺を使った実測と万歩計やコンピュータ分析での距離測定。
 ・調査結果は『六甲山を見つめ直すシリーズ/その2』BUN-BUN別冊4号として発行。
 これは大変な調査でした。この年の神戸市が主催する「市民縦走大会」の公式マップのルートを50mメジャーで実測したのですが、この馬鹿げた測量遊歩を見つめる一般ハイカーの視線を気にしつつ、50mのメジャーで1000回に近い尺取りをしたものですから…。調査結果が神戸新聞に発表されたもので、各方面から賛否両論の大反響を頂きました。
  従来から六甲全山縦走路の距離は「56.4km」と記されたのが多い。(「55.0km」とか「55.4km」と紹介するガイドもある)この『56.4km』は私たちの憧憬の数字でした。そしてその数字自体に何も不満や不信感もありません。しかしながら、実測結果の距離は「45.1km」でした。 いまさら、この数字をどう私たちが受け入れるのか?この数字に一体どんな意味があるのか? その辺りは調査報告の中でも触れていますが、確かなことはここでも受難の六甲山の姿を深く痛感したことです。私たちの「内なる六甲山は永遠に『56.4km』であることは疑う余地はありません。

神戸新聞の第一面

■六甲山を見つめ直すシリーズ╱その3
 六甲全山縦走路の距離実測報告(平成2年)
全山縦走路の距離に関しての調査報告書は、機関紙「ぶんぶん」別冊として発行し、協力いただきました関係行政機関や六甲山の各施設・関係者に配布させていただきました。
 PDF化されていません。写真にだけは撮ってみましたので、見にくいですが、関心のある方はご覧ください。

■『表六甲山におけるホタル調査』

………………1990年より開始…………現在も単発的に調査続行
表六甲山のホタル調査

 ・平成2年度の調査結果はBUN-BUN別冊5号として発行。(調査は5年計画でした)
 六甲山系の渓流における水質調査のケミカル調査と並行した水棲生物調査の一環として企画されたものですが、きっかけは、都会の生活からほとんど無縁になってしまった『ホタル』が果たして六甲山麓、山中に生息しているだろうか?という単純な疑問から出発したものです。しかし、短い羽化期間のホタルを広い六甲山で実際に追跡する調査は大変なことでした。
 6月1日~7月21日の間、21回、計32ケ所、延べ85名での作業。暗闇の六甲山中を、居るか居ないか分からぬホタルを追い求めるのは、実に探検・冒険のようでワクワク感が先行しましたが、頭で描いていたような光の乱舞どころか、一匹の成虫をなかなかに見つけることもできず、イライラと焦る気持ちがつのっていく遊歩となりました。調査を始めて8回目に初めて「天然ホタル」を山中の河原で発見した時は、言葉にならない感動で長い時間立ちすくんでいました。それからは闇の六甲山中で点滅するか細い輝きにすっかり魅了されることになりました。
 しかしながら、その見つけた「ホタル」が天然なのか、人為に放流されたものかを、合わせて調べることとなり、特殊な自然環境を形成する六甲山特有の二重の「アリバイ」調査でもありました。

■六甲山を見つめ直すシリーズ╱その3
表六甲山ホタル調査概要(計画書)とその調査報告書(平成2年度)

★ホタル調査概要(計画書)とその調査報告書は、機関紙「ぶんぶん」別冊として発行し、協力いただきました関係行政機関や六甲山の各施設・関係者に配布させていただきました。
 そのデジタル(PDF)化には未だ手をつけていません。写真にだけは撮ってみましたので、見にくいですが、関心のある方はご覧ください。

■『六甲山の水質調査』

………………1990年6月~1991年4月…………
六甲山の水質調査
西山谷にて水質調査(ケミカル及び水棲生物)1990年5月20日

・計6回、14ヶ所、延べ66名で簡単なケミカル調査(6要素)と水棲生物の観察
・各回の調査結果は会報BUN-BUNにて、その都度発表。
 調査の発想は、六甲の水は美味しいか?名水はどれだけ山中に存在しているか? という単純なものでした。しかし、いままで何も気にせず飲んでいた沢の水が「ちょっと心配」になるような結果も出て、残念ながら六甲の傷の深さを痛感。

六甲名水探偵団
住吉谷の水質調査・1990年3月11日

■『現代遊歩研究会の調査遊歩』

…1992年度のテーマを『六甲山における密教的風景』に選定して4回にわたる実践遊歩を実施…

・Vol.1「幻の密教伽藍をさがす~裏六甲・古寺山」……1992年2月
・Vol.2「天狗たちの姿を求めて~古の抖そう行のルートを歩く・鷲林寺~石ノ宝殿」……同年5月
・Vol.3「空海の足跡を追う~再度山・大竜寺」……同年9月
・Vol.4「山上の密教的風景を訪ねて~巨岩伝説と山岳信仰」……同年11月
このテーマはちょっと!のめり込んでしまいそうになる!ハイカーの守備範囲を大きく超えてしまいそうなので1993年に予定していた『六甲山における超古代文明』は個人的な仕事におきかえることになりました。

★以上の調査報告書は、まだデジタル化されておりません。
折々にテキストに起こしますのでそれまでお待ちください。
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